ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

映画「おくりびと」と納棺師.txt

「兎に角、見ろ」と知人に言われて見てきました。間違いなくコトイチ(今年一番の傑作)です。詳しくは下記の前田氏のレビューを参考にしていただくとして、重いテーマを笑いのある娯楽作品だけど考えさせる映画にした監督の
手腕はお見事。伊丹監督の「お葬式」と比較されているようですが、こちらの方が格調高くて個人的には好きです。鄙びた山形県酒田市の風景に静謐な久石譲の音楽が絶妙の効果をみせてます。
死にまつわる「けがれ」が主要なモチーフになっており、日本史や同和の授業でも使えそう。明日の授業の余談はこれで決まり(苦笑)。

★納棺師
遺体を清め、整え、棺におさめるまでのいっさいを遺族の前で執り行う者を指し、現在、その多くは葬儀社と連携し、葬儀の中のオプションとして要請があれば赴くという形をとっている。
遺族は、遺体に対する納棺師の丁寧な扱いを見ながら、各々静かに個人と対話していく。それがグーッと高まった頃に、「では、おひとりずつお顔を拭いてください」となる。すると遺族の感情が堰を切ったように溢れ出す。

以下、前田有一氏の「超映画批評」http://movie.maeda-y.com/index.htmlより引用
★『おくりびと』90点(100点満点中)★2008年/日本/カラー/130分/配給:松竹
監督:滝田洋二郎 脚本:小山薫堂 音楽:久石譲 出演:本木雅弘、広末涼子、山崎努、余貴美子
ヴェネチアが大カントクにリップサービスしているのを真に受けて、日本のマスコミはそちらばかり報道していたが、真に注目すべきはモントリオール世界映画祭だった。ここでグランプリを受賞した『おくりびと』こそ、まさしく世界に誇るべき日本映画の傑作である。
念願だったチェロ奏者になった途端オーケストラが解散、莫大な借金を残し失業した大悟(本木雅弘)は、夢をあきらめ故郷の山形に戻った。それでも優しいけなげな妻の美香(広末涼子)のため、少しでも高給の仕事を探していた彼は、一つの求人広告に目をとめる。"旅のお手伝い"ということで、旅行代理店か何かと思い面接に行ってみると、旅は旅でもあの世への旅。遺体を浄め最後の別れを演出する、納棺師の仕事だった。
遺族の前でご遺体の仏衣を手際よく着せ替え、同時に手早く浄めていく。張り詰めた空気と真摯な表情が、観客までも緊張させる。普段見ることのない、このような技術と仕事が存在していたことに対する驚き。強力なオープニングである。
こうした日の当たらない職業にスポットを当てるという発想がよい。主演の本木雅弘が納棺師の職務について感銘を受けたことから、映画の企画が始まったと言うが、まさに慧眼というほかない。
というのも、納棺師の姿を描くことは、日本人の死生観について明らかにするのと同義だからだ。この映画は、全世界の人々に通ずる普遍的なテーマ"死"を、私たち日本人がどうとらえているか、わかりやすく伝えた。
むろん、日本人の死生観といっても一言で言い表せるものではない。穢れや言霊、魂の尊厳といった要素も、必ずしも固有の概念とは言えないかもしれない。だが、それでもそれらを統括する独特の雰囲気をこの映画は的確に描いている。そしてここが大事なところだが、モントリオールでグランプリという最高の評価を得たと言うことは、こうした日本人の心に、かの国の人々が共感した事にほかならない。 きわめて日本的な風習、というより日本人の精神そのものを題材にしながら、世界標準とも言うべきベーシックな演出で外国に発信する。滝田洋二郎監督らが意図したかどうかは不明だが、このコンセプトのスケールの大きさ、戦略性はむしろハリウッドのそれに近い。日本の映画界に欠けているものの一つであり、だからこそ、それをものにしたこの作品を私は高く評価する。
『おくりびと』を見た人々、特に外国人に与える好印象を想像すれば、スタッフ、キャストの仕事がどれほど偉大なものだったかわかるだろう。この映画は、世界中の人々にどんどん見せるべきだ。
具体的に『おくりびと』の優れている点として、真剣きわまりない姿勢でありながらバランスよくちりばめられたユーモアがあげられる。試写室は笑いが絶えなかったし、それは遠くモントリオールでも同じだった。虚偽寸前の罠広告で主人公を見事つり上げる社長役・山崎努と、真面目一本やりな本木雅弘のやりとりは誰が見てもほほえましい。
死体独特の臭い(キョーレツな遺体処理を思わせる場面もある)やケガレのイメージから人々に差別され、妻にさえ本当の仕事内容を言えぬ主人公──といった展開はいささか大げさすぎるものの、後に大きな感動をもたらすのも事実。
ただ、主人公と父親の関係にまで踏み込んでいるがこれはやり過ぎ。妻と主人公の関係に絞ったほうがまとまりがいいが、ほかがあまりに良かったので特別に許す。
途中、ある過酷な職業の人物が亡くなり、その手がアップになるシーンがあるが、これは反則である。あのショットを見て泣かずにいられるものはいまい。映画ではあえて描かれないが、日本では病院の段階で看護婦が速やかに処置するなど、湯灌については現代的なシステムが整備されている。作中に出てくるのは、古式納棺の儀というもので、だからこそ日本でも「はじめて見た」という人が多いのだろう。むろん、それを映画のスクリーンに映える、見せ場の域にまで高めたのは主演二人の才能による。色っぽいシーンでサービスしてくれる妻役の広末涼子の事も褒めたかったが、そこまで筆が達せぬほど二人の存在感は大きかった。なにしろ必見の一本である。
スポンサーサイト

変わる日本史の常識.txt

『詳説本史研究』が10年ぶりに改訂
以下「池田信夫blog」より引用
①「魏志倭人伝」は存在しない:三国志の一書である魏書に「倭人の条」があるだけで、「倭人伝」という書物はない。その内容も後代になって書かれた伝聞や推測で、信頼性は低い。
②「任那日本府」は存在しなかった:4世紀ごろ、朝鮮半島の南部に加耶と呼ばれる小国の連合があったが、任那という統一国家はなく、日本の植民地でもなかった。これは『日本書紀』の誤った記述。
③世界最大の墓は「仁徳天皇陵」ではない:堺市にある大仙陵古墳は、つくられた時期が仁徳天皇の在位期間と違うので、彼の墓ではありえない。被葬者が大王(おおきみ)であることは確実だが、内部調査が許されないので誰かわからない。
④「聖徳太子」は架空の人物:厩戸王という推古天皇の甥が、氏寺として斑鳩寺(のちの法隆寺)を建立したことは事実だが、彼は「皇太子」でも「摂政」でもなかった(そういう地位は当時まだなかった)。十七条の憲法をつくり、『三経義疏』を著して仏教を日本に導入した聖徳太子というのは、厩戸王の死後に成立した「太子信仰」の一種で、『日本書紀』が複数の人の業績を合成してつくった架空の理想的知識人である。紙幣に使われた有名な肖像画も、彼の肖像かどうかわからないので本書には出ていない。
⑤「大化の改新」は存在しなかった:645年に、中大兄皇子らが蘇我入鹿(厩戸王の家系)を謀殺する政変(乙巳の変)が起こった。しかし「改新の詔」というのは『日本書紀』に書かれているだけで、そういう改革が行なわれた証拠はない。「万世一系」というのは神話で、このように古代には複数の王家が権力抗争を繰り返していた。
⑥天武天皇以前に「天皇」はいなかった:私的な家長の名称である大王が「天皇」と呼ばれるようになったのは、従来は推古朝(6世紀末)とされていたが、その根拠は疑わしい。唐をまねて天皇という称号を使うようになった最古の記録は677年、天武天皇の時代の木簡である。

1938(昭和13)年の国家財政に占める軍事費の割合は76.8%.txt

1938(昭和13)年
・国家総動員法 ・張鼓峰事(満ソ国境)・ノモンハン事件・国民徴用令
・独ソ不可侵条約

※現在の軍事費のGDPに対する割合(世界平均3.8%)
①北朝鮮14.0% ②ロシア5.0% ③中国5.5% ④アメリカ3.0% ⑤フランス2.6% ⑥イギリス2.4% ⑦日本1.0%

引用:NHKスペシャル「調査報告 日本軍と阿片」
昭和12年(1937年)に勃発した日中戦争―。広大な中国で、日本は最大100万もの兵力を投入し、8年に渡って戦争を続けた。武力による戦闘のみならず、物資の争奪戦、ひいては金融・通貨面でも激しい闘いを繰り広げた。
「戦争はどのようにして賄われたのかー」。最新の研究や資料の発掘によって、これまで全貌が明らかにされてこなかった中国戦線の「戦争経済」の様々な側面が浮かび上がっている。その一つとして注目されているのが、当時、金と同様の価値があるとされた阿片(アヘン)である。
19世紀以降、イギリスなど欧州列強は、中国やアジアの国々に阿片を蔓延させ、植民地経営を阿片によって行った。アヘンの国際的規制が強化される中、阿片に“遅れて”乗りだしていった日本。日本の戦争と阿片の関わりは、世界から孤立する大きな要因になっていたことが、国際連盟やアメリカ財務省などの資料によって明らかになってきた。
また、これまで決定的なものに欠けるとされてきた、陸軍関係の資料も次々に見つかっている。軍中央の下で、大量のアヘンを兵器購入に使っていた事実。関東軍の暴走を阿片が支えていた実態。元軍人たちの証言からも、日本軍が阿片と深く関わっていた知られざる実態が明らかになってきた。
番組では、日本と中国の戦争を、経済的側面からひもとき、知られざる戦争の実相に迫る。

国内唯一の現役金鉱山「菱刈金山」:世界有数の超優良鉱床.txt

日経スペシャル「ガイアの夜明け」 9月2日放送 第329回
ゴールドを世界が狙う ~金争奪戦・・・日本の技術で挑め~
鹿児島空港から車で北に約1時間の場所にある、国内唯一の現役金鉱山、菱刈鉱山。住友金属鉱山が保有し、総延長100km以上にも及ぶ。かつて国内に300以上あった金属鉱山が次々と閉山に追い込まれる中で、菱刈が操業を続けていけるのは、金の品位が「世界でも稀に見るほど高い」から。菱刈で産出される鉱石1トンに含まれる金の量は40g以上。世界平均の約10倍だ。当初、推定埋蔵量は120トンだったが、いままでに既に約170トンの金を産出。まだ150トンは金が採れるという。実はこの鉱山、住友金属鉱山が「金の採掘学校」として、守り続けているヤマだ。年間採掘量を7.5トンに抑え、出来るだけ掘り尽くさないように気をつかってきた場所である。

○一般的に鉱山の寿命は20年前後

★菱刈鉱山(ひしかりこうざん)
鹿児島県伊佐郡菱刈町東部にある日本最大の金鉱山である。金だけではなく、銀も産出する。
菱刈町は、江戸時代において産金地であった。そのため、1970年代より金属鉱業事業団(現:独立行政法人 石油天然ガス・金属鉱物資源機構)が金鉱探査を行い、1981年に鉱脈を発見した。住友金属鉱山により1985年から採鉱が行われている。ここにおける産金量は年間国内産金量のほぼ全てを占めている。
菱刈鉱山における推定の金埋蔵量は、250tと推定され、これは国内の他の主要金山全てを合計したものを上回る大規模なものである。また、1997年には鉱山の累計産金量が国内トップ(83t)となった。
菱刈鉱山の金鉱石の特徴は、その高品位にある。通常の金鉱石の品位は、数グラム/tであるのに対し、菱刈のものは、鉱床探査の試錐で290グラム/t、鉱山の平均でも約50グラム/tと非常に高い。この鉱脈は、マグマの活動に伴う熱水の活動によって形成されたと推定されている。
また、従来の鉱山では、鉱内鉄道・トロッコを使用していたが、70年代以降、トラックを用いたマインレス方式が導入されつつあった。既存の花岡鉱山や釈迦内鉱山はこの方式に更新したが、菱刈鉱山では当初から鉱内において自動車を使用するなど、異なる方法が取られている。
同鉱山からの副産物である温泉は、湯之尾温泉へ供給されている。
菱刈鉱山の金脈発見が是川銀蔵の目に留まり、有名な仕手戦へと繋がった。周辺にも金脈があることを見抜いた是川は、これを住友金属鉱業に助言するが、同社はこれを無視したばかりか、周辺の土地が是川の手に渡ると、現在ならば証券取引法に抵触する詐欺まがい行為でこれを安く譲渡させた。もっとも、是川は株以外で儲ける気はなく、はじめから買値で譲るつもりだったが、打算的な住友にひどく落胆した。

九重“夢”大吊橋.txt

九重“夢”大吊橋(ここのえ“ゆめ“おおつりはし)は大分県玖珠郡九重町にある歩行者専用の吊り橋。日本一高く長い歩行者専用橋である。
概要
2006年10月30日に開通。高さ173m(水面より)、長さ390mで、歩行者専用橋としては日本一の高さと長さである。なお、「世界一の専用歩道橋」としてギネスブックへの登録申請も行われたが、これは認められなかった。幅員は1.5mで、大人1,800人の荷重に耐えるように設計されている。中央部の床版はすのこ状のグレーチングになっていて、下を見ることができる。
橋からは、日本の滝百選の震動の滝や、紅葉の美しい九酔渓(鳴子川渓谷)の雄大な景色を望むことができる。
開通が紅葉の時期にあたったこともあり、入場者は、開通9日後に10万人を超え、開通からわずか24日後に年間目標の30万人を達成した。その後、翌2007年4月10日には100万人を突破し記念セレモニーが行われた。同年9月16日には200万人、2008年4月4日には300万人を達成。これにともなって、入場料収入も順調で、総事業費約20億円のうち、7億3000万円の地域再生事業債は、予定より8年早く2008年9月に完済の予定である。
大分県では平成の大合併により町村数が47からわずか4に激減したが、九重町では他の自治体と合併せず「自律のまち」を目指しており、この橋は町の観光振興計画の柱となっている。現在のところ、入場者数は予想を大きく上回っているものの、観光客の町内での滞在時間が短いため、今後は、いかにして滞在型の観光地を形成していくかが課題である。町では好調な入場料収入を利用した施設の充実などに力を入れている。

日本の司馬遷?太田牛一.txt

太田牛一(おおた ぎゅういち)1527年 - 1613年3月
戦国時代の人物。和泉守。牛一が実名か号かどうかは諸説あるが、信定(のぶさだ)、とする説もある。通称は又助(またすけ)。また、実名を資房、信長の右筆であったとする説はよく見られるが実際は誤り。牛一の読みは、ぎゅういちと呼ばれているが、晩年に、本人が「ぎゅういち」から「うしかず」に名を改めたという説がある。
尾張国春日井郡山田荘安食村(現名古屋市北区)に生まれる。織田家家臣柴田勝家の下に仕えるが、弓の腕を認められ、織田信長の直臣となる。1564年、美濃斎藤氏の堂洞城攻略では弓をもって大活躍したという。その後は側近として、主に政治的手腕をもって内外の諸問題を広く治め、本能寺の変の際には近江国の代官を務めていた。変後には丹羽長秀に2000石をもって仕えたが、後に豊臣秀吉に召し出され、文禄2年(1593年)には弓大将として肥前名護屋に在陣。翌3年(1594年)、明使の接待をつとめ、慶長3年(1598年)の醍醐の花見では秀吉の愛妾三の丸殿の警護を務めた。慶長18年(1613年)3月、病死。子孫は孫の宗古が前田利常に仕え、以来加賀藩士として続いた。
文才に優れ、信長・秀吉・秀次・秀頼・家康の軍記などを著述したが、信長の一代記である『信長公記』が特に有名。晩年は、大阪天満にて隠居生活を送る。

米西戦争を観戦していた秋山真之.txt

日本海軍史上きっての戦略家といわれる秋山真之は、海軍兵学校を首席で卒業(第17期)。 日清戦争には砲艦筑紫の航海士として参加し、戦後アメリカに留学してマハン大佐の薫陶をうけ、米西戦争(1898年)では観戦武官を務めた。 米・英駐在の三年間に海軍の戦略・戦術・戦務の三概念を具体化し、帰国後海軍大学校教官となり普及させた。
1903年(明治36年)12月、第一艦隊兼連合艦隊参謀、日露海戦全期間を通じて連合艦隊の作戦主任を務める。
・旅順に停泊する太平洋艦隊に対する閉塞作戦
・バルチック艦隊に対する大回頭(俗にいう東郷ターン)及び丁字戦法
・七段構えの三段からの攻撃計画
などを提案し、日本海海戦では敵艦隊を殲滅し日本海軍を圧倒的な勝利に導く。
連合艦隊司令長官東郷平八郎は、真之を「智謀湧くが如し」と称え、上官たちも彼の頭脳の優秀さには舌を巻き、ほとんどの作戦を彼に一任していたという。
日露戦争後は「三笠」副長、「秋津洲」、「音羽」、「橋立」、「出雲」、「伊吹」と各艦長を務める。第一艦隊参謀長、海軍大学校教官、 1914年(大正3年)海軍省軍務局長となり、1916年軍令部出仕(欧米出張)、のち第2水雷戦隊司令官、将官会議議員。 第一次大戦では艦隊の地中海派遣を推進した。
1917年(大正6年)中将となるが健康が優れず待命仰付。翌年1918年2月、51歳の若さで逝去する。
出典:Z旗http://www.z-flag.jp/sakakumo/saneyuki/index.html#a
☆米西戦争(アメリカ=スペイン戦争戦争)
① プロローグ
1898年、アメリカがスペインの植民地であるキューバとフィリピンの独立革命に介入してスペインをやぶり、植民地をうばった戦争。米西戦争ともいう。
1868年キューバ人は独立のために立ち上がったが、結局勝利できず、78年に終結、スペインはキューバの改革を約束した。しかし、約束がまもられなかったため、95年にふたたび独立運動がはじまった。フィリピンでも96年カティプーナンによる独立革命がはじまった。
②アメリカによる干渉の背景
アメリカでは、人道的・経済的観点から、キューバの独立革命への干渉論が高まっていた。ピュリッツァーやハーストらがスペイン軍のキューバ人虐待を報道。革命による経済的権益の大きな被害も懸念され、実際、貿易の全面的な停止に直面した。
こうした情勢下、キューバ独立革命の支援をのぞむ国民の声は、連邦議会で支持される。クリーブランド大統領は干渉に反対し、後任のマッキンリー大統領も就任当初は反対の立場をとる。
1897年、スペイン首相サガスタは内乱解決の提案をおこなった。それは、キューバ人に部分的な自治権をみとめるとともに、残虐な監獄制度を廃止するというものだった。しかし革命勢力は、完全な独立を要求して活動を継続した。革命がつづくなか、アメリカの干渉をまねく事件が発生した。1898年2月15日アメリカ人の生命保護を目的にハバナ港へきていた戦艦メーン号が爆破、260名が死亡したのである。干渉論が高まるなか、マッキンリー大統領が4月20日、スペインのキューバからの即時撤退をもとめる連邦議会の決議を承認すると、これに対してスペインは24日、アメリカに宣戦を布告する。翌25日、アメリカ連邦議会も宣戦布告し、アメリカの行動は植民地獲得のためではないことを決議した。
③戦争の展開とその結果
1898年5月1日、フィリピンのマニラ湾に停泊していたスペイン艦隊は、アメリカのアジア艦隊の攻撃をうけ、壊滅した。他方、キューバでは7月1日に陸上部隊がキューバ革命軍の支援をうけてサンティアゴデクーバを包囲。7月3日にはサンティアゴデクーバへのアメリカ軍による海上封鎖を突破しようとしたスペイン艦隊を撃破し、サンティアゴデクーバは陥落した。アメリカ軍はさらに攻勢をかけ、プエルトリコを占領し、スペイン政府は7月18日、休戦を要請した。 1898年12月10日にパリで調印された講和条約によって、スペインはキューバの領有権を放棄し、フィリピン、プエルトリコ、マリアナ諸島のグアム島をアメリカに割譲することになった。この戦争の結果、アメリカは列強入りをはたした。
アメリカは独立革命への支援を大義名分に介入したが、パリ講和会議にフィリピンとキューバ代表はまねかれず、戦後にキューバはアメリカ占領軍の管理下におかれ、1902年に独立をはたすものの、実質的にはアメリカの保護国となった。フィリピンは1898年に独立、99年に共和国となるが、フィリピン・アメリカ戦争によって結局アメリカの植民地となった。また長い間、不明とされてきたメーン号爆破事件の原因については、1969年、アメリカ海軍当局がエンジン部分の故障による爆発だったとの調査結果を公表している。

写真をイラスト化してくれるサイト「BeFunky」.txt

写真をイラスト化してくれるサイトで、PC内の写真をサイトにアップするだけで、イラストレーターが書いたような作品にしてくれる。
文化祭やパンフレット、学校新聞などでいろいろ使えそうです。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51081669.html
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。