ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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ブラジル移民から100周年.txt

ブラジルへの移民
日系ブラジル人女性日本人のブラジルへの正式な移民は、1908年に神戸港を出港した笠戸丸に始まる。当時、土地が有り余るブラジルでは農業労働者が不足しており、日本の農村は貧しく、大日本帝国政府が海外への移民を奨励したものの、1920年代に入ると、それまで最大の日本人移民の受入国であったアメリカにおける日系人に対する人種差別の激化と、それに伴う黄禍論の勃興などにより日本人移民の受け入れを実質禁止したこともあり、ブラジルが最大の日本移民受入国となった。
日本人移住者の多くは、多くの移民船の最終目的地となったサントス港を外港とするブラジル最大の都市であるサンパウロ市周辺のコーヒー農園で働き、現在もサンパウロの日本人街、リベルダージを中心とするサンパウロ周辺に日系人が多い。
第二次世界大戦ではブラジルは連合国の1国となり、枢軸国の1国の日本と国交を断絶し、ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領の命令のもと日本語新聞や日本語学校を禁止した。戦後には、在留する日系人の間で、日本の敗戦を受け入れたものと受け入れないもの同士による分裂、いわゆる「勝ち組」と「負け組」の問題が発生した。
○高い評価
戦後もアルゼンチナ丸などの移民船で移民した日本人は多い。移民総数は25万人に達し、その子孫である2世、3世は、その勤勉さと教育程度の高さから社会的地位が高い職業についているケースが多く、政・官界や経済界のみならず、医師、弁護士、教員、芸術、文化、スポーツ等を含む広範な分野に進出しており、1960年代以降に多くの日本企業がブラジルに進出した際には、これらの日系ブラジル人と、日系ブラジル人がブラジルに作り上げた「日本人は勤勉」、「日本人は信用できる」という評価が日本企業のブラジル進出と市場への浸透を容易にしたと高く評価されている。
ブラジル及びラテンアメリカ諸国全体で見ても屈指の大学とされるサンパウロ大学の学生のうち、約15パーセントが日系人の子弟であるが、1パーセントに満たない日系人の人口比からみて、それがいかに高いものかがわかる(ただし、サンパウロ州としてみれば総人口に占める日系人の比率は2パーセント強であり、サンパウロ大学の本キャンパスが所在するサンパウロ市にいたっては総人口の5パーセント強は日系人であるという点、ブラジルの中でも日系人が偏在しているサンパウロ州周辺の南東部・南部地域が他の地域に比べ高等教育を受けやすい地域でもある)。現在は4世、5世も誕生し、完全にブラジル社会に同化している。
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SUMMER TRIP(2008年8月).txt

1.東京:靖国神社・遊就館、国会議事堂(参議院見学)、銀座アップルストア
☆遊就館
靖国神社境内に併設された、同社の祭神ゆかりの資料を集めた宝物館(博物館法の適用外)。幕末維新期の動乱から太平洋戦争(大東亜戦争)に至る戦没者、国事殉難者を祭神とする靖国神社の施設として、戦没者や軍事関係の資料を収蔵・展示している。1882年(明治15年)に開館した、日本における「最初で最古の軍事博物館」
★有楽町の東京国際フォーラム
その空間は巨大な船のような形状でしばし圧倒される。
でもあまり評判はよろしくないようで(苦笑)・・・。
国際建築家連合(UIA)の基準に基づく国際公開コンペが行われ(国内初)、設計者は建築家ラファエル・ヴィニオリに決まった。ガラスの吹き抜けホール(ガラス棟)は船を題材にしており、その巨大な外観がとともに、構造を露出した内部が象徴となっている。一方、新都庁舎と同様に、「バブル景気の遺産」「税金のムダ遣い」との批判もある。

2.滋賀県
①彦根城:国宝に指定
★国宝4城
彦根城(滋賀県彦根市)・犬山城(愛知県犬山市)・姫路城(兵庫県姫路市)

②安土城:これまで見た城の中でもっとも印象に残った。あまり手をつけられていない。見る者の想像力をかきたてる城だ。
★注目は本丸にあったといわれる「御幸の間」
『信長公記』 には「御幸の間」が安土城本丸にあったという記載がある。
信長は天皇を安土城のこの御幸の間に招こうとしていたという。『晴豊記』には「行幸に使う馬と鞍の用意が出来た。」という一文が。もし本能寺の変がなければ、正親町天皇は安土城に行幸していただろう。それまで都を離れたことがなかった正親町帝を安土に招くことは権力関係において、信長が天皇と対等もしくはそれ以上にあることの誇示だったのだろうか。
☆信長が正親町天皇に譲位を要求したとする説
正親町天皇は天正元年(1573年)頃から信長にその存在を疎まれるようになる。そして、たびたび譲位を要求されるようになる。同年12月8日の『孝親日記』にその事が記されている。また、2年後には譲位後の御所の予定地を探していたともされた。信長としては、儲君の誠仁親王を早く天皇にすることで、より朝廷の権威を利用しやすいものにしようという思惑があったようである。しかし、天皇はそれを最後まで拒んだ。ちなみに本能寺の変に関する一説として朝廷関与説が浮上するのも、このような事情によるものである。

③佐和山城:「三成に 過ぎたるものが二つ有り 島の左近に 佐和山の城」
佐和山城の石垣の石などは、関ヶ原後に近江彦根を与えられた井伊家が彦根城築城の際に流用した。
★島左近
筒井順慶に仕えるものちに隠遁。対等な立場で仕官を願う石田三成に感銘を受け、三成の所有する知行の半分近くの高禄を与えられ召し抱えられる。こうした噂が噂を呼び、「三成に過ぎたるものが2つあり。島の左近に佐和山の城」とうたわれるほどに。東西分け目の関ヶ原の合戦では三成率いる西軍の屋台骨として支えるも、小早川秀秋らの裏切りにより大敗。関ヶ原で露と消えたものと思われるが、結局島の首は見つからなかった
④近江八幡:和菓子の町?
⑤比叡山延暦寺
延暦寺の武装化
延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と言っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたのである。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿(当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった)をかついで強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの言い分を通していた。
このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力をも持っており、時の権力者を無視できる一種の独立国のような状態であった。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺のそれと並び称せられ、南都北嶺と恐れられた。

3.京都

日本で最初の金貨は?.txt

甲州金(こうしゅうきん)は日本で初めて体系的に整備された貨幣制度およびそれに用いられた金貨である。
戦国時代に武田氏の領国甲斐国などで使われ始め、文政年間まで鋳造されていた。武田晴信(信玄)によって制度が整えられたとも言われており、大小切税法(だいしょうぎりぜいほう)、甲州桝(こうしゅうます)と併せて甲州三法と呼ばれている。
金山経営は、新田開発とともに戦国大名の軍事行動の基盤となる富国強兵政策であるが、甲斐においても最盛期を迎えていたと言われる大菩薩嶺の黒川金山(旧塩山市鶏冠山、現甲州市)や西八代郡の湯之奥金山や中山金山、北巨摩郡の御座石金山、南巨摩郡の保金山などに代表される本国の金山に加え、諏訪郡の金鶏金山や駿河の富士金山や安倍金山など、直轄領拡大で接収された他国の金山で産出され、晴信時代の対外的軍事行動を支え、あるいは金鉱の衰えと勝頼時代の衰退を関係付ける論説も存在する。金山衆は武田氏とも知行関係が不明瞭であり直接経営に疑問視もされているが、近年では金山衆は棟別役や諸役の免除など保護を受け、金鉱採掘のほか農業や商業を営み、採掘技術を活かし合戦における坑道掘りなどの軍役や普請事業にも従事していた集団であることが明らかにされている。武田氏滅亡後には、金山衆は徳川家康により保護されている。
採掘された金は灰吹法により碁石形に精錬され、後には形態も多様化し産地を示すようになった。金銀は戦費の補填のほか、中央権門や有力寺社、他国への贈答としても使用された。

映画『クライマーズ・ハイ』と谷川岳(群馬県).txt

★映画雑感『クライマーズ・ハイ』
この谷川岳のクライミングのシーンもある映画『クライマーズ・ハイ』を見た。
『クライマーズ・ハイ』では谷川岳のクライミングのシーンも見所のひとつとなっている。個人的には現在までの2008年度ベスト3(1位は『告発のとき』)に入る秀作だった。詳しい批評は前田氏のレビュー
http://movie.maeda-y.com/movie/01135.htmを読んでいただくとして、昨今の邦画の充実ぶりを物語っている。
「フラワーガール」「ALWAYS 三丁目の夕日」などエンターテイメント路線のいい流れをくんでいるのかもしれない。
かつて邦画というと予算が少ないとか、私小説的で自己満足というイメージがあった。しかし、今ではハリウッド映画にも引けを取らない作品もでてきている。
8月30日に公開予定の『20世紀少年』の予告編も見たのだが、これもいい意味で予想を裏切ってくれる作品になりそうだ。特に豊川悦治のオッチョは瓜二つ。

★谷川岳(たにがわだけ):世界でもっとも遭難者が多い山
群馬県利根郡みなかみ町と新潟県南魚沼郡湯沢町の境の三国山脈にある標高1,977mの山。日本百名山の一つ。
もともとは、トマ・オキの二つ耳と呼ばれ、隣の俎品(マナイタグラ)のことを谷川岳と呼んでいた。しかし、国土地理院5万分の1の地図での誤記により、トマ・オキの二つ耳(つまり2つの頂上)のことを谷川岳と呼ぶようになった。実際には、近くの一ノ倉岳など、周囲の山域を含めて、谷川岳と呼ばれている。トマの耳(標高1,963m)は薬師岳、オキの耳(標高1,977m)は谷川富士という別称を持つ。
標高は2,000mにも満たないが険しい岩壁と複雑な地形、中央分水嶺のため変化の激しい天候、また一ノ倉沢を始めロック・クライミングのメッカでもあるため、遭難者の数も群を抜いて多い。昭和6年(1931年)から統計が開始された谷川岳遭難事故記録によると、2005年までに781名もの登山者が遭難死という飛びぬけた数は、日本のみならず、世界のワースト記録を保持している。ちなみにエベレストのそれは178人である。
1960年には岩壁での遭難事故で救助隊が近づけず、災害派遣された陸上自衛隊の狙撃部隊が一斉射撃してザイルを切断。遺体を収容したこともあった。(谷川岳宙吊り遺体収容)
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