ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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冊封国の義務は毎年の朝貢、中国の元号や暦の使用。そして相互の出兵。.txt

中国王朝と冊封体制
冊封(さくほう)とは、中国王朝がその周辺諸国と君臣関係を結ぶことをいう。この冊封によって、形式的に中国皇帝の臣下となった国を「冊封国」という。
冊封関係を結んだからといって、冊封国が中国の領土となるわけではないが、冊封国には毎年の朝貢、中国の元号や暦を使うことが義務づけられた。また、中国から出兵を要請された場合は、それに従い、逆に冊封国が攻撃を受けた場合は、中国に救援を求めることができた。前漢から清代まで、朝鮮をはじめ東アジアの国々のほとんどが冊封国となった。日本が5世紀以外に冊封国にならなかったのは、海を隔てていた地理的条件が第一だろう。
出典:漫画版日本の歴史(2)〔集英社文庫〕
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大海人皇子(→天武天皇)によって始められた大嘗祭.txt

☆大嘗祭☆
天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭。一代一度限りの大祭であり、実質的に践祚の儀式。大嘗祭を斉行することで、新しい天皇は真の天皇になると信仰された。践祚大嘗祭ともいい、「だいじょうさい」「おおむべのまつり」とも呼ぶ。
毎年11月に、天皇が行う収穫祭を新嘗祭という。その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇自らも食す新嘗祭のことを、古くは「毎年の大嘗」と称した。当初は通常の新嘗祭と区別されなかったものの、後に即位後初めて一世一度行われる祭として、「毎世の大嘗」「大嘗祭」として重視された。大嘗祭と新嘗祭が区別されたのは、天武天皇の大嘗祭のときとされる。
大嘗祭の儀式の形が定まったのは、7世紀の皇極天皇の頃とされる。律令制が整備されると共に、祭の式次第など詳細についても整備された。延喜式に定められたもののうち「大祀」とされたのは大嘗祭のみである。
延喜式に式次第が定められた後も、多少変化した。室町時代末期、戦国時代には、皇室朝廷の窮乏や戦乱のため、延期または行われなかったことなどもあるものの、天皇の代替わりに伴う重要な祭儀として、古くから継承されてきた。
最近では、1990年(平成2年)11月に、今上天皇の即位に伴う大嘗祭が行われた。日本国憲法に政教分離が定められているため(20条3項、89条)、即位の礼に関わる儀式が国事行為とされたのに対し、大嘗祭に関わる儀式は皇室の行事(私的行為)とされた

☆新嘗祭(にいなめのまつり、にいなめさい、しんじょうさい)とは、11月23日に、天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に勧め、また、自らもこれを食して、その年の収穫を感謝する祭儀。宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われる。
秋に新穀を供えて神を祭る稲作儀礼である。
飛鳥時代の皇極天皇の御代に始められたと伝えられている。一時中断されたが、元禄時代の東山天皇の御代に復活した。1873年の太陽暦採用以前は旧暦の11月の2回目の卯の日に行われていた。1873年から1947年までは大祭日となっていた。
戦後は、勤労感謝の日として国民の祝日となった。新嘗祭自体は伊勢神宮及びそれに連なる神社の祭儀となり、伊勢神宮には天皇の勅使が遣わされて、大御饌(おおみけ:神が召し上がる食事)を供える形式となった。

二宮金次郎を村上龍が語る.txt

農村の出身で、幼いときに洪水が原因で田畑を失い、その後相次いで両親も失う。その後ずっと、決壊した堤防の辺りを彼は歩き回ってばかりいるわけ。
周りからは、「あいつは気が触れている」と言われながら、二宮金次郎はなぜ両親を失わなければならなかったのか、ずっと考えていたらしいんだよ。
もともと貧しい農家の出身なんだけど、彼は勉強して小田原藩に入るんだよね。
その小田原藩が、今の栃木県に領地を持っていたらしいんだけど、村の土地が
すごく疲弊していて農民が年貢を納められない。そこで「おまえが行って立て直してこい」と言われて、二宮は行くわけ。
そこでまず彼がやったのは、一生懸命働いている農民とそうでない農民にがいたら、一生懸命やっている農民を徹底的に褒めて、年貢の量も1/4にした。
それまでは、とても無理な年貢が課せられていたんだけど、「これではやる気
が起きないから」と小田原藩主に掛け合って、やる気が起きる範囲の年貢にして貰った。
それから、木の株を掘るような地味な仕事をしていた、貧しくて家もないおじいさんに家をあげたりして、要するにモチベーションを与えたわけだよ。
やったことはほとんどカルロスゴーンに近いんだよ。
その後、日本の歴史では有名な天保の大飢饉が起きる。ただ、金次郎はかつて
堤防を毎日のように歩き回っていたから、自然の異変にもいち早く気づいた。
葉っぱの先が白くなっているのを見て、その年は寒い夏がくることがわかっていた。そこで村人達にコメではなくて、粟や稗を半年分生きられるだけ、ためておけと指示する。そのおかげで飢饉になっても、村は助かった。
もちろん他の地域では飢饉はあちこちで起きていて、日本中で何十万人という死者がでるほどだった。その最中今度は小田原で飢饉対策を進めるんだよ。
人々を、難がほとんどない無難という人と、難が中程度の中難の人、食べるものが全くない極難の人に分けるわけ。そして今で言うファンドを作った。
極難の人たちが飢え死にすると藩全体が疲弊して、結局はあなたたちも損をするといって、小田原藩全体からコメやお金を集めて回った。お金は4000両くらい集めて、その金でコメを買いお粥をつくって極難の人たちに食べさせた。
結果的に小田原藩は1人の餓死者も出さなかった。
これで金次郎は一気に有名になって、その後、幕府に抜擢され、日本中の村々をまわって立て直したんだ。

父が式部省(現在の文科省)の役人なので、ペンネームが紫式部.txt

☆紫式部☆
平安時代中期の女性作家、歌人。源氏物語の作者として有名である。中古三十六歌仙の一人。『小倉百人一首』にも「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」で入選。
藤原北家の出で、女房名は「藤式部」。「紫」の称は『源氏物語』の作中人物「紫の上」に、「式部」は父が式部大丞だったことに由来する。
①プロフィール
紫式部の本名は不明であるが、「御堂関白記」の寛弘4年正月29日の条において掌侍になったとされる記事のある「藤原香子」(かおりこ/たかこ/こうし)との説もある。但し、この説は仮定を重ねている部分も多く、推論の過程に誤りが含まれているといった批判もあり、仮定の域を出るものではない。
②略伝
紫式部石像(石山寺)越後守藤原為時の娘で、母は摂津守藤原為信女であるが、紫式部の幼少期に母を亡くしたとされる。同母の兄弟に惟規がいるほか、姉の存在も知られる。三条右大臣定方、堤中納言兼輔はともに父方の曽祖父で、一族には文辞を以って聞こえた人が多い。
幼少の頃より、当時の女性に求められる以上の才能で漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多い。五十四帖にわたる大作『源氏物語』、宮仕え中の日記『紫日記』を著したというのが通説、家集『紫式部集』が伝えられる。
父・藤原為時は30代に東宮の読書役を始めとして、東宮が花山天皇になると蔵人、式部大丞と出世したが、花山天皇が出家すると失職した。10年後、一条天皇に詩を奉じた結果、越前国の受領となる。紫式部は娘時代の約2年を父の任国で過ごす。長徳四年(998年)頃、親子ほども年の差がある山城守藤原宣孝と結婚し、長保元年(999年)に一女・藤原賢子(かたいこ・けんし)(大貳三位)を儲けたが、この結婚生活は長く続かず、まもなく宣孝と死別した。寛弘二年(1005年)12月29日より、一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の長女、のち院号宣下して上東門院)に女房兼家庭教師役として仕え、少なくとも同八年頃まで奉仕し続けたようである。
『詞花集』に収められた伊勢大輔の「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」という和歌は、宮廷に献上された八重桜を受け取り、中宮に奉る際に詠まれたものだが、『伊勢大輔集』によればこの役目は当初紫式部の役目だったものを式部が新参の大輔に譲ったものだった。
藤原実資の日記『小右記』長和2年5月25日条で「『越後守為時女』として皇太后彰子と実資の取り次ぎ役を務めた」との記述が紫式部で残された最後のものとなる。よって三条天皇の長和年間(1012年-1016年)に没したとするのが通説だが、異見もある。
なお、伝・紫式部墓が京都市北区紫野西御所田町(堀川北大路下ル西側)に残る。
現在、日本銀行D銀行券 2000円札の裏には小さな肖像画と、『源氏物語絵巻』の一部分が使用されている。
ユネスコ(国際連合教育科学文化機関=UNESCO)偉人暦に日本人として唯一人名を連ねている。

康煕帝の印章に9億円 過去最高、仏で落札.txt

2008.6.14 23:14
 フランス南部トゥールーズで14日、清の康煕帝(在位1661~1722年)の印章が競売に掛けられ、約560万ユーロ(約9億3000万円、競売関連経費を含む)で落札された。関係者によると、印章の落札価格としては過去最高とみられ、欧州で競売された中国の品としても最高額という。フランス公共ラジオが伝えた。
 電話で競売に参加した中国人が落札した。凍石製で3キロ近くの重さがある。康煕帝の印であることを示す6つの漢字が刻まれているという。落札予想価格は100万~250万ユーロだった。
 印章はトゥールーズにある旧家の相続に際し、物入れの奥から見つかった。この旧家では印章の価値や用途を認識していなかった。(共同)

☆康熙帝:在位1661年 - 1722年
清の第4代皇帝。唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。
①即位まで
順治帝の第3子として生まれ、8歳で即位する。順治帝の遺命により、スクサハ、ソニン、エビルン、オボイの重臣4人による合議制だったが、ソニン(索尼)の死後、オボイ(鰲拜)が反対派を粛清して専横を振るうようになった。康熙帝は15歳の時に相撲にかこつけてオボイを捕らえて排除、親政を始めた。
②内乱
1673年(康熙十二年)三藩の乱が起こる。順治帝に山海関を明け渡して投降した呉三桂は、その後に南に逃れた明の永暦帝を殺したことで清から功績大と認められ、皇族でないにも拘らず親王に立てられていた。この呉三桂を筆頭とした尚可喜、耿精忠の三人の藩王はそれぞれ雲南、広東、福建を領地としており、領内の官吏任命権と徴税権も持っていたので独立小国家の体を為していた。
康熙帝はこの三藩を廃止することを決める。廃止しようとすれば呉三桂たちは反乱を起こすと群臣の多くは反対だったが、3名だけ「このまま藩を存続させればますます増長し、手に負えなくなり、結局反乱することと同じである。どうせ同じなら今廃止したらどうか。」という意見を出し、康熙帝はこれを採用した。
予想通り、呉三桂たちは清に対して反旗を翻した。三藩軍は清の軍隊を各地で破り、台湾の鄭経(鄭成功の息子)も呼応し、一時期は長江以南を全て奪われるなど帝国崩壊の危機を迎えた。群臣は康熙帝に満州に避難することを勧めたが、康熙帝は断固として三藩討伐の意思を変えなかった。呉三桂たちは「満州族を追い出して漢族の天下を取り戻そう」というスローガンを民衆に訴えたのだが、そもそも漢族の王朝である明を滅ぼしたのは他ならぬ呉三桂だったので民衆は三藩を支持しなかった。康熙帝が漢人の周培公らを起用したことで清軍は徐々に優勢になっていき、1681年(康熙二十年)に三藩の乱を鎮圧した。その2年後には台湾を制圧し、完全に中国を統一した。
③外征
康煕帝台湾を収復した年、ピョートル1世率いるロシア帝国が満州族の故地である黒竜江付近に南下してきたのでこの地方の軍事力を強化し、1689年にネルチンスク条約を結んだ。のちの19世紀に受け入れさせられる一連の不平等条約と異なり、この条約は両国が対等の立場として結ばれたものである。中華思想によれば中国は唯一の国家であり、中国と対等な国家の存在を認めず、国境など存在しないという建前だったが、この原則を揺るがす内容であった。これには側近のイエズス会宣教師、フェルディナント・フェルビースト(南懐仁)の助言があったと言われ、条約締結の際にもイエズス会士が交渉を助けた。ただし、その後の対ロシア関係は理藩院によって処理されており、清の国内では朝貢国と同様の扱いを受けていた。そのため、この条約をもって清朝が主権国家体制の枠組みに包含されたとまでは言えない。
1670年代、ジュンガル部のガルダンがオイラトの覇権を握り、さらにモンゴルのハルハ部の内紛に介入、ハルハ諸部を制圧した。1693年、ハルハの諸侯は康熙帝に保護を求め、康熙帝はこれに応えてガルダンと対決、みずから軍勢を率いての戦いを経て1696年、ガルダンに致命的打撃を与えることに成功、ガルダンは敗走中に死去した。従来、ハルハ諸侯は清朝に朝貢を行い、冊封を受けるのみで、他の朝貢国と同様、内政自主権を行使していたが、これ以後、清の盟旗制に組み込まれることとなる。
18世紀には、ダライラマ6世を巡って生じたチベットの内紛で、青海のグシ・ハン王家の傍系王族の一部とジュンガルのツェワンラプタンが同盟を組み、1717年、ジュンガル軍がチベットに侵攻し、ラサを制圧、チベット=ハンのラサンを殺害した。康熙帝はラサンの救援要請に応じて1718年、チベットに出兵したが、この第一次派遣軍はジュンガル軍によって壊滅させられた。これに対し康熙帝は、グシ・ハン一族の主立った者たちを、当初ジュンガルと同盟した者達を含めて北京に招き、爵位で釣って清朝側につけることに成功、1720年の第二次派遣軍は、「グシ・ハンの打ち立てた法の道」を回復することを旗印に、グシ・ハン一族の軍勢とともに進軍、カンチェンネー、ポラネーらゲリラ勢力の蜂起に苦しめられていたジュンガル軍はこれを見て戦わずして中央チベットから撤退していった。
康熙帝は「グシハンの立てた法の道(ダライラマを擁するチベットのハン)」をチベットの正統の政体と認め、この政体の回復をチベット介入の旗印にしていた。1721年には、グシ・ハン一族にハン位継承候補者を選出するよう求めたが、グシ・ハン一族は18世紀初頭以来、内紛の極みに達しており、一族とチベットの有力者が一致して支持しうる候補者を選出することができなかった。康熙帝はラサンを継ぐハンを冊封せぬまま没し、チベットの戦後処理は、雍正帝の手に委ねられることになる。
④北方民族の王者
康煕帝康熙帝は1683年からほとんど毎年夏には木蘭囲場(現・承徳市囲場満族モンゴル族自治県)に赴き、モンゴル王侯とともに狩猟を行った。こうした狩場で十数日の間、モンゴル風のテント生活を送ったのである。康熙帝は弓の達人で、自ら虎や熊を倒したといわれる。また1703年には熱河離宮避暑山荘を造り、毎年夏から秋にかけて北京を離れて熱河で過ごし、モンゴル諸王や外国朝貢使節を引見した。こうした北方民族の王者としての行動様式は家法として雍正帝や乾隆帝にも受け継がれていく。
⑤国内政策
内政にも熱心であり、自ら倹約に努め、明代に1日で使った費用を1年間の宮廷費用としたと言われる。また使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らした。国家の無駄な費用を抑え、財政は富み、減税を度々行った。また、丁銀(人頭税)の額を1711年の調査で登録された人丁(16歳~59歳の成年男子)の数に対応した額に固定し、1711年以降に登録された人丁に対する丁銀を当面免除した。これは地丁銀制へとつながる。
文化的にも『康熙字典』、『大清会典』、『歴代題画』、『全唐詩』、『佩文韻府』などを編纂させ、『古今図書集成』の編纂を命じた(完成は雍正帝の時代)。また朱子学に傾倒し、自ら儒学者から熱心に教えを受けて血を吐くまで読書を止めなかったと言われる。康熙帝の時から十哲の一人として朱子を祀るようになり、『朱子全書』、『性理大全』などの朱子に関する著作をまとめた。明史の編纂にも力を入れて大部分を完成させた。また、イエズス会宣教師ブーヴェらに実測による最初の中国地図「皇輿全覧図」を作成させた。
このように善政面が目立つ康熙帝だが、一方では文人統制を行い、何人かの「清を侮辱する文章を書いた」と疑われた文人を殺している。康熙帝自身が優れた文人であったために文章の力を高く評価し恐れていたのだろう。

康熙帝は次男を皇太子に立てていたが、奇矯な人物であったため康熙帝はこれを廃し、死ぬ直前まで後継を定めなかった。このため雍正帝即位に関して様々な憶測が伝わり雍正簒位として民間に広まることとなる。
順治帝が清を中華王朝としたが、実質的に清を全国王朝としたのは康熙帝である。清代のみならず、唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。清東陵に陵墓がある。

大化改新 隠された真相.txt

2007年2月2日(金)放送 NHKスペシャル「大化改新 隠された真相」
645年に起きた古代史最大の事件「大化改新」。『日本書紀』によれば、天皇を脅かす権勢を誇り、改革の障害となっていた蘇我入鹿に対する中大兄皇子や中臣鎌足のクーデターとされている。しかし、事件の舞台となった都・飛鳥(奈良県明日香村)で次々に発掘される遺跡は、史実とは異なる真相を物語りはじめた。
現在、昨年に引き続き、甘樫丘で蘇我入鹿の邸宅跡が発掘調査されているが、これまで発掘された蘇我一族の邸宅跡、飛鳥寺など関係する遺跡を総合すると、自らが盾となって都を要塞化し、あたかも王権を外敵から守ろうとしていた蘇我氏の側面が明らかになってきた。
その要が、飛鳥の入り口に位置し、都の外を一望できる甘樫丘だ。渡来系ともいわれ、大陸に情報ルートを持っていた入鹿は、巨大帝国・唐が倭国に侵略の矛先を向けていることをいち早く察知、脅威に備え飛鳥の防衛網構築に力を注いだ。その一方で、古代日本の海の玄関であった大阪・難波を整備し、東アジア諸国と協調路線の外交を繰り広げようとした。それなのに何故、入鹿は殺されなければならなかったのか?
さらにクーデターの後、中央集権的な律令国家を目指して行われたという大化改新の政治改革についても、『日本書紀』を古代中国語の音韻・語法から分析する最新の研究などから、その内容の信憑性に疑いが向けられ始めている。
一体、「大化改新」の真相はどこにあるのか?番組では、要塞都市としての飛鳥の全貌を浮き彫りにしながら、大化改新の隠された真相に迫る。

☆鬼ノ城(きのじょう)
岡山県総社市の鬼城山(標高397m)に遺る神籠石式山城。国指定史跡。
①概要
すり鉢形の鬼ノ城山の山頂周囲を石垣・土塁による城壁が周囲2.8kmに渡って取り巻く。城壁によって囲まれた面積は約30ヘクタールを測る。城壁の要所に、門、城外への排水機能を持つ水門を配する。門は東西南北4ヶ所、水門は6ヶ所に確認されている。城の内部には食料貯蔵庫などと推定される建造物群の礎石や烽火場、水汲み場などが確認されている。
②飛鳥時代
天智天皇2年(663年)の白村江の戦いに倭国が敗れた後、唐・新羅の侵攻に備え築城したと考えられている。日本書紀などには西日本の要所に大野城など12の古代山城を築いたと記されており、鬼ノ城も防衛施設の一つであろうと推測される。しかしどの歴史書の類にも一切記されていない、築城時期が白村江の戦いの時代と符合しないなど、その真相は未だに解明されていない謎の山城である。史書に記載が無く、12の古代山城に該当しないものは神籠石系山城と呼ばれる。

国民皆兵が原則のイスラエル(男性は3年、女性は2年の兵役期間).txt

BS世界のニュースより「イスラエル建国60年 揺らぐ国民皆兵」
建国から60年を迎えるイスラエル。第1次中東戦争をはじめ、厳しい戦争を勝ち抜くことで国を存続させてきたが、軍に対する国民の意識には確実に変化が。パレスチナ暫定自治など和平の動きが進み、軍の任務のあり方が問われる中、兵役拒否の動きに歯止めがかからず、建国以来の「国民皆兵」の原則が大きく揺らいでいる。
・イスラエルの兵役:男性は3年、女性は1年9ヶ月の兵役期間

☆イスラエルの徴兵制
イスラエルでは、ユダヤ教徒のイスラエル国民と永住者に対して兵役の義務が課せられている。条件や期間に差があるものの女性にも徴兵制がある事が特徴となっている。徴兵制を取る国家においても、その殆どは男性のみを対象としていることから考えると、これは非常に珍しい事例であるが、周囲すべてが程度の差はあれ敵性国家であり、祖国の存亡を賭した戦争が明日にでも起こりうるという同国の事情が根底に存在する。ドゥルーズ教徒を除くアラブ系国民に対しては兵役が免じられている(志願入隊することは可能である)。
男性は3年、女性は1年9ヶ月の兵役期間である。拒否した場合は3年の禁固刑を受けなければならない。なお、女子は良心的兵役拒否が可能であるが、条件は少々厳しい(イスラエル国籍の女優ナタリー・ポートマンはアメリカのハーバード大学に留学していて兵役を免除された)。男性はユダヤ教の神学校を卒業し、超正統派のラビになれば、宗教上の理由で兵役を拒否できる。
かつてイスラエルでは将校になることがエリートコースの典型であったが、産業の発展により魅力が薄れている。

世界経済の中心はNYのウォール街ではなく、ロンドンのシティ。.txt

★NHKスペシャル「沸騰都市第2回ロンドン世界の首都を奪還せよ」
2008年5月19日(月)午後10時~10時49分 総合
今ロンドンが、「世界の首都」の地位をニューヨークから奪い返しつつある。
数年前まで多国籍企業は、NY証券取引所で上場するのが常だったが、今や多くの企業がロンドンに押し寄せる。外国為替や外国株式の取引量もロンドンがNYを抜き去った。
ロンドン復活の大きな要因は、インド、ロシア、中国、中東など新興国との結びつきを深めたことにある。同時多発テロ以降、規制が厳しくなったアメリカを嫌った企業・資本・人材が、市場開放を売り物にするロンドンに一気に方向を変え流れ込んだのだ。
その象徴がサッカーの世界最高峰、プレミアリーグだ。ロシアやアジアの富豪が名門チームを次々と買収。莫大な資金力を背景に有名な外国人の選手や監督を獲得し、リーグを大いに沸かせている。今や、半数近くのチームが外国人のオーナーとなった。
テムズ川沿いのモスクワといわれる地区に集まる多くのロシア人富豪たち、ロンドンに次々と進出するインド系企業、なだれ込むポーランド人労働者など、ロンドンは多国籍のエネルギーに満ちている。
自前の成長エンジンをあきらめ、新興国のエンジンを使うことで復活をとげたロンドン。グローバリズムを主導しながら、その精神を失いつつあるニューヨークから主役の座を奪い返そうとしている。グローバリズム主役交代のうねりを描く。

番組の要約
①ロンドンは19世紀の産業革命以来の好況に沸いている。
 →ロンドンの外国為替の取引量と外国企業の株式上場銘柄数で現在ニュー  ヨークを凌ぐ
②その活力源は、外国特にロシア、中東、インドがらの投資である。
③それによりロンドンの人口750万人の3人に1人が外国人となった。
④プレミアリーグ20チームの内、7チームの企業のオーナーが外国人
 →ポンド高の影響もありチケットは高騰:最安値の席でも日本円で1万円

☆ロンドンの現在
カナリー・ワーフ1990年代以降には金融に加え観光や情報産業、デザイン産業なども活気を呈しており、ドックランズのカナリー・ワーフ以後、超高層ビルの建設があいついでいる。荒廃したロンドンは完全に過去のものとなった。近年では地価の高騰に悩むなど往年の繁栄を取り戻している。1980年代以降に連続して発生したIRA暫定派によるテロは収束したが、2005年7月7日にはイスラム過激派によるロンドン同時爆破事件が発生している。近年増加しているイスラム系移民と従来の住民間との対立も発生するなど、国際都市特有の問題の解決に注目が集まっている。
2005年には2012年に開催される第30回オリンピック誘致に成功した。1908年および1948年に次ぐ3度目のオリンピック開催であり、同一都市としては史上最多となる。
2009年には、ヨーロッパでもっとも高い306mのロンドンブリッジ・タワーが完成する予定。

早稲田大、九州で初めて唐津に中高一貫校…2010年度

早稲田大は6日、佐賀県唐津市に2010年4月、中高一貫校「早稲田佐賀中学・高校」(仮称)を開校すると発表した。九州・山口に早大の系列校ができるのは初めて。
 早大や市などによると、早大への入学推薦枠を50%持つ系属校で、生徒数は1080人(中学が1学年120人、高校が同240人)。男女共学で人間教育やアジアに近い立地を生かした国際教育に力を入れる。10年度の開校時に系属校化し、定員の半分程度を早大に受け入れる。
 場所は同市東城内の唐津東高跡地と同市富士見町の旧大成小跡地になる予定。名称は「大隈記念早稲田佐賀学園」となる見通し。
 早大の関係者らは数年前から、創立125年(07年)の事業の一環として、創設者の大隈重信(1838~1922年)の出身地である佐賀県内に中高一貫校をつくる計画を進めていた。
 系列校の新設は「地方の優秀な人材を早い段階から確保し、大学の活性化につなげる」(同大)狙いもある。早大は地方出身者の割合が低下傾向にあり、昨年度は在校生の6割以上が東京、神奈川、千葉、埼玉の高校出身で、九州出身者は5%だった。
(2008年6月7日 読売新聞)

念願のiPhoneをソフトバンクの孫社長が獲得した舞台裏

約1年半におよぶ水面下での争奪戦に勝ったのはソフトバンクだった。音楽プレイヤー「iPod」と携帯電話が一体となった米アップルの「iPhone(アイフォーン)」。その日本での販売および通信を担当する契約を、ソフトバンクモバイルが米アップルと交わし、NTTドコモを退けた。
 「この度、ソフトバンクモバイル株式会社は、今年中に日本国内において『iPhone』を発売することにつきまして、アップル社と契約を締結したことを発表いたします」
 6月4日午後3時、ソフトバンクモバイルから発表されたリリースは、わずか2行。同社広報は「これ以上の情報は一切ない」とし、詳細は米アップルからの発表を待つこととなる。
 米アップルは6月9日から、米国サンフランシスコで開発者向けの会議を開催する。日本時間の6月10日早朝、この基調講演の場でスティーブ・ジョブズCEO(最高経営責任者)は、iPhoneの新製品が3G(第3世代携帯電話)に対応したこと、新たに世界各国の携帯電話事業者と契約を交わし、数十カ国でiPhoneが使えるグローバル・ネットワークが完成したことを発表する。
①熱意と柔軟な方針が決め手に
 「どうやら日本でのiPhone発売が決まったらしい」。マスコミ関係者にそうした噂が広まったのは5月末。通信方式がほかの2社と異なるKDDIの「au」は早々に選択肢から外れ、ソフトバンクとNTTドコモのいずれか、あるいは2社からiPhoneが発売されるという憶測が巡った。
 孫社長にはトラウマがある。「ソフトバンク、アップルと携帯で提携、iPod内蔵機を開発、音楽配信切り札に」。2006年5月、新聞の朝刊1面にこんな見出しが踊った。同じ月、ある雑誌には「孫正義社長がアップルのスティーブ.ジョブズCEOと東京で極秘裏に会談を行った。(中略)『iPod』を、ソフトバンクの携帯電話に搭載しようという交渉ではないかとの噂も出ている」という記事も掲載された。
 米アップルがiPhoneを正式に発表したのは、2007年1月に米国で開催したイベントのジョブズCEOの講演。ジョブズCEOはそれを前に「日本で情報が漏洩していることに激怒し、ソフトバンクとのiPhoneに関する話はいったん白紙に戻った」(関係者)。孫社長はお詫びの気持ちなのか、誠意を見せるためなのか、「米アップルから招待されたわけでもないのに、iPhoneの発表会に押っ取り刀で駆けつけた」(同)。
 以降、どうしてもiPhoneを手に入れたい孫社長は、iPhoneについてメディア関係者に何を聞かれようが「ノーコメント」を貫き通し、水面下でNTTドコモとの獲得競争に肝胆を砕いて来た。その結果、孫社長自身の熱意と柔軟な経営方針、先行してアップルのパートナーとなった英ボーダフォンとの良好な関係も決め手となり、NTTドコモに先んずることが出来たようだ。
 iPhoneは、閉鎖的な日本の携帯電話業界にとって受け入れがたいビジネスモデルを突きつける黒船でもある。端末はアップルの直営店でも販売し、アップルは携帯電話事業者からiPhoneの通信料の一部を徴収することを条件としている。そのため、既にiPhoneを販売している世界各国の携帯電話事業者は、音声通信とデータ通信がセットになったiPhone独自の定額制料金プランを自社の料金プランとは別に用意している。
②発表日を巡って皮算用も
 もっとも、「NTTドコモも6月9日までにiPhoneを扱うという発表を行い、日本では2社体制となる」という憶測もいまだに残っている。根拠は、iPhoneの新たな仲間としてソフトバンクより前に発表を済ませている世界各国の携帯電話事業者の存在だ。
 ジョブズCEOはこれまで、iPhoneの取り扱い事業者を「原則1カ国1社」として進めて来たが、その法則が崩れつつある。例えば、英ボーダフォンは5月6日、イタリア、インド、オーストラリアなど世界10カ国でiPhoneを発売すると発表した。ところが同日、テレコムイタリアもイタリア国内でiPhoneを発売するという発表を行った。
 さらに5月16日、今度はフランス国内でiPhoneを独占販売しているフランステレコム傘下のオレンジが、オーストリア、ベルギーなど10カ国とアフリカ各国にiPhoneを展開すると発表。英ボーダフォンとオレンジは、ポルトガル、エジプト、南アフリカの3カ国において、iPhone事業で競合することとなった。
 ただし、近いうちにNTTドコモが同様の発表をする可能性は極めて低い。関係者によると、米アップルは日本でのiPhone販売について、6月2日の週であれば携帯電話会社の好きなタイミングでの事実のみの公表を許可したという。NTTドコモとアップルで話がまとまっているのであれば、ソフトバンクモバイルとauが夏モデルの新機種を発表した6月3日にぶつけてくるのが順当。孫社長は、iPhoneの話題が夏モデルの話題を食わないよう、あえて1日ずらして発表したほどだ。
③若年層拡販への強力な武器
 話題には事欠かないiPhone。だが、契約純増数12カ月連続1位のソフトバンクに勢いが増すとしても、総契約数で上を行くNTTドコモとauを凌駕するための乾坤一擲の武器となるかは別の話だ。4月末時点でソフトバンクの契約数は1878万件、auは3022万件、NTTドコモは5348万件と、大きな開きが依然としてある。 米アップルによると、今年3月末時点のiPhoneの累計販売台数は全世界で540万台。2008年末までの販売目標は累計1000万台。となると、主に新製品の3G版iPhoneがあと半年で400~500万台売れるという見通しになる。国内でどんなに売れても年内50万台が限界だろう。
 だが、ソフトバンクが若年層の圧倒的な支持を得ているiPodというブランドを取り込んだ意味は大きい。アップルが持つ強大なブランド力は間違いなく若年層への拡販につながる。iPhoneだけではなく、ソフトバンクの携帯電話全般から、アップルの音楽販売サービス「iTunes Store」を通じて音楽をダウンロードできるといった展開も、今後は考えられる。少なくとも音楽プレイヤーとしての携帯電話のポジションを確立しているauにとって、大きな脅威となったことは間違いない。
 過去のトラウマを乗り越え、1年半の戦いに勝利した孫社長。6月9日にジョブズCEOが自らの口で語った後に、今後の戦略について委曲を尽くす算段を考えているところだろう。
引用
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20080604/160465/?P=1

第2次ウイーン包囲でトルコ軍はなぜ敗北したのか..txt

バルカン半島を制圧したオスマン帝国は、17世紀後半、ウクライナ(ポーランド領)へ侵攻するが、ヤン・ソビエスキ(後のポーランド王ヤン3世)の巧妙な指揮に敗れる。
北上を断念したオスマン帝国が次の目標にしたのが、三十年戦争に敗北したハプスブルク家だった。ウイーンを包囲したオスマン軍だが、包囲の間に、ポーランド・ハプスブルク・ドイツ諸侯の同盟が結ばれる。オスマン軍との戦い方を熟知したヤン3世率いる同盟軍はウィーンを解囲し、そのままオスマン帝国との戦争は継続する。
同盟は、ローマ教皇を盟主とする神聖同盟へと発展し、ヴェネツィアやロシアの参加により、優勢となった同盟軍は、オスマン帝国と十年以上戦い続け、勝利した。この戦いで、オスマン帝国も消耗し、衰退へと向かったのである。
しかしこの第2次ウイーン包囲の前から、トルコの凋落は、著しい状況だった
という見方をする向きもある。トルコの最盛期は、スレイマン大帝(1520年~1566年)からムハメット3世(1595年~1603年)の時代。
しかしそれ以後、トルコは、負けが多くなり、財政的にも苦しくなってゆく。
1604年、財政的に苦しくなったトルコと、プロテスタントとの対立を控えたオーストリアは、休戦協定を締結する。
しかし、1661年皇帝レオポルド1世は、トルコの属国トランシルバニア公国の抱きこみにかかり、トルコとオーストリアとの対立が再発します。
1669年トルコは、ヴェネチアよりクレタ島を奪回し、東地中海からヴェネチアを排除し、ポーランドでも戦果をあげる。その勢いに乗り、実行されたのが、第2次ウイーン包囲だった。トルコは、ウイーン包囲の失敗により凋落したのではなく、凋落が続いていた中で、たまたま続いた戦果を、拡大しようとしてウィーン包囲を行い、その失敗により、凋落傾向にはずみをつけてしまったのだ。
ポーランドは、フランス系の王が支配する国だったが、ポーランドを侵略するトルコをフランスが支援していたため、ポーランド貴族たちは、フランスを見限り、ヤン・ソビエスキーをポーランド王に選出し、オーストリアと対トルコ同盟を締結し、ウィーンのトルコ軍撃破の中心となる。

☆第2次ウィーン包囲
1683年に行われたオスマン帝国による最後の大規模なヨーロッパ進撃作戦である。オスマン軍はオーストリアの首都にして神聖ローマ皇帝の居城であるウィーンを大軍をもって攻撃したが、拙速な作戦により包囲戦を長期化させ、最後は反オスマン帝国を掲げて結集した中央ヨーロッパ諸国連合軍によって包囲を打ち破られるという惨憺たる敗北に終わった。
この包囲戦を契機にオーストリア、ポーランド、ヴェネツィア、ロシアらからなる神聖同盟とオスマン帝国は16年間にわたる長い戦争に入り、歴史上初めてオスマン帝国がヨーロッパ諸国に大規模な領土の割譲を行った条約として知られる1699年のカルロヴィッツ条約締結に至った。
①背景
オスマン帝国は、17世紀の初頭以来君主(スルタン)の国政に対する実権が縮小し、16世紀から急速に進んだ軍事技術・制度の発展など様々な時代の変化の中で君主の専制と中央集権に支えられた軍事的優位が弛緩しつつあった。このような帝国の危機的状況の中、1656年に帝国の最高執政者である大宰相に就任したキョプリュリュ・メフメト・パシャ、およびその子息で後継の大宰相となったキョプリュリュ・アフメト・パシャの2人は国勢の回復に努め、ヴェネツィア、オーストリア、ポーランドなどの諸国に次々に勝利して東ヨーロッパにおいてオスマン帝国史上最大の版図を実現していった。
1676年、キョプリュリュ・アフメト・パシャの病死により大宰相に就任したカラ・ムスタファ・パシャはキョプリュリュ・メフメト・パシャの娘婿であり、キョプリュリュ家の改革政治を引き継いで拡大政策を押し進めた。時の君主であるメフメト4世はエディルネの宮殿に篭って狩りを趣味とするばかりで政治に対する関心も実権もなく、オスマン帝国の全権はキョプリュリュ改革の遺産を引き継いだ強力な大宰相の手に握られていた。
一方、16世紀の第一次ウィーン包囲の時代においてヨーロッパにおけるオスマン帝国の最大の敵手であったハプスブルク家のオーストリアは、三十年戦争を経てかつての強盛を失い、17世紀半ば以降はキョプリュリュ時代のオスマン帝国軍の前に敗北を重ねていた。
当時のオーストリアにとって西方での宿敵はフランスのルイ14世であったが、フランスはオーストリアがオスマン帝国と戦うことでハプスブルク家の皇帝を弱体化させることを狙っていた。このため、オスマン帝国とオーストリアとの戦いにおいて、西からオーストリアを牽制することによってオスマン帝国に間接的な支援を与えていた。
②ウィーン包囲戦
1683年、ハプスブルク家領の北西ハンガリーでハンガリー人による反乱が起こり、反乱者たちはオスマン帝国に対して支援を要請した。これをスレイマン1世の第一次ウィーン包囲以来150年ぶりのオーストリア占領の好機と考えたカラ・ムスタファ・パシャは、15万からなる大軍を率いてハンガリーからオーストリアに侵入、ウィーンに迫った。
皇帝レオポルト1世はウィーンを脱出してリンツに逃れ、イスラム教徒からヨーロッパを防衛するよう訴えてキリスト教徒の諸王侯に支援を要請した。これに、当時オスマン帝国とポドリアを巡って争っていたポーランド国王ヤン3世ソビエスキが応え、ヤン3世はポーランドとドイツ諸領邦からなる連合軍を率いて自らウィーンの救援に向かった。
1683年8月初頭、ウィーンに到達し、この町を完全に包囲したオスマン軍は、町の西部から城壁の突破をはかって攻撃を仕掛けた。しかし最新の築城法で要塞化されて第一次包囲の時代よりはるかに堅固になったウィーン市の防備を破ることができず、攻城戦は長期化した。遠方から進軍してきたため強力な攻城砲を搬入できなかったオスマン軍は、地下から坑道を掘って城壁を爆破する作戦もとったが失敗に終わった。
一方、防衛側のウィーン守備軍は士気が盛んでたびたび要塞から打って出てオスマン軍を攻撃したが、包囲軍に対してほとんど損害を与えることはできなかった。
③ オスマン軍の敗走
9月12日、オーストリア・ポーランド・ドイツ諸侯の連合軍がウィーン郊外に到着、ウィーンとその周辺を見下ろすようにしてウィーン市西の丘陵上に展開した。連合軍は右翼にヤン3世率いるポーランド軍3万と、左翼にオーストリア軍およびドイツ諸侯の連合軍4万を配置し、オスマン軍と対峙した。
この日までにオスマン軍はウィーンの防衛線に突破口を開きつつあったが、ウィーン守備軍の必死の抵抗によりウィーンは辛うじて守られていた。オスマン軍は数の上でも依然としてウィーン守備軍と連合軍の合計を上回っていたが、長引く包囲戦により士気は低下しており、また装備も旧式で不十分であった。またクリミア・タタール軍などオスマン軍の一部は強権的なカラ・ムスタファ・パシャに反発しており、大宰相に対して非協力的ですらあった。
偵察を放ってオスマン軍の情報を探っていたヤン3世はこのような状況を掴んでオスマン軍の防備体制が弱体であることを見抜いた。連合軍による攻撃の開始は翌9月13日が予定されていたが、ヤン3世は到着した9月12日の夕刻に連合軍に総攻撃を命じた。偵察によってカラ・ムスタファ・パシャの本営の位置を正確に把握していた連合軍はオスマン軍に対する中央突破を敢行し、敵司令部を混乱に陥れた。わずか1時間ほど続いた戦闘によってオスマン軍は包囲陣を寸断され、散り散りになって潰走した。
夕暮れで暗くなったために追撃は早々に打ち切られたため、カラ・ムスタファ・パシャは無事に逃げ延びることができたが、戦闘はオスマン軍の惨憺たる敗北に終わった。
④その後の状況
カラ・ムスタファ・パシャはベオグラードに逃れ、敗軍を建て直し連合軍に対する反撃を準備していた。しかし帝国の宮廷では、カラ・ムスタファ・パシャの強権的な執政に不満をもっていた政敵たちの策動が功を奏し、ベオグラードにはメフメト4世の名をもってカラ・ムスタファの処刑を命ずる勅令が届けられた。
連合軍の側ではローマ教皇がトルコ人に対する同盟結成の呼びかけを行い、オーストリア、ポーランドにヴェネツィア共和国を加えて神聖同盟が結成された。神聖同盟は引き続きオスマン帝国の支配下にあった東ヨーロッパの各地に侵攻した。
一方のオスマン帝国では、カラ・ムスタファの刑死後、政府内に指導者を欠き、混迷するオスマン軍は連合軍の前になすすべなく連敗を重ねた。帝国はオーストリアにハンガリー、トランシルヴァニアを、ポーランドにポドリアを、ヴェネツィアにモレア半島、アドリア海沿岸の諸都市を奪われ、さらに1686年にはロシア(モスクワ大公国)が神聖同盟に加わってクリミア、アゾフに侵攻を開始した。オスマン帝国の勢力は東方に大幅に押し戻され、一時はバルカン半島支配の要衝であるベオグラードまで失われることになる。1689年に再びキョプリュリュ家から登用された大宰相ファーズル・ムスタファ・パシャ率いる反攻によってオスマン帝国は戦況をある程度挽回するが、ファーズル・ムスタファは1691年に戦死し、大局を覆すに至らなかった。
戦争は長期化するにつれて神聖同盟間の不和が表面化して戦線を膠着化するが、結局16年間にわたって続いた。末期にはほとんど戦闘は行われない中で和平交渉が進められ、1699年にカルロヴィッツ条約が結ばれてようやく終結する。
カルロヴィッツ条約でオスマン帝国はベオグラード周辺を除くハンガリー王国の大部分(ハンガリー中央部、トランシルヴァニア、クロアチアなど)をオーストリアに、アドリア海沿岸の一部をヴェネツィアに、ポドリアをポーランドに割譲することを認めた。翌年にはロシアと個別の講和を結んでアゾフの割譲を認めている。
⑤第2次ウィーン包囲の意義
第2次ウィーン包囲は、16世紀後半以来徐々にではあるが衰退していたオスマン帝国のヨーロッパにおける軍事的優位を決定的に崩す事件となった。第2次ウィーン包囲がオスマン帝国の衰退を決定付けたとみる評価がオスマン帝国史の叙述においては通説となっている。
また、第2次ウィーン包囲からカルロヴィッツ条約に至る16年間の戦争によってオスマン帝国の版図はバルカン半島および東ヨーロッパから大幅に後退し、オーストリアとロシアがこの方面における覇権を握るきっかけを作った。
精神的意義としては、100年前のレパントの海戦に続いて、ヨーロッパ諸国がオスマン帝国に対して抱いてきた脅威を打ち崩す戦闘であった。クロワッサンはこの戦争の勝利を記念してトルコ国旗の意匠である三日月を象ったものである、とか、あるいはヨーロッパでコーヒーが広まったのはウィーン市民が潰走したオスマン軍の陣営から打ち捨てられたコーヒー豆を見つけたのが始まりである、といった伝説的なエピソードは実際には事実に反しているが、この戦いがヨーロッパの人々のオスマン帝国に対する印象を変えた象徴であったことをよく示している。

なぜ奥州藤原氏は壮大なる寺院を次々と建立したのか?.txt

蝦夷の長である奥州藤原清衡以来の対朝廷戦略
①朝廷側に従うという意思表示
②莫大な金を含む貢ぎ物を増やし経済的に力を尽くす
③立派な仏像や寺院を建立することで、文明国家であることをアピール
→平泉は堂々たる文明国だから朝廷に対して反乱など起こさないという ことを示す安全保障の意味 があった
☆その結果として1181(養和元)年藤原秀衡は陸奥守に任命された。蝦夷の血を引く者がついに自
 らの大地奥州(東北地方)の地を治めることをゆるされたのである。

以下http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2008_05.htmlより引用
その時歴史が動いた「興亡北の黄金王国 奥州藤原氏 vs 源氏」
・平成20年5月21日 (水) 放送
古代から東北に住む人々は、蝦夷と呼ばれ、朝廷から抑圧を受けていた。その状況を覆し、奥州独立というフロンティア精神を持って立ち上がったのが、奥州藤原氏だった。独立を目指す足跡は、源氏との百年以上に及ぶ戦いの歴史でもあった。
事の発端は平安時代後期。挙兵した蝦夷を鎮圧するため朝廷より派遣された陸奥守・源頼義と、その部下・藤原経清の反目にあった。頼義に友人を惨殺された経清は、蝦夷とともに朝廷の先兵・源氏と戦うことを決意。やがてその子孫たちは、中央政局の混乱を巧みに利用して、朝廷と源氏の勢力を奥州から排除、奥州を手中に収める。平泉に金色堂を中心とする壮大な都市を築き、陸奥守の称号も手に入れることに成功した。
しかしやがて、地方で独自の政権を築いた奥州藤原氏の戦略にならう者が現れる。源頼朝だ。頼朝は鎌倉を拠点に朝廷を抑え、奥州を制圧。鎌倉幕府を誕生させる。奥州藤原氏と源氏の戦いとは、京に代わって地方が全国を統御する新たな時代への産みの苦しみでもあったのだ。
番組では、中央の権威に抑圧された地方の民が独立を求めて戦う姿と、その戦略が武家政権の誕生に引き継がれる過程を、奥州藤原氏と源氏の戦いを軸に描く。
○陸奥国・奥州の表現について
当時の陸奥国の範囲は、現在の福島、宮城、岩手、青森、秋田の一部であり、この陸奥国の別の呼び方が奥州であった。番組では、藤原氏の力がまだ弱かった前半は「陸奥」、藤原清衡が平泉に拠点を築き、陸奥の最大実力者となってから以降は「奥州」という呼び方に統一している。
また、陸奥守の支配は当初、陸奥国内だけだったが、藤原清衡が奥州最大の勢力となり、のちに秀衡が陸奥守に任命された段階においては、その実質的な支配は隣国出羽を含めた東北全体に及んでいたと考えられている。よって奥州藤原氏の支配もまた、東北全体に及んでいた。
奥州藤原氏とは
平泉に拠点を移し奥州支配を始めた藤原清衡が初代、二代目藤原基衡、三代目藤原秀衡、四代目藤原泰衡、以上の4人をさして奥州藤原四代という表現が用いられることが多い。藤原経清は、清衡の父にあたるため、番組では「奥州藤原氏の祖」という表現を用いている。
○藤原経清の身分について
藤原氏の系図を記した書「尊卑分脈」によれば経清の身分は「亘理権大夫」とあり、陸奥の郡の一つである亘理郡を管理する役人として、多賀城に勤務していたと考えられている。また近年の研究により、藤原摂関家に連なるものであるということが確認されている。
○蝦夷とは
詳細は不明だが、古代より東北地方でいくつかの集団に分かれ生活をしていた人々であり、中央とは違う独自の文化を持っていたと考えられている。朝廷からは征討の対象としてみられていた。安倍氏、清原氏は、その蝦夷の集団がいくつか集まり、豪族として力を持ったものたちである。
中でも朝廷に服属することになった蝦夷は「俘囚」と呼ばれるようになったが、藤原清衡が中尊寺を建立した時に、自らを「東夷」というなど、呼び方が様々にあったことを考慮し、今回の番組では、東北地方に古代から住んでいる人々を「蝦夷」という呼び方に統一した。
スタジオで紹介している蝦夷の絵は、「清水寺縁起」に描かれている坂上田村麻呂と蝦夷との合戦の様子を使用している。
○前九年合戦、後三年合戦の表現について
現在の教科書の多くは「前九年の役」「後三年の役」ではなく「~合戦」という表記を使用しているため、それにならった。
○伝源頼朝像について
頼朝の肖像画として知られる、神護寺蔵の「伝源頼朝像」については、歴史学者を中心に、「別の人物の肖像なのではないか」という説が提示されているが、美術史学者の側からは、従来どおり「頼朝像」として支持されている。今回の番組では、教科書等の表記にならって「伝源頼朝像」として肖像画を使用した。
○平泉が陥落したときのことについて
頼朝が平泉に入ったときは、藤原泰衡は自らの館に火を放ち逃亡していた。最新の研究によれば、平泉の町全体が焼けたわけではなく、藤原氏の館を中心にした一部が焼けたと考えられている。そこで番組では「奥州藤原氏の館は炎に包まれ」と表現した。
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