ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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「冊封体制とは何か」 出典『貝と羊の中国人』加藤徹(文春新書)より

昔の東アジア諸国の関係は、いわばヤクザの組どうしだった。
中国の皇帝は、広域暴力団の大親分である。
本当なら、この大親分が、世界の隅々まで治めるのがスジである。
だが世界は広い。そこで中国の大親分は、辺境の地域については、地元の組の親分を、形式的に子分に認め、自分の傘下に組み入れることで満足した。
田舎のヤクザも、大親分から預かった代紋を地元でちらつかせ、
「うちの組には、あの大親分の息がかかっているんだぞ。なめたらあかんぜよ」と威張りちらした。辺境の異民族の首長が、中国の皇帝に朝貢して官位をもらい、現地を治めるお墨付きの文書を発行してもらうことを「冊封」と言った。冊封を受けた国のことを、冊封国と呼ぶ。現代風にいえば、自治領ないし属国である。
3世紀の邪馬台国の女王卑弥呼も、5世紀の倭の五王も、中国の首都まで使者を送って朝貢の礼を尽くし、皇帝から冊封を受けた。古代の東アジアでは、冊封を受けることは、国内外の豪族たちに睨みをきかせる上で、有効な方法だった。
ただ、冊封を受ける、というのは、やはり屈辱的である。そこで日本人は、聖徳太子のときから外交方針を変更し、中国に対等の国交を要求するようになった。
西暦607年、遣唐使として中国に渡った小野妹子は、隋の煬帝に、「日出づる国の処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」云々の国書を渡した。
これは、日本の天皇と中国の皇帝は対等である、という意思表示だった。以後、明の建文帝に朝貢して、「日本国王」の冊封を受けた足利義満を唯一の例外として、日本人は、中国の属国となることを拒否した。
東アジアで、日本ほど見事な対中外交を貫いた国は、他にない。
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