ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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卑怯者だった?『宮本武蔵』

宮本武蔵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
兵法家・武士としての武蔵の実像と虚像
『五輪書』には13歳で初めての勝負を新当流の有馬喜兵衛と決闘して以来29歳までに60余回の試合を行い、すべてに勝利したと記述される。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは従来、父無二の旧主君であった新免氏が宇喜多秀家配下であったことからそれに従って西軍に参加したと言われてきたが、父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書(『慶長7年・同9年黒田藩分限帖』)が存在することから、父と共に当時豊前を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い。黒田家臣・立花峯均による武蔵伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』(通称『丹治峯均筆記』)には、黒田如水の軍に属して九州豊後の石垣原(今の別府)で西軍大友義統軍との合戦に出陣し、出陣前の逸話や、冨来城攻めでの奮戦振りの物語が記されている。
武蔵21歳の時に京に上り兵法家吉岡一門と戦ったことは、文芸作品等でさまざまな脚色がされ有名である。
武蔵が行った試合の中で最も広く知られているものは、俗に「巌流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に長門国(現在の山口県)の舟島(関門海峡に浮かぶ巌流島)で、岩流なる兵法者と戦ったとされるものである。この試合を記した最も古い史料は、武蔵の養子伊織による承応3年(1654年)の『新免武蔵玄信二天居士碑』(小倉碑文)である。これによると「爰に兵術の達人、岩流と名のる有り。彼と雌雄を決せんことを求む。岩流云く、真剣を以て雌雄を決せんことを請ふ。武蔵対へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ。吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前との際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。両雄、同時に相会す。岩流、三尺の白刃を手にして来たり、命を顧みずして術を尽くす。武蔵、木刃の一撃を以て之を殺す。電光も猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ。(原文漢文)」とある。次に古い記録は試合当時に門司城代であった沼田延元の子孫が寛文12年(1672年)に編集した『沼田家記』である。その記述を要約すると以下の通りである。

宮本武蔵玄信が豊前に来て二刀兵法の師になった。また、小倉には岩流兵法の師である小次郎がいた。
門人の諍いによって武蔵と小次郎は一対一の約束でひく島(後の岩流島)で勝負をした。
試合の結果、小次郎が敗れた。
約束を破り武蔵の弟子達が島に隠れ来ていた。小次郎の弟子は約束を守り一人も来ていなかった。
勝負に敗れ気絶した後蘇生した小次郎を、武蔵の弟子達が皆で打ち殺した。
それを聞き小次郎の弟子達が島に渡り武蔵に復讐しようとした。武蔵は門司まで遁走、城代の沼田延元を頼った。
沼田延元は武蔵を門司城に保護、その後鉄砲隊により警護し豊後に住む武蔵の父親(無二)の所まで無事に送り届けた。
その後、『本朝武芸小伝』(1716年)、『兵法大祖武州玄信公伝来』(1727年)、『武公伝』(1755年に完成)等によって成長していった岩流の出自や試合の内容は、岩流を佐々木小次郎と初めて記した『二天記』(1776年)によって、岩流の氏名や出自、武蔵の手紙、慶長17年4月13日に試合が行われたこと、御前試合としての詳細な試合内容など、多くの史的価値が無い内容によって生き生きと詳述された。『二天記』が詳述した岩流との試合内容は、明治42年(1909年)熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂による『宮本武蔵』通称『顕彰会本』で原資料の一つとなり無批判に史実とされ、さらに吉川英治が小説『宮本武蔵』(1935年~1939年)で『顕彰会本』の内容を用いたことから広く知られるようになり、多くの俗説が現代でも語られている。

大坂の役(慶長19年(1614年) - 元和元年(1615年))では従来、豊臣方として参戦したと通説の如く語られるが、根拠のない俗説である。実際は、水野勝成の客将として徳川方に参陣し、勝成嫡子勝重(のち水野勝俊)付で活躍したことが数々の資料から裏付けられている。

その後、姫路城主本多忠刻と交渉を持ちながら活躍。明石では町割(都市計画)を行い、姫路・明石等の城や寺院の作庭を行っている。『海上物語』ではこの時期、後に神道夢想流杖術を創始した夢想権之助と明石で試合したことが伝えられている。(同記事のある『二天記』ではこの試合は江戸でのこととされるが、この記事は『二天記』の原史料である『武公伝』には記載されていない。)

元和の初めの頃、水野家臣中川志摩助の三男三木之助を養子とし、姫路城主本多忠刻に出仕させるが、三木之助は寛永3年(1626年)に亡くなった忠刻に殉死する。宮本家は三木之助の実弟が後を継ぎその後も存続したが、同じ年に播磨の地侍田原久光の次男伊織を新たに養子とし、宮本伊織貞次として明石城主小笠原忠真に出仕させている。伊織は寛永8年(1631年)20歳で小笠原家の家老となっている。

寛永15年(1638年)の島原の乱では、小倉城主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真甥の中津城主小笠原長次の後見として出陣している。小倉滞在中、忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。

寛永17年(1640年)熊本城主細川忠利に招かれ熊本に移る。待遇は客分として7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、同じく客分の足利義輝遺児足利道鑑と共に忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。翌年忠利が急死したあとも2代藩主細川光尚により変わらず毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。『武公伝』は武蔵直弟子であった士水(山本源五左衛門)の直話として「士水伝えて云、武公肥後にての門弟、太守はじめ長岡式部寄之、沢村宇右衛門友好、その他、御家中、御側、外様、及陪臣、軽士に至り千余人なり」とこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。この頃余暇に製作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。

寛永20年(1643年)熊本市近郊の金峰山にある岩戸の霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『獨行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子寺尾孫之允に与えている。

正保2年5月19日(1645年6月13日)千葉城の屋敷で亡くなる。墓は熊本市弓削にある通称武蔵塚。北九州市手向山に養子伊織による武蔵関係最古の記録のひとつである『新免武蔵玄信二天居士碑』、通称「小倉碑文」がある。
武蔵の兵法は、初め円明流と称したが、『五輪書』では、二刀一流、または二天一流の二つの名称が用いられ最終的には二天一流となったものと思われる。後世では武蔵流等の名称も用いられている。熊本時代の弟子に寺尾孫之允・求馬助兄弟がおり、肥後熊本藩で二天一流兵法を隆盛させた。また、孫之允の弟子の一人柴任三左衛門は福岡藩黒田家に二天一流を伝えている。
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