ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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「日本のエジソン」田中 久重

田中 久重(たなか ひさしげ)1799年10月16日~1881年1月11日
江戸時代から明治時代にかけて「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれ活躍した発明家。筑後国久留米(現在の福岡県久留米市)生まれ。久重が創設した田中製作所は後年、東芝となる。

①久留米時代
田中久重は、寛政11(1799)年9月18日、筑後国久留米(現在の福岡県久留米市)のべっこう細工師・田中弥右衛門の長男として生まれた。幼名儀右衛門。幼い頃から才能を発揮し、久留米・五穀神社(久留米市通外町)の祭礼では、新しい仕掛けを次々と考案して大評判を呼ぶ。この間九州各地や大阪・京都・江戸でも興行を行い、その成功により全国にその名を知られる。

②佐賀時代
開国を要求する欧米の圧力が日に日に高まっていた。こうした動きに対し、長崎警備を担当していた佐賀藩では、藩主・鍋島直正(なべしまなおまさ)の指揮の下、優秀な技術者を集め、大砲の鋳造や蒸気機関の建造、化学薬品の研究開発などに取り組んでいた。
むろん、久重もこうした国防技術に関心を抱いており、蘭学者・広瀬元恭のもとで培った西洋知識を生かし、独力で実作に励んだ。
嘉永5年(1852年)には、日本初となる動く蒸気船雛型を完成する。
嘉永6年(1853年)、久重は佐賀藩の蘭学者・佐野常民の薦めにより、精煉方に着任する。日本初の反射炉を持つなど、当時最先端の科学技術研究機関であった精煉方の発展には、久重の技術は不可欠だった。とりわけ蒸気機関技術は佐賀藩のみならず日本の未来がかかっていた。
久重は火薬に詳しい中村奇輔(なかむらきすけ)やオランダ語の達者な石黒寛二(いしぐろかんじ)らの才人とともに、蒸気機関や大砲などの技術開発に取り組み、日本の国防技術の近代化を強力に後押しすることになる。
江戸幕府はついに安政元年(1854年)、下田と箱舘(函館)を開港する。
開国に伴い、欧米の最新技術が堰を切ったように流入し、久重は想像をはるかに超える進歩を遂げた西欧技術を目の当たりにする。
開国翌年の安政2年(1855年)、久重らはスクリュー式と水車式の本格的蒸気船の雛型を完成させる。さらに同年、ロシアの軍艦内で見た蒸気機関車の模型を参考に、わが国初の蒸気機関車の模型を製作、佐賀藩主・鍋島直正の前で走らせている。
船舶の交信に使われる電信機(エーセルテレカラフ)、蒸気砲の雛型、写真機やガラス製の手ぬぐいかけ。久重が精煉方で手がけたものは多岐にわたった。
文久2年(1862年)、久重は、佐賀藩がオランダから購入した軍艦「電流丸」の蒸気釜を完成させる。それは久重の積年の夢である蒸気機関技術を手にした瞬間でもあった。
やがて久重は郷里の久留米藩からも招かれた。技術顧問として藩陸軍の製砲事業に関わり、先端兵器であるアームストロング砲などを完成させたほか、火薬技術を使い氾濫を繰り返す筑後川の河川改修までも行った。
日本は幕末の動乱を経て、明治という新たな時代の夜明けを迎えた。
技術者・学識者らは、先を争うように新しい科学技術・文化を吸収した。そこには六十半ばにしてなお、先進の技術を探求し続ける技術者、田中久重の姿があった。
久重は時代の要請でもある国防技術開発に見事応える一方、日本初の製氷機械や自転車、人力車、精米機、川の水を引き上げる昇水機など、生活に密着した製品の開発改良にも情熱を傾けた。

③東京時代
明治6年(1873年)に上京。明治8年(1875年)に東京・銀座に電信機関係の製作所・田中製作所を設立。明治14年1月11日、発明に全てを捧げた82年の生涯に幕を閉じた。久重亡き後、養子の二代目・田中久重が会社を受け継ぎ、これが現在の東芝の基礎となった。
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