ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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稀代の戦略家児玉源太郎.txt

児玉源太郎(1852年4月14日~1906年7月23日)
陸軍軍人。陸軍大将勲一等功一級伯爵
東郷平八郎、乃木希典と共に日露戦争の英雄として有名である。日露戦争全体の戦略の立案、満州での実際の戦闘指揮、戦費の調達、アメリカへの講和依頼、欧州での帝政ロシアへの革命工作、といったあらゆる局面で彼が登場する。当時のロシアは常備兵力で日本の約15倍、国家予算規模で日本の約8倍であったから、勝てる可能性がほとんど無かったともいえる日露戦争を勝利に導いた戦略家として有名である。
児玉は国際情勢や各国の力関係を考慮に入れて戦略を立てることの出来る広い視野の持ち主であった。性格的には情に脆く家庭を大事にし友誼に厚いという長所の反面、短気で激情型の性格でもあり、人間関係において無用の軋轢を招くこともあった。しかし天才肌の人間によく見られるような相手を見下したり、我を張り通すといった面はなく、内省的に己を見つめ、諧謔の精神を持ち、地位や権力に固執することはなかったので、人々から慕われた。
また、彼は己のパーソナリティの限界を弁えていたが故に、無二の親友であり自分にない人格的長所を持つ乃木希典に対する尊敬の念を終生抱き続けたと思われる。

●略歴
長州藩の支藩「徳山藩」の中級武士(百石)の家に生まれた。父親は早世し、家督を継いだ姉婿に養育された。だが源太郎が13歳のときこの義兄は佐幕派のテロにより惨殺され、家禄を失った一家は困窮した。
熊本鎮台准参謀時の明治9年(1876年)には神風連の乱鎮圧、同鎮台参謀副長(少佐)時の明治10年(1877年)には西南戦争・熊本城籠城戦に参加。鎮台司令長官の谷干城少将を良く補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護りきる。この経験が後の日露戦争に生かされる事となる。ちなみに、この時東京から現地へ真っ先に送られた電報「児玉少佐ハ無事ナリヤ」は、当時弱冠24歳の一少佐にかける期待がどれほどのものであったかを物語る逸話として有名。
台湾総督時代には、日清戦争終了後の防疫事務で才能を見いだした後藤新平を総督府民政長官に任命し、全面的な信頼をよせて統治を委任した。後藤は台湾人を統治に服せしめるため植民地統治への抵抗は徹底して弾圧しつつ、統治に従ったものには穏健な処遇を与えるという政策をとり、統治への抵抗運動をほぼ完全に抑えることに成功した。二人の統治により日本は台湾を完全に掌握することに成功したといえる。
日露戦争開戦前には内務大臣を勤めていたが、 明治36年(1903年)に対露戦計画を立案していた参謀次長の田村怡与造が死去し、大山巌参謀総長から特に請われて降格人事でありながら田村の後任を引き受ける。日本陸軍が解体する昭和20年(1945年)まで、降格人事を了承した人物は児玉源太郎ただ一人である。
日露戦争時には満州軍総参謀長を務める。旅順攻囲戦においては、満州軍総司令官大山巌の承認を得て第三軍司令官乃木希典大将の指揮権に介入し、作戦を成功に導いたとされる。しかし、旅順陥落直前に督戦に訪れたことは事実であるが、児玉大将の指揮権介入を事実として証明する一次資料は存在せず、このエピソードが広く知られるきっかけとなった司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』中の創作であるという意見もある。
ただ、児玉が旅順に到着した直後に203高地が簡単に陥落した事実から推測すると、彼ほどの戦略家が日本の命運がかかった戦闘地域にただの観戦にだけ来たはずも無く、指揮権は乃木に持たせたままで兒玉自身が考えていた作戦を乃木に教え、それを乃木が実施したとする説もある。一方、兒玉到着時には既に203高地守備隊の戦力は脆弱化しており、単にタイミングが一致しただけだとする説もある。
一般に知られている説によれば、1904年12月5日、児玉は乃木が攻めあぐねていた203高地に対し火力の集中という要塞攻撃の常道を行うため、もともと海岸防衛用の恒久据え付け砲で移動が困難な28センチ榴弾砲を、敵陣に接近した場所まで1日で配置転換を行うという奇抜な作戦を取った。そして砲撃と突撃隊の突撃を同時に行い、半日で陥落させた。さらに203高地に弾着観測所を設置し、砲兵の専門家の助言を無視して203高地越えに旅順湾内のロシア旅順艦隊に28センチ砲で砲撃を加え、これを無力化した。これによりバルチック艦隊は単独で日本の連合艦隊と戦わざるを得なくなり、旅順攻囲戦の目的は達成された。
児玉は日露戦争勝利のために心血を注ぎ込んだともいわれ、戦争終結後は急速に体調を崩し、翌年急逝した(暗殺説あり)。

●エピソード
日本軍の参謀育成の為、教官として招かれたドイツ陸軍参謀将校のメッケルから才覚を高く評価され、日露戦争開戦を聞いたメッケルは「日本にコダマ将軍が居る限り心配は要らない。コダマは必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と述べたという。児玉の能力を語るエピソードである。
晩年、浅草の凌雲閣(通称十二階)で開催された日露戦争展で、小柄な児玉をナポレオンに準えて語り合う二人の陸軍将校の傍に歩き寄り「兒玉はそれほどたいした男ではありませんよ」と囁きかけながら立ち去り、「何を言うか」と振り向いた彼らが児玉本人だと分かって驚く様を見て楽しむと言うというお茶目な面もあった。
乃木と児玉は旧知の間柄であった。児玉は乃木の軍事的才能の限界を認識しながら、一方で軍人精神と明治人の美意識の体現者として尊敬の念を持っていたともいわれる。日露戦争終結後、旅順攻略における人的被害の大きさから陸軍部内でも乃木を非難する声が上がったが、児玉は一貫して乃木を擁護したという。児玉の葬儀に際しては、激しい降雨をおして棺に付き添う乃木の姿が見られたと伝えられる。
神奈川県藤沢市江ノ島および山口県周南市にある兒玉神社は、彼を祀ったもの。
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