ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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カトリーヌ・ド・メディシスに招聘されシャルル9世の侍医となったノストラダムス.txt

ノストラダムス(1503~66)  
フランスの医師・占星術師。フランス名はミシェル・ド・ノートルダム。有名な「予言集」の初版を1555年に出版した。日本では「諸世紀」とよばれることも多いが、それは誤訳が広まったものである。予言はあいまいな表現の四行詩にあらわされ、ノストラダムス自身は紀元3797年にいたるまでの出来事を予言したといっている。このため後世さまざまな解釈がおこなわれ、歴史的事件がもろもろの詩に関連づけられてきた。
ノストラダムスは南フランスの町サンレミ・ド・プロバンスに生まれ、カトリック教徒としてそだてられた。大学で医学をまなんだのち、1525年ごろに開業し、その直後から南フランスの村でペストにかかった住民の治療にあたった。そして斬新(ざんしん)な治療法で瀕死(ひんし)の病人をなおすのに成功し、特異な才能をもつ治療家という評判を博したといわれる。
最初の妻子とは死別したが、サンレミに近い町サロンにうつって再婚したノストラダムスは、1550年に占い付きのカレンダーを出し、つづけてジャムと化粧品についての本を発表、55年には「予言集」の最初の版を刊行した。フランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスの招きでパリによばれたことで名声はますます高まり、ノストラダムスは新たな詩をくわえた「予言集」を出版する。
その後カトリーヌの夫アンリ2世が槍の試合で不慮の死をとげ、ノストラダムスがその死を予言したという話が広まり、多くの人が彼にあいにきた。最晩年には王母となったカトリーヌと国王シャルル9世がサロンにくらすノストラダムスのもとをおとずれ、彼はシャルル9世の侍医に任命された。
◎予言者としてのノストラダムス
1550年代に入ると、ノストラダムスはサロンの名士として、公共の泉の碑銘を起草したり、クラポンヌ運河の建設に出資したりするようになる。こうした活動と並行して、翌年1年間を予言した暦書(アルマナック)の刊行を始めるなど、予言者としての著述活動も本格化させていく。暦書は大変評判になり、その成功に押されたのか、ノストラダムスは、より先の未来を視野に入れた著作『予言集』の執筆に着手する(ノストラダムスが『予言集』をどのような意図で出版したのかははっきりしていないが、この点を考える一助として、後段の予言の典拠も参照)。1555年5月に初版が出された『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』は、4巻の途中までしかない不完全なもの(完全版は全10巻)ではあったが、大きな反響を呼び起こしたとされる。
そのわずか2ヶ月ほど後に当たる1555年7月に、国王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスからの招待を受けた。『予言集』の評判が王宮に届いたことが一因とされる。
翌月に王宮で行われた謁見は成功裏に終わったようだが、会見内容は不明である。カトリーヌはそれとは別に、ノストラダムスを個人的に呼んで子供たちの未来を占わせたとされ、四人の御子息はみな王になるという答えを得たという。四男エルキュールが早世したことでこれは外れたが、「御子息から四人の王が生まれる」という予言だったとする説もある。この場合、三男アンリはフランス王となる前にポーランド王となっていたため、正確な予言だったことになる。しかし、後にヴェネツィア大使ジョヴァンニ・ミキエリが1561年にまとめた報告書などでは、宮廷ではノストラダムスの「王子たちがみな王になる」という予言の噂が広まっていたとあり、「四人の王が生まれる」という予言は確認が取れていない。この件に限らず、カトリーヌとの対話は色々取り沙汰されるが、後出の唯一の例外を除いては、対話の内容を伝える史料は存在していない。
1559年6月30日、アンリ2世の妹マルグリットと娘エリザベートがそれぞれ結婚することを祝う宴に際して行われた馬上槍試合で、アンリ2世は対戦相手のモンゴムリ伯の槍が右目に刺さって致命傷を負い、7月10日に没した。現代には、しばしばこれがノストラダムスの予言通りだったとして大いに話題になったとされるが、現在的中例として有名な詩が取り沙汰されたのは、実際には17世紀に入ってからのことであった。ノストラダムスは、1556年1月13日付けで国王と王妃への献呈文をそれぞれ作成し、1557年向けの暦書に収録したが、このうちカトリーヌ宛ての献辞では、1559年を「世界的な平和 」の年と予言している。このため、果たして1559年の悲劇を見通していたかは疑問である(この予言は同じ年のカトー・カンブレジ条約になら当てはまる、とする指摘もある)。

☆カトリーヌ・ド・メディシス(1519~89) 
フランス王妃。アンリ2世(在位1547~59)の妃で、バロワ朝最後の3人の国王の母。ユグノー戦争(1562~89)の約30年間、フランスの政治に大きな影響力をもち、サン・バルテルミの虐殺になんらかの関わりがあったとされる。
イタリアのフィレンツェを支配したメディチ家の出身で、イル・マニフィコ(偉大なる者)と称されたロレンツォの曽孫にあたる。1533年にフランス国王フランソワ1世の2男オルレアン公アンリと結婚。47年にアンリはフランス国王アンリ2世となった。アンリ2世は59年、騎上の試合による負傷がもとで死去し、15歳の長男がフランソワ2世として王位についた。翌年、フランソワも夭逝し、2男がシャルル9世として即位、カトリーヌは摂政となり、政治的影響力をもった。シャルル9世が74年に死に、3男がアンリ3世となると、一時、摂政に就任した。
16世紀後半のバロワ王朝は、名門貴族たちの抗争に翻弄(ほんろう)されたが、この抗争は、カトリックとユグノー(カルバン派プロテスタント)の宗教的対立とも重なっていた。カトリック勢力の代表は、東部ロレーヌの大貴族ギーズ家、パリ北部のモンモランシー家などであり、ユグノーの代表は、ナバーラ王位をもつブルボン家のアンリ(のちにフランス国王アンリ4世)とその一門だった。双方は王を味方につけて、自派の信仰の拡大と政治力の拡大をはかろうとした。カトリーヌは両派のバランスの上にたって、バロワ家と王の威信をまもることに専念した。
1560年、シャルル9世の摂政となったカトリーヌは、少数派のユグノーの信仰の自由を強調しつつ両者の和解に努力し、62年にユグノー戦争が勃発したあとも、その政策はかわらなかった。しかし、シャルル9世はユグノーの指導者コリニーとしたしく、彼の影響を強くうけていたため、カトリーヌは危機を感じ、急激にカトリック勢力への傾斜を深めた。いっぽう、カトリーヌの娘マルグリットは、ユグノーの最高指導者であるナバーラ国王アンリと結婚することになった。
1572年8月、パリには、婚儀に参加するため、コリニーをはじめユグノーの貴族たちが集結していた。盛大な婚礼がおこなわれたあと、サン・バルテルミの祝日の8月24日、カトリック勢力はユグノーの一掃をねらって大虐殺をおこなった。その後、アンリ3世が即位するとカトリーヌの影響力は徐々に低下し、89年に隠棲していたブロワで死去した。
メディチ家の出身者カトリーヌは、イタリア・ルネサンスの感覚をフランスにもたらした。のちにパリ・コミューンで炎上したチュイルリー宮殿は彼女のために建造され、付属する庭園はその後フランス風に改修され今ものこっている。ルーブルの回廊は彼女の計画で建設がはじまり、アンリ4世が完成させた。
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