ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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水戸黄門こと徳川光圀の実像とは?.txt

徳川光圀
非常に有名な人物であるが内政に関しては決して優れた実績を残してはいない。
茨城県水戸市の千波公園にある徳川光圀像幼少時には、兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたと言われ、少年時代は町で刀を振り回したりする不良な振る舞いを行っており、吉原遊廓通いも頻繁にしていたが、光圀18歳の時、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより学問に精を出すこととなる。しかしながらその強い性格、果断な本質は年老いても変わることはなかった。
光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。
日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、ラーメンをはじめ、餃子、チーズ、牛乳、牛乳酒、黒豆納豆がある。肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は5代将軍徳川綱吉が制定した生類憐れみの令を無視して牛肉、豚肉、ヒツジなどを食べていた。
またオランダ製の靴下(日本最古)を使用したり、ワインを愛飲するなど南蛮の物に興味を示し、朱舜水を招き、海外から朝鮮人参やインコを取り寄せ、育てている。蝦夷地探索のため黒人を二人雇い入れ、そのまま譜代の家臣にしてしまってもいる。
『大日本史』完成までには光圀の死後250年もの時間を費やすこととなり、光圀の事業は、後の水戸学とよばれる歴史学の形成に繋がり、思想的影響も与える。
1692年(元禄5年)には、南北朝時代に湊川の戦いで戦死した楠木正成の功績を称え、同地に墓石を建立(光圀65歳)。墓石には、光圀の自筆で「嗚呼忠臣楠氏之墓」と記されている。尚、その場所は1872年(明治5)明治天皇によって湊川神社が建立され、1955年(昭和30)には光圀の銅像も建立されている。

●光圀にみる水戸徳川家の地位
大日本史の編纂により、水戸藩は年間財政収入の三分の一近くをこの事業につぎ込むこととなる。
財政難に陥った水戸藩は、光圀の死後、光圀の養子である綱條が財政改革に乗り出すが、水戸藩領全体を巻き込む大規模な一揆を招き、改革は失敗する。これにより水戸藩は、幕閣や譜代大名から「綱條公は将軍の器にあらず」との認識を持たれることとなり、1716年の徳川家継の後継者選びにおいては綱條が御三家の当主の最年長であるにも関わらず、紀州藩主の徳川吉宗が後継者に選ばれた。
以後、水戸徳川家からは将軍を出さず、将軍の補佐役として参勤交代を行なわず江戸に常駐することとなる。このことから水戸徳川家は「天下の副将軍」と呼ばれるようになる。結局、2代目藩主である光圀以降、水戸藩9代目藩主斉昭の子にあたる慶喜が将軍職に就くまで、水戸徳川家からは将軍職に就く者はいなかった。
光圀の学芸振興が「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えた事は高く評価されるべきであるが、その一方で藩財政の悪化(ひいては領民への負担があり、そのため農民の逃散が絶えなかった。一説には光圀時代は年貢比率が八公二民の超重税を強いたと言われる)を招き、結果的には「水戸学」が目指した‘愛民’の理想からは逸脱してしまった側面も存在する。単純に「名君」として論じる事は出来ないのである。
水戸徳川家は、徳川氏が天皇と対立した場合、徳川の血筋を残すために天皇側につくように定められ、将軍を出さないよう決められていたとの考えもある。それを変えたのが8代将軍吉宗である。出自の紀州徳川家の地位を向上させ、御三家と同種の機能を持つ御三卿を創始するなど、徳川宗家と御三家の立場やあり方を変えてしまったことに原因があるようだ。そのため出るはずのなかった水戸徳川家からの将軍が出る事になったのである。
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