ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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「学べ、学べ、なお学べ」ウラジーミル・レーニン.txt

前サッカー日本代表オシム監督の「走れ、走れ、なお走れ」という言葉は、ウラジーミル・レーニンの「学べ、学べ、なお学べ」という言葉を元にしたという。
引用:中央公論(2008年5月号)・茂木健一郎氏の論文

レーニン(1870~1924)
①プロローグ
  ロシアの革命家・政治家。ロシア革命を指導し、ソビエト連邦を創設した。本名、ウラジーミル・イリイチ・ウリヤーノフ。ロシア南部のシンビルスクで、文部官僚の子として生まれる。1887年、兄が皇帝アレクサンドル3世の暗殺をたくらんだ罪で逮捕され、絞首刑になった。その年にレーニンはカザニ大学に入学したが、学生運動にくわわって退学処分になり、コクシュキノ村の祖父の屋敷で謹慎した。
1887~88年のこの謹慎中に、チェルヌイシェフスキーの小説「何をなすべきか」をよみ、またマルクスの「資本論」などヨーロッパの革命思想の古典にふれて、マルクス主義者となった。91年、サンクトペテルブルク大学の検定試験に合格し、法学士の学位をえ、93年にサンクトペテルブルクにうつるまで、ボルガ河畔の町サマーラで弁護士補として活動した。
②オルガナイザーとして
サンクトペテルブルクでマルクス主義のサークルにはいり、1895年のペテルブルグ労働者階級解放闘争同盟の設立に参加したが、まもなく逮捕された。15カ月間の獄中生活ののち、1900年までシベリア東部のシュシェンスコエ村に流刑され、そこで同盟メンバーのクループスカヤと結婚した。またシベリア生活中に、「ロシアにおける資本主義の発達」(1899)を執筆している。01年には、官憲をあざむくために名前をレーニンとかえた。
シベリア流刑をおえると国外にでて、1905年の第1次革命のときに短期間帰国したのをのぞけば、17年までロシアにかえることはなかった。国外でトロツキー、プレハーノフ、マルトフらと、新聞「イスクラ(火花)」を創刊したが、このロシア社会民主労働党の機関紙によって社会民主主義者たちは団結し、また新しく参加する者も多かった。亡命中に、組織論を論じた「何をなすべきか」(1902)をあらわしたが、レーニンの革命計画は、高度に訓練された職業革命家たちが「プロレタリアートの前衛」の任務をはたすことによって、真の社会主義革命を実現することができる、というものだった。
レーニンが職業革命家を中心とするプロレタリアート主体の党を主張したために、ブルジョワジーとの協調路線をとるマルトフ、プレハーノフらと対立、ロシア社会民主労働党内に亀裂が生じ、1903年の第2回大会で党は分裂した。レーニン派はこの大会で多数を占めていたため、多数派を意味するボリシェビキとよばれ、反対派は、少数派を意味するメンシェビキとよばれた。2派の党内抗争は第1次世界大戦までつづいた(→ ボリシェビズム)。
③亡命
1905年の第1次ロシア革命の失敗後、その原因をめぐってメンシェビキと非難の応酬をし、有能な配下たちがレーニンのもとをさった。12年にひらかれたロシア社会民主労働党プラハ協議会で、ボリシェビキとメンシェビキは最終的に決別した。哲学論文「唯物論と経験批判論」(1909)はこの期間に書かれた。
1914年の第1次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)に際して、労働者が資本家階級の利益のために敵味方にわかれてたたかわされているという観点から戦争に反対し、社会主義者は「帝国主義戦争を内乱へ転化する」べきだと主張した。この立場から「資本主義の最高の段階としての帝国主義」(「帝国主義論」)(1916)をあらわし、戦争に対するマルクス主義者の見解を体系づけ、資本主義を打倒する革命のみが恒久平和をもたらすと主張した。
④革命の指導者
1917年2月(新暦3月)にツァーリ体制をうちたおしたロシア革命は、レーニンを驚愕(きょうがく)させた。スイスにいたレーニンはドイツの封印列車でロシアに帰国したが、これは、ロシアがさらに衰退すればドイツが戦争にかてると考えたドイツ当局が、レーニンらの帰国を援助したことによる。サンクトペテルブルクからペトログラードと改称された首都へレーニンが到着したのは、労働者と兵士たちがツァーリをたおした1カ月後のことだった。
スターリンらペトログラードのボリシェビキや労働者・兵士代表ソビエトは、このときブルジョワジーの臨時政府に協力することをきめていた。しかし、レーニンはただちにこの方針を撤回させて「四月テーゼ」を発表、その中でソビエトのみがロシアの労働者と農民の希望、熱望、要求にこたえることができる、と主張した。ボリシェビキ党の会議はレーニンの方針をうけいれ、「全権力をソビエトへ」のスローガンをかかげた。
労働者の七月蜂起が失敗におわったのち、1917年8~9月にかけて、臨時政府の手からのがれるために、フィンランドのラズリフ湖畔に身をかくした。ここで有名な「国家と革命」を書き、社会主義政府の概念を定式化しているが、これはマルクス主義政治理論へのレーニンのもっとも重要な貢献となった。この間、ボリシェビキ党中央委員会に対し、首都で武装蜂起することをもとめる手紙を何度もおくり、ようやくその方針をうけいれさせた。
⑤ソビエト国家の建設
十月革命の数日後、人民委員会議議長、すなわち政府の首班に選出されたレーニンは、新しいソビエト国家を強固にするため、現実的な政策をとった。銀行などをのぞき、私企業を国有化しないよう主張、ゆっくりと社会主義へむかう道をえらび、社会革命党(エス・エル)左派を入閣させることによって、一党独裁と非難されるのをさけた。
レーニンは、内外の敵から革命とソビエト権力をまもることを最優先の課題と考えていた。このため、ブレスト・リトフスク条約ではドイツ側に有利な講和条件をうけいれている。成立して間もないソビエト体制は、1918~21年の国内戦で大きな犠牲をはらったが、赤軍の天才的な指導者トロツキーとともに、ソビエトを国内戦の勝利へとみちびいた。
1921年に新経済政策(ネップ)をうちだし、社会主義と資本主義の混合経済へ、そしてソビエト統治初期の多元的社会へと、国の社会体制を修復した。同時に、共産党内での分派結成の禁止をもとめ、一党独裁の原則を主張した。
1922年5月、最初の脳卒中の発作におそわれた。なんとか回復はしたものの、政府や党で積極的役割をはたすことは、もはや期待できなかった。22年末にいくぶん回復したが、23年3月に2度目の大きな発作にみまわれて言語機能をうしない、政治生命は実質的にたたれた。
⑥天才的な革命思想家
レーニンは天才的な革命思想家であり、戦略家だった。彼の明敏な現実主義によって、ボリシェビキは権力をにぎり、それを維持することができた。レーニンに関してはさまざまな見方がある。ある者はレーニンの初期の思想とスターリンの思想の間に継続性をみいだし、またある者は晩年にレーニンがおこなった多元主義的なネップに重きをおく。しかし、レーニンが20世紀のヨーロッパで第一級の革命家であることは、多くの者のみとめるところである。
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