ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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カルタゴの天才武将ハンニバル・バルカ②.txt

ハンニバル・バルカ(紀元前247年 - 紀元前183年)
カルタゴの高名な将軍である。ハミルカル・バルカの長子。
歴史上で彼は第二次ポエニ戦争を開始した人物とされており、ローマ史上最大の敵として後世まで伝えられた。また現在でも、彼は歴史上で最も偉大な戦術家の一人として高く評価されている。
①少年期
第一次ポエニ戦争でシチリアをローマに奪われると、父・ハミルカルは当時未開であったイベリア半島の植民地化政策に乗り出す。そして「カルタゴ・ノヴァ」を建設、イベリア人諸部族をまとめて軍隊を養成した。ティトゥス・リウィウスによると、ハンニバルが父に同行を願い出た際に父はハンニバルをバアル神の神殿に連れて行き、息子に一生ローマを敵とする事を誓わせたという。ハミルカルの死後は、ハミルカルの娘婿であり、ハンニバルにとっては義理の兄にあたるハスドルバルのもとで少年期を過ごす。
②ハンニバル戦争
アルプス山脈を越えるハンニバルの軍紀元前221年にハスドルバルが暗殺されるとハンニバルは軍隊に司令官として指名され、カルタゴから承認を受ける。そしてイベリア半島の指揮を取り、エブロ川南方の制圧に着手した。当時カルタゴはローマとエブロ川を境界に相互不可侵条約を結んでいたが、ハンニバルの力を恐れたローマはエブロ川南方にある都市ザグントゥムと同盟関係を結び彼の侵出を阻止しようとする。しかし彼はザグントゥムを包囲攻撃、8ヶ月後に陥落させる。ローマはハンニバルの行動を条約違反としてカルタゴ政府に懲罰を要求したが、ハンニバルの絶対的な人気の前に、カルタゴ政府は彼に対して何も手を打たなかった。
紀元前218年にハンニバルは5万の兵と37頭の象を率い、途中で遭遇するガリア人を懐柔あるいは服従させつつピレネー山脈を越える。そして制圧した彼等を配下に加えつつ西進、ローマが彼の進路に気付くころにはすでにローヌ川付近にまで近付いていた。ローマ軍に発見されるも所在をくらましてアルプス山脈を越える。この時のルートは詳しくは分かってはおらず、現在でも歴史家の間で意見が異なっている。ついにハンニバルはイタリアへ進軍し、ローマの元老院を驚愕させる。第二次ポエニ戦争(別名、ハンニバル戦争:紀元前218年~紀元前201年)の始まりであった。
③カンナエの戦い
紀元前216年になって執政官にガイウス・テレンティウス・ウァロとルキウス・アエミリウス・パウルスが当選した。中でもファビウスの戦法に不満を持つウァロはハンニバルに対して果敢に立ち向かってゆく。ウァロはローマ軍を増強し、同盟都市からも兵を募って、ハンニバルのいるアプーリアへ南進した。しかしハンニバルはウァロの性急さを逆手に取り、カンナエの戦いでローマ軍を完膚なきまでに叩き潰す。50,000から70,000人のローマ兵士が戦死あるいは捕虜になった。執政官パウルスは戦死、次期執政官に内定していた者2名も戦死、2人のクァエストル、48人のトリブヌス・ミリトゥムも戦死、ローマは一度の戦闘で指導者層の25%を失うという過去に例がないほどの完敗を喫した。これ以降ローマはハンニバルに対しては消極的な戦法に徹する事になる。
勝利したカルタゴ側ではこの勝利の余勢を駆って一気にローマを攻略すべきだという意見があり、とくに騎兵隊長のマハルバルが強く進言するが、ハンニバルは攻城兵器や兵站の不足という戦略上の理由から首都ローマに進軍せずにローマ同盟都市の離反を図る事を選択する。この時マハルバルは「あなたは勝利を得る事ができるが、それを活用する事は知らない」と言ったという。
ハンニバルは紀元前216年にカプアを、紀元前212年にタレントゥムを離反させ、シチリア島のギリシア人都市を反乱させるなど成果を挙げたが、それらごく一部を除いて目立った成果を上げられず、以後イタリア半島では一進一退の膠着状態が続く。その中でシラクサのヒエロニモスと同盟、カルタゴ本国に補給を要求するも、カルタゴ政府はこの戦争に対して、はじめは日和見の立場を取り、制海権をローマに握られているせいもあってハンニバルは本国との連携をうまく取ることが出来なかった。現在の戦史論議においても、カルタゴからの物資援助があればハンニバルはローマを直接攻撃できたのではないかと指摘されている。
④ローマ側の反撃、スキピオ登場
ファビウスの戦法が効果を発揮し、ハンニバルの行動はカンパニア領内に封じ込められるようになってきた。しかし紀元前215年にハンニバルはアンティゴノス朝マケドニアのフィリッポス5世とも同盟を結び、ローマを内外から圧迫してゆく。
だがローマはハンニバルを国内に抱え込みつつ国外の敵対勢力を撃破してゆく。紀元前211年に大スキピオによってハンニバルの本拠地であるイベリア半島を攻略し、他方ギリシアのアエトリア同盟とも結託して東方マケドニアのフィリッポス5世の押さえとする。
対するハンニバルは紀元前210年アプリアに進撃するが、同年タレントゥムを失ってしまう。また紀元前208年にはロクリを攻略するローマ軍を蹴散らし、執政官マルクス・クラウディウス・マルケッルスを戦死させるものの、やはりタレントゥムの損失は大きく補給のおぼつかない彼の行動地域は制限を受けてしまう。さらにローマがルカニア地方、サムニウム地方を取り戻すと南イタリアでの彼の戦略的な主導権は奪われてしまう。
紀元前207年にハンニバルは再度北上しアプリア地方を制圧、ここでイベリア半島から西進する弟・ハスドルバルの支援を待ったが、ハスドルバルはその途次、メタウルスの戦いで戦死してしまう。さらにハンニバルと行動を共にしていた弟・マゴのリグリア攻略失敗、またフィリップ5世との連携失敗などによって、南イタリアでの主導権回復の術を失う。このようにローマは彼の指揮下にない敵対勢力を徐々に削り取っていった。
ハンニバルがアプリア地方に囲い込まれる中、ローマではヒスパニアで功績を挙げた大スキピオが攻勢に転じようと試みていた。シチリア島を占拠後、彼は志願兵を募りここを拠点にしていたが、カンナエの戦いの失敗から攻勢への転換を自重する元老院は、スキピオに渡航許可を与えなかった。しかし、ようやく元老院の許可(実際は黙認)が出てスキピオはアフリカに渡航する。いきなりハンニバルを無視して現れた敵にカルタゴ政府は驚き、ヌミディア王国のシファクス率いる騎兵を援軍として戦うが敗北してしまう。
この敗戦に狼狽したカルタゴ政府は態度を一変してローマとの休戦交渉とハンニバルの召還との両方を画策、一見休戦交渉は成立するか見えたが、ハンニバル召還の連絡によって休戦交渉は突如反故となり、カルタゴ政府は外交上致命的な失敗を犯してしまう。
ともあれ紀元前203年ハンニバルは十数年ぶりに故国カルタゴに戻ってくる事となった。
この時彼が引き連れてきた兵士とはどこの兵士だったのかということについては現代の歴史家でも異論がある。ハンニバルを擁護する者はイベリア半島からの歴戦の兵士たちは長い戦役でほとんど絶えてしまい、南イタリアで現地採用したイタリア人を連れて来ざるを得なかったと言い、スキピオ贔屓の者はイタリアでの戦役での損失は主に現地採用兵であったので彼は自らの精鋭部隊をアフリカへ連れてくる事ができたと言っている。
カンナエの戦い
⑤カンナエの戦い
紀元前216年になって執政官にガイウス・テレンティウス・ウァロとルキウス・アエミリウス・パウルスが当選した。中でもファビウスの戦法に不満を持つウァロはハンニバルに対して果敢に立ち向かってゆく。ウァロはローマ軍を増強し、同盟都市からも兵を募って、ハンニバルのいるアプーリアへ南進した。しかしハンニバルはウァロの性急さを逆手に取り、カンナエの戦いでローマ軍を完膚なきまでに叩き潰す。50,000から70,000人のローマ兵士が戦死あるいは捕虜になった。執政官パウルスは戦死、次期執政官に内定していた者2名も戦死、2人のクァエストル、48人のトリブヌス・ミリトゥムも戦死、ローマは一度の戦闘で指導者層の25%を失うという過去に例がないほどの完敗を喫した。これ以降ローマはハンニバルに対しては消極的な戦法に徹する事になる。
勝利したカルタゴ側ではこの勝利の余勢を駆って一気にローマを攻略すべきだという意見があり、とくに騎兵隊長のマハルバルが強く進言するが、ハンニバルは攻城兵器や兵站の不足という戦略上の理由から首都ローマに進軍せずにローマ同盟都市の離反を図る事を選択する。この時マハルバルは「あなたは勝利を得る事ができるが、それを活用する事は知らない」と言ったという。
ハンニバルは紀元前216年にカプアを、紀元前212年にタレントゥムを離反させ、シチリア島のギリシア人都市を反乱させるなど成果を挙げたが、それらごく一部を除いて目立った成果を上げられず、以後イタリア半島では一進一退の膠着状態が続く。その中でシラクサのヒエロニモスと同盟、カルタゴ本国に補給を要求するも、カルタゴ政府はこの戦争に対して、はじめは日和見の立場を取り、制海権をローマに握られているせいもあってハンニバルは本国との連携をうまく取ることが出来なかった。現在の戦史論議においても、カルタゴからの物資援助があればハンニバルはローマを直接攻撃できたのではないかと指摘されている。
⑥ローマ側の反撃、スキピオ登場
ファビウスの戦法が効果を発揮し、ハンニバルの行動はカンパニア領内に封じ込められるようになってきた。しかし紀元前215年にハンニバルはアンティゴノス朝マケドニアのフィリッポス5世とも同盟を結び、ローマを内外から圧迫してゆく。
だがローマはハンニバルを国内に抱え込みつつ国外の敵対勢力を撃破してゆく。紀元前211年に大スキピオによってハンニバルの本拠地であるイベリア半島を攻略し、他方ギリシアのアエトリア同盟とも結託して東方マケドニアのフィリッポス5世の押さえとする。
対するハンニバルは紀元前210年アプリアに進撃するが、同年タレントゥムを失ってしまう。また紀元前208年にはロクリを攻略するローマ軍を蹴散らし、執政官マルクス・クラウディウス・マルケッルスを戦死させるものの、やはりタレントゥムの損失は大きく補給のおぼつかない彼の行動地域は制限を受けてしまう。さらにローマがルカニア地方、サムニウム地方を取り戻すと南イタリアでの彼の戦略的な主導権は奪われてしまう。
紀元前207年にハンニバルは再度北上しアプリア地方を制圧、ここでイベリア半島から西進する弟・ハスドルバルの支援を待ったが、ハスドルバルはその途次、メタウルスの戦いで戦死してしまう。さらにハンニバルと行動を共にしていた弟・マゴのリグリア攻略失敗、またフィリップ5世との連携失敗などによって、南イタリアでの主導権回復の術を失う。このようにローマは彼の指揮下にない敵対勢力を徐々に削り取っていった。
ハンニバルがアプリア地方に囲い込まれる中、ローマではヒスパニアで功績を挙げた大スキピオが攻勢に転じようと試みていた。シチリア島を占拠後、彼は志願兵を募りここを拠点にしていたが、カンナエの戦いの失敗から攻勢への転換を自重する元老院は、スキピオに渡航許可を与えなかった。しかし、ようやく元老院の許可(実際は黙認)が出てスキピオはアフリカに渡航する。いきなりハンニバルを無視して現れた敵にカルタゴ政府は驚き、ヌミディア王国のシファクス率いる騎兵を援軍として戦うが敗北してしまう。
この敗戦に狼狽したカルタゴ政府は態度を一変してローマとの休戦交渉とハンニバルの召還との両方を画策、一見休戦交渉は成立するか見えたが、ハンニバル召還の連絡によって休戦交渉は突如反故となり、カルタゴ政府は外交上致命的な失敗を犯してしまう。
ともあれ紀元前203年ハンニバルは十数年ぶりに故国カルタゴに戻ってくる事となった。
この時彼が引き連れてきた兵士とはどこの兵士だったのかということについては現代の歴史家でも異論がある。ハンニバルを擁護する者はイベリア半島からの歴戦の兵士たちは長い戦役でほとんど絶えてしまい、南イタリアで現地採用したイタリア人を連れて来ざるを得なかったと言い、スキピオ贔屓の者はイタリアでの戦役での損失は主に現地採用兵であったので彼は自らの精鋭部隊をアフリカへ連れてくる事ができたと言っている。
⑦エピソード
先のカプア出土の胸像を元に19世紀に描かれたハンニバル像ザマの戦いから数年後、エフェソスに亡命していたハンニバルは使節として同地を訪れたスキピオと再会し、しばし言葉を交わしたというエピソードがティトゥス・リウィウスによって伝えられている。スキピオが史上もっとも偉大な指揮官は誰かと問いかけると、ハンニバルは「第1にアレクサンドロス大王、第2にエペイロスのピュロス、そして第3に自分だ」と答えた。スキピオが重ねて「ザマの戦いで自分を破っていたら」と問うと、「アレクサンドロスを越えてわたしが史上第一の指揮官になっていた」と率直に答えたという。
実際、スキピオはハンニバルを破ったものの、その戦法(騎兵の後方機動による包囲殲滅)はハンニバルの模倣であり、ハンニバルのほうがスキピオよりも優れた戦術家である事は、両者ともに認めていたと思われる。
ただしこのエピソードはリウィウスの伝える話であるため、真実性を疑う声も多い。
もっとも、ハンニバルの用いた包囲殲滅戦法は現代の陸軍士官学校でも必ず教材として使われる程に完成度の高いものであり、ハンニバルが戦術を研究する際にピュロスやアレクサンドロス大王を参考にしていたとしても、現代においては彼らに対する戦術家としての評価はすでに逆転していると言える。
⑧その他
ラテン語に「戸口にハンニバル(Hannibal erat ad portas.)=危険が迫っている!」という格言がある。転じて、イタリアでは今でも子供が悪い事をすると「ハンニバルが来てあなたを連れて行ってしまうよ!」と叱ることがある。ハンニバルがいまだに恐怖の代名詞となっていることが伺われる。他方、ローマ人に制圧されてきた国では、カルタゴの後裔であると否とを問わず、ハンニバルを英雄とたたえる場合がある。
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