ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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三方ヶ原の戦いで脱糞した?徳川家康.txt

三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(1573年1月25日)、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった、武田信玄と徳川家康との戦いのことである。信玄の上洛の過程での合戦といわれ、徳川軍1万1000(うち、織田氏からの援軍3000)、武田軍2万5000の軍勢が戦い、武田軍が勝利した。武田勢は余勢を駆って遠江・三河の諸城を攻撃するものの大将の信玄が発病したために上洛は中止され、甲斐国へ帰還中に信玄は病死した。
◎概観
当時、甲斐の戦国大名・武田信玄のもとに、信長の傀儡政権と化していた室町幕府将軍・足利義昭から数度にわたり、上洛の要請、信長征討の御教書が届いていた。これに応じ兵を動かしたが、上洛が目的かは意見が分かれている。
この戦いで家康は討ち死に寸前まで追いつめられるが、追撃を振り切り浜松城に一騎で逃げ帰った。このあと全ての城門を開き、篝火を焚き「空城の計」を行う。これに対し、伏兵がいるのではないか、との疑念を持った信玄は城内突入をためらい、家康は九死に一生を得た。その夜家康は何とか一矢報いようと野営中の武田勢を奇襲、犀ヶ崖の絶壁に次々と転落させている。この惨敗において家康は、夏目吉信、鈴木久三郎らを身代わりの憤死により失い、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といったわずかな供回りを連れて浜松城へ引き上げた。途中恐怖のあまり馬上で脱糞したと言われている。
この敗戦時に描かせた、苦渋の表情の肖像画(「顰像」と言われる)が残されているが、これは家康にとって、軍略の重要性を自らの戒めにするため、と解釈することもできる。そして、城に籠もる相手方を出陣させて野戦に持ち込むという手法は、関ヶ原で家康自身により再現される(ただし、このような敵を城からおびき出して野戦で決戦を挑む戦法は、信長が得意としていた戦法でもあり、そこから家康が学んだとも考えられ、また,三方ヶ原の敗戦もひとつの教訓にしたともいえる)。
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