ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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なぜ奥州藤原氏は壮大なる寺院を次々と建立したのか?.txt

蝦夷の長である奥州藤原清衡以来の対朝廷戦略
①朝廷側に従うという意思表示
②莫大な金を含む貢ぎ物を増やし経済的に力を尽くす
③立派な仏像や寺院を建立することで、文明国家であることをアピール
→平泉は堂々たる文明国だから朝廷に対して反乱など起こさないという ことを示す安全保障の意味 があった
☆その結果として1181(養和元)年藤原秀衡は陸奥守に任命された。蝦夷の血を引く者がついに自
 らの大地奥州(東北地方)の地を治めることをゆるされたのである。

以下http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2008_05.htmlより引用
その時歴史が動いた「興亡北の黄金王国 奥州藤原氏 vs 源氏」
・平成20年5月21日 (水) 放送
古代から東北に住む人々は、蝦夷と呼ばれ、朝廷から抑圧を受けていた。その状況を覆し、奥州独立というフロンティア精神を持って立ち上がったのが、奥州藤原氏だった。独立を目指す足跡は、源氏との百年以上に及ぶ戦いの歴史でもあった。
事の発端は平安時代後期。挙兵した蝦夷を鎮圧するため朝廷より派遣された陸奥守・源頼義と、その部下・藤原経清の反目にあった。頼義に友人を惨殺された経清は、蝦夷とともに朝廷の先兵・源氏と戦うことを決意。やがてその子孫たちは、中央政局の混乱を巧みに利用して、朝廷と源氏の勢力を奥州から排除、奥州を手中に収める。平泉に金色堂を中心とする壮大な都市を築き、陸奥守の称号も手に入れることに成功した。
しかしやがて、地方で独自の政権を築いた奥州藤原氏の戦略にならう者が現れる。源頼朝だ。頼朝は鎌倉を拠点に朝廷を抑え、奥州を制圧。鎌倉幕府を誕生させる。奥州藤原氏と源氏の戦いとは、京に代わって地方が全国を統御する新たな時代への産みの苦しみでもあったのだ。
番組では、中央の権威に抑圧された地方の民が独立を求めて戦う姿と、その戦略が武家政権の誕生に引き継がれる過程を、奥州藤原氏と源氏の戦いを軸に描く。
○陸奥国・奥州の表現について
当時の陸奥国の範囲は、現在の福島、宮城、岩手、青森、秋田の一部であり、この陸奥国の別の呼び方が奥州であった。番組では、藤原氏の力がまだ弱かった前半は「陸奥」、藤原清衡が平泉に拠点を築き、陸奥の最大実力者となってから以降は「奥州」という呼び方に統一している。
また、陸奥守の支配は当初、陸奥国内だけだったが、藤原清衡が奥州最大の勢力となり、のちに秀衡が陸奥守に任命された段階においては、その実質的な支配は隣国出羽を含めた東北全体に及んでいたと考えられている。よって奥州藤原氏の支配もまた、東北全体に及んでいた。
奥州藤原氏とは
平泉に拠点を移し奥州支配を始めた藤原清衡が初代、二代目藤原基衡、三代目藤原秀衡、四代目藤原泰衡、以上の4人をさして奥州藤原四代という表現が用いられることが多い。藤原経清は、清衡の父にあたるため、番組では「奥州藤原氏の祖」という表現を用いている。
○藤原経清の身分について
藤原氏の系図を記した書「尊卑分脈」によれば経清の身分は「亘理権大夫」とあり、陸奥の郡の一つである亘理郡を管理する役人として、多賀城に勤務していたと考えられている。また近年の研究により、藤原摂関家に連なるものであるということが確認されている。
○蝦夷とは
詳細は不明だが、古代より東北地方でいくつかの集団に分かれ生活をしていた人々であり、中央とは違う独自の文化を持っていたと考えられている。朝廷からは征討の対象としてみられていた。安倍氏、清原氏は、その蝦夷の集団がいくつか集まり、豪族として力を持ったものたちである。
中でも朝廷に服属することになった蝦夷は「俘囚」と呼ばれるようになったが、藤原清衡が中尊寺を建立した時に、自らを「東夷」というなど、呼び方が様々にあったことを考慮し、今回の番組では、東北地方に古代から住んでいる人々を「蝦夷」という呼び方に統一した。
スタジオで紹介している蝦夷の絵は、「清水寺縁起」に描かれている坂上田村麻呂と蝦夷との合戦の様子を使用している。
○前九年合戦、後三年合戦の表現について
現在の教科書の多くは「前九年の役」「後三年の役」ではなく「~合戦」という表記を使用しているため、それにならった。
○伝源頼朝像について
頼朝の肖像画として知られる、神護寺蔵の「伝源頼朝像」については、歴史学者を中心に、「別の人物の肖像なのではないか」という説が提示されているが、美術史学者の側からは、従来どおり「頼朝像」として支持されている。今回の番組では、教科書等の表記にならって「伝源頼朝像」として肖像画を使用した。
○平泉が陥落したときのことについて
頼朝が平泉に入ったときは、藤原泰衡は自らの館に火を放ち逃亡していた。最新の研究によれば、平泉の町全体が焼けたわけではなく、藤原氏の館を中心にした一部が焼けたと考えられている。そこで番組では「奥州藤原氏の館は炎に包まれ」と表現した。
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