ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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関ヶ原古戦場

http://www.adnet.ne.jp/nikkei/shiseki/contents/046.htmlより抜粋。
戦場はおよそ東西に4キロ、南北に2キロほどの狭い盆地である。
1600(慶長5)年9月15日、ここで徳川家康の率いる東軍10万1千と、石田三成の西軍8万数千が激突し、勝利した家康の天下取りがほぼ実現した。 天を響かし 戦闘を目撃した『信長公記』の著者太田牛一は、そのすさまじさを書き残している。
 「敵身方(みかた)押合、鉄砲放ち矢さけびの声、天を響かし、地を動かし、黒煙り立ち、日中も暗夜となり、敵も身方も入り合ひ、錣(しころ)をかたむけ、干戈(かんか)を抜き持ち、おつつまくりつ攻め戦ふ。切つ先より火炎をふらし、日本国二つに分て爰(ここ)を詮度(せんど)と生便敷(おびただしく)戦ひ、数ヶ度の働きこの節なり」
 また『徳川実紀』によれば「敵味方廿万(にじゅうまん)に近き大軍、関原青野ヶ原に陣取て旗の手東西に翻へり、汗馬南北に馳(は)せちがひ、かけつかへしつ、ほこさきより炎を出してたたかひしなり」。
 現代の関ケ原は「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」である。のどかな田園と住宅街が広がり、あちこちに往時をしのぶ石碑が建っている。
 JR関ケ原駅で下車、国道21号を名古屋方面に歩くと、家康が初めに陣した桃配山(ももくばりやま)がある。主戦場からはかなりの距離だ。
 石田三成は、はるか先の笹尾山に陣取った。関ケ原の全容がよく見える位置だが、今は繁った樹木が視界を妨げていた。
 西軍は笹尾山から右方に島津義弘(惟新(いしん))、小西行長、宇喜田秀家、大谷吉継の各隊というように展開して、松尾山の小早川秀秋まで布陣した。これに東軍の諸部隊が対陣するのを背後から襲うべく、南宮山に毛利勢がいたのだ。
 西軍は中国の兵書にいう鶴翼の陣形をとり、敵を誘い込んで包囲攻撃できた。明治時代に陸軍大学校の教官だったドイツのクレメンス・メッケル少佐が、その布陣を見て「西軍の勝ち」と即断したという。
 しかし、現実は石田三成の思惑違い。寝返りや傍観が重なった。南宮山の毛利秀元は、家康に内応した吉川広家が進軍を阻んで参戦できなかった。もっとも大きかったのは松尾山に布陣した小早川秀秋の寝返りだ。これで戦局は変わった。せっかくの翼の部分がガタガタだったわけだ。裏工作を担当したのは黒田長政である。 チェスト!関ヶ原! 戦闘は午前8時ごろに始まった。東軍の先鋒(せんぽう)は福島正則だったが、井伊直政が出し抜いた。黒田の陣所の丸山から攻撃の狼煙(のろし)が上がって両軍は激突した。戦闘の詳細は不明だが、東軍の攻撃は石田隊に集中した。
 戦況は一進一退だったが、毛利は動けず、小早川の裏切りで大谷吉継隊は壊滅。西軍は総崩れで潰走(かいそう)。午後2時ごろ、三成は北国街道沿いに退却していった。心ならずも西軍に参加し、傍観していた島津義弘の隊は戦場に取り残され、壮絶な敵中突破を図る。やっと離脱した時には惟新以下数十人に減っていた。
 「チェスト!関ケ原!」。薩摩人はこう叫んで故事を忘れなかった。合戦後、過酷な処分を受けた毛利とともに、幕末に倒幕の先鋒となったのは歴史の因果である。
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