ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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信長 対 キリシタン(下)
~ 信長の反撃 信長の誇示する軍事力を見て、宣教師たちは 日本の植民地化を諦めた。
ポルトガル・スペインが、マカオやフィリピンを植民地化し、 なおかつ宣教師たちが九州のキリシタン大名を交易や軍事援助 を通じて後押ししている様を見れば、彼らの最終的な狙いが日本の植民地化にあることを信長は見通していたであろう。
天下 統一を進める信長にとって、思わぬ伏兵がいたのである。彼らの布教を許したことを「我一生の不覚也」と言ったのは、この故であった。 しかし、そこは天才・信長。宣教師たちの野望を打ち砕くための反撃を展開した。それは現代流に言えば富国強兵策であった。
当時、各地を支配する領主や貴族、寺社は、自領内において 商工業に携わる者には同業組合として「座」を組織させ、その 独占を認める代わりに、多額の上納金を徴収していた。また、 領内に多くの関所を設けて、物資の流通や人の往来に「関銭」 を課していた。たとえば琵琶湖から京都、大坂の淀川沿いのル ートには6百カ所以上もの関所があったという。 そこで信長は、こうした「座」や「関所」を撤廃し、自由競争と効率的な流通を促進することによって、商工業の発展を加 速するという経済改革を断行した。特に「楽市楽座令」では、 低額の税金を払えば、誰でも一定区域内で自由に商工業を営めるようにしたため、多くの優れた商工業者が信長の勢力圏に集まり、経済が急速に発展した。
この「楽市楽座」制は当時、ヨーロッパ各地で行われていた商工業・交易流通振興策によく似ており、信長が宣教師たちから仕入れた知識を活用したものではないか、という説がある。

■2.壮麗なる都市・安土■
特に信長が本拠地とした安土城の城下町では、税金課役の免 除、往来の安全の保証など、様々な特典を与えたので、全国各地から商工業者が集まって大変な賑わいを見せた。 信長の政策を目の当たりにした宣教師フロイスは著書『日本史』において、次のように記している。
信長はあらゆる賦課、関銭や通行税を廃止し、大いなる寛大さで、すべてに自由を与えた。この好意は民衆の支持を得て、一般の人々はますます彼に心をひかれ、彼を主君にもつことを喜んだ。・・・
信長は安土に一つの城と新しい町を建設したが、その規模は日本最大のもので、位置の優れていること、住民が立派であること、建築の壮大であること比類がない。
一般住民の住む山麓の町は、長さ5.5キロメートルに及び、道路は広くまっすぐについていて町に美観を添え、5、6千人の住民がある。安土から京都までの77キロメートルの間は、平坦な道が作られ、道路の両側に木を植え、川には非常に大きな橋が架けられた。信長は交易の振興策として、道路の拡張整備にも力を注いだ。これは軍隊の移動や軍需物資の運搬を効率化する軍事戦略でもあった。

■3.ヨーロッパを抜いた鉄砲技術■
こうした「富国」政策からあがる潤沢な税収を用いて、信長は「強兵」政策を実行した。
その第一は、常時、戦闘可能な職業軍人集団による「常備軍」を創設したことである。 従来の戦国大名は農民を兵員としていたため、農繁期には戦いが出来なかった。そこで信長は農民と兵員を完全に分けて、常時戦闘ができる軍隊を作った。そして専業の職業軍人たちには、高度な武器を操るための訓練を施した。
第2は新兵器の採用である。ポルトガル人が日本に火縄銃を伝えたのは、天文12(1543)年だったが、それからわずか6年後には信長は鉄砲5百挺を、近江の鉄砲鍛冶屋に生産させいる。
しかも、銃の性能自体も格段に改良させた。ポルトガルの火縄銃は雨に弱いという欠陥があったが、雨よけの付属装置が考案されて、雨中でも射撃できるようになっていた。 また弾丸の威力を増すために口径が広げられ、引き金の機構を改良して、弾丸が発射されるまでの時間が短縮された。
これにより、騎馬武者など高速に移動する対象への命中率も向上した。 命中精度も改善され、1580年代に信長が使用していた鉄砲は 100メートル以上の命中距離を誇っていた。
ヨーロッパでは半世紀後の30年戦争で用いられていた小銃の命中距離は50メートルほどに過ぎなかった。 装備された鉄砲の数も、ヨーロッパとは桁違いだった。天正3(1575)年に武田軍の騎馬武者隊を撃破した鉄砲隊は、3千挺もの規模だった。
この12年後にフランスのアンリ4世の軍隊が持っていたのは、25名の鉄砲隊と300名のピストル隊のみであった。 しかも、鉄砲隊が3交替で次々と一斉射撃を行う戦法を開発した。この一斉射撃法がヨーロッパで広く普及したのは、長篠の戦いから半世紀も後のことであった。

■4.宣教師を驚嘆させた鉄製軍艦■
天正6(1578)年には、信長軍は大阪の石山本願寺を海上封鎖したが、その救援に来た毛利水軍を、大砲を搭載した鉄製軍艦6艘で打ち破った。これは約2年間の研究開発の結果、建造されたもので、全長26メートル、幅13メートル、海面から高さ5メートルの軍船であった。船腹から甲板上の矢倉まで鉄板で装甲し、3門の大砲と、多数の大型鉄砲を備えていた。
この鉄製軍艦を見た宣教師オルガンチーノは驚嘆して、つぎのような報告書をポルトガル本国に送っている。 この船は、信長が伊勢の国で建造させた日本国中でもっとも大きく、また華麗な船で、わが王国ポルトガルの船に似ている。私も行って実際に見てみたが、日本でこれほどの船を造るということに驚いた。・・・ 船には大砲が3門、搭載されていたが、これを何処から持ってきたのか、想像がつかない。というのは、われわれがこれまでに確認したところでは、日本では豊後の王(大友氏)が鋳造させた数門の小さな砲を除いて他に大砲はないはずだからである。私は実際に行って、この大砲と仕掛けを見てきたが、船にはその他に、精巧な大型の長銃が無数に装備されていた。
ヨーロッパにおいて鉄製の軍艦が初めて出現したのは、この120年後であった。 信長は「石山本願寺の戦い」に勝利して手に入れた大坂を「国際貿易港」とすることを構想した。そこに強大な海軍を作り、その武力を背景に国際貿易を発展させようとしていた。これまた、スペインやポルトガルへの対抗策であった。

■5.信長のデモンストレーション■
天正9(1580)年7月、信長は正親町(おおぎまち)天皇の勅命をもって石山本願寺の平定に成功すると、翌年2月には畿内および近隣の大名と武将を京都に招集し、駿馬を揃えて、天皇のご臨席のもとに「馬揃えの儀(天覧観兵式)を盛大に挙行した。
これは中世ヨーロッパの騎士団が国王を歓待するための行事を日本流にアレンジしたものであった。この儀式には巡察使ヴァリニャーノやフロイスなどの宣教師たちも招待されていた。この儀式は、天皇のもとで国家統一が進み、強力な「国軍」が誕生しつつあることを、彼らに強く印象づけるデモンストレーションでもあった。 同年夏には、ヴァリニャーノを安土城に招待した。夜になって、安土城下の家臣や民衆を総動員して、盛大な盂蘭盆(うらぼん)行事を挙行した。安土城の天守閣や山腹のお寺に無数の提灯を吊り下げ、堀には松明を掲げた多数の船が浮かんだ。提灯や松明の火が空に照り映えて、琵琶湖の水面にも映り、ひときわ美しい眺めであった。さすがのヴァリニャーノも深く感嘆した、とフロイスの『日本史』に記されている。
信長は、自らの号令一下で、これだけの壮大な文化行事を遂行できる民度の高い共同体を、キリスト教で切り崩せるか、とヴァリニャーノに問いかけたのであろう。

■6.信長の支那征服策■
フロイスの『日本史』によると、天正10(1582)年、 信長は、事実行われたように、都に赴(おもむ)くことを決め、同所から堺に前進し、毛利を平定し、日本66カ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を派遣して支那を征服し、諸国を自らの子息たちに分かち与える考えであった。 ポルトガルはかねてよりマカオを拠点として、当時弱体化しつつあった明を植民地化する計画を持っていた。信長は、そのようなポルトガルの野望を見通していただろう。もし、ポルト ガルが中国を征服したら、その富と人民を使って、次には日本を狙ってくる。座して第二の元寇を待つよりは、先手をとって明を征服してしまおう、というのは、軍事戦略としても合理的な発想である。 交易面においても、当時はポルトガルやスペインの船がヨーロッパやアジアの物産を持ち込み、日本で漆器、刀剣、海産物、 銀などと交換するという一方的なものであった。彼らはそこから上がる独占的な利益を使って、日本での布教活動を推進し、 キリシタン大名への後押しを行い、最終的には日本の植民地化を狙っていた。
「楽市楽座」という優れた商工業振興策による税収で全国統一事業を進めていた信長である。日本から積極的に海外貿易に乗り出して、ポルトガル・スペインの利益独占を突き崩すことは、彼らの日本植民地化の野望を阻止することにもつながると考えたとしても不思議ではない。 信長が宣教師たちに「支那征服」の意思をもらしたのは、ポルトガル・スペインに対して、いよいよ攻勢に出るぞ、という宣戦布告であった。

■7.「日本は征服が可能な国土ではない」■
信長が支那征服の意思を表明した数ヶ月後、大村純忠・大友宗麟・有馬晴信の少年使節を率いて、マカオに滞在していた巡察使ヴァリニャーノは、スペインのフィリピン総督あての手紙で次のように記している。 日本は何らかの服従事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、国民は非常に勇敢で、しかもたえず軍事訓練をつんでいるので、征服が可能な国土ではないからである。すでに占領したフィリピンやマカオとは違って、当時のヨーロッパよりはるかに進んだ銃砲や鉄製軍艦を誇示する信長軍の偉容に、武力では到底、この国を植民地化することはできない、とヴァリニャーノは判断せざるをえなかった。
一時は、キリスト教の広がりに危機感を覚えて、今までのキリシタン保護政策を「我一生の不覚也」と後悔した信長であったが、富国強兵策を徹底し、強力な軍事力をアピールすることで、彼らとの冷戦に勝利したのである。

■8.豊臣、徳川に引き継がれた冷戦■
この手紙には、次のような続きが述べられている。 しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるだろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある。
「シナにおいて陛下が行いたいと思っていること」とは、スペイン国王による明の植民地化である。日本を植民地化する事は諦めるが、今度は支那征服のために、キリシタン大名の軍事力を使おう、というしたたかな戦略である。 天正10(1582)年、信長が本能寺の変で倒れると、キリシタンとの冷戦は、秀吉に引き継がれた。
秀吉はスペイン・ポルトガルの支那植民地化計画に対して、当初は日本から兵を送るから、共同で取り組もうと申し出たりしたが、相手側の警戒で実現しなかった。その結果、単独で支那征服に乗り出したのが、後の文禄・慶長の役での朝鮮出兵であった。
さらに秀吉は九州平定の途上、宣教師たちがキリシタン大名を通じて、神社仏閣を破壊し、領民に信仰を強制し、かつその一部を奴隷として海外に売りさばいたりしている実態を知って激怒した。天正15(1587)年に中国・九州平定が完了すると、直ちに「宣教師追放令」を出し、軍事要塞化されつつあった長崎を直轄地とした。これによって、宣教師たちの40余年に及ぶ日本植民地化の工作は水泡に帰したのであった。
秀吉の後を継いだ徳川幕府も、寛永14(1637)年から翌年にかけてのキリシタン勢力による島原の乱をようやく平定した後、寛永16(1639)年に、ポルトガル人の渡航を禁じた。これは「鎖国体制」と言うより、キリスト教布教をテコとして植民地化を狙うポルトガル・スペイン勢力との絶縁、と言うべきだろう。宗教を押し売りしないオランダとの交易は続けていたのであるから。

■9.信長・秀吉・家康の功績■
こうしてキリスト教布教をテコとして、日本の植民地化を狙ったポルトガルの野望は、信長・秀吉・家康の3人によって阻止された。この国家的危機に際して、これらの英邁な武将が国家統一事業を成し遂げた事は、まことに幸運であった。 それ以前の戦国時代のように、群雄割拠のままであったら、宣教師から軍事的・経済的な後押しを得たキリシタン大名が天下統一を遂げた可能性もある。そうなると、彼らは自領で行ったように、日本全国で神社仏閣を破壊し、抵抗する神官僧侶を殺害し、キリスト教を全国民に強制したであろう。皇室も廃絶 されていたろう。
その結果、わが民族固有の言語も文化もほとんど忘れ去られていたであろう。メキシコやフィリピンのように。
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