ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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太平洋側に設置された多賀城

1.伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)の乱 
奈良時代から平安時代にかけて、古代律令国家のフロンティアは北へ北へと動いていった。国家の勢力範囲に入った土地には「柵」を設けて、移民を送り込み、やがて柵を「城」として行政・軍事の府にしていく。当初は蝦夷への融和・懐柔策がとられていたが、太政大臣・藤原仲麻呂(恵美押勝(えみのおしかつ))のころから強硬策に転じ、支配する側とされる側の軋轢(あつれき)が目立ってくる。
 その時期に伊治呰麻呂(いじのあざまろ)の乱が発生した。蝦夷の族長・呰麻呂は政権側に属する役人でもあったが、780年に反旗を翻す。最高権力者の按察使(あぜち)・紀広純(きのひろすみ)を殺し、多賀城を攻めて焼き払うという大事件になった。『続日本紀(しょくにほんぎ)』によれば、権力を笠(かさ)に着た同僚の侮蔑(ぶべつ)が反乱のきっかけになったという。
 呰麻呂の乱は蝦夷の抵抗を誘発し、4半世紀にわたって中小の反乱が繰り広げられていく。782年、万葉の歌人・大伴家持(おおとものやかもち)が按察使兼鎮守府将軍として多賀城に派遣されるが、反乱の対応にいとまがなかったようだ。この地では一首の歌も残さぬまま、785年に(おそらく多賀城で)亡くなっている。

2.歌枕の地に 
こうした乱を、もう1つの側面から眺めてみよう。多賀城の創建から25年後、陸奥国小田郡(現在の宮城県涌谷町)で大量の砂金が発見されている。奈良の都では大仏の鍍金(ときん)のために喉(のど)から手が出るほど金が欲しかったころだ。為政者たちは陸奥の黄金に目がくらみ、強引な東北制圧を繰り広げていったのである。
 呰麻呂の乱に始まる多くの反乱は、まさにそのさなかのもので、強者の理不尽な圧力が弱者のしぶとい反発を呼ぶという、よくある図式が浮かび上がってくる。陸奥における蝦夷の反乱は、征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)登場によってようやく沈静に向かうが、都はすでに奈良の平城京から長岡京へ、さらに平安京へと移っていた。
 時を経て、能因法師、西行法師らが多賀城を訪れている。平定されたとはいえ陸奥の国は依然として都から遠い僻地(へきち)であった。優れた歌人たちは「道の奥」「未知の国」に心を動かされ、「壷の碑」「末の松山」「沖の石(沖の井)」「野田の玉川」など、数々の歌枕(古歌に詠まれた名所)を多賀城周辺に生んでいく。
 さらに下って松尾芭蕉や正岡子規ら数多の俳人・歌人たちが歌枕にあこがれ、ここを旅しているが、いまは「観光客? 全く少ないですね」(多賀城市商工観光課)という状況だ。礎石や碑だけの多賀城は通過し、松島に向かう人が圧倒的に多いようである。
以上、http://www.adnet.ne.jp/nikkei/shiseki/contents/046.html抜粋。

☆多賀城の歴史
文献上の出現は「日本後紀」の839年(承和6年)の記事で、780年の伊治呰麻呂の乱で一時焼失した後に再建された事が書かれている。802年に坂上田村麻呂が蝦夷への討伐を行い、戦線の移動に伴って鎮守府も胆沢城(岩手県奥州市)へ移されて、兵站的機能に移ったと考えられる。
中世の前九年の役や後三年の役においても軍事的拠点として機能し、1097年にも陸奥国府が焼失している。南北朝時代には、後醍醐天皇の建武の新政において陸奥守に任じられた北畠顕家、父の北畠親房らが義良親王(後村上天皇)を奉じて東北へ赴き、多賀城を拠点に東北経営を行う。
近年では、曲水宴遺構が出土し、その編年の再検討も含めて注目されている。現在は特別史跡に指定され、政庁跡や城碑、復元された塀などが残されている。
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