ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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中華料理レストラン「バーミヤーン」の名前の由来は?.txt

「バーミヤン」の意味と由来は? (公式サイトより引用)
バーミヤンは、シルクロードの中心地にあったアフガニスタンの古い都で、隊商の休息の地、東洋と西洋の文化の交流の地として栄えました。それにちなんで、世界をクロスオーバーさせた新しい中華料理をお届けしたいという思いをこめてつけられた名前です。

★バーミヤーン石窟
アフガニスタン中部、ヒンドゥークシュ山脈の山間の盆地バーミヤーンにある石窟寺院遺跡。標高2500mに位置する東西に細長いバーミヤーン渓谷の断崖(だんがい)各所に開かれた石窟群の中でも、東西1300mにわたり100~150mの高さで屹立(きつりつ)するバーミヤーン大摩崖の石窟群をいう。東に中国、南にインド、西にイラン、北に中央アジア遊牧民世界をひかえ「文明の十字路」とよばれた地のシルクロード沿いにあって、仏像、壁画から装飾モチーフにまで、さまざまな文明の影響を反映した、美術的にも考古学的にもきわめて貴重な遺跡である。しかし、1998年と2001年の2度にわたり、イスラム原理主義のタリバーンによって、バーミヤーン石窟のシンボルともなっていた2体の巨大な大仏像が破壊され、壁画も大半がうしなわれた。
バーミヤーンは、中国隋唐時代の記録によると、「隋書(ずいしょ)」に失範延、「新唐書」に失範延や望衍とあり、玄奘は梵衍那、新羅の僧、慧超(けいちょう)は犯引としるしている。中世ペルシャ語ではバーミカーンやバーミヤーンとよばれていた。バーミヤーン石窟の創建とその沿革についてはさまざまな説があるが、6~7世紀に興隆したことは、玄奘の旅行記「大唐西域記」と後世の調査結果によってほぼ判明している。その後、9世紀にイスラム教徒のアフガン侵入のために荒廃した。バーミヤーン石窟の調査は、19世紀にイギリス人探検家によってはじまった。1920年代初めからフランスが本格的な調査にとりくみ、第2次世界大戦後は欧米各国による現地調査が活発におこなわれてきた。日本の京都大学や名古屋大学の調査隊も大きな成果をあげている。
崖面全体に開かれた石窟の総数は約750。大半は、僧坊窟・僧院窟(ビハーラ窟)と祠堂窟(しどうくつ:チャイティヤ窟)で、講堂と推測される大型の石窟もあり、一大寺院遺跡であったと考えられるが、その詳細については不明である。一方、一般人の住居と思われる石窟も多数みられる。破壊された大仏像2体は、東崖中央と西崖西端にうがたれた、巨大なアーチ型の龕(がん:仏像を安置するため岩壁にほられたくぼみ)に、それぞれ安置されていた。東大仏は高さ38m、西大仏55mという巨大な立像で、仏龕の奥壁に背をつけた形で高浮彫により造形され、その上に粘土をかぶせ漆喰をかけて整形されていた。ただし、タリバーンに破壊される以前に、二大仏とも顔面がけずられ、両手は折損し、足の部分もいたんだ状態だった。とくに西の大仏立像の膝(ひざ)から下はかなりいたんでいたが、これはムガル帝国のアウラングゼーブがブハラ遠征(16世紀)の途次ここにたちよったとき、大砲をうちこんだという伝承と符合している。このほか、大座仏を安置した5つの座仏龕があるが、仏像部分ははやくにうしなわれ、ほとんど残存していない。
壁画は約50基の仏龕や祠堂窟にみられる。岩肌の上に泥土を厚くぬり、その上に漆喰をうすく上塗りして壁画の下地とし、黄土、赤土、石緑、石青などの岩絵具をもちいて描いたものである。ことに東の大仏龕天井に描かれた、四頭立ての馬車にのる太陽神を中心とした大構図はササン朝絵画の流れをくむユニークなものであり、一方、西の大仏龕の天上から側壁にかけて描かれた仏、菩薩、天人、供養者などが混然一体となっている大構図は、剥落(はくらく)・退色で欠損部分も多いが、ガンダーラ美術、グプタ朝美術などことなる様式をあわせもっていることなどが注目されていた。しかし、これら大仏龕の壁画は、二大仏の完全破壊にともなって消滅した。

祠堂窟の壁画は、おもに天井に配され、主題は千仏が主であり、菩薩あるいは仏の座像を主尊として周囲に仏像を数体ずつ配置している。その構図には円輪式、同心円式、扇形式などがあり、なかでも円輪式はバーミヤーンの壁画のうちで、もっとも特徴的な構図である。千仏のほかには涅槃図だけが描かれ、仏伝図と本生図(ほんじょうず:→ ジャータカ)および各種の経変図などはみあたらない。涅槃図7例は、いずれも小さく、釈迦(しゃか)の母、摩耶夫人(まやぶにん)が描かれている点がめずらしいが、これらもまた多くがうしなわれた。
バーミヤーンは、1998年にタリバーンに占領された。その際タリバーンの一部兵士らの砲撃によって、東大仏の顔面がふきとばされ、このとき太陽神の壁画が跡形もない状態になった。この出来事は国際世論の強い反発をまねき、タリバーン政権穏健派の文化相によって偶像破壊禁止令が出されたが、その後方針を転換。最高指導者モハマド・オマールの命をうけて2001年3月、ダイナマイトによって二大仏の完全破壊が実行されたのである。その被害は二大仏にとどまらず、壁画や塑像装飾などの大半もうしなわれ、世界に大きな衝撃をあたえた。
その後も石窟の壁画の剥落などがつづいたため、2003年7月ユネスコの世界遺産委員会(WHC)は、バーミヤーン石窟をふくむ「バーミヤーン渓谷の文化的景観と考古遺跡群」を世界遺産に登録、同時に危機にさらされている世界遺産リストにも登録した。世界遺産委員会では、さらなる遺跡破壊や劣化、略奪や不法な発掘などからの保護をうったえている。
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