ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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康煕帝の印章に9億円 過去最高、仏で落札.txt

2008.6.14 23:14
 フランス南部トゥールーズで14日、清の康煕帝(在位1661~1722年)の印章が競売に掛けられ、約560万ユーロ(約9億3000万円、競売関連経費を含む)で落札された。関係者によると、印章の落札価格としては過去最高とみられ、欧州で競売された中国の品としても最高額という。フランス公共ラジオが伝えた。
 電話で競売に参加した中国人が落札した。凍石製で3キロ近くの重さがある。康煕帝の印であることを示す6つの漢字が刻まれているという。落札予想価格は100万~250万ユーロだった。
 印章はトゥールーズにある旧家の相続に際し、物入れの奥から見つかった。この旧家では印章の価値や用途を認識していなかった。(共同)

☆康熙帝:在位1661年 - 1722年
清の第4代皇帝。唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。
①即位まで
順治帝の第3子として生まれ、8歳で即位する。順治帝の遺命により、スクサハ、ソニン、エビルン、オボイの重臣4人による合議制だったが、ソニン(索尼)の死後、オボイ(鰲拜)が反対派を粛清して専横を振るうようになった。康熙帝は15歳の時に相撲にかこつけてオボイを捕らえて排除、親政を始めた。
②内乱
1673年(康熙十二年)三藩の乱が起こる。順治帝に山海関を明け渡して投降した呉三桂は、その後に南に逃れた明の永暦帝を殺したことで清から功績大と認められ、皇族でないにも拘らず親王に立てられていた。この呉三桂を筆頭とした尚可喜、耿精忠の三人の藩王はそれぞれ雲南、広東、福建を領地としており、領内の官吏任命権と徴税権も持っていたので独立小国家の体を為していた。
康熙帝はこの三藩を廃止することを決める。廃止しようとすれば呉三桂たちは反乱を起こすと群臣の多くは反対だったが、3名だけ「このまま藩を存続させればますます増長し、手に負えなくなり、結局反乱することと同じである。どうせ同じなら今廃止したらどうか。」という意見を出し、康熙帝はこれを採用した。
予想通り、呉三桂たちは清に対して反旗を翻した。三藩軍は清の軍隊を各地で破り、台湾の鄭経(鄭成功の息子)も呼応し、一時期は長江以南を全て奪われるなど帝国崩壊の危機を迎えた。群臣は康熙帝に満州に避難することを勧めたが、康熙帝は断固として三藩討伐の意思を変えなかった。呉三桂たちは「満州族を追い出して漢族の天下を取り戻そう」というスローガンを民衆に訴えたのだが、そもそも漢族の王朝である明を滅ぼしたのは他ならぬ呉三桂だったので民衆は三藩を支持しなかった。康熙帝が漢人の周培公らを起用したことで清軍は徐々に優勢になっていき、1681年(康熙二十年)に三藩の乱を鎮圧した。その2年後には台湾を制圧し、完全に中国を統一した。
③外征
康煕帝台湾を収復した年、ピョートル1世率いるロシア帝国が満州族の故地である黒竜江付近に南下してきたのでこの地方の軍事力を強化し、1689年にネルチンスク条約を結んだ。のちの19世紀に受け入れさせられる一連の不平等条約と異なり、この条約は両国が対等の立場として結ばれたものである。中華思想によれば中国は唯一の国家であり、中国と対等な国家の存在を認めず、国境など存在しないという建前だったが、この原則を揺るがす内容であった。これには側近のイエズス会宣教師、フェルディナント・フェルビースト(南懐仁)の助言があったと言われ、条約締結の際にもイエズス会士が交渉を助けた。ただし、その後の対ロシア関係は理藩院によって処理されており、清の国内では朝貢国と同様の扱いを受けていた。そのため、この条約をもって清朝が主権国家体制の枠組みに包含されたとまでは言えない。
1670年代、ジュンガル部のガルダンがオイラトの覇権を握り、さらにモンゴルのハルハ部の内紛に介入、ハルハ諸部を制圧した。1693年、ハルハの諸侯は康熙帝に保護を求め、康熙帝はこれに応えてガルダンと対決、みずから軍勢を率いての戦いを経て1696年、ガルダンに致命的打撃を与えることに成功、ガルダンは敗走中に死去した。従来、ハルハ諸侯は清朝に朝貢を行い、冊封を受けるのみで、他の朝貢国と同様、内政自主権を行使していたが、これ以後、清の盟旗制に組み込まれることとなる。
18世紀には、ダライラマ6世を巡って生じたチベットの内紛で、青海のグシ・ハン王家の傍系王族の一部とジュンガルのツェワンラプタンが同盟を組み、1717年、ジュンガル軍がチベットに侵攻し、ラサを制圧、チベット=ハンのラサンを殺害した。康熙帝はラサンの救援要請に応じて1718年、チベットに出兵したが、この第一次派遣軍はジュンガル軍によって壊滅させられた。これに対し康熙帝は、グシ・ハン一族の主立った者たちを、当初ジュンガルと同盟した者達を含めて北京に招き、爵位で釣って清朝側につけることに成功、1720年の第二次派遣軍は、「グシ・ハンの打ち立てた法の道」を回復することを旗印に、グシ・ハン一族の軍勢とともに進軍、カンチェンネー、ポラネーらゲリラ勢力の蜂起に苦しめられていたジュンガル軍はこれを見て戦わずして中央チベットから撤退していった。
康熙帝は「グシハンの立てた法の道(ダライラマを擁するチベットのハン)」をチベットの正統の政体と認め、この政体の回復をチベット介入の旗印にしていた。1721年には、グシ・ハン一族にハン位継承候補者を選出するよう求めたが、グシ・ハン一族は18世紀初頭以来、内紛の極みに達しており、一族とチベットの有力者が一致して支持しうる候補者を選出することができなかった。康熙帝はラサンを継ぐハンを冊封せぬまま没し、チベットの戦後処理は、雍正帝の手に委ねられることになる。
④北方民族の王者
康煕帝康熙帝は1683年からほとんど毎年夏には木蘭囲場(現・承徳市囲場満族モンゴル族自治県)に赴き、モンゴル王侯とともに狩猟を行った。こうした狩場で十数日の間、モンゴル風のテント生活を送ったのである。康熙帝は弓の達人で、自ら虎や熊を倒したといわれる。また1703年には熱河離宮避暑山荘を造り、毎年夏から秋にかけて北京を離れて熱河で過ごし、モンゴル諸王や外国朝貢使節を引見した。こうした北方民族の王者としての行動様式は家法として雍正帝や乾隆帝にも受け継がれていく。
⑤国内政策
内政にも熱心であり、自ら倹約に努め、明代に1日で使った費用を1年間の宮廷費用としたと言われる。また使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らした。国家の無駄な費用を抑え、財政は富み、減税を度々行った。また、丁銀(人頭税)の額を1711年の調査で登録された人丁(16歳~59歳の成年男子)の数に対応した額に固定し、1711年以降に登録された人丁に対する丁銀を当面免除した。これは地丁銀制へとつながる。
文化的にも『康熙字典』、『大清会典』、『歴代題画』、『全唐詩』、『佩文韻府』などを編纂させ、『古今図書集成』の編纂を命じた(完成は雍正帝の時代)。また朱子学に傾倒し、自ら儒学者から熱心に教えを受けて血を吐くまで読書を止めなかったと言われる。康熙帝の時から十哲の一人として朱子を祀るようになり、『朱子全書』、『性理大全』などの朱子に関する著作をまとめた。明史の編纂にも力を入れて大部分を完成させた。また、イエズス会宣教師ブーヴェらに実測による最初の中国地図「皇輿全覧図」を作成させた。
このように善政面が目立つ康熙帝だが、一方では文人統制を行い、何人かの「清を侮辱する文章を書いた」と疑われた文人を殺している。康熙帝自身が優れた文人であったために文章の力を高く評価し恐れていたのだろう。

康熙帝は次男を皇太子に立てていたが、奇矯な人物であったため康熙帝はこれを廃し、死ぬ直前まで後継を定めなかった。このため雍正帝即位に関して様々な憶測が伝わり雍正簒位として民間に広まることとなる。
順治帝が清を中華王朝としたが、実質的に清を全国王朝としたのは康熙帝である。清代のみならず、唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。清東陵に陵墓がある。
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