ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

本能寺の変の秀吉黒幕説.txt

録画していた『天下統一!三武将スペシャル 信長 秀吉 家康 ~真のリーダーは誰か!?』をやっと見る。最近多い面白おかしく系の歴史番組と思いきや・・・・。
これが時代考証もしっかりしており(素人観測だが)、断定的な黒幕説や陰謀論もなく見応えがあった。
本能寺は寺ではなく、寺を要塞化したものということがある程度発掘調査により証明されたようだ。

★本能寺
2007年のマンション建設に伴う遺構調査では、本能寺の変において焼けたと思われる瓦や、「能」の旁が「去」となる異体字がデザインされた丸瓦が、堀跡のヘドロの中から見つかっている。石垣や堀が周囲に廻らされていたことから、信長は本能寺にある程度の防御機能を持たせていたことを覗わせる。

★本能寺の変の黒幕説
秀吉が信長を暗殺した本能寺の変の黒幕ではないかとされる説が、近年浮上している。その説の根拠は秀吉の必要ない信長に対する援軍要請である。秀吉は備中高松城攻めのとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らが高松城の救援に出てきたため、信長に苦境を訴えて援軍を要請した。当時、東の脅威であった武田勝頼を滅ぼしていた信長は、毛利氏を滅ぼす機会と捉えてこれを承諾し、援軍として明智光秀を派遣することを命じた。
ところが当時の毛利氏は、相次ぐ対外戦争で財政的に破綻寸前にあった上、豊後の大友宗麟や山陰の南条元続らの侵攻も受けていたため、高松城救援に出向いた兵力は1万5000人ほどでしかなく、3万を数える羽柴軍の半分ほどでしかなかった。このため、秀吉は単独でも毛利軍と戦うことは可能だったのである。さらに秀吉は、信長に援軍要請を行なった頃から、毛利方と密かに和睦交渉を行なっていた節がある。
では、なぜこのような要請を行なったのかと言えば、当時の信長は三職補任問題や皇位継承問題などで朝廷と頻繁に交渉していたため、京都に上洛する必要があった。明智光秀は俗説では近衛前久と通じて信長暗殺計画を謀っていたとされているが、本能寺に滞留している信長を討つ場合、ひとつだけ大きな問題があった。それは、軍勢を集める理由である。何の理由も無く軍勢を集めれば、たちまち信長に謀反と見なされて逆に討伐される可能性があった。ところが、秀吉の必要ない救援要請で援軍に赴くように命じられたため、信長に疑われること無く軍勢を集め、その軍勢で光秀は京都の信長を討ち果たしているのである。
光秀が近衛前久と内通していたという説があるように、秀吉も当時の朝廷の実力者である大納言の勧修寺晴豊あたりと内通しており、その筋から光秀の謀反計画を知り、わざわざこのような要請を行なったのではないかと思われる。ちなみに光秀の死後、近衛前久は秀吉から光秀との結託を疑われたが、なぜか晴豊は疑われていない(ちなみに晴豊は、光秀が信長を殺した後に光秀への使者を務めた吉田兼和とも懇意にあった)。さらに、秀吉の中国大返しに関しても、如何に秀吉が優秀な武将だったとはいえ、あの速さは事前に用意をしていなければ疑問が残るところも多い。この研究も待たれるところである。
スポンサーサイト

コメントの投稿

URL
コメント
パスワード
秘密
管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://historia1492.blog98.fc2.com/tb.php/210-cc04ad7a
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。