ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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BSドキュメンタリー「証言でつづる現代史」世紀の外交米中接近

ウォーターゲート事件などであまり人気のないニクソンであったが、外交に関しては評価が高い。
彼の功績の一つとしてヴェトナム戦争を見事終結に導いたことがあげられる。しかしニクソンは大統領になる前から戦争に終止符を打つと約束していながら、ずるずると長引かせ周辺諸国にまで戦火を拡大したということも忘れてはならないだろう。それは負けを認めず、「名誉ある撤退」に拘り続けたことに要因があるのかもしれない。このあたりは現在のイラク情勢ともダブって見えるところでもあるのですが・・・・。the Best and the Brightestが集まるホワイトハウスがなぜ同じ過ちを繰り返すのか。不思議でなりません。

番組内容
1972年2月21日、ニクソンが米大統領として初めて中国を訪問した。東西冷戦の真っ只中での米大統領による訪中。それは、朝鮮戦争以来20年にわたる対立に終止符を打つ歴史的なできごとだった。極秘裏に準備を進めたのは、ヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官(米国)と周恩来総理(中国)。キッシンジャーの行動は、数名の大統領側近以外には一切知らされず、時に国務省をも欺いての極秘作戦だった。
世界に衝撃を与えたニクソンの訪中から35年。ここ数年、当時の外交交渉の膨大な記録が、外交文書やメモだけでなく、ニクソンやキッシンジャーの会話のテープなど、アメリカ側から次々に公開され、その全貌が明らかになってきている。
●前編「キッシンジャー訪中の舞台裏」
キッシンジャーは、訪問先のパキスタンで「胃腸を悪くして休む」と、48時間公式の場からとつぜん姿を消す。周到に仕組まれた芝居だった。極秘裏に側近らと北京に向かったキッシンジャーは、周恩来との世紀の外交交渉に臨んだ。両国首脳が、腹を探り合いながら、“極秘連絡”を取り合い、キッシンジャーが北京に降り立つまでをスリリングに描く。
●後編「キッシンジャー・周恩来会談とニクソン・毛沢東会談」
1972年2月、中国を訪問したニクソンと毛沢東の会談。毛は「哲学の話がしたい」と、政治的な話を避けつつも、ニクソンと世界情勢の共通認識を固めようと話題を導いて行った。「上海コミュニケ」の発表に至るまでの緊迫した外交交渉を描く。

★ヘンリー・キッシンジャー
①生い立ち
1923年、ドイツ・ヴァイマル共和国のフュルトに生まれる。本来の姓名はハインツ・アルフレート・キッシンガーで、父ルイス・キッシンガーは女子高で歴史と地理を教え、母パウラは富裕な家畜業者の娘。両親ともにユダヤ人である。ハインツは、1歳下の弟ヴァルターと共に幸福な少年時代を過ごしたが、1933年、ヒトラー支配のもと反ユダヤ人政策を推し進めるナチスが政権を掌握したために運命が一変した。
一家はナチスを嫌って1938年にアメリカへ移住し、1943年に同国に帰化。(ドイツに残った親類はナチに殺害された。)ニューヨーク市立大学シティカレッジを卒業後、第二次世界大戦にはアメリカ軍情報部の士官として参戦し、戦後母国ドイツに駐留した。
②政権入り
ニクソンとド・ゴールの会談に臨席するキッシンジャー(後列右から2人目)その後ハーバード大学に進学、19世紀のヨーロッパ外交史を研究し、1954年博士の学位を取得。1951年には日米学生会議に参加している。大学院在学時には指導教授であったウィリアム・エリオットの庇護を受け、世界各国の有望な若手指導者をハーバード大学に集めて国際情勢について講義や議論を行なうサマー・セミナーの幹事役となり、国内外にその後のワシントン入りにもつながる人脈を形成した。
大学院修了後はハーバードに残り、同校の政治学部で教鞭をとっていたが、外交問題評議会への参加を通じて、同時代の安全保障政策にも積極的な提言をはじめる。特にキッシンジャーはアイゼンハワー政権の採用した核政策(「大量報復戦略」)の硬直性を辛辣に批判し、のちのケネディ政権が採用する「柔軟反応戦略」のひな型ともいえる、核兵器・通常兵器の段階的な運用による制限戦争の展開を主張した。
1968年の大統領選では共和党の大統領候補指名選に立候補し、ニクソンに敗北したネルソン・ロックフェラーの外交顧問を務めていたが、ニクソン政権の誕生とともに国家安全保障担当大統領補佐官として政権中枢に入り、外交全般を取り仕切る。1971年にはニクソンの「密使」として中華人民共和国を極秘に二度訪問、周恩来と直接会談を行い、米中和解への道筋をつける。ソ連とも第一次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結するなどデタント政策を推進。さらに長らく続いていたベトナム戦争和平交渉を取りまとめ、1973年にはパリ協定調印にいたる。同年には補佐官に留任したまま国務長官に就任し、外交政策実務の全般を掌握することとなった(翌1974年、ジェラルド・R・フォード政権の成立に伴い、補佐官は退任する)。
キッシンジャーの推進したデタント政策はベトナム戦争からの脱出という短期的な意味と、米ソ二極対立という約20年間継続されてきた従来の冷戦構造に、台頭してきた中華人民共和国を新たな同次元のプレイヤーに組み入れること(「米中ソ三角関係」などとも評される)、ソ連が核戦力の面でアメリカと対等な立場にあることを明示的に認めることによって、大国間の勢力バランスを現状に即したものへと安定的に再編成するという、長期的な意味を持った戦略の組み合わせだった。中ソ対立を利用した米中国交樹立、中ソと関係改善を行ない、北ベトナムを国際的に孤立させた上で展開されたベトナム和平交渉はその代表的なエピソードといえる。
③キッシンジャーの外交
周恩来と毛沢東とともにキッシンジャーとニクソンが推進した外交の特徴はその現実主義にある。国益を外交の中心に据え、世界的なバランス・オブ・パワーに配慮しつつ、国際政治秩序をアメリカにとって受け入れられる形の安定へと導くことを目的としたものである。これは冷戦と、そしてそれが熱い形で具体化されたベトナム戦争という構図の中で、従来アメリカが基本的国策としていた孤立主義と理想主義という外交姿勢がもはや機能しなくなったことを端的に表わすものだった。
一方で、ニクソン・キッシンジャー外交は道徳問題への無関心でも知られた。一例としてあげられるのは、チリのアジェンデ政権転覆(1973年)への関与、続く親米軍事政権として知られたのピノチェト政権の国内弾圧の黙認である。1998年にピノチェトが欧州で拘束された際には、弾圧への加担者としてキッシンジャーの訴追が論じられるという事態にまで発展した。ピノチェトのチリ・クーデターについては、「われわれは、ひとつの国がその国民が無責任なせいで、共産主義化するのを無為に見ている必要はない」と述べたともされる。これに拠れば、キッシンジャーは反共主義や勢力圏の安定という自らの信念を民主主義より上位に置き、選挙によって示されたチリ国民の民意を積極的に踏みにじろうとしたとも言える。
道徳問題への無関心の与えた大きな影響としては、米国外交においてポール・ウォルフォウィッツ、リチャード・パールなどの新保守主義者の台頭を促したことがあげられる。理想主義者たちにとり、国家間のパワーバランスばかりを重視し、抑圧的で「邪悪」な政治体制のソ連とデタントを模索するニクソン・キッシンジャー外交は許容しがたいものであり、理想主義者たちは当時の米外交路線に強い不満を抱くこととなる。
フォード政権下でデタントが行き詰まり、続くジミー・カーター民主党政権下の1979年にソ連のアフガニスタン侵攻によって「新冷戦」と呼ばれる米ソの緊張が再来するに至って、デタントに強い反発を抱いていた理想主義者たちはイデオロギー的な対ソ強硬派としてロナルド・レーガン政権へと参画し、新保守主義者という立場を明確にすることとなった。
④「外交の達人」
キッシンジャーは、国家安全保障問題担当補佐官時代から国務長官(1973年8月23日指名)時代に至るまで、その独特な風貌やドイツ風のアクセント、さまざまなパーティで有名女優を同伴して登場するなどの派手なパフォーマンス、日本で「忍者外交」などと形容された神出鬼没の外交スタイル、さらにベトナム戦争和平への貢献によるノーベル平和賞受賞などといったさまざまな理由から、歴代の前任者たちとは比較にならないほど目立つ存在だった。アメリカでは今日でも「ドクター・キッシンジャー」は20世紀後半を代表する外交専門家とする認識が多数を占めている。
しかし、このような「外交の専門家」という一般的な評価は、キッシンジャーが国務長官退任後間もなく発表した著書や回想録に拠るところが大きいそのため、近年ではニクソン政権の外交構想や個々の外交案件について、公開された文書史料をもとに「外交政策の構想者・決定者は外交通としても知られた大統領・ニクソンであり、キッシンジャーはそのメッセンジャー・ボーイに過ぎなかった」とする研究も現れている[9]。しかし制度的にはどの政権においても最終決定権を握る者は大統領であり、閣僚や補佐官は大統領の手足である。こうした「キッシンジャー否定論」が出てくること自体が、いかにキッシンジャーへの高い評価が定着しているかということの証左となっているともいえる。
ニクソンとキッシンジャーは厚い信頼で結ばれていたとされるが、個人的には決して親しい友人ではなかった。ニクソンが他の側近の前でキッシンジャーのことをその出自を背景に侮蔑的に呼んだことが数回確認されており、キッシンジャー自身も「一度として二人きりで食事を取ったことはなかった」と語っている。
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