ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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アステカ文明と生け贄(人身御供).txt

神殿で生け贄の儀式が行われた。神に仕える神官が生け贄(奴隷など)
の胸をナイフで切り裂き、心臓を取り出して神に捧げた。

☆アメリカ大陸と人身御供☆
アステカ人は「太陽の不滅」を祈って、人間の新鮮な心臓を神殿に捧げた。ほかに豊穣、雨乞いを祈願して、捧げられることもあった。しかしその一方では、これら生贄に捧げられる事が社会的にも名誉であると考えられていたとされ、球技によって勝ったチームが人身御供に供されるといった風習も在った模様である。
生贄は石の台にのせられ四肢を押さえつけられ、生きたまま火打石のナイフで心臓をえぐり取られたとされる。生贄の多くは戦争捕虜で、生贄獲得のための花戦争も行われた。選ばれた者が生贄になることもあり、稚児が神に捧げられることがあった。ただアステカはこのような儀式を毎月おこなったため、一説にはこれにより社会が弱体化、衰退したとも言われている。
インカでも、同種の太陽信仰に絡む人身御供を行う風習があったが、これらの生贄は社会制度によって各村々から募集され、国によって保護されて、神への供物として一定年齢に達するまで大切に育てられていたという。なおこれらの人々は旱魃や飢饉などの際には供物として装飾品に身を包んで泉に投げ込まれるなりして殺された訳だが、そのような問題が無い場合には生き延び、一定年齢に達して一般の社会に戻った人も在ったという。ちなみにマヤ文明の遺跡で有名なククルカンの神殿と聖なる泉は、干ばつになった時の生け贄の儀式と関係があった。日照りは雨の神ユムチャクの怒りによるものだと考えられていたため、14才の美しい処女を選び、少女は美しい花嫁衣裳を身にまとい、儀式の後、聖なる泉に生け贄を護衛するための若者が飛び込み、その後貢物も投げ込まれていた。
その一方で、アステカ同様に稚児が捧げられる事もあった。この場合には、やはり特別に募集され育てられていた稚児は、より神に近いとされる高山にまで連れて行き、コカの葉を与えて眠らせた後に、頭を砕いて山頂に埋められた。特にこれらの生贄では、装飾された衣服に包まれたミイラも発見されている。

康煕帝の印章に9億円 過去最高、仏で落札.txt

2008.6.14 23:14
 フランス南部トゥールーズで14日、清の康煕帝(在位1661~1722年)の印章が競売に掛けられ、約560万ユーロ(約9億3000万円、競売関連経費を含む)で落札された。関係者によると、印章の落札価格としては過去最高とみられ、欧州で競売された中国の品としても最高額という。フランス公共ラジオが伝えた。
 電話で競売に参加した中国人が落札した。凍石製で3キロ近くの重さがある。康煕帝の印であることを示す6つの漢字が刻まれているという。落札予想価格は100万~250万ユーロだった。
 印章はトゥールーズにある旧家の相続に際し、物入れの奥から見つかった。この旧家では印章の価値や用途を認識していなかった。(共同)

☆康熙帝:在位1661年 - 1722年
清の第4代皇帝。唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。
①即位まで
順治帝の第3子として生まれ、8歳で即位する。順治帝の遺命により、スクサハ、ソニン、エビルン、オボイの重臣4人による合議制だったが、ソニン(索尼)の死後、オボイ(鰲拜)が反対派を粛清して専横を振るうようになった。康熙帝は15歳の時に相撲にかこつけてオボイを捕らえて排除、親政を始めた。
②内乱
1673年(康熙十二年)三藩の乱が起こる。順治帝に山海関を明け渡して投降した呉三桂は、その後に南に逃れた明の永暦帝を殺したことで清から功績大と認められ、皇族でないにも拘らず親王に立てられていた。この呉三桂を筆頭とした尚可喜、耿精忠の三人の藩王はそれぞれ雲南、広東、福建を領地としており、領内の官吏任命権と徴税権も持っていたので独立小国家の体を為していた。
康熙帝はこの三藩を廃止することを決める。廃止しようとすれば呉三桂たちは反乱を起こすと群臣の多くは反対だったが、3名だけ「このまま藩を存続させればますます増長し、手に負えなくなり、結局反乱することと同じである。どうせ同じなら今廃止したらどうか。」という意見を出し、康熙帝はこれを採用した。
予想通り、呉三桂たちは清に対して反旗を翻した。三藩軍は清の軍隊を各地で破り、台湾の鄭経(鄭成功の息子)も呼応し、一時期は長江以南を全て奪われるなど帝国崩壊の危機を迎えた。群臣は康熙帝に満州に避難することを勧めたが、康熙帝は断固として三藩討伐の意思を変えなかった。呉三桂たちは「満州族を追い出して漢族の天下を取り戻そう」というスローガンを民衆に訴えたのだが、そもそも漢族の王朝である明を滅ぼしたのは他ならぬ呉三桂だったので民衆は三藩を支持しなかった。康熙帝が漢人の周培公らを起用したことで清軍は徐々に優勢になっていき、1681年(康熙二十年)に三藩の乱を鎮圧した。その2年後には台湾を制圧し、完全に中国を統一した。
③外征
康煕帝台湾を収復した年、ピョートル1世率いるロシア帝国が満州族の故地である黒竜江付近に南下してきたのでこの地方の軍事力を強化し、1689年にネルチンスク条約を結んだ。のちの19世紀に受け入れさせられる一連の不平等条約と異なり、この条約は両国が対等の立場として結ばれたものである。中華思想によれば中国は唯一の国家であり、中国と対等な国家の存在を認めず、国境など存在しないという建前だったが、この原則を揺るがす内容であった。これには側近のイエズス会宣教師、フェルディナント・フェルビースト(南懐仁)の助言があったと言われ、条約締結の際にもイエズス会士が交渉を助けた。ただし、その後の対ロシア関係は理藩院によって処理されており、清の国内では朝貢国と同様の扱いを受けていた。そのため、この条約をもって清朝が主権国家体制の枠組みに包含されたとまでは言えない。
1670年代、ジュンガル部のガルダンがオイラトの覇権を握り、さらにモンゴルのハルハ部の内紛に介入、ハルハ諸部を制圧した。1693年、ハルハの諸侯は康熙帝に保護を求め、康熙帝はこれに応えてガルダンと対決、みずから軍勢を率いての戦いを経て1696年、ガルダンに致命的打撃を与えることに成功、ガルダンは敗走中に死去した。従来、ハルハ諸侯は清朝に朝貢を行い、冊封を受けるのみで、他の朝貢国と同様、内政自主権を行使していたが、これ以後、清の盟旗制に組み込まれることとなる。
18世紀には、ダライラマ6世を巡って生じたチベットの内紛で、青海のグシ・ハン王家の傍系王族の一部とジュンガルのツェワンラプタンが同盟を組み、1717年、ジュンガル軍がチベットに侵攻し、ラサを制圧、チベット=ハンのラサンを殺害した。康熙帝はラサンの救援要請に応じて1718年、チベットに出兵したが、この第一次派遣軍はジュンガル軍によって壊滅させられた。これに対し康熙帝は、グシ・ハン一族の主立った者たちを、当初ジュンガルと同盟した者達を含めて北京に招き、爵位で釣って清朝側につけることに成功、1720年の第二次派遣軍は、「グシ・ハンの打ち立てた法の道」を回復することを旗印に、グシ・ハン一族の軍勢とともに進軍、カンチェンネー、ポラネーらゲリラ勢力の蜂起に苦しめられていたジュンガル軍はこれを見て戦わずして中央チベットから撤退していった。
康熙帝は「グシハンの立てた法の道(ダライラマを擁するチベットのハン)」をチベットの正統の政体と認め、この政体の回復をチベット介入の旗印にしていた。1721年には、グシ・ハン一族にハン位継承候補者を選出するよう求めたが、グシ・ハン一族は18世紀初頭以来、内紛の極みに達しており、一族とチベットの有力者が一致して支持しうる候補者を選出することができなかった。康熙帝はラサンを継ぐハンを冊封せぬまま没し、チベットの戦後処理は、雍正帝の手に委ねられることになる。
④北方民族の王者
康煕帝康熙帝は1683年からほとんど毎年夏には木蘭囲場(現・承徳市囲場満族モンゴル族自治県)に赴き、モンゴル王侯とともに狩猟を行った。こうした狩場で十数日の間、モンゴル風のテント生活を送ったのである。康熙帝は弓の達人で、自ら虎や熊を倒したといわれる。また1703年には熱河離宮避暑山荘を造り、毎年夏から秋にかけて北京を離れて熱河で過ごし、モンゴル諸王や外国朝貢使節を引見した。こうした北方民族の王者としての行動様式は家法として雍正帝や乾隆帝にも受け継がれていく。
⑤国内政策
内政にも熱心であり、自ら倹約に努め、明代に1日で使った費用を1年間の宮廷費用としたと言われる。また使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らした。国家の無駄な費用を抑え、財政は富み、減税を度々行った。また、丁銀(人頭税)の額を1711年の調査で登録された人丁(16歳~59歳の成年男子)の数に対応した額に固定し、1711年以降に登録された人丁に対する丁銀を当面免除した。これは地丁銀制へとつながる。
文化的にも『康熙字典』、『大清会典』、『歴代題画』、『全唐詩』、『佩文韻府』などを編纂させ、『古今図書集成』の編纂を命じた(完成は雍正帝の時代)。また朱子学に傾倒し、自ら儒学者から熱心に教えを受けて血を吐くまで読書を止めなかったと言われる。康熙帝の時から十哲の一人として朱子を祀るようになり、『朱子全書』、『性理大全』などの朱子に関する著作をまとめた。明史の編纂にも力を入れて大部分を完成させた。また、イエズス会宣教師ブーヴェらに実測による最初の中国地図「皇輿全覧図」を作成させた。
このように善政面が目立つ康熙帝だが、一方では文人統制を行い、何人かの「清を侮辱する文章を書いた」と疑われた文人を殺している。康熙帝自身が優れた文人であったために文章の力を高く評価し恐れていたのだろう。

康熙帝は次男を皇太子に立てていたが、奇矯な人物であったため康熙帝はこれを廃し、死ぬ直前まで後継を定めなかった。このため雍正帝即位に関して様々な憶測が伝わり雍正簒位として民間に広まることとなる。
順治帝が清を中華王朝としたが、実質的に清を全国王朝としたのは康熙帝である。清代のみならず、唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。清東陵に陵墓がある。

第2次ウイーン包囲でトルコ軍はなぜ敗北したのか..txt

バルカン半島を制圧したオスマン帝国は、17世紀後半、ウクライナ(ポーランド領)へ侵攻するが、ヤン・ソビエスキ(後のポーランド王ヤン3世)の巧妙な指揮に敗れる。
北上を断念したオスマン帝国が次の目標にしたのが、三十年戦争に敗北したハプスブルク家だった。ウイーンを包囲したオスマン軍だが、包囲の間に、ポーランド・ハプスブルク・ドイツ諸侯の同盟が結ばれる。オスマン軍との戦い方を熟知したヤン3世率いる同盟軍はウィーンを解囲し、そのままオスマン帝国との戦争は継続する。
同盟は、ローマ教皇を盟主とする神聖同盟へと発展し、ヴェネツィアやロシアの参加により、優勢となった同盟軍は、オスマン帝国と十年以上戦い続け、勝利した。この戦いで、オスマン帝国も消耗し、衰退へと向かったのである。
しかしこの第2次ウイーン包囲の前から、トルコの凋落は、著しい状況だった
という見方をする向きもある。トルコの最盛期は、スレイマン大帝(1520年~1566年)からムハメット3世(1595年~1603年)の時代。
しかしそれ以後、トルコは、負けが多くなり、財政的にも苦しくなってゆく。
1604年、財政的に苦しくなったトルコと、プロテスタントとの対立を控えたオーストリアは、休戦協定を締結する。
しかし、1661年皇帝レオポルド1世は、トルコの属国トランシルバニア公国の抱きこみにかかり、トルコとオーストリアとの対立が再発します。
1669年トルコは、ヴェネチアよりクレタ島を奪回し、東地中海からヴェネチアを排除し、ポーランドでも戦果をあげる。その勢いに乗り、実行されたのが、第2次ウイーン包囲だった。トルコは、ウイーン包囲の失敗により凋落したのではなく、凋落が続いていた中で、たまたま続いた戦果を、拡大しようとしてウィーン包囲を行い、その失敗により、凋落傾向にはずみをつけてしまったのだ。
ポーランドは、フランス系の王が支配する国だったが、ポーランドを侵略するトルコをフランスが支援していたため、ポーランド貴族たちは、フランスを見限り、ヤン・ソビエスキーをポーランド王に選出し、オーストリアと対トルコ同盟を締結し、ウィーンのトルコ軍撃破の中心となる。

☆第2次ウィーン包囲
1683年に行われたオスマン帝国による最後の大規模なヨーロッパ進撃作戦である。オスマン軍はオーストリアの首都にして神聖ローマ皇帝の居城であるウィーンを大軍をもって攻撃したが、拙速な作戦により包囲戦を長期化させ、最後は反オスマン帝国を掲げて結集した中央ヨーロッパ諸国連合軍によって包囲を打ち破られるという惨憺たる敗北に終わった。
この包囲戦を契機にオーストリア、ポーランド、ヴェネツィア、ロシアらからなる神聖同盟とオスマン帝国は16年間にわたる長い戦争に入り、歴史上初めてオスマン帝国がヨーロッパ諸国に大規模な領土の割譲を行った条約として知られる1699年のカルロヴィッツ条約締結に至った。
①背景
オスマン帝国は、17世紀の初頭以来君主(スルタン)の国政に対する実権が縮小し、16世紀から急速に進んだ軍事技術・制度の発展など様々な時代の変化の中で君主の専制と中央集権に支えられた軍事的優位が弛緩しつつあった。このような帝国の危機的状況の中、1656年に帝国の最高執政者である大宰相に就任したキョプリュリュ・メフメト・パシャ、およびその子息で後継の大宰相となったキョプリュリュ・アフメト・パシャの2人は国勢の回復に努め、ヴェネツィア、オーストリア、ポーランドなどの諸国に次々に勝利して東ヨーロッパにおいてオスマン帝国史上最大の版図を実現していった。
1676年、キョプリュリュ・アフメト・パシャの病死により大宰相に就任したカラ・ムスタファ・パシャはキョプリュリュ・メフメト・パシャの娘婿であり、キョプリュリュ家の改革政治を引き継いで拡大政策を押し進めた。時の君主であるメフメト4世はエディルネの宮殿に篭って狩りを趣味とするばかりで政治に対する関心も実権もなく、オスマン帝国の全権はキョプリュリュ改革の遺産を引き継いだ強力な大宰相の手に握られていた。
一方、16世紀の第一次ウィーン包囲の時代においてヨーロッパにおけるオスマン帝国の最大の敵手であったハプスブルク家のオーストリアは、三十年戦争を経てかつての強盛を失い、17世紀半ば以降はキョプリュリュ時代のオスマン帝国軍の前に敗北を重ねていた。
当時のオーストリアにとって西方での宿敵はフランスのルイ14世であったが、フランスはオーストリアがオスマン帝国と戦うことでハプスブルク家の皇帝を弱体化させることを狙っていた。このため、オスマン帝国とオーストリアとの戦いにおいて、西からオーストリアを牽制することによってオスマン帝国に間接的な支援を与えていた。
②ウィーン包囲戦
1683年、ハプスブルク家領の北西ハンガリーでハンガリー人による反乱が起こり、反乱者たちはオスマン帝国に対して支援を要請した。これをスレイマン1世の第一次ウィーン包囲以来150年ぶりのオーストリア占領の好機と考えたカラ・ムスタファ・パシャは、15万からなる大軍を率いてハンガリーからオーストリアに侵入、ウィーンに迫った。
皇帝レオポルト1世はウィーンを脱出してリンツに逃れ、イスラム教徒からヨーロッパを防衛するよう訴えてキリスト教徒の諸王侯に支援を要請した。これに、当時オスマン帝国とポドリアを巡って争っていたポーランド国王ヤン3世ソビエスキが応え、ヤン3世はポーランドとドイツ諸領邦からなる連合軍を率いて自らウィーンの救援に向かった。
1683年8月初頭、ウィーンに到達し、この町を完全に包囲したオスマン軍は、町の西部から城壁の突破をはかって攻撃を仕掛けた。しかし最新の築城法で要塞化されて第一次包囲の時代よりはるかに堅固になったウィーン市の防備を破ることができず、攻城戦は長期化した。遠方から進軍してきたため強力な攻城砲を搬入できなかったオスマン軍は、地下から坑道を掘って城壁を爆破する作戦もとったが失敗に終わった。
一方、防衛側のウィーン守備軍は士気が盛んでたびたび要塞から打って出てオスマン軍を攻撃したが、包囲軍に対してほとんど損害を与えることはできなかった。
③ オスマン軍の敗走
9月12日、オーストリア・ポーランド・ドイツ諸侯の連合軍がウィーン郊外に到着、ウィーンとその周辺を見下ろすようにしてウィーン市西の丘陵上に展開した。連合軍は右翼にヤン3世率いるポーランド軍3万と、左翼にオーストリア軍およびドイツ諸侯の連合軍4万を配置し、オスマン軍と対峙した。
この日までにオスマン軍はウィーンの防衛線に突破口を開きつつあったが、ウィーン守備軍の必死の抵抗によりウィーンは辛うじて守られていた。オスマン軍は数の上でも依然としてウィーン守備軍と連合軍の合計を上回っていたが、長引く包囲戦により士気は低下しており、また装備も旧式で不十分であった。またクリミア・タタール軍などオスマン軍の一部は強権的なカラ・ムスタファ・パシャに反発しており、大宰相に対して非協力的ですらあった。
偵察を放ってオスマン軍の情報を探っていたヤン3世はこのような状況を掴んでオスマン軍の防備体制が弱体であることを見抜いた。連合軍による攻撃の開始は翌9月13日が予定されていたが、ヤン3世は到着した9月12日の夕刻に連合軍に総攻撃を命じた。偵察によってカラ・ムスタファ・パシャの本営の位置を正確に把握していた連合軍はオスマン軍に対する中央突破を敢行し、敵司令部を混乱に陥れた。わずか1時間ほど続いた戦闘によってオスマン軍は包囲陣を寸断され、散り散りになって潰走した。
夕暮れで暗くなったために追撃は早々に打ち切られたため、カラ・ムスタファ・パシャは無事に逃げ延びることができたが、戦闘はオスマン軍の惨憺たる敗北に終わった。
④その後の状況
カラ・ムスタファ・パシャはベオグラードに逃れ、敗軍を建て直し連合軍に対する反撃を準備していた。しかし帝国の宮廷では、カラ・ムスタファ・パシャの強権的な執政に不満をもっていた政敵たちの策動が功を奏し、ベオグラードにはメフメト4世の名をもってカラ・ムスタファの処刑を命ずる勅令が届けられた。
連合軍の側ではローマ教皇がトルコ人に対する同盟結成の呼びかけを行い、オーストリア、ポーランドにヴェネツィア共和国を加えて神聖同盟が結成された。神聖同盟は引き続きオスマン帝国の支配下にあった東ヨーロッパの各地に侵攻した。
一方のオスマン帝国では、カラ・ムスタファの刑死後、政府内に指導者を欠き、混迷するオスマン軍は連合軍の前になすすべなく連敗を重ねた。帝国はオーストリアにハンガリー、トランシルヴァニアを、ポーランドにポドリアを、ヴェネツィアにモレア半島、アドリア海沿岸の諸都市を奪われ、さらに1686年にはロシア(モスクワ大公国)が神聖同盟に加わってクリミア、アゾフに侵攻を開始した。オスマン帝国の勢力は東方に大幅に押し戻され、一時はバルカン半島支配の要衝であるベオグラードまで失われることになる。1689年に再びキョプリュリュ家から登用された大宰相ファーズル・ムスタファ・パシャ率いる反攻によってオスマン帝国は戦況をある程度挽回するが、ファーズル・ムスタファは1691年に戦死し、大局を覆すに至らなかった。
戦争は長期化するにつれて神聖同盟間の不和が表面化して戦線を膠着化するが、結局16年間にわたって続いた。末期にはほとんど戦闘は行われない中で和平交渉が進められ、1699年にカルロヴィッツ条約が結ばれてようやく終結する。
カルロヴィッツ条約でオスマン帝国はベオグラード周辺を除くハンガリー王国の大部分(ハンガリー中央部、トランシルヴァニア、クロアチアなど)をオーストリアに、アドリア海沿岸の一部をヴェネツィアに、ポドリアをポーランドに割譲することを認めた。翌年にはロシアと個別の講和を結んでアゾフの割譲を認めている。
⑤第2次ウィーン包囲の意義
第2次ウィーン包囲は、16世紀後半以来徐々にではあるが衰退していたオスマン帝国のヨーロッパにおける軍事的優位を決定的に崩す事件となった。第2次ウィーン包囲がオスマン帝国の衰退を決定付けたとみる評価がオスマン帝国史の叙述においては通説となっている。
また、第2次ウィーン包囲からカルロヴィッツ条約に至る16年間の戦争によってオスマン帝国の版図はバルカン半島および東ヨーロッパから大幅に後退し、オーストリアとロシアがこの方面における覇権を握るきっかけを作った。
精神的意義としては、100年前のレパントの海戦に続いて、ヨーロッパ諸国がオスマン帝国に対して抱いてきた脅威を打ち崩す戦闘であった。クロワッサンはこの戦争の勝利を記念してトルコ国旗の意匠である三日月を象ったものである、とか、あるいはヨーロッパでコーヒーが広まったのはウィーン市民が潰走したオスマン軍の陣営から打ち捨てられたコーヒー豆を見つけたのが始まりである、といった伝説的なエピソードは実際には事実に反しているが、この戦いがヨーロッパの人々のオスマン帝国に対する印象を変えた象徴であったことをよく示している。

Yahoo!とガリバー旅行記.txt

Yahoo!の名前の由来
Yahoo!の名前の由来は創業者のファイロとヤンは自分たちのことを「ならずもの」だと考えているから、「粗野な人」という意味がある「yahoo」(『ガリヴァー旅行記』に登場する野獣の名前が由来)という言葉を選んだと主張している。さらに感嘆符が付いていることに関しては「ヤッホー!」「やったー!」を意味する感嘆詞のyahooと掛けているとも考えられる。

ジョージ1世時代のイギリス社会を風刺したガリバー旅行記.txt

ガリバー旅行記 
 イギリスのジャーナリストで作家のスウィフトがあらわした4編からなる風刺小説。1726年に匿名で出版された。航海に出るたびに奇想天外な国に行きつき、さまざまな体験をする船医ガリバーの旅行記のかたちをとっており、第1編の小人国渡航記、第2編の巨人国渡航記は、子供向きの空想旅行記として世界でしたしまれてきた。しかし、全体の内容は、当時のイギリス社会、あるいは人間存在全般に対する激烈な風刺であり、きわめて辛口の読み物である。
①不思議な国々を遍歴
外科医レミュエル・ガリバーは船医として羚羊(かもしか)号にのりくんだが、嵐で難破し、「リリパット」におよぎついた。住民の身長は6インチ(約15cm)以下、すべてのものが人間の世界の12分の1に縮小されている小人国である。ここでガリバーは、敵国の艦隊をまるごと綱でひっぱってくるなど活躍し、「人間山」とよばれて皇帝のお気に入りになる。しかし、そんなガリバーをねたんだ宮廷内の一派の陰謀により、皇妃宮殿の火事を小便でけした手柄が不敬罪に問われることになって、ガリバーは隣国に亡命する(第1編)。いったんイギリスにかえったガリバーは、冒険号でふたたび航海に出たが、見知らぬ海岸に1人とりのこされた。そこは、すべてが巨大な巨人国「ブロブディンナグ」であった。この国では、ガリバーはパンの皮につまずいてたおれるというありさま。見世物にされたガリバーは人気者となり、国王に謁見し、イギリスの歴史と政治について説明したりする(第2編)。
ホープウェル号で3度目の航海に出たガリバーは、海賊におそわれて、思索に没頭するあまり会話のできない人々がすむ空飛ぶ島「ラピュタ」に漂着した。次におとずれた「グラブダブドリッブ」では古今の有名人の亡霊と話をし、「ラグナグ」では、不死の人々にあって長寿を重ねるとはどういうことかを目のあたりにする。この航海では日本にもしばし滞在した(第3編)。
冒険号の船長として4たび出航したガリバーは、船員たちの反乱にあい見知らぬ島にすてられた。そこは、聡明で高貴な馬フウイヌムたちがすむ「フウイヌム」国で、ガリバーは、この理性の生き物フウイヌムを敬愛するようになる。一方、あちこちでみかける人間そっくりのヤフーという動物は、野生種にしろフウイヌムの家畜となっているものにしろ、不潔で品性下劣で醜悪な、ぞっとするような奇獣であった。ガリバーは高潔な馬が支配するフウイヌム国に永住したいと希望するがかなわず、祖国にもどる。しかし、大喜びでむかえてくれた妻子も今や嫌悪感をもよおすヤフーにしかみえず、フウイヌム国でおぼえた馬の言葉で飼い馬と会話する時間だけ気分がやすらぐのであった(第4編)。
②孤高の風刺文学
「ガリバー旅行記」には、全編、イギリスの社会と人間への痛烈な批判がちりばめられている。たとえば、小人国の宮廷のようすはジョージ1世の宮廷での出来事や実在の人物に照応している。巨人国の国王はガリバーからイギリスの歴史と政治についての話を聞いて、「イギリスでは無知と怠惰と悪徳のみが政治家の要件であることがよくわかった」と答えている。ラグナグ国の、知力も体力もおとろえながら永遠に生きつづける人々の姿は、不老不死をねがう愚かさを浮き彫りにし、フウイヌム国のヤフーを描写する筆致は、もはや風刺の域をつきぬけて、人間すべてに対するスウィフトの憎しみと絶望があらわれている。
スウィフトは政界進出の野心にもえながらはたせず、社会に対し憤懣やるかたない思いをいだいていた。「ガリバー旅行記」の辛辣さは、そのような半生が反映されていると考えられている。また、執筆当時、すでにスウィフトの精神状態は悪化にむかっていたとする説もあるが、いずれにせよ、文章はきわめて明快で魅力にとみ、イギリス散文のお手本ともされている。
この作品は、1726年に匿名で出版されると、すぐさま成功をおさめた。当初のねらいは、当時の宮廷や政治家や政党に対して、風刺による寓話的で強烈な攻撃をおこなうことであった。しかし、6年以上かかったとされる執筆期間の間に、人間社会への円熟した考察がおりこまれていった。こうしてできあがった「ガリバー旅行記」は、人類すべてを笑いものにする、残忍なまでに辛辣な作品になった。しかし、ひじょうに創造力と機知にとむ、簡潔に書かれた作品であり、子供たちの愛読書としてもよみつがれることになるのである。

☆ジョージ1世 George I 1660~1727 
ハノーバー朝初代のイギリス国王。在位1714~27年。ドイツのハノーファー選帝侯エルンスト・アウグスト(→ 選帝侯)とイングランド王ジェームズ1世の孫娘ソフィアとの間に生まれ、スチュアート朝最後の君主アン女王の死後、イギリスの王位継承法により王座についた。54歳でまねかれて即位したため、生活や習慣の点では完全にドイツ人で、英語を解さなかった。そのため、イギリス国王としての責務はじゅうぶんはたしたにもかかわらず、イギリスでは終生人気がなかった。
即位の翌年に、名誉革命で王位をおわれたジェームズ2世の息子ジェームズ・フランシス・エドワード(大僭称者:だいせんしょうしゃ)を王位につけようとするジャコバイトの反乱がおきたが、鎮圧に成功した。以後ジョージは、トーリー党はジャコバイトの党派だとして、ホイッグ党の政治家のみを大臣に登用した。内政にかんしては、スタナップ、タウンゼンド、ウォルポールらの大臣に一任し、「王は君臨すれども統治しない」という責任内閣制度が発足することになった。彼らのすぐれた行政手腕のおかげで、イギリスにおけるハノーバー家の立場は確固たるものになり、現在の王室も彼の子孫にあたる。
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