ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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FCバルセロナは1899年南ア戦争が勃発した年に創設された。

FCバルセロナ(Futbol Club Barcelona)
スペイン・バルセロナを本拠地とするサッカークラブチーム。1899年創設。愛称は「バルサ(Barca)」、またはクラブカラーから「ブラウ・グラーナ(Blau Grana)」。日本でも「バルサ」と呼ばれる例が多いが、本来これらの愛称は地元のサポーター(バルセロニスタ)のみが呼ぶものである。数々のタイトルを獲得したヨーロッパでも屈指のビッグクラブ、名門クラブであり、政治的背景などからレアル・マドリードとは長年のライバルである。 「クラブ以上の存在(Mes Que Un Club)」がクラブのスローガンであり、ユニホームの後襟にもこの言葉がプリントされている。 クラブの会長は、ソシオと呼ばれる会員の選挙によって選ばれる。日本での人気も非常に高い。
「攻撃的でスペクタクルなフットボール」をクラブのアイデンティティとしており、試合に勝ったとしてもその内容が守備的でつまらないとサポーターから容赦ないブーイングが浴びせられる。このような習慣はスペインほぼ全てのクラブに存在するが、バルセロナは特にこれが顕著。結果よりも内容の価値が遥かに大きい点でこのクラブは"異常"な存在であるとも言える。
カンプ・ノウ (Camp Nou) は、スペイン・バルセロナにあるサッカー専用スタジアム。1957年9月24日完成。リーガ・エスパニョーラに所属するFCバルセロナのホームスタジアム。名選手ラディスラオ・クバーラ、サンドール・コチシュ、ラモン・ビジャベルデ、エバリストらの1950年代FCバルセロナ黄金期に、その人気の後押しを受け建設された。Camp Nouとはカタルーニャ語であり、英語に直すとNew Stadiumとなり、(以前使用していたスタジアム「レス・コルツ」Les Cortsと比較して)「新しいスタジアム」と言う意味である。
収容人数は欧州最大の98,600人。1982年スペインワールドカップでも使用された。 UEFAが選定するスタジアムのレベルも最高クラスであり、過去にはUEFAチャンピオンズリーグ決勝戦がここで行われた。 スタンドの景観はもとよりピッチの水捌けまで計算されている。 ピッチは肉眼では分からない位アンジェレーションが付いていてほんのわずかだけ真ん中が高く、外に行くにつれてだんだん低くなる設計がされており水が流れ出るようになっている。 スタンドについては一階以外はどの角度から見ても全体を見渡せるようになっている。ワールドカップ開催に併せて収容人数を約12万人に増やしたが、90年代に入りFIFAの規則に従って98,600人に縮小した。

★1899~1902年南ア戦争(南アフリカ戦争、ブール戦争)
イギリスが南アフリカのオランダ系入植者国家、トランスヴァール共和国、オレンジ自由国を併合するために行った戦争。

①第1次ボーア戦争1880年~1881年
ダイアモンド鉱山を持つトランスヴァール共和国をイギリスが併合しようとした戦争。
1881年のマジュバ・ヒルの戦いで英軍は大敗。このためプレトリア条約でイギリスはトランスヴァール共和国を承認した。

②第2次ボーア戦争1899年~1902年
金とダイアモンドの独占を狙うケープ植民地首相セシル・ローズらはトランスヴァール共和国併合を諦めてはいなかった。
今度は選挙で攻めようとしたが、トランスヴァール大統領のポール・クルーガー?はその思惑を見抜き、1893年に(外国人労働者である)イギリス人鉱山事業従事者の選挙権を制限する。
次は武力で行こうと1895年にジェームソン事件を引き起こすが、ボーア人の民兵に阻まれ失敗、セシル・ローズは引責辞任する。
危機感を強めたトランスヴァールは1899年にオレンジ自由国と同盟、ついに戦争がはじまった。
当初イギリス側は状況を楽観的に見ていたが、ボーア民兵は巧妙なゲリラ戦を展開してイギリス側は大苦戦を強いられる。このためイギリスは45万人という空前の大兵力を投入した。これによってブルームフォンテン、ヨハネスブルク、プレトリアといった主要都市を陥落させる。普通だったらこれで戦争は終わるはずだったが、ボーア人たちは諦めず、さらに2年間にわたるゲリラ戦が続いた。
最終的に20世紀型の戦争を完遂するために生まれてきた男、キッチナーがゲリラ支配地域の住民を「強制収容所(concentration camp)」に押し込める(劣悪な環境により2万人以上が死亡したとされる)という作戦によってゲリラを日干しにすることに成功、英国の勝利で戦争は終わった。
イギリスはボーア人の住む両国を占領して植民地とし、1910年に南アフリカ連邦を建国した。ただし、戦争で苦戦したことからイギリス側はアフリカーナー達に大幅な自治権を認め、南ア連邦の主導権はボーア人たちが握ることになった。
「英国史上最も不人気な戦争」とまで呼ばれたこの戦争は、大義もなければ正義もなく、さらにボーア人に対する非人道的行為などから親ボーア・反植民地主義を唱える勢力を盛り立て、大英帝国の正当性に対する深刻な疑念を呼び起こした。自由主義と帝国主義との相克は、その後の大英帝国の終焉まで(もしくは今日の北アイルランド問題まで)続くこととなる。
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