ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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伊達政宗が派遣した「慶長遣欧使節団」(支倉常長).txt

以下、「その時歴史が動いた」のサイトより抜粋引用。

戦国の世も終わりを告げる頃、奥州の覇者として頭角を現した武将、伊達政宗。政宗は、東北の地にあって天下への野心を抱き続けた。しかし、政宗の前に、次々と強敵が立ちはだかる。
まずは九州平定を終えて天下統一の総仕上げに取りかかっていた豊臣秀吉。政宗は、秀吉に領土のほとんどを奪われた。新たに与えられたのは荒れ果てた土地。しかしその地で、政宗は豊富に産出されるな金や鉄に出会い、力を蓄え続けた。
ところが次には江戸幕府を開いた徳川家康が、政宗の行く手を阻んでいく。家康によって次第に経済力を奪われ、窮地に追い込まれる政宗。政宗は海外に目を向け、ヨーロッパの強国スペインとの通商によってみずからの財政の立て直しを図ろうとした。その交渉のために、支倉常長率いる慶長遣欧使節団の派遣に踏み切る。
さらに、政宗のそば近くにいたスペイン人宣教師がスペイン宰相へ宛てた書簡からは、政宗が使節派遣に賭けたもう一つの狙いが浮かび上がってきた。それは、幕府によって迫害を受ける日本のキリシタン30万人の力をバックに幕府を倒し、自ら天下人なるという政宗の構想だった。政宗は、慶長遣欧使節団に最後の夢を託したのである。


①政宗の金の保有量
慶長3年の「豊臣氏収納金運上高」について記した山口啓二『幕藩制成立史の研究』にもとづき作成。
これによれば、政宗の金の運上枚数は700枚で、越後の上杉に次ぐ数。このことから、政宗が金を保有する全国でも指折りの大名であったとコメント。
②江戸城の石垣工事で27億円の出費を課せられたことについて
元和6(1620)年の江戸城石垣工事の際の出費、約2万7千両(『伊達治家記録』『仙台市史』の記述より)を、現在の貨幣価値に換算。日本銀行貨幣博物館の試算では、江戸時代初期、金一両の価値がおよそ10万円であったと考えらる。それにもとづき、現在の価値でおよそ27億円の出費を課せられたとした。
③仙台藩の収入を89億円とした根拠について
元和6(1620)年の仙台藩の石高、61万5千石を基準に、年貢率を4公6民、米一石を銀18匁、銀1匁を金一両の50分の1、金一両の現在の価値をおよそ10万円として計算した結果、89億円とした。
④江戸での普請が続いた頃の政宗の言葉
「とかく年々、幕府からの普請の沙汰が続き、藩の財政が苦しい」
政宗が家臣の茂庭石見綱元に宛てた書状(仙台市博物館蔵)から一部引用、意訳。
⑤ソテロがスペイン宰相に送った書簡について
「政宗は、迫害を受けている日本の30万人のキリシタンの力を得て幕府を倒し、みずから皇帝となって帝国を築こうとしている」

★支倉常長
元亀2年(1571年) - 元和8年7月1日(1622年8月7日))は江戸時代初期の武士である。伊達政宗の家臣。慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、ローマでは貴族に列せられた。
仙台藩士。山口常成の子で支倉時正の養子となる。幼名は与市・六右衛門長経、洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。時正に実子が生まれたため家禄1200石を二分し、600石取りとなる。文禄・慶長の役に従軍して朝鮮に渡海、足軽・鉄砲組頭として活躍した。また大崎・葛西一揆の鎮圧にあたった武将の一人としてもその名が記録されている。
慶長14年(1609年)、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)への帰途台風に遭い、上総国岩和田村(現在の御宿町)の海岸で座礁難破した。地元民に救助された一行に、徳川家康がウィリアム・アダムスの建造したガレオン船を贈りヌエバ・エスパーニャへ送還した。この事をきっかけに、日本とエスパーニャ(スペイン)との交流が始まった。
そして伊達政宗の命を受け、支倉常長はエスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ(Luis Sotelo)を正使に自分は副使となり、遣欧使節として通商交渉を目的に180人余を引き連れローマに赴くことになった。石巻で建造したガレオン船サン・フアン・バウティスタ号で慶長18年9月15日(1613年10月28日)に月ノ浦を出帆し、ヌエバ・エスパーニャ太平洋岸のアカプルコへ向かった。アカプルコから陸路大西洋岸のベラクルスに、ベラクルスから大西洋を渡りエスパーニャ経由でローマに至った。
支倉常長の行程1615年1月30日(慶長20年1月2日)にはエスパーニャ国王フェリペ3世に、同11月3日(元和元年9月12日)にはローマ教皇パウルス5世に謁見するが通商交渉は成功せず元和6年8月24日(1620年9月20日)、帰国した。
政宗の期待のもと出国した常長ではあったが、出国直後から日本国内でのキリスト教環境は急速に悪化した。常長の帰国後の扱いを危ぶむ内容の政宗直筆の手紙が残されている。果たして帰国時には日本ではすでに禁教令が出されており、失意のうちに死んだ。寛永17年(1640年)、息子の常頼が召使がキリシタンであったことの責任を問われて処刑され、支倉家は断絶した。
寛文8年(1668年)、常頼の子の常信の代にて赦され家名を再興することが出来た。仙台藩においては主命により引き起こされた事態であるため、忸怩たる物があったようだ。
常長の墓といわれるものは宮城県内に3ヵ所存在する。仙台市青葉区北山にある光明寺、常長の生まれ故郷とも言える川崎町支倉地区の円福寺、そして大郷町に存在する。

常長らが持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」は仙台市博物館に所蔵されており、平成13年(2001年)に国宝に指定されている。その中には常長の肖像画があり、日本人を描いた油絵としては最古のものとされる。資料の中に名をfaxikuraとつづった部分があり、当時ハ行を唇音で発音していた証拠となっている。また、常長自身が記録した訪欧中の日記が文化9年(1812年)まで現存していたが、現在は散逸しており幻の史料となっている。
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