ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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天才・ユダヤと達人・日本(上).txt

以下、伊勢雅臣氏のメルマガ [メルマ!:00000115] より引用

■1.19世紀、国際社会に引きずり出された二つの民族■ 19世紀には西洋列強が近代科学による経済力と軍事力を用いて、アジア、アフリカへの勢力拡張を急速に進めていた。日本史を専攻するイスラエル・ヘブライ大学のベン=アミー・シロニー教授はこう書いている。急速に統合化が進む19世紀の世界には、一つの社会だけが全体から離れ、独自のルールにしたがって暮らしていけるような場所はなかった。それまで独自の社会に閉じこもっていた日本人が、初めて国際社会に「引きずり出された」のは、この時である。17世紀には、日本が世界に扉を閉ざす権利を問題にする者はなく、その方針に異議を唱えるだけの力を持った外国勢力もなかった。しかし19世紀になると、日本の孤立は国際秩序への侮辱とみなされ、また西洋列強も、日本の孤立を終わらせる手段を所有するようになっていた。北アメリカから東アジアへの海上ルートに位置する一国が世界との貿易を拒否することは、拡張を続ける西洋にとって許せることではなかった。
こうして日本はペリーの黒船による脅しに屈して開国したのだが、同様に国際社会に引きずり出された民族がもう一つあった。ユダヤ人である。
■2.ゲットーの中で孤立して生きてきたユダヤ人■
日本は西洋から最も遠い、海に囲まれた列島に安住して孤立を許されていたのだが、ユダヤ人は西洋社会の中に点々と浮かぶゲットーの中で孤立した生活を送ってきた。  
ユダヤ人がその故郷であるエルサレムを追われたのは、紀元66年に反ローマ蜂起を起こし、70年に鎮圧されたのがきっかけだった。ローマ人はこの間、エルサレムにいたユダヤ人の大半を虐殺または奴隷化し、その都市を破壊した。跡地には新しい都市が建設されたが、ユダヤ人の居住は許されず、彼らは千年にわたって宗教的首都であった土地から締め出された。ユダヤ人は中東の近隣諸国に移り住み、そこから地中海世界の他地域に広がり、ヨーロッパやアジアに四散していった。異境の各地で、商業的職業的な貢献と引き替えに「容認される少数派」の地位を得ようと努め、居住と労働を許された土地では成功しても、やがて迫害されては逃げ出すという、地球史上でも類を見ない放浪の民となった。土地を所有する事のできないユダヤ人は、商業を主な職業とした。商人なら財産として金を隠し持ち、危なくなればそれを持って容易に逃げ出せる。しかも世界各地に親戚や仲間を持つユダヤ人にとっては、国際貿易はうってつけの仕事だった。
中世ヨーロッパでは、ユダヤ人は町の一角に固まって暮らし、そのコミュニティーの中だけで生活していた。16世紀には法律によって、居住を町の特定区画に制限されるようになった。これをゲットーと呼ぶ。最初にゲットーが出来たのは1516年のヴェネツィアである。「ゲットー」とはイタリア語で「鋳造所」を意味するが、この地域にたまたま大砲の鋳造所があったからである。その後、ゲットーはイタリア、南フランス、ドイツの各地に登場した。同様に大半のイスラム教国でもユダヤ人は隔離され、孤立した一角に閉ざされて生きてきた。
■3.世界を驚かせたアウトサイダー■
フランス革命によって登場した「近代民族国家」という概念で、全市民が平等に国家を構成する事を理想としていたが、その中で異民族の共同体が独自のルールに従って孤立した暮らしを営む事は許されなかった。そのためにユダヤ人は独自のコミュニティの自治を放棄し、個人として西洋社会に入っていった。日本人が一つのまとまった近代民族国家として外から近代世界に引きずり込まれたのに対し、ユダヤ人は個人として内から参加したのである。そして新たに近代世界に参加したこの二種類のアウトサイダーは西洋社会を驚かせる才能を発揮した。  
金融や国際貿易を扱う技術に長けていたユダヤ人は、近代経済の要諦を素早く学びとった。文学や芸術、思想、学術の世界でも、詩人のハインリッヒ・ハイネ、作曲家のグスタフ・マーラー、画家のアメディオ・モジリアーニ、精神分析学のジーグムント・フロイト、経済学者カール・マルクスなどの天才が陸続と現れて、それぞれの分野で革命的な業績を上げた。  
日本も、1868年に明治維新を敢行すると、あっという間に郵便、鉄道、陸海軍、義務教育、新聞、銀行、近代憲法と自由選挙による国会を備えた近代国家を作り上げてしまった。  
日露戦争では、シロニー教授が「東洋の強国が西洋の強国に勝利したのではなく、むしろ近代化の進んできた日本が近代化の遅れていたロシアに勝ったというべきなのである」 と指摘したように、高速戦艦によるT字戦法という独創的な新戦術、新発明の下瀬火薬と高速高精度の砲撃技術による飛躍的な破壊力向上といった技術革新が、世界海戦史上最大の完勝をもたらした。
さらに細菌学の北里柴三郎、野口英世、化学の高峯譲吉など、開国後、半世紀足らずの間に、科学技術の分野でも世界をリードする研究が現れた。
■4.天才・ユダヤと達人・日本■
 このように同じく西洋近代社会を驚かせたユダヤ人と日本人 であったが、そのアプローチにおいては異なる特長を見せた。 日本が西洋の競争相手を凌ごうとしたのに対し、ユダヤ人は、西洋の基本教義を改め、書き直し、新たなものと取り替えようとした。日本人の業績は典型的な達人のものであり、ユダヤ人の成功の頂点には天才がいたのである。
天才と達人という違いこそあれ、ユダヤ人と日本人が新参者にも関わらず、西洋社会を驚かせるだけの実力を示せたのには、訳がある。それまでの孤立した共同体の中で、高度の知的能力を鍛えていたからである。  
ユダヤ人は昔から「書物の民」と呼ばれていた。敬虔なユダヤ教徒はほとんどの時間を宗教文書の前で過ごし、その文書やそれについての注釈書を読み、朗唱し、暗唱し、分析し、論じ、暗記する。  幼児はベート・セーフェル(書物の家)に通い、年齢が上がると青少年とともにイェシヴァ(座席)という高等教育機関に学んだ。こうした学校で教えられる文章はどれも難解だった。ヘブライ語ないしアラム語という、日常生活では話すことのない古代語で書かれているうえに、その内容は抽象的で、謎めいていて、しかも議論を求めてくる。しかしユダヤ人はそうした文章を幼児期から学び、暗記して、それについて難しい議論をすることで自身を訓練していった。
このように幼児期から鍛えられた高度な知的能力が、西洋社会における文学や芸術、思想、学術の分野に向かい、偉大な天才たちを生み出したのである。
■5.知的エネルギーの爆発■
日本人もまた孤立した世界で、高度の知的能力を磨いてきた。
中国文化は難解な外国語で書かれた複雑な書体というかたちで日本に入ってきた。しかし日本人は、驚くほどの関心を持ってそうした難解な書物を読み、理解し、習得し、数世紀のうちに中国語の書体を学び、これを採用した。しかも多数の中国語彙を日本語に吸収し、仏教と儒教という偉大な宗教的哲学的体系をも自らの思想と宗教のなかに取 り込んでいったのである。  
徳川時代(1603~1868)の日本では、多種多様な学校が花盛りだった。武家の男児はほぼ全員が幕府ないしは藩が運営する学校に入って読み書きを学んだ。これ以外にも多くの私塾があり、古典から蘭学(西洋の学問は当時こう呼ばれた)まで、さまざまな分野の知識を得ることができた。
幕末には全国で1万5千もの寺子屋や塾があったという。現在の小学校が全国で2万36百校余りであるから、学校数としては現代に匹敵する規模の教育制度がすでに展開されていた。  
嘉永年間(1850年頃)での江戸での就学率は70~86%に達していたと推定され、当時の最先進国イギリスでの大工業都市における就学率20~25%をはるかに抜く水準であった。
19世紀初めのユダヤ人と日本人は、おそらく世界でもっとも識字率の高い民族だっただろう。西洋諸国が切り開いた近代化とは、科学技術を工業生産や軍事に適用するなど、高度の知識と合理的思考を活用することだった。その知的能力をロシアや中国のように一部のごく限られた階級が独占していたのでは、国家全体の近代化はなかなか進まない。ユダヤ人と日本人は、かつての閉ざされた社会の中で教育制度を整え、そのような知的能力を多くの一般人に与えていた。
そこに蓄積されていた膨大な知的エネルギーが、ひとたび社会の扉が開かれるや、西欧社会を驚かせるほどの爆発力を見せたのである。
■6.自分たちの歴史文化への誇りを武器として■  
ユダヤ人と日本人は西洋近代社会に参加したと言っても、自らの文化伝統を捨て去って、にわか西洋人として登場したのではなかった。逆に自分たちの歴史文化への誇りを武器として 西洋近代社会に乗り込んでいった所に成功の秘訣があった。  
ユダヤ人の西欧近代社会への参加において、大きな役割を果たしたのはモーゼス・メンデルスゾーン(1729-86)であった。ロマン派の作曲家フェリクス・メンデルスゾーンの祖父にあたる人物である。 初めは伝統的なユダヤ教の教育で育ったが、その後、西洋式教育を受けて、ドイツ語、ラテン語、ギリシャ語、英語、フランス語をマスターし、ドイツ啓蒙主義の指導的人物になったが、正統的ユダヤ教から離れることはなかった。  
メンデルスゾーンは、ユダヤ人はユダヤ文化に加えて西洋文明を身につけるべきだ、両者は互いを豊かにするものだ、と主張した。同時に古代ユダヤ文化を復興することを志し、文章は古代ヘブライ語と近代ドイツ語の両方で書いた。古代ヘブライ語の復活は、続く19世紀におけるユダヤ民族復興に道を開くものであった。  独自の民族文化に閉じこもることなく、またそれを捨てることなく、自らの文化的バックボーンを堅持しながら、西洋近代社会に参加するという姿勢は、その後のユダヤ人の生き方に大 きな影響を与えた。
ドイツ文学史最高の詩人と言われるハインリッヒ・ハイネは27歳にしてルター派の洗礼を受けてキリスト教徒となったが、終生ユダヤの出自を誇りとしていた。  
20世紀最大の理論物理学者と目されるアルベルト・アインシュタインもユダヤ人であることを誇りとし、イスラエルの地(パレスチナ)にユダヤ民族国家を再建しようとするシオニストでもあった。■7.変化の正統性を古代に求めた復古運動■  
メンデルスゾーンの主張は、日本での「和魂洋才」の考えに通ずる。日本人もまた「和魂」という日本文化のバックボーンを維持しつつ、「洋才」という西洋近代文明を取り入れようとしたのである。  慶応4(1868)年3月14日、京都紫宸殿で明治天皇が「五カ 条の御誓文」を神明に誓った。明治維新の精神を謳った御誓文 であるが、その第5条には「智識を世界に求め、大いに皇基を 振起すべし」とあった。「智識を世界に求め」て西洋近代文明 から学ぶことで、「皇基(皇国の基)」を振るい起こすことが できる、というのである。
そもそも明治天皇が神に誓う、という形式そのものが、日本の政治の原初的な姿を表したものであった。そして、そこから目指された「明治維新」も、過去を否定した「革命」ではなく、あくまで「維新」("Restoration"、復古)なのであった。
シオニストと明治の指導者たちは、どちらも古い過去を蘇らせることで近代国家を建設しようとした。シオニストは、異境で迫害され続けた直近の過去を拒絶して、ユダヤ人が政治的主権を持っていた聖書の時代を志向した。明治の指導者たちは、封建制をとっていた直近の過去を拒絶して、天皇が名実ともに支配者とされていた千年前の平安時代初期を目指した。このように、シオニズムも日本の民族主義も、変化の正統性を古代に求めた復古運動だったのである。■8.自らの歴史文化への誇り■  
自らの伝統文化を忘れ、即席の西洋人になりきって近代西洋文明を学んだのでは、それに追いつくことはできても、達人として本家を凌駕したり、あるいは天才として新しい領域を切り開くことはできない。  
天才・ユダヤと達人・日本が新参のアウトサイダーとして近代西欧文明に参加しながら、驚くべき成功を収めたのは、それぞれの歴史と文化を誇りとするバックボーンを堅持していたからであった。 同時に、各人がいくら西洋文明から学んでも、それを個人的利益のためだけに使おうとしたのでは、全体のパワーにつながらない。民族の歴史と文化への誇りは、各自がその共同体の一員であるとの同胞意識を生み、民族全体の発展のために尽くそうという「志」を育む。ユダヤ人と日本人の近代世界における成功は、同胞意識に基づく志の結果でもあった。  
ユダヤ人と日本人がそれぞれの孤立した世界で展開していた教育は、高度な知的能力と共に、自らの歴史伝統への誇りと愛情を育んでいたのである。
(文責:伊勢雅臣)
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