ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

安土城(1579~82)

信長はこの城を丹羽長秀を総普請奉行に据え、足かけ7年の歳月をかけ完成させた。築城の目的は岐阜城よりも京に近いため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから信玄亡き後信長の最大の脅威であった上杉謙信の上洛を阻止できる立地条件にあったためとされている。その規模の大きさ壮麗さは太田牛一や宣教師の記述で明らかなように天下布武、信長の天下統一事業を象徴する城郭であり、山頂の壮麗な天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。
1582年(天正10年)本能寺の変の時は蒲生賢秀が留守居役として在城していたが、本能寺の変による信長の横死を経て山崎の戦いの後、賢秀・蒲生氏郷父子は本拠地日野城に信長の妻子などを安土から移動させ退去。その後、天主とその周辺建物(主に本丸)は焼失した。原因にはいくつかの説がある。一つは織田信雄軍が誤って焼き払ったという説である。これは当時の宣教師の記述によるもので、その記述には織田信雄が暗愚だったので放火したとある。もう一つは明智光秀軍が敗走の際に放火したとの説、さらにもう一つは、略奪目的で乱入した土民が原因であるとする説である。そのほか、雷が落ちて消失したとする説もある。いずれにせよ、本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が清洲会議ののち入城したりと、主に二の丸を中心に機能していた。しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡城築城のため、1585年をもって廃城されたと伝わっている。
信長が権力を誇示するために狩野永徳に安土城を描かせた金箔の屏風がアレッサンドロ・ヴァリニャーノに贈られ、彼の離日に同行した天正遣欧使節によりヨーロッパに送られて教皇庁に保管されているとの記録がある。それは安土城の姿を知る決め手の一つと考えられ、現在に至るまで捜索が行われているが、未だに発見されていない。
築城から廃城へ
1576年、 正月中旬、安土城の築城を開始する
1577年、 安土山下町中に楽市楽座の掟書を発布する
1579年、 完成した天主に信長が移り住む
1582年、 見寺に徳川家康を迎え、能が行われる
     本能寺の変で信長死去、織田信雄が火を放ち、
安土城の天主・本丸等

●その後~現在
その後、1918年(大正7年)に安土城保存を目指して「安土保勝会」が設立される。1919年(大正8年)には史跡名勝天然記念物保存法が施行され、一層保存の機運が高まる。そして、1926年(大正15年)に安土城址が史蹟に指定される。 1927年(昭和元年)、内務省(現・総務省)が城跡に「安土城址」の石碑を建てる。翌1928年、滋賀県が史蹟安土城址の管理団体に指定される。その後、大手門跡等に標石を建てたり、二の丸跡の復旧、城内石段の改修や天主・本丸跡の発掘調査を行う。
戦後の1950年(昭和25年)、 文化財保護法施行に伴い史跡安土城跡となる。その後、特別史跡に指定される。1960年(昭和35年)には城跡修理に着手、1975年(昭和50年)まで継続。それを基に1978年(昭和53年)、 安土城跡実測図(縮尺千分の一)を作成する。そして1988年(昭和63年)、「第1回特別史跡安土城跡調査整備委員会」が開催されるに到る。
1992年(平成4年)のセビリア万国博覧会には、「天主指図」を基に復元された安土城の復元天主(5・6階部分)が出展された。現在、復元天主は安土城天主信長の館に安置されている。
1998年(平成10年)には、本丸跡から内裏の清涼殿と同じ平面を持つ建物が発見された。これは、当時の信長の思想や本能寺の変の黒幕を特定する上でも重要な発見である。
2005年(平成17年)に、安土町のプロジェクトチームがイタリアのローマに渡り、「安土城之図」と伝わる屏風絵を探したが発見には至らなかった。しかしローマ教皇に大野俊明氏が模写したミニ屏風絵を寄贈し、屏風絵の発見を依頼した。発見されると、安土城の更なる正確な復元が期待される。
スポンサーサイト

コメントの投稿

URL
コメント
パスワード
秘密
管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://historia1492.blog98.fc2.com/tb.php/128-e1c93fe0
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。