ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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「はじめに香辛料ありき」

「はじめに香辛料ありき」。シュテンファン・ツバイクの『マゼラン』は、この言葉で始まる。人類最初の地球周航を果たしたマゼラン艦隊の目的は、地球の形状を確かめることでもなく、キリスト教を広めることでもなく、「金儲け」だった。
「香料諸島に至る西回りのルートを見出すこと」、それが航海の目的だった。
そして、その目的は、実際に達成された。なぜなら、帰還した1隻が積んできた香料の価値は、出航した5隻の船の建造費を上回ったからである。
つまり、この航海はビジネス的な観点からみても、大成功だったのである。もっとも、それは、効果の途中で失われた人命-その中にはマゼラン本人も含む-の損失をカウントしなければの話だが・・・。
金儲けを目当てに航海に出たところ、人類の歴史を変える大発見をしてしまった!!
これは、マゼランに限ったことではない。コロンブスもヴァスコ=ダ=ガマも、航海の目的は、すべて金儲けだった。
 出典:『東洋経済新報』7/28号 説話ファイナンス理論(野口悠紀雄)

★それにしてもこの航海の代償はあまりのも大きかった。マゼランが途中で殺されたのは勿論、船員たちは食糧と水の欠乏、壊血病に苦しみ、途中船員達の多くが亡くなっている。出港時は、265人だった船員が、無事帰国できたのはわずか17名のみであった。その生存率15%。

マゼラン(1480~1521)
ポルトガルの航海者・探検家。ヨーロッパ人としてはじめて太平洋を横断し、人類初の世界周航をなしとげた。
ポルトガル北部のオポルト付近で貴族の子として生まれ、少年時代には宮廷の小姓をつとめた。1505年、海軍に入ってインドにおもむき、マラッカ(現ムラカ)やマルク諸島(香料諸島)への遠征に参加した。12年、ポルトガルにもどり、翌年モロッコでの戦闘に参加したが、この時右膝を負傷して生涯右脚の自由をうしなうこととなった。マゼランは、マルク諸島への西回り航路の開拓をくわだてていたが、ポルトガル王マヌエル1世の支持がえられず、また報酬増額の要求が宮廷から拒否されたこともあって、17年、スペイン宮廷に仕官をもうしでた。スペイン王カルロス1世(のちの神聖ローマ皇帝カール5世)は、マゼランの計画にただちに関心をしめした。東回り航路はポルトガルに支配されていたため、西回りで香料諸島に到達できれば、スペインに莫大な富がもたらされるはずだった。

国王の承認をえたマゼランは、1519年9月20日、5隻の船をひきいてサンルカルデバラメダ港を出航した。11月にはブラジルに到着し、南下してパタゴニアのプエルトサンフリアン港で越冬したあと、さらに南下をつづけて、20年10月、ついに海峡を発見した。のちにマゼラン海峡と名づけられたこの海峡を38日がかりで通過し、11月28日、そのおだやかさにマゼランが「太平洋」と名づけたもうひとつの大洋にぬけでることに成功した。この時点ですでに2隻の船をうしなっていたが、のこった3隻で航海をつづけ、21年3月、フィリピン諸島に達した。セブ島に上陸したマゼランは、この島の支配者と同盟をむすんでマクタン島攻撃にくわわり、4月27日、戦死した。
マゼランの死後、2隻がマルク諸島に到着したが、そのうちの1隻、ビクトリア号だけが世界周航をなしとげて1522年9月6日、スペインに帰還した。マゼランは航海途中で死亡したが、以前の東回りの航海で到達していた地点は通過していたので、世界周航をはたしたといえる。

ビクトリア号は大量の香料をスペインにもちかえったが、マゼラン海峡をとおるルートは時間がかかりすぎ、危険も多いため実用には適さず、スペインはその権益をポルトガルに売却した。しかしながら、マゼランの航海は、「新世界」と東洋をむすぶ太平洋交易の基礎をきずいた。また、フィリピンの重要性は当初は認識されなかったが、16世紀の終わりにはマニラは東洋におけるスペイン最大の貿易拠点となった。
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