ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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カルタゴの天才武将ハンニバル・バルカ①.txt

ハンニバル・バルカ(BC247~183)

塩野七生氏の人物評
ローマ撃破を目指し、象を連れてのアルプス越えを敢行した30才にも満たない若者が、断じて優れていたものは、情報の重要性に注目したこと。
冒険ではあっても、冷徹な計算のうえに立って、実行された冒険であって、前人未踏の偉業に挑みながらも、熱い思いで目と頭を曇らせるようなことはしなかった。
情報を収集し、冷静に分析し、敏速に行動する能力で群を抜いていたハンニバルだから、多くのことは、それ自体では不可能に見える。だが、視点を変えるだけで、可能事になりうると断言できたのだろう。
優れてたリーダーとは、優秀な才能によって人びとを率いていくだけの人間ではない。
率いられていく人々に、自分たちがいなくては、と思わせることに成功した人でもある。

I プロローグ
カルタゴの将軍。ハミルカル・バルカスの長男。前218~前217年に、カルタゴ軍をひきいてスペインからアルプスをこえたローマへの進撃は、戦史にのこる偉業とされている。
9歳のとき、カルタゴ軍の指揮をとる父に同行してスペインにわたった。出発の前に、少年ハンニバルは宿敵ローマに対する永遠の憎しみをちかったという。父の死後、18歳から25歳までは、義兄ハスドルバルとともにイベリア半島でカルタゴ領拡大に活躍したが、前221年に義兄が暗殺されると、カルタゴ軍の将軍にえらばれた。2年後、ハンニバルはスペインの大半を征服し、さらに8カ月かけてスペイン東部のローマの同盟市サグントゥム(現サグント)を占領した。
ローマはこの行動をカルタゴ、ローマ間の条約違反とみなし、ハンニバルの引き渡しを要求したが、カルタゴは拒否した。ローマはカルタゴに宣戦布告し、前218年、第2次ポエニ戦争がはじまった。

II アルプス越え
ローマへの進撃は前218年4月にはじまった。スペインを出発したとき、彼には4万人の兵士がしたがっていた。カルタゴ軍には、騎兵のほか多くの象もふくまれていた。象は荷物をはこぶだけでなく、のちには戦闘にもつかわれた。カルタゴ軍はピレネー山脈をこえ、ローヌ川をわたり、それから15日をかけて冬のアルプスをこえた。吹雪や土砂崩れ、山岳民族の襲撃にあいながらの苦難の進軍だった。北イタリアに侵入すると、それまでの長い行軍中にうしなった1万5000人の兵力をおぎなうために、ガリア人傭兵をやとい、周辺諸部族と同盟した。
ハンニバルはまず、ティキヌスの戦でローマ軍を敗北させ、さらに12月のトレビア川の戦でもローマ軍をやぶった。翌年には、トラシメヌス湖畔でローマ軍を急襲した。これらの勝利のあと、アペニノ山脈をこえ、ローマ領内に侵入した。
ローマの将軍ファビウスは、ハンニバルに対して慎重で巧妙な作戦にでた。カルタゴ軍との決定的な衝突をさけながら、少しずつハンニバルの焦りをさそい、その間にローマが軍事的な劣勢からたちなおるのをまった。しかし前216年、ハンニバルはカンネーの戦で徹底的にローマ軍を撃破した。ローマ軍の死者は5万人以上にのぼり、カルタゴ軍は約6700人だった。
しかし、カンネーの戦のあと、戦争の様相はかわりはじめた。ハンニバルは武器も不足してきた軍隊の補強を本国に要請したが、ききいれられなかった。ネアポリス(現ナポリ)をおとせなかったハンニバルは、カンネーの戦でかちとったイタリア同盟都市のひとつで裕福な町カプアで前216年からしばらく時をすごし、新たな展開の機会をまった。そして、前211年にローマ攻略をくわだてたが、ローマ人の抵抗にあって攻略できなかったばかりでなく、カプアの町をとりかえされてしまった。
イタリア第2の都市カプアをうしなったことは、他の同盟都市の忠誠心をうしなうことでもあった。もはや同盟都市から兵士を補充するという期待はもてなくなった。膠着(こうちゃく)状態が4年つづき、弟ハスドルバルがスペインから救援にかけつけたが、ハンニバルと合流する前に北イタリアでやぶれ戦死してしまった。

III ローマの勝利
戦争開始から15年たった前203年、カルタゴ本国の戦況は悪化し、ハンニバルはアフリカによびもどされ、スキピオ(大)ひきいるローマ軍の攻撃から本国を防衛する指揮をとった。しかし翌年のザマの戦ではカルタゴ軍のわかい兵士たちが逃亡し、その多くがローマ軍についてしまった。カルタゴはついにローマに降伏し、第2次ポエニ戦争はおわった。
前201年にローマとの和平は成立したが、ハンニバルは戦争再開の準備にとりかかっていた。彼は行政長官になり、憲法を改定し、政治腐敗をなくし、財政をたてなおした。しかしローマは、ハンニバルが平和をやぶろうとしていると非難し、ハンニバルは、シリアのアンティオコス3世のもとにのがれた。そこでシリア艦隊を指揮してローマとたたかったが、前190年、マグネシアの戦で敗北した。ローマはハンニバルの引き渡しを要求し、彼は小アジア北部、ビテュニアのプルシアス王のもとにのがれたが、ローマの追及はやまず、その地で服毒自殺した。
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