ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ヤマト政権による国家統一の礎を築いた継体天皇.txt

1500年前の倭国。ヤマト政権は、皇位継承をめぐる豪族たちの争いで混迷を深めていた。そうした中、越前の地にいた王族が天皇位につく。第26代・継体天皇である。越前から近江にかけてを地盤とした継体天皇は、朝鮮半島との交易や鉄生産など、強固な経済的基盤を背景にしてヤマトの豪族たちに迎えられた。継体天皇はそれまでの天皇とは異なり、ヤマトの中枢には入らずに淀川沿いに王宮を構えて港づくりを展開する。それは、朝鮮半島との外交ルートを強化し、国家統一のために必要な大陸の先進の知識を導入するためだった。
しかし、継体天皇が国家統一にむけて動き出したまさにその時、目の前に大きな敵が立ちふさがった。筑紫君磐井(つくしのきみいわい)率いる九州の豪族たちが、独立のために反旗を翻したのだ。ヤマト政権をゆるがすこの危機に、継体天皇は豪族たちの力を結集して立ち向かった。
25年の治世で、ヤマト政権による国家統一の礎を築き上げた継体天皇。即位から1500年を迎えたいま、謎多きその実像が衆目を集めている。


☆継体天皇(けいたいてんのう、允恭天皇39年(450年)? - 継体天皇25年2月7日(531年3月12日))は第26代の天皇(在位:継体天皇元年2月4日(507年3月5日) - 同25年2月7日(531年3月12日))。オホド王。継体天皇以降、大和の勢力と越前や近江など北方の豪族の勢力が一体化し、ヤマト王権の力が国内で強くなった。また天皇家の系譜として伝わるものは彼以降はほぼ正確であるとされる。しかし継体の出自に関しては諸説ある。
別名として伝わるのは『古事記』に袁本杼命(おおどのみこと)、『日本書紀』に男大迹王(おおどのおおきみ)、彦太尊(ひこふとのみこと)、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(おおどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(おおどのおおきみ)。なお、隅田八幡宮(和歌山県橋本市)蔵の人物画像鏡銘(443年説と503年説)に見える「孚弟王(男弟王?)」は継体天皇を指すとする説がある)。
①生涯
『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の孫であり、父は彦主人王。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが幼い時に父を亡くし、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で成長した。『日本書紀』によれば506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、大連(おおむらじ)・大伴金村らは越前に赴いて男大迹王を大王に推戴した。これを承諾した王は翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)で即位。武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。526年、大倭(後の大和国)に都をおいた。その直後、継体は百済救援の軍を送ったが新羅と結んだ磐井により九州北部で九州で磐井の乱が勃発し、その平定に苦心している(磐井の乱については諸説ある)。
しかしこの記述が事実とすれば、継体は507年に即位してから大和に都をおくまで約20年かかっており、天皇家周辺で何らかの混乱があったとする見方もある。531年に後継を皇子の勾大兄に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位(安閑天皇)と同日に崩御したという。また『日本書紀』は『百済本記』(「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞?城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」)を引いて天皇及び太子、皇子が同時に死んだという説を紹介しており、何らかの政変によって殺害されたとの見方もある(「辛亥の変」説)。また、『古事記』では没年を527年としている。
②出自を巡る議論
記紀によると先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前(近江とも)から応神天皇5世の孫である継体天皇が迎えられ群臣の要請に従って即位したとされるが『日本書紀』の系図一巻が失われたために正確な系譜が書けず、『上宮記』逸文によって辛うじて知ることが出来る。しかし、この特殊な即位事情を巡っては議論がある。
記紀の記述を尊重して継体天皇を大王家(「天皇」号成立は7世紀)の「遠い傍系に連なる有力王族」とする旧来の説に対し、戦後、歴史とりわけ天皇に関する自由な研究が認められることになったことから継体は従来の大王家とは血縁のない「新王朝の始祖(初代大王)」とする説(水野祐「三王朝交代説」)が提唱され、にわかに有力となった。この説によれば、いわゆる万世一系は否定され出自不明の第26代・継体天皇から新たな大王家が始まったということである。さらに論を進め、近江の皇別氏族(皇族が臣籍降下して誕生した氏族)息長氏(おきながうじ)の出身と見なし、大和王権を武力制圧して王位を簒奪したとする説も出された。
ところが1980年代に入り、継体の出自を伝える『上宮記』の成立が推古朝に遡る可能性が指摘され(黛弘道「継体天皇の系譜について」『律令国家成立史の研究』吉川弘文館、1982年)、傍系王族説が再び支持を集めるようになった。[要出典]『上宮記』逸文が載せられている『釈日本紀』の記述内容は「上宮記曰一伝」という文章があり、『上宮記』の作者が別の史料を引用していることが判る。ただ単に継体即位から1世紀後の推古朝の伝承を書いたものではなく、さらに古い資料に基づき系譜を載せている。
近年では継体以前には大王の地位は特定の血縁に固定されなかったとする見解も出されている。つまり、継体を含め祖先の異なる複数の豪族があり、祖先が誰かは分からないという意味である。武光誠は継体以前の大王は複数の有力豪族から出たとの見方を紹介している(以下の文献参照)。現在は「王族」「王朝」の概念自体を根本的に問い直す時期に来ていると言えよう。武光によれば、武烈天皇などは実在した天皇でなく創作との見方が現在では有力であり、応神天皇の実在に関しても諸説ある。また、現在伝わる継体の系譜は事実ではなく信用できるのはせいぜい継体の祖父まであり、それ以前については『上宮記』の成立時点で既に伝説上の人物だった応神天皇を継体の祖先として系譜に持ってきたのみとする見方もある。
現在の歴史学界では継体が応神の5世孫かどうか不明とする慎重な立場をとる学者も多くいるものの、中央豪族の支持を得て平和裏に即位したとする説が有力である。記紀の記録も継体以降の系譜は、ある程度信用できるとされている。
スポンサーサイト

コメントの投稿

URL
コメント
パスワード
秘密
管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://historia1492.blog98.fc2.com/tb.php/179-b0cbfd29

水野祐『大和の政権』

こんばんは。今回は教育社歴史新書<日本史>の2、水野祐氏著の『大和の政権』についてです。これを読んだのも、下手すれば10年前とかなので細かい内容を思い出しつつ紹介してみようと思います。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。