ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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人類史上最悪の工事、パナマ運河の建設(1881~1914).txt

スエズ運河の開通に成功したレセップスは1881年にパナマ運河の工事に着手する。20年間にわたり労力を費やすが、病気そして工事難による資金枯渇により会社は倒産する。マラリアと黄熱病により3万人が死亡。破産したレセップスも心労のために亡くなる
が、葬式代にも事欠く状態だったという。
その後、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領により、工事が1903年に再開される。
28,000人の犠牲者をだす難工事も、ついに1914年完成する。

歴史
1534年、スペインのカルロス1世(ハプスブルク王朝のカール5世)が調査を指示した。
スエズ運河の設計者レセップスがパナマ地峡に海面式運河の建設を計画し、フランスの主導で1880年1月1日に建設を開始したが、黄熱病の蔓延や工事の技術的問題と資金調達の両面で難航し、1889年に計画を放棄した。
アメリカ合衆国は1902年に連邦議会でパナマ地峡に運河を建設することを決定した。当初パナマ地峡は自治権をもつ大コロンビア領であったが、パナマ運河の地政学的重要性に注目したアメリカ合衆国は、運河を自らの管轄下におくことを強く志向した。1903年1月22日、ヘイ・エルラン条約がアメリカと大コロンビアとの間で結ばれる。しかし、大コロンビア議会はこれを批准しなかった。1903年11月3日、この地域は大コロンビアから独立を宣言しパナマ共和国となったが、アメリカ合衆国は10日後の11月13日にこれを承認し、5日後の11月18日にはパナマ運河条約を結び、運河の建設権と関連地区の永久租借権などを取得し工事に着手した。1903年から工事を始め、3億ドル以上の資金を投入し、1914年8月15日に開通した。運河収入はパナマに帰属するが、運河地帯の施政権と運河の管理権はアメリカに帰属した。
建設には日本人の青山士(あおやまあきら)も従事。彼は帰国後、内務省の技官になり、信濃川大河津分水路補修工事や荒川放水路建設工事に携わった。

運河地帯両岸の永久租借地にはアメリカの軍事施設がおかれ、南米におけるアメリカの軍事拠点となっていたが、1960年代にパナマの民族主義が高まり、運河返還を求める声が強くなる中で、軍事クーデターによってオマル・トリホスが権力を握った。これよりアメリカ合衆国と返還をめぐる協議が開始され、1977年、ジミー・カーター大統領の時代に新パナマ運河条約が締結され、これにより運河および運河地帯の施政権は1999年12月31日にパナマへ正式に返還され、アメリカ軍は完全に撤退した。

現在のパナマ運河はパナマ共和国が管轄している。パナマ運河の通行料は、船種や船舶の積載量、トン数や船長など船舶の大きさに基づきパナマ運河庁が定めている。パナマ運河の通行料は1トンに対して1ドル39セント、平均しておよそ54,000ドル(約600万円)。
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