ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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ボーア戦争で捕虜となったチャーチル.txt

『イギリスのチャーチルも陸軍士官学校を出て、ボーア戦争で捕虜に
なってますね。第一次大戦では海将をつとめ、軍人のいうことを聞かずに大失敗したが、それが戦争指導者として得がたい経験となって、第二次大戦に生かされている。』福田和也氏
『文藝春秋』8月号 昭和の海軍エリート集団の栄光と失墜

☆ウィンストン・チャーチル1874年11月30日 - 1965年1月24日)
イギリスの政治家である。1940年から1945年にかけてイギリス戦時内閣の首相としてイギリス国民を指導し、第二次世界大戦を勝利に導く。大戦終結後に再び首相となる。
2002年BBCが行った「偉大な英国人」投票で第1位となった。
①幼年時代
寄宿学校(ハーロー校)に入れられ、厳格な教育を受けた。生来は左利きだったが右利きになることを強要され、後遺症に苦しめられる。彼の学校時代の成績は終始ふるわず、士官学校に入るのにすらたいへんな時間がかかった。
②政界入り
1895年にサンドハースト王立陸軍士官学校卒。騎兵隊少尉任官。その後、軍事顧問としてキューバやインドに赴き、本国の雑誌に記事を寄せた。1899年のボーア戦争に従軍記者として参加。敵に捕われるが、脱走に成功。1900年、保守党から下院選挙に出馬し、初当選。
1904年、チャーチルは保護関税問題から保守党を離党し、自由党に移籍した。1906年の総選挙で自由党が勝利するとその有力政治家として頭角を現し、植民地相次官、商務相、内務相を歴任した。
③第一次世界大戦期
1911年、チャーチルは海軍相となり、在任のまま第一次世界大戦を迎えた。しかし、敵国となったオスマン帝国(トルコ)の首都イスタンブルの入り口であるダーダネルス海峡制圧をねらって彼が推進したガリポリの戦い(1915年)はイギリス軍の惨憺たる敗北に終わり、「ガリポリの肉屋(屠殺者)」と批判され、内閣を去らねばならなかった。
1917年、チャーチルはロイド・ジョージ内閣の軍需相として政権に復帰した。チャーチルは戦争推進のために意欲的に働き、1919年以降はロシア革命に対する干渉を露骨に実施する役割を果たした。1921年、彼は植民地相に転じ、アイルランド自由国の独立を認めた英愛条約(イギリス=アイルランド条約)の交渉団に加わっていた。
1922年には落選して政権を去ったが、この間「反社会主義」の立場を鮮明にして保守党に再接近した。1924年の選挙では保守党支持で立候補して当選し(翌年正式に入党)、スタンリー・ボールドウィン内閣の財務相に就任した。
1929年、保守党が選挙に敗北した後は再び政権から離れ、1931年に発足したラムゼイ・マクドナルド挙国一致内閣にも入閣しなかった。この不遇の時期、彼は先祖のマールバラ公の伝記執筆など、著作活動に専念した。
④第二次世界大戦期
ヤルタ会談1939年9月にポーランドに侵攻したアドルフ・ヒトラー率いるドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦がはじまると、チャーチルは内閣に招かれて再び海軍相に就任した(この時海軍は「ウィンストンが帰ってきた(Winston is back)」と艦隊に発信している)。1940年にはネヴィル・チェンバレン首相の後任として首相に任命され、みずから国防相を兼任して陸海空の幕僚長を直接指揮する形をとり、挙国一致内閣を率いて戦時指導にあたった。
チャーチルはラジオや議会での演説を通じて国民に戦争協力を呼びかけ、総力戦を組織化していきバトル・オブ・ブリテンを勝利に導くなど、強力な指導力を見せることになる。戦争が終結に近づくと、ヤルタ会談、ポツダム会談などに参加して戦後体制の策定にも携わった。しかし、大戦の終わる直前の1945年の春におこなわれた総選挙で保守党はクレメント・アトリー率いる労働党に敗北した。
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