ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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日本贔屓となったシュリーマン.txt

シュリーマンが日本を訪れたのは1865年、つまり明治維新の3年ほど前の6月であった。
彼の日本人好きが決定的になったのは、税関の役人である武士の清廉さに出会ったことである。役人は彼に荷物を開けるように求めた。シュリーマンはこれを免れるため役人に金を渡そうとする。役人は「自分は日本男児であるから、心づけにつられて義務をないがしろにするのは尊厳にもとる」とその賄賂の受け取りを拒否した。にもかかわらず、役人は最初から最後まで礼儀正しく好意的で親切だった。清国の役人の腐敗ぶりに辟易していたシュリーマンには驚きだった。
「教育はヨーロッパ以上に行き渡っている。シナを含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対して、日本では、男も女も皆仮名と漢字で読み書きができる。」とシュリーマンは日本の教育制度を賞賛している。。
実際、幕末当時、日本には1万5千の寺子屋があり、武士は100%、庶民男子50%、女子20%、江戸市中で70%の識字率で、当時のロンドンの識字率30%を断然凌駕し、世界一であった。
シュリーマンは「ここでは君主がすべてであり、労働者階級は無である。にもかかわらず、この国には平和、満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地がある」とも述べている。
引用:文藝春秋8月号「シュリーマンと日本」但木敬一氏

★ハインリッヒ・シュリーマン(1822年1月6日 - 1890年12月26日)
①生い立ち
プロイセン王国のメックレンブルク・シュヴェリン州(現メクレンブルク=フォアポンメルン州)ノイブコウ生まれ。父エルンストはプロテスタントの説教師で、母はシュリーマンが9歳のときに死去し、叔父の家に預けられた。13歳でギムナジウムに入学するが、貧しかったため退学して商人の徒弟になった。
貧困から脱するためベネズエラ移住を志したものの、船が難破してオランダ領の島に流れ着き、オランダの貿易商社に入社した。1846年にサンクトペテルブルクに商社を設立し、翌年ロシア国籍を取得。さらにゴールドラッシュに沸くカリフォルニア州サクラメントにも商社を設立して成功を収める。クリミア戦争に際してロシアに武器を販売して巨万の富を得た。
②トロイア発見
シュリーマンらによるミケーネの調査(1885年頃)幼少のころにホメロスの『イーリアス』に感動したのが、トロイア発掘を志したきっかけであるとされている。自身の著作にそのような記述あることから、長年、信じられてきたが、近年の研究では功名心の高かったシュリーマン自身の創作にすぎないことが判明している。発掘当時は「トロイア戦争はホメロスの作り話」と言われ、トロイアの実在も疑問視されていたというのもシュリーマンの著作に見られる記述であり、実際には当時もトロイの遺跡発掘は行われていた。シュリーマンの「トロイア実在説」は、当時からして、けして荒唐無稽なものではなかった。彼は、発掘調査費を自弁するために、貿易などの事業に奔走しつつ、「イーリアス」の研究と、語学にいそしんだと、自身の著作に何度も書き、講演を繰り返した。発掘調査に必要な費用が用意できると、1856年にさっさと事業をたたみ、世界旅行に出て中国や日本を訪問した(後述)。ソルボンヌ大学やロストック大学に学んだのち、ギリシアに移住して17歳のギリシア人女性ソフィアと再婚し、トルコに発掘調査の旅にでたというのは事実だが、最初の結婚の失敗、30才も年下の女性と結婚したことによるアイデンティティ・クライシス、戦争終結による事業の見通しの暗さがトロイア遺跡発掘へのきっかけと言われる。
彼は「イーリアス」を読み込んだ結果、トロイア城はヒサルルクの丘にあると推定した。1870年に無許可でこの丘の発掘に着手し、翌年正式な許可を得て発掘調査を開始した。1873年にいわゆる「プリアモスの黄金」(トロイアの黄金)を発見し、伝説のトロイアを発見したと喧伝した。この発見により、古代ギリシアの前史時代の研究が大いに進むきっかけとなった。
彼は発掘の専門家ではなく、当時は考古学なるものの存在も皆無に等しかったため、発掘技術にも限界があった。発掘にあたって、シュリーマンはオスマン帝国政府との協定を無視し出土品を国外に持ち出したり私蔵するなどした。発見の重大性に気づいたトルコ政府が発掘の中止を命じたのに対し、イスタンブルに駐在する西欧列強の外交官を動かして再度発掘許可を出させ、トロイアの発掘を続けた。こうした不適切な発掘作業のため遺跡にはかなりの損傷がみられ、現在までドイツやアメリカの考古学者によって再発掘が続けられ、考証が進んでいる。
③ギリシア考古学の父
シュリーマンは、発掘した遺跡のうち下から2番目(現在、第2市と呼ばれる)がトロイア戦争時代のものだと推測したが、後の発掘で実際のトロイア戦争時代の遺跡は第7層A(下から7番目の層)であることが判明した。第2層は実際にはトロイア戦争時代より約1000年ほど前の時代の遺跡だった。これにより、古代ギリシャ以前に遡る文明が、エーゲ海の各地に存在していたということをも証明した。
また彼は、1876年にミケーネでアガメムノンのマスクのような豪奢な黄金を蔵した竪穴墓を発見している。1881年にトロイアの黄金をドイツ国民に寄贈してベルリンの名誉市民となった。建築家ヴィルヘルム・デルプフェルトの助力を得てトロイア発掘を継続する傍ら、1884年にはティリンスの発掘に着手。1890年、旅行先のナポリの路上で急死し、自宅のあったアテネに葬られた。
④人物・その他
音読により文章を丸暗記することで多国語を理解し、ドイツ語のほか、英語、フランス語、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語、スウェーデン語、イタリア語、ギリシア語、ラテン語、ロシア語、アラビア語、トルコ語に詳しかった。
清国(当時の中国)に続き幕末の日本を訪れ、著作"La Chine et le Japon au temps present"の中で鋭い観察眼を披露して見せた。本書においてシュリーマンは、清とは反対に日本の文化・風俗を絶賛している。
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汗血馬の血を引くサラブレッド.txt

張騫の情報に、中央アジアの大宛国に汗血馬という名馬を産するというものがあった。匈奴の騎兵部隊と互角に戦うために優秀な馬が欲しい。そう考えた武帝は、汗血馬を入手するために、李広利将軍に大宛遠征を命じた。6万の兵を率いて出発した李広利軍は、わずかに1万に減ってしまったが、3千頭の汗血馬を連れていた。武帝はこれを繁殖させ、対匈奴戦争に利用したのであろう。
大宛の汗血馬は、のちに西アジアで品種改良されアラブ馬になり、さらにイギリスで在来種と交配されてサラブレッドとなった。武帝が汗血馬を喉から手が出るほど欲しがったのも頷ける。
引用:「よくわかる高校世界史の基本と流れ」浅野典夫氏

★汗血馬(かんけつば)
中国の歴史上で名馬といわれた馬の種類。「血のような汗を流して走る馬」という意味で「汗血馬」と呼ばれる。
前漢の武帝時代に、西域への大旅行をした張騫の報告により、大宛(フェルガナ)にこの名馬が産することを知り、外交交渉でこれを手に入れようとしたが、決裂したので遠征軍を送り、これを得た。武帝は汗血馬を得た喜びのあまり「西極天馬の歌」を作らせて「天馬」と汗血馬のことを褒め称えた。甘粛省武威市の雷祖廟雷台漢墓から出た有名な馬の銅像・「馬踏飛燕」(ばとうひえん)はこの馬をモデルにしたと言われる。
汗血馬は一日に千里(約500km)を走ると言われている。もちろんこれは誇張であろうが、現存するアカール・テケ(アハルテケとも)という品種は4152kmを84日間で走破したという記録が残っており、この馬は汗血馬の子孫ではないかと言われていている。
『三国志演義』に登場する名馬・赤兎馬はこの汗血馬をイメージしたのではないかと思われる。

☆サラブレッド Thoroughbred
イギリスで交配されてつくられたウマの品種。現在は大部分が競馬用につかわれている。サラブレッドの起源は、1689~1724年にかけてイギリスに輸入された中東産のアラブ種や北アフリカ産のバーバリー種の牡馬(ぼば)を、在来種の牝馬(ひんば)と交配させたことにはじまる。もともとは狩猟用の馬を改良するためにかけあわされたが、改良の過程で馬の能力を確認するためにおこなった競馬競走がしだいにサラブレッド生産の主目的となっていった。1780年にイギリスの貴族、第12代ダービー卿スタンリーが創設した3歳サラブレッドによるダービーは、その代表的なレースである。

幻の第11代将軍徳川家基.txt

徳川 家基(とくがわ いえもと)
江戸幕府第10代将軍徳川家治の長男。家治と家治の側室お知保の方との間に生まれたが、大奥女中の広橋の願いもあり、男子のいなかった家治の正室・倫子の養子となって成長した。
○生涯
幼年期より聡明で文武両道の才能を見せる。成長により政治にも関心を持ち参画する姿勢を表し、老中田沼意次の政治を批判している。
しかし、安永8年(1779年)、鷹狩りの帰りに立ち寄った品川の東海寺で突然苦しみ出し、三日後に急死、享年18(満16歳没)。その突然の死は、家基の将軍就任によって失脚する事を恐れた意次による毒殺説、嫡子・豊千代に将軍家を継がせたい一橋家・徳川治済による毒殺説など多くの暗殺説を生んだ。父・家治は、自らの後継ぎがいなくなったため、食事も喉を通らなくなるほど嘆き悲しんだという。
徳川宗家の歴史の中で唯一「家」の一文字を賜りながら早世したため、「幻の第11代将軍」とも言われる。

西南戦争に西郷軍が敗れた理由.txt

西南戦争:日本史上最大の内戦
政府軍(官軍)は農家の次男坊三男坊以下の農家出身者や、商家出身者が多く、10年前までは刀を持てない人々だった。その様な軍隊に士族を中心とした薩軍が負ける訳が無いと甘く見ていた。
そして西郷隆盛が出陣すれば、前の陸軍大将・近衛都督・参議の威光を持って、熊本城は無血開城し鎮台兵は薩軍に吸収できると思っていた。
このことは幹部達の次の発言にも示されている。
・桐野利秋「熊本城は、この青竹でひとたたきごわす」
・別府晋介「別に方略ナシ、ただ一蹴して通るのみ」
・篠原国幹「このくらいの城1つ落とすのに、何の戦策も戦略もいりもはん」 
また情報戦略や資金面での差も見逃せない。薩摩軍は馬による伝言だったのに対して、政府軍は電話を利用しており正確な状況を前線から司令部に送ることができた。資金では政府軍は薩摩軍の10倍以上の資金があった。装備では新政府は近代兵器を装備していたが、西郷軍は旧式兵器と抜刀による切り込み戦術
で戦った。
職業軍人としての「武士」の時代は過ぎ、近代国家としての国民皆兵制による「兵隊」に圧倒されたのである。
刀や槍、弓は鍛錬した者が扱える武器ですが、鉄砲は誰でも一定の訓練を施せば扱うことができる。この武器の進歩は膨大な「兵力」を増やし、その数で西郷軍を圧倒できた。
太平洋戦争で日本が米国の物量に圧迫されたのに類似しているかもしれない。

☆西南戦争
①プロローグ
1877年(明治10)、西郷隆盛を中心に九州でおこされた最大で最後の士族反乱。西郷隆盛らの反乱の意図と目的については諸説あるが、一般に江戸時代の支配層である士族を中心とする国家体制の確立をもとめ、大久保利通らによる官僚支配体制の打倒をめざしたといわれている。
明治政府は、次々におこる士族反乱をおさえ、西南戦争でも全力で勝利した。しかし、大量の政府紙幣を発行してまかなった戦費の償却にくるしみ、殖産興業政策や国立銀行設置など金融制度の修正をせまられることになった。西南戦争後は、国内から軍事的脅威がなくなったため、政府の権力基盤はかたまり、反政府運動は言論を主とする自由民権運動が主流となった。
②独立国のようになった鹿児島県
西郷隆盛が鹿児島県士族ら不平士族の象徴となった背景には戊辰戦争での活躍があり、直接的には、1873年に朝鮮使節派遣をめぐって西郷ら征韓派がいっせいに政府の要職をやめた明治6年の政変がある(→ 征韓論)。西郷の帰郷後、多くの鹿児島県出身の官僚・軍人も帰郷し、彼らは各地に私学校という士族の教育・救済組織をつくり、鹿児島県は独立国のようになった。士族反乱は74年から各地で組織的な武力蜂起となったが、農民一揆と協力する考えはなく、蜂起する士族間の密接な連絡もなかった。私学校派士族たちも、同年の佐賀の乱で首謀者となった江藤新平の助力要請をことわり、76年10月にあいついでおきた神風連の乱、秋月の乱、萩の乱も傍観していた。政府からは最大の反政府勢力とみられ、極度の緊張関係におかれる。
1877年1月、反乱をおそれた政府が県内の陸軍火薬庫からひそかに兵器と弾薬をはこびだそうとして、私学校派士族たちにうばわれる事件がおきる。さらに、内部離反をねらったとみられる政府の密偵が摘発され、2月ついに西郷ら鹿児島県士族は西郷暗殺計画が発覚したことを名目に戦争を開始した。
③戦況の推移
鹿児島県から熊本鎮台へむかって北上した西郷軍に、九州各地から多くの不平士族が参加した。西郷軍は熊本城におかれた熊本鎮台を包囲、博多から南下した政府軍とはげしくたたかうが、田原(たばる)坂で敗退して防衛線をやぶられると、その後は守勢にまわり、海軍による輸送力で次々と員数をます政府軍におされることになった。
西郷軍は徴兵制による政府軍の力を軽くみていたが、彼らは新式装備でかため、とくに火力で圧倒した。西郷軍は熊本県南部から宮崎県を転戦したが、ささえきれずに6月末に解散。一部は西郷をまもって包囲をやぶり、鹿児島の城山にこもったが、9月末、西郷以下おもなものが自刃・戦死して終結した。政府陸軍は約6万人を動員して約1万7000人の死傷者をだし、西郷軍は農民からの徴募兵や不平士族隊をふくめて約4万人のうち約1万5000人の死傷者をだした。

アステカ文明と生け贄(人身御供).txt

神殿で生け贄の儀式が行われた。神に仕える神官が生け贄(奴隷など)
の胸をナイフで切り裂き、心臓を取り出して神に捧げた。

☆アメリカ大陸と人身御供☆
アステカ人は「太陽の不滅」を祈って、人間の新鮮な心臓を神殿に捧げた。ほかに豊穣、雨乞いを祈願して、捧げられることもあった。しかしその一方では、これら生贄に捧げられる事が社会的にも名誉であると考えられていたとされ、球技によって勝ったチームが人身御供に供されるといった風習も在った模様である。
生贄は石の台にのせられ四肢を押さえつけられ、生きたまま火打石のナイフで心臓をえぐり取られたとされる。生贄の多くは戦争捕虜で、生贄獲得のための花戦争も行われた。選ばれた者が生贄になることもあり、稚児が神に捧げられることがあった。ただアステカはこのような儀式を毎月おこなったため、一説にはこれにより社会が弱体化、衰退したとも言われている。
インカでも、同種の太陽信仰に絡む人身御供を行う風習があったが、これらの生贄は社会制度によって各村々から募集され、国によって保護されて、神への供物として一定年齢に達するまで大切に育てられていたという。なおこれらの人々は旱魃や飢饉などの際には供物として装飾品に身を包んで泉に投げ込まれるなりして殺された訳だが、そのような問題が無い場合には生き延び、一定年齢に達して一般の社会に戻った人も在ったという。ちなみにマヤ文明の遺跡で有名なククルカンの神殿と聖なる泉は、干ばつになった時の生け贄の儀式と関係があった。日照りは雨の神ユムチャクの怒りによるものだと考えられていたため、14才の美しい処女を選び、少女は美しい花嫁衣裳を身にまとい、儀式の後、聖なる泉に生け贄を護衛するための若者が飛び込み、その後貢物も投げ込まれていた。
その一方で、アステカ同様に稚児が捧げられる事もあった。この場合には、やはり特別に募集され育てられていた稚児は、より神に近いとされる高山にまで連れて行き、コカの葉を与えて眠らせた後に、頭を砕いて山頂に埋められた。特にこれらの生贄では、装飾された衣服に包まれたミイラも発見されている。
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