ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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「玄洋社記念館」が休館、孫文らの資料は福岡市博物館へ(2008年5月31日).txt

福岡県を拠点に、明治期から終戦直後まで活動した政治結社「玄洋社」の足跡を示す資料を展示してきた「玄洋社記念館」(福岡市)が31日、入居するビルの建て替えで休館となった。
玄洋社は、右翼の源流とされる頭山満(とうやまみつる)らが1879年に設立。自由民権運動や国会開設を推進したほか、中国の革命家・孫文らを支援した。
辛亥(しんがい)革命成功後に孫文が玄洋社に贈った書など約6000点の資料は、3年間、福岡市博物館が預かり、日本の近代史研究のために活用される見通しだ。
(2008年5月31日13時07分 読売新聞)

○私的日記
朝ニュースで玄洋社記念館が休館の事を報じていた。これは見ておかねばと一路記念館へ。報道されたからであろう館内には10人ほどの来館者がおり、真剣な面持ちで展示品に見入っていた。玄洋社の史料のみならず、西郷隆盛や吉田松陰、藤田東湖などの揮毫による書もある。
私の他界した祖父は生前、自分は中国語を当時日本に亡命していた郭沫若先生に教えてもらったと話していた。そこで玄洋社の会員だったかもしれないと思い、浅野館長に調べていただいた。残念ながら祖父の名を見つけることはできなかったが、日本の近代を物語る記念館の見納めをすることができ良かった。

☆玄洋社(1881年 - 1946年)は、頭山満ら旧福岡藩士を中心によって、1881年(明治14年)に結成された政治団体。
①概要
当時の在野の多くの政治結社と同じく、欧米諸国の植民地主義に席捲された世界の中で、人民の権利を守るためには、まず国権の強化こそが必要であると主張した。また、対外的にはアジア各国の独立を支援し、それらの国々との同盟によって西洋列国と対抗する大アジア主義を構想した。明治から敗戦までの間、政財界に多大な影響力を持っていたとされる。日本の敗戦に伴い1946年(昭和21年)、GHQは「日本の国家主義と帝国主義のうちで最も気違いじみた一派」として解散させた。
②主な活動
1881年(明治14年)、平岡浩太郎を社長として、頭山満、箱田六輔、進藤喜平太(進藤一馬元福岡市長の実父)らが創立した。旧福岡藩士らが中心となった。
戦前、戦中期にかけて軍部・官僚・財閥、政界に強大な影響力を持ち、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦そして第二次世界大戦と日本の関わってきた数々の戦争において情報収集や裏工作に関係してきた。またアジア主義の下に、中国の孫文や李氏朝鮮の金玉均をはじめ、当時欧米諸国の植民地下にあったイスラム指導者などアジア各国の独立運動家を強力に支援した。
玄洋社の社則の条項は「皇室を敬戴すべし」、「本国を愛重すべし」、「人民の権利を固守すべし」というものであった。当時、薩長藩閥政府による有司専制を打破するために、議会の開設を要求した有力な政治勢力の一つは、今日「右翼」と称される玄洋社などの民間結社であった。しかし、これらの勢力が議会開設後に一転して政府と一体になって選挙干渉に転じる時期がある。その理由は、当時の議会が「民力休養」を掲げ、軍事予算の削減を要求しながら清国との戦争を盛んに煽動したためであった。玄洋社は、テロも含めた激しい選挙干渉を実行している。
他に玄洋社が関わった有名な事件としては、1889年(明治22年)の大隈重信爆殺未遂事件がある。当時外務大臣だった大隈は、日本が幕末に結んだ不平等条約の改正をはかったが、その改正案は関係各国に対しかなり妥協的であり、国民的反対運動がたちまち全国を覆った。しかし、剛毅な大隈は決して自案を曲げなかったため、玄洋社社員の来島恒喜が大隈に爆弾を投擲し、自身もその場で咽喉を斬って自決したのである。来島の投げた爆弾は過激自由民権運動家の大井憲太郎から提供されたものと言われている。事件で大隈は右足を失いながらも、尚自説を貫く決意であったが、政府は方針を急転し、大隈は辞職したため、この妥協的改正案は見送られることとなった。
玄洋社の社員らが掲げた有名なスローガンには「大アジア主義」(孫文の神戸演説に語源があるとされる)がある。彼らは、朝鮮の改革運動家金玉均や朴泳孝、インドの独立運動家ラース・ビハーリー・ボースらを庇護し、アメリカと独立戦争を戦うフィリピンのアギナルドへは武器と義兵を送ろうとした。当時の日本政府の方針が、各国との外交関係上、しばしばこれらを迫害する立場に立ったのに対し、玄洋社は公然とこれに反抗し、「大アジア主義」の主張を貫いた。
特に1901年(明治34年)に、内田良平らが黒龍会(玄洋社の海外工作を担う)を設立してからは、より多彩な活動が展開されるようになる。孫文らの辛亥革命を支援するために、多くの浪人たちが大刀を抜きダイナマイトを投げて清朝政府軍やその後の軍閥政府軍と戦っている。
また、日韓合邦については、内田良平や李容九は、日本と大韓帝国(韓国)の対等な立場での合邦を希望し運動したが、実際には日本による韓国の一方的な併合となった。日韓併合によって、朝鮮王族は日本皇族と同格の「公族」となり、朝鮮の有力者らは日本の「華族」に列せられたが、李容九は爵位を辞退し悲嘆のうちに亡くなっている。李は、数度にわたる朝鮮の政治改革の失敗から、両班(朝鮮の支配階層)による下層階級への搾取虐待を朝鮮人自身の力で克服することを不可能と考えており、日本との合邦によって初めてこれが実現できると信じていた。
昭和に入ると、玄洋社と関係の深かった中野正剛らは、大日本帝国憲法を朝鮮・台湾にも施行して、国内の法律上の平等の徹底(参政権は属地主義であったため、日本内地在住の朝鮮人、台湾人にのみ選挙権、被選挙権があった)をはかるべきと主張した。一方、頭山満と親交のあった葦津耕次郎らは、国家として独立できるだけの朝鮮のインフラ整備は既に完了したとして朝鮮独立を主張した。葦津は、満州帝国に対する関東軍の政治指導を終了すべきことも主張している。
以上のような「アジア主義」の思想潮流は、明治維新以降玄洋社等の民間結社の中で受け継がれ、多くの国民によって支持されてきた。これに対し、日本政府中枢で強く受け継がれてきたのは、ヨーロッパ列強型の近代国家を建設し、列国と外交的に協調する路線であった。なお、日本政府が「東亜解放」を正式な方針として採用するようになるのは、欧米との協調外交が完全に破綻する1941年(昭和16年)12月以降のことである。
③新聞発刊
新聞「福陵新報」を1887年(明治20年)8月から発行した。これは1898年(明治31年)に「九州日報」と改題し、さらに1942年(昭和17年)「福岡日日新聞」を合併して「西日本新聞」となり現在に至っている。
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日本が外交が不得意な理由。村上龍.txt

引用:村上龍『ハバナモード』p130~131
アメリカ合衆国と大半の西ヨーロッパ先進国においては、個人でも国家でも関係性の基本は対立があるとよく言われる。
一方、日本社会では対立はケンカとか仲違いと誤解されやすい。対立が関係性のベースという意味は、わたしはあなたと違う人間だから、意見の違いがあるのは当たり前だ、ということで、別に喧嘩腰になることではない。日本社会では、集団内における個人の均一性が重要視され、個人は集団にとけこむことを要求することがあるので、関係性における対立という概念が希薄だ。
本当は、人間は誰とでも基本的に対立していて、利害が一致する場合に仲良くなったりするだけなのだが、日本社会では対立があるとそれだけで問題となりがちだ。
対立が個人や社会の関係性の基本となっていないことについては、もちろん良い面もある。良い面の代表的なものは「町内の大掃除」などだろう。日本社会では、みんな仲良く一緒にというのがベース
になっているので、ある集団が一丸となってことに当たる場合には力を発揮する。
サボったりすると仲間はずれになる可能性もあるし、一生懸命働くと集団内で認められたり地位が保証されたりするのでインセンティブも大きい。もちろん軍隊や、工場での単純労働や、企業活動などでも関係性の基本が対立ではないという姿勢は長所として働くだろう。
しかし対立が関係性の基本となっていない社会には弱点もある。その代表が外交であろう。外交は、最初から対立する利害を、できるだけ国益を守りながら調整し交渉するものなので、対立がない社会
はどうしても不得意にならざるを得ない。相手国が自分たちとはまったく違う考え方をする、という基本がないわけで、そういった国には本来外交という概念が必要ではなく、外交が不慣れというより、
わからないといった方が正確なのかもしれない。
   

Yahoo!とガリバー旅行記.txt

Yahoo!の名前の由来
Yahoo!の名前の由来は創業者のファイロとヤンは自分たちのことを「ならずもの」だと考えているから、「粗野な人」という意味がある「yahoo」(『ガリヴァー旅行記』に登場する野獣の名前が由来)という言葉を選んだと主張している。さらに感嘆符が付いていることに関しては「ヤッホー!」「やったー!」を意味する感嘆詞のyahooと掛けているとも考えられる。

ジョージ1世時代のイギリス社会を風刺したガリバー旅行記.txt

ガリバー旅行記 
 イギリスのジャーナリストで作家のスウィフトがあらわした4編からなる風刺小説。1726年に匿名で出版された。航海に出るたびに奇想天外な国に行きつき、さまざまな体験をする船医ガリバーの旅行記のかたちをとっており、第1編の小人国渡航記、第2編の巨人国渡航記は、子供向きの空想旅行記として世界でしたしまれてきた。しかし、全体の内容は、当時のイギリス社会、あるいは人間存在全般に対する激烈な風刺であり、きわめて辛口の読み物である。
①不思議な国々を遍歴
外科医レミュエル・ガリバーは船医として羚羊(かもしか)号にのりくんだが、嵐で難破し、「リリパット」におよぎついた。住民の身長は6インチ(約15cm)以下、すべてのものが人間の世界の12分の1に縮小されている小人国である。ここでガリバーは、敵国の艦隊をまるごと綱でひっぱってくるなど活躍し、「人間山」とよばれて皇帝のお気に入りになる。しかし、そんなガリバーをねたんだ宮廷内の一派の陰謀により、皇妃宮殿の火事を小便でけした手柄が不敬罪に問われることになって、ガリバーは隣国に亡命する(第1編)。いったんイギリスにかえったガリバーは、冒険号でふたたび航海に出たが、見知らぬ海岸に1人とりのこされた。そこは、すべてが巨大な巨人国「ブロブディンナグ」であった。この国では、ガリバーはパンの皮につまずいてたおれるというありさま。見世物にされたガリバーは人気者となり、国王に謁見し、イギリスの歴史と政治について説明したりする(第2編)。
ホープウェル号で3度目の航海に出たガリバーは、海賊におそわれて、思索に没頭するあまり会話のできない人々がすむ空飛ぶ島「ラピュタ」に漂着した。次におとずれた「グラブダブドリッブ」では古今の有名人の亡霊と話をし、「ラグナグ」では、不死の人々にあって長寿を重ねるとはどういうことかを目のあたりにする。この航海では日本にもしばし滞在した(第3編)。
冒険号の船長として4たび出航したガリバーは、船員たちの反乱にあい見知らぬ島にすてられた。そこは、聡明で高貴な馬フウイヌムたちがすむ「フウイヌム」国で、ガリバーは、この理性の生き物フウイヌムを敬愛するようになる。一方、あちこちでみかける人間そっくりのヤフーという動物は、野生種にしろフウイヌムの家畜となっているものにしろ、不潔で品性下劣で醜悪な、ぞっとするような奇獣であった。ガリバーは高潔な馬が支配するフウイヌム国に永住したいと希望するがかなわず、祖国にもどる。しかし、大喜びでむかえてくれた妻子も今や嫌悪感をもよおすヤフーにしかみえず、フウイヌム国でおぼえた馬の言葉で飼い馬と会話する時間だけ気分がやすらぐのであった(第4編)。
②孤高の風刺文学
「ガリバー旅行記」には、全編、イギリスの社会と人間への痛烈な批判がちりばめられている。たとえば、小人国の宮廷のようすはジョージ1世の宮廷での出来事や実在の人物に照応している。巨人国の国王はガリバーからイギリスの歴史と政治についての話を聞いて、「イギリスでは無知と怠惰と悪徳のみが政治家の要件であることがよくわかった」と答えている。ラグナグ国の、知力も体力もおとろえながら永遠に生きつづける人々の姿は、不老不死をねがう愚かさを浮き彫りにし、フウイヌム国のヤフーを描写する筆致は、もはや風刺の域をつきぬけて、人間すべてに対するスウィフトの憎しみと絶望があらわれている。
スウィフトは政界進出の野心にもえながらはたせず、社会に対し憤懣やるかたない思いをいだいていた。「ガリバー旅行記」の辛辣さは、そのような半生が反映されていると考えられている。また、執筆当時、すでにスウィフトの精神状態は悪化にむかっていたとする説もあるが、いずれにせよ、文章はきわめて明快で魅力にとみ、イギリス散文のお手本ともされている。
この作品は、1726年に匿名で出版されると、すぐさま成功をおさめた。当初のねらいは、当時の宮廷や政治家や政党に対して、風刺による寓話的で強烈な攻撃をおこなうことであった。しかし、6年以上かかったとされる執筆期間の間に、人間社会への円熟した考察がおりこまれていった。こうしてできあがった「ガリバー旅行記」は、人類すべてを笑いものにする、残忍なまでに辛辣な作品になった。しかし、ひじょうに創造力と機知にとむ、簡潔に書かれた作品であり、子供たちの愛読書としてもよみつがれることになるのである。

☆ジョージ1世 George I 1660~1727 
ハノーバー朝初代のイギリス国王。在位1714~27年。ドイツのハノーファー選帝侯エルンスト・アウグスト(→ 選帝侯)とイングランド王ジェームズ1世の孫娘ソフィアとの間に生まれ、スチュアート朝最後の君主アン女王の死後、イギリスの王位継承法により王座についた。54歳でまねかれて即位したため、生活や習慣の点では完全にドイツ人で、英語を解さなかった。そのため、イギリス国王としての責務はじゅうぶんはたしたにもかかわらず、イギリスでは終生人気がなかった。
即位の翌年に、名誉革命で王位をおわれたジェームズ2世の息子ジェームズ・フランシス・エドワード(大僭称者:だいせんしょうしゃ)を王位につけようとするジャコバイトの反乱がおきたが、鎮圧に成功した。以後ジョージは、トーリー党はジャコバイトの党派だとして、ホイッグ党の政治家のみを大臣に登用した。内政にかんしては、スタナップ、タウンゼンド、ウォルポールらの大臣に一任し、「王は君臨すれども統治しない」という責任内閣制度が発足することになった。彼らのすぐれた行政手腕のおかげで、イギリスにおけるハノーバー家の立場は確固たるものになり、現在の王室も彼の子孫にあたる。

カトリーヌ・ド・メディシスに招聘されシャルル9世の侍医となったノストラダムス.txt

ノストラダムス(1503~66)  
フランスの医師・占星術師。フランス名はミシェル・ド・ノートルダム。有名な「予言集」の初版を1555年に出版した。日本では「諸世紀」とよばれることも多いが、それは誤訳が広まったものである。予言はあいまいな表現の四行詩にあらわされ、ノストラダムス自身は紀元3797年にいたるまでの出来事を予言したといっている。このため後世さまざまな解釈がおこなわれ、歴史的事件がもろもろの詩に関連づけられてきた。
ノストラダムスは南フランスの町サンレミ・ド・プロバンスに生まれ、カトリック教徒としてそだてられた。大学で医学をまなんだのち、1525年ごろに開業し、その直後から南フランスの村でペストにかかった住民の治療にあたった。そして斬新(ざんしん)な治療法で瀕死(ひんし)の病人をなおすのに成功し、特異な才能をもつ治療家という評判を博したといわれる。
最初の妻子とは死別したが、サンレミに近い町サロンにうつって再婚したノストラダムスは、1550年に占い付きのカレンダーを出し、つづけてジャムと化粧品についての本を発表、55年には「予言集」の最初の版を刊行した。フランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスの招きでパリによばれたことで名声はますます高まり、ノストラダムスは新たな詩をくわえた「予言集」を出版する。
その後カトリーヌの夫アンリ2世が槍の試合で不慮の死をとげ、ノストラダムスがその死を予言したという話が広まり、多くの人が彼にあいにきた。最晩年には王母となったカトリーヌと国王シャルル9世がサロンにくらすノストラダムスのもとをおとずれ、彼はシャルル9世の侍医に任命された。
◎予言者としてのノストラダムス
1550年代に入ると、ノストラダムスはサロンの名士として、公共の泉の碑銘を起草したり、クラポンヌ運河の建設に出資したりするようになる。こうした活動と並行して、翌年1年間を予言した暦書(アルマナック)の刊行を始めるなど、予言者としての著述活動も本格化させていく。暦書は大変評判になり、その成功に押されたのか、ノストラダムスは、より先の未来を視野に入れた著作『予言集』の執筆に着手する(ノストラダムスが『予言集』をどのような意図で出版したのかははっきりしていないが、この点を考える一助として、後段の予言の典拠も参照)。1555年5月に初版が出された『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』は、4巻の途中までしかない不完全なもの(完全版は全10巻)ではあったが、大きな反響を呼び起こしたとされる。
そのわずか2ヶ月ほど後に当たる1555年7月に、国王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスからの招待を受けた。『予言集』の評判が王宮に届いたことが一因とされる。
翌月に王宮で行われた謁見は成功裏に終わったようだが、会見内容は不明である。カトリーヌはそれとは別に、ノストラダムスを個人的に呼んで子供たちの未来を占わせたとされ、四人の御子息はみな王になるという答えを得たという。四男エルキュールが早世したことでこれは外れたが、「御子息から四人の王が生まれる」という予言だったとする説もある。この場合、三男アンリはフランス王となる前にポーランド王となっていたため、正確な予言だったことになる。しかし、後にヴェネツィア大使ジョヴァンニ・ミキエリが1561年にまとめた報告書などでは、宮廷ではノストラダムスの「王子たちがみな王になる」という予言の噂が広まっていたとあり、「四人の王が生まれる」という予言は確認が取れていない。この件に限らず、カトリーヌとの対話は色々取り沙汰されるが、後出の唯一の例外を除いては、対話の内容を伝える史料は存在していない。
1559年6月30日、アンリ2世の妹マルグリットと娘エリザベートがそれぞれ結婚することを祝う宴に際して行われた馬上槍試合で、アンリ2世は対戦相手のモンゴムリ伯の槍が右目に刺さって致命傷を負い、7月10日に没した。現代には、しばしばこれがノストラダムスの予言通りだったとして大いに話題になったとされるが、現在的中例として有名な詩が取り沙汰されたのは、実際には17世紀に入ってからのことであった。ノストラダムスは、1556年1月13日付けで国王と王妃への献呈文をそれぞれ作成し、1557年向けの暦書に収録したが、このうちカトリーヌ宛ての献辞では、1559年を「世界的な平和 」の年と予言している。このため、果たして1559年の悲劇を見通していたかは疑問である(この予言は同じ年のカトー・カンブレジ条約になら当てはまる、とする指摘もある)。

☆カトリーヌ・ド・メディシス(1519~89) 
フランス王妃。アンリ2世(在位1547~59)の妃で、バロワ朝最後の3人の国王の母。ユグノー戦争(1562~89)の約30年間、フランスの政治に大きな影響力をもち、サン・バルテルミの虐殺になんらかの関わりがあったとされる。
イタリアのフィレンツェを支配したメディチ家の出身で、イル・マニフィコ(偉大なる者)と称されたロレンツォの曽孫にあたる。1533年にフランス国王フランソワ1世の2男オルレアン公アンリと結婚。47年にアンリはフランス国王アンリ2世となった。アンリ2世は59年、騎上の試合による負傷がもとで死去し、15歳の長男がフランソワ2世として王位についた。翌年、フランソワも夭逝し、2男がシャルル9世として即位、カトリーヌは摂政となり、政治的影響力をもった。シャルル9世が74年に死に、3男がアンリ3世となると、一時、摂政に就任した。
16世紀後半のバロワ王朝は、名門貴族たちの抗争に翻弄(ほんろう)されたが、この抗争は、カトリックとユグノー(カルバン派プロテスタント)の宗教的対立とも重なっていた。カトリック勢力の代表は、東部ロレーヌの大貴族ギーズ家、パリ北部のモンモランシー家などであり、ユグノーの代表は、ナバーラ王位をもつブルボン家のアンリ(のちにフランス国王アンリ4世)とその一門だった。双方は王を味方につけて、自派の信仰の拡大と政治力の拡大をはかろうとした。カトリーヌは両派のバランスの上にたって、バロワ家と王の威信をまもることに専念した。
1560年、シャルル9世の摂政となったカトリーヌは、少数派のユグノーの信仰の自由を強調しつつ両者の和解に努力し、62年にユグノー戦争が勃発したあとも、その政策はかわらなかった。しかし、シャルル9世はユグノーの指導者コリニーとしたしく、彼の影響を強くうけていたため、カトリーヌは危機を感じ、急激にカトリック勢力への傾斜を深めた。いっぽう、カトリーヌの娘マルグリットは、ユグノーの最高指導者であるナバーラ国王アンリと結婚することになった。
1572年8月、パリには、婚儀に参加するため、コリニーをはじめユグノーの貴族たちが集結していた。盛大な婚礼がおこなわれたあと、サン・バルテルミの祝日の8月24日、カトリック勢力はユグノーの一掃をねらって大虐殺をおこなった。その後、アンリ3世が即位するとカトリーヌの影響力は徐々に低下し、89年に隠棲していたブロワで死去した。
メディチ家の出身者カトリーヌは、イタリア・ルネサンスの感覚をフランスにもたらした。のちにパリ・コミューンで炎上したチュイルリー宮殿は彼女のために建造され、付属する庭園はその後フランス風に改修され今ものこっている。ルーブルの回廊は彼女の計画で建設がはじまり、アンリ4世が完成させた。

年号の換算は母・双子・いい.txt

出典:平成20年5月15日(木)『朝日新聞』の投書欄「声」(大内晴夫氏)
平成は88、昭和は25、大正は11を加えると西暦になる。
例えば、大正12年の『関東大震災』。これは12に11を加えて1923年に起きたというように。

日本歴史占い

生年月日を入力するだけで、日本史の有名人24人のタイプに分析してくれる。
信長、空海等の日本の歴史に残る24人に学ぶ生きるヒントとは。
http://woman.excite.co.jp/fortune/rekishi/
検索ランキングにランクインしていたのでやってみた。これが怖いぐらいに当たっているので驚き。

「考え過ぎても、結局、何も変わることはありません。変わるのは動いた後だけです。」エド・はるみ(コメディアン)

彼女は女優として芽が出ず、心機一転お笑いを目指すことに。NSCの11期生として入学したときの年齢は41歳。まわりは10~20代の若者ばかり。しかし揺るぎない信念をもつ彼女にとってそんなことは関係なかった。41歳での方向転換。勇気を持って一歩踏み出すことの大切さを教えてくれる。

①エド・はるみ(1964年5月14日 - )
吉本興業所属のお笑い芸人、女優、ナレーター。
茨城県、千葉県、東京都で、幼少期から学生時代を過ごす。
明治大学文学部演劇学科卒業。身長156cm。血液型A型。
2006年4月に、NSC東京を卒業した遅咲きの超若手女芸人

②吉本総合芸能学院:略称NSC(New Star Creation)
吉本興業が1982年(東京校は1995年)に創立した、主に新人タレントを育成する目的で作られた養成所。通称はNSC(New Star Creation)である。
主な出身者として、大阪校からはダウンタウン、今田耕司、雨上がり決死隊、ナインティナイン、中川家、陣内智則、次長課長、友近など。東京校からは品川庄司、インパルス、ロバート、森三中、ハリセンボン、オリエンタルラジオらが挙げられる。しかし、スターになるのは出身者のほんの一部で、NSCに入ったからといって必ずしもタレントへの道が確約されているという訳ではない。
NSC入学の合格率は99.9%だといわれている。また数ある養成所の中でも最も厳しい養成所といわれる。
ただ、浜田雅功、東野幸治、千原ジュニア、内場勝則曰く、「金を払うだけで何も教えてくれない」とのことである。
東京校は芸人だけではなく、俳優や歌手に放送作家なども育成している。吉本興業直轄の養成所ではあるが、NSC授業料:入学金(10万円)と年間授業料(30万円)

「イフ」的思考のすすめ 塩野七生.txt

以下は、高校の国語の教科書の掲載文章。歴史の醍醐味を塩野さんらしい明快な切り口で語ってくれています。流石、女司馬遼太郎ですな。

歴史に「イフ」はいけないということになっている。例えば、もし信長が本能寺で死なずにあと十年生きていたなら、日本はどうなっていただろう、というようなことは、歴史では考えてはいけないというのである。本当に、そうだろうか。俗に言う重箱の隅を突っつくたぐいの学術論文は別にして、歴史書を書くほどの人は学者でも、ということは世界的に有名な大学の教授の地位にある研究者でも、その人たちの歴史著作を読めば、必ずしも「イフ」は禁句ではないということが分かる。もちろん彼らでも、カエサルがブルータスらに殺されずにあと十年生きていたなら、ローマはどうなっていたか、とは書かない。しかし、カエサルの暗殺以後のローマの分析は、「イフ」的思考を経ない限り到達不可能な分析になっている。ということは、書かなくても頭の中では考えていたということである。
では、専門の学者でもなぜ、「イフ」を頭の中だけにしても弄ぶのか。それは歴史を学んだり楽しんだりする知的行為の意義の半ばが、「イフ」的思考にあるからである。ちなみに残りの半ばは、知識を増やすことにある。「誰が」、「いつ」、「どこで」、「何を」、「「いかに」、行ったか、だけを書くならば、今や流行のインターネットでも駆使して、世界中の大学や研究所からデータを集めまくれば簡単に書ける。ところが史書が簡単に書けないのは、これらに加えて「なぜ」に肉薄しなければならないからである。
ギボンは『ローマ帝国衰亡史』の最後を、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルの陥落で終えた。だが50余日にわたった攻防戦を日々記録したあるヴェネチアの医師が残した史料は、ギボンの死んだ後で発見されたのである。それを基にして今世紀、現在では世界的権威とされているランシマン著の『コンスタンティノープルの陥落』が書かれたのであった。
この二書を読み比べてみると、確かにランシマンの著作の方が、50余日の移り変わりが明確になっている。だが、本質的には全く差がない。ギボンの鋭く深い史観は一級史料なしでも歴史の本質への肉迫を可能にしたのである。つまり、「なぜ」の考察に関しては、データの量はおろか質でさえも、決定的要因にはならないということだ。歴史書の良否を決するのは、「なぜ」にどれほど肉迫できたか、に尽きると私は確信している。
そして、史書の良否に加えて史書の魅力の面でも、「なぜ」は大変に重要だ。誰が、いつ、どこで、何を、いかに、まではデータに属するが、それゆえに著者から読者への一方通行にならざるをえないが、「なぜ」になってはじめて、読者も参加してくるからである。
その理由は、「なぜ」のみが書く側の全知力を投入しての判断、つまり、勝負であるために、読む側も全知力を投入して、考えるという知的作業に参加することになるからだ。書物の魅力は、絶対に著者からの一方通行では生まれない。読者も、感動と知的刺激を受けるとかで、「参加」するからこそ生まれるのである。
そこで、「なぜ」という著者・読者双方にとっての知的作業には、必然的に「イフ」的な思考が必要になってくる。
私が言いたいのは、なぜ信長は本能寺で死なねばならなかったのか、の「なぜ」ではなく、生前の信長はなぜ、これこれしかじかの政策を考え実行したのか、に肉迫する「なぜ」である。
それには、信長の立場に立って考える事が必要だ。彼だって、本能寺で死ぬとは予想していなかったのだから。ゆえに、もしも信長があそこで死なずに十年生きていたら、と考えることではじめて、生きていた頃の信長の意図に肉迫できるようになる。反対に、「イフ」的思考を排除すると、話は本能寺で終わってしまい、日本史上空前の政策家信長の真意も、連続する線上で捉えることが困難になってしまうのだ。
歴史を、著者・読者双方ともが生きる現代に活かすのには、「イフ」的思考が有効なのである。

カレル橋を架けた神聖ローマ皇帝カール4世.txt

カレル橋はチェコ共和国の首都、プラハに流れるヴルタヴァ川(モルダウ)に架かっている橋である。
カレル橋は英語ではCharles Bridgeと呼ばれる。ヨーロッパに現存する最古の石橋。神聖ローマ皇帝カール4世の治世下1357年に建設が始まり1400年に完成した。1841年までプラハ旧市街とその周囲をつなぐ唯一の橋であった。また、西欧と東欧の交易ルートとしてプラハが重要な地位を占めるようになった。最初は単に石橋、プラハ橋と呼ばれていたが1870年よりカレル橋と呼ばれるようになった。

☆カール4世(1316年5月14日 - 1378年11月29日)
ルクセンブルク朝の神聖ローマ皇帝(在位:1346年 - 1378年、戴冠:1355年)。ボヘミア王カレル1世(Karel I.)としても知られる。フランス名シャルル。皇帝ハインリヒ7世の孫で、父はボヘミア王ヨハン。ルクセンブルク伯でもあった。
プラハで生まれ、最初はヴァーツラフ)と名付けられた。その後7歳から14歳までの間パリの宮廷で養育を受けたため、5ヶ国語を話すことができるようになったと言われる。また、この時期に当時のフランス王シャルル4世の名を取って改名し、王族のヴァロワ伯シャルル(ヴァロワ家の祖)の娘でシャルル4世の従妹に当たるブランシュを最初の妻に迎えている。
1334年にモラヴィア辺境伯となり、父ヨハンに代わってボヘミアを統治するようになる。1346年、皇帝ルートヴィヒ4世と対立するローマ教皇や選帝侯から対立王として擁立され、ルートヴィヒ4世には廃位が宣言された。この直後に起こったクレシーの戦いで、フランス皇太子ジャン(後のジャン2世)の救援に赴いていた父ヨハンが戦死したため、ボヘミア王およびルクセンブルク伯も継承している。翌1347年にルートヴィヒ4世が死去したため、晴れて単独のドイツ王となった。ルクセンブルク伯位は1353年、異母弟のヴェンツェル1世に与え、これを公に格上げした。1354年から1355年にかけてはローマ遠征を行い、神聖ローマ皇帝として教皇より正式な戴冠を受けている。
カール4世は精力的に様々な政治改革を行なっている。まず、神聖ローマ帝国の最高法とも言える金印勅書を発布した。これにより、大空位時代より続く帝国内の混乱を収拾しようとしたのである。確かにこれにより、帝国は安定期に入ったが、この勅書によってドイツ選帝侯の特権も大幅に認めてしまったため、ドイツの領邦の自立化はいよいよ決定的なものとなってしまった。また、外交においてもフランスやポーランドとの国境問題を解決し、1377年には教皇のアヴィニョン滞在に終止符を打ってローマ教皇をローマに帰還させるなど、政治や外交においてはそれなりの成功を収めている。その後は長男のヴェンツェルの皇帝世襲を確実なものとし、次男のジギスムントとハンガリー女王マーリアの結婚を取りまとめるなどして、確実に自家の権力を強化していた矢先の1378年に死去した。
カール4世は優れた文化人でもあり、彼の本拠であるボヘミアはその治世によって、首都プラハに帝国最初の大学(プラハ大学)が創設され、学問文化の都市として発展し、ボヘミアはヨーロッパ屈指の文化都市として栄華を極めたと言われている。

「学べ、学べ、なお学べ」ウラジーミル・レーニン.txt

前サッカー日本代表オシム監督の「走れ、走れ、なお走れ」という言葉は、ウラジーミル・レーニンの「学べ、学べ、なお学べ」という言葉を元にしたという。
引用:中央公論(2008年5月号)・茂木健一郎氏の論文

レーニン(1870~1924)
①プロローグ
  ロシアの革命家・政治家。ロシア革命を指導し、ソビエト連邦を創設した。本名、ウラジーミル・イリイチ・ウリヤーノフ。ロシア南部のシンビルスクで、文部官僚の子として生まれる。1887年、兄が皇帝アレクサンドル3世の暗殺をたくらんだ罪で逮捕され、絞首刑になった。その年にレーニンはカザニ大学に入学したが、学生運動にくわわって退学処分になり、コクシュキノ村の祖父の屋敷で謹慎した。
1887~88年のこの謹慎中に、チェルヌイシェフスキーの小説「何をなすべきか」をよみ、またマルクスの「資本論」などヨーロッパの革命思想の古典にふれて、マルクス主義者となった。91年、サンクトペテルブルク大学の検定試験に合格し、法学士の学位をえ、93年にサンクトペテルブルクにうつるまで、ボルガ河畔の町サマーラで弁護士補として活動した。
②オルガナイザーとして
サンクトペテルブルクでマルクス主義のサークルにはいり、1895年のペテルブルグ労働者階級解放闘争同盟の設立に参加したが、まもなく逮捕された。15カ月間の獄中生活ののち、1900年までシベリア東部のシュシェンスコエ村に流刑され、そこで同盟メンバーのクループスカヤと結婚した。またシベリア生活中に、「ロシアにおける資本主義の発達」(1899)を執筆している。01年には、官憲をあざむくために名前をレーニンとかえた。
シベリア流刑をおえると国外にでて、1905年の第1次革命のときに短期間帰国したのをのぞけば、17年までロシアにかえることはなかった。国外でトロツキー、プレハーノフ、マルトフらと、新聞「イスクラ(火花)」を創刊したが、このロシア社会民主労働党の機関紙によって社会民主主義者たちは団結し、また新しく参加する者も多かった。亡命中に、組織論を論じた「何をなすべきか」(1902)をあらわしたが、レーニンの革命計画は、高度に訓練された職業革命家たちが「プロレタリアートの前衛」の任務をはたすことによって、真の社会主義革命を実現することができる、というものだった。
レーニンが職業革命家を中心とするプロレタリアート主体の党を主張したために、ブルジョワジーとの協調路線をとるマルトフ、プレハーノフらと対立、ロシア社会民主労働党内に亀裂が生じ、1903年の第2回大会で党は分裂した。レーニン派はこの大会で多数を占めていたため、多数派を意味するボリシェビキとよばれ、反対派は、少数派を意味するメンシェビキとよばれた。2派の党内抗争は第1次世界大戦までつづいた(→ ボリシェビズム)。
③亡命
1905年の第1次ロシア革命の失敗後、その原因をめぐってメンシェビキと非難の応酬をし、有能な配下たちがレーニンのもとをさった。12年にひらかれたロシア社会民主労働党プラハ協議会で、ボリシェビキとメンシェビキは最終的に決別した。哲学論文「唯物論と経験批判論」(1909)はこの期間に書かれた。
1914年の第1次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)に際して、労働者が資本家階級の利益のために敵味方にわかれてたたかわされているという観点から戦争に反対し、社会主義者は「帝国主義戦争を内乱へ転化する」べきだと主張した。この立場から「資本主義の最高の段階としての帝国主義」(「帝国主義論」)(1916)をあらわし、戦争に対するマルクス主義者の見解を体系づけ、資本主義を打倒する革命のみが恒久平和をもたらすと主張した。
④革命の指導者
1917年2月(新暦3月)にツァーリ体制をうちたおしたロシア革命は、レーニンを驚愕(きょうがく)させた。スイスにいたレーニンはドイツの封印列車でロシアに帰国したが、これは、ロシアがさらに衰退すればドイツが戦争にかてると考えたドイツ当局が、レーニンらの帰国を援助したことによる。サンクトペテルブルクからペトログラードと改称された首都へレーニンが到着したのは、労働者と兵士たちがツァーリをたおした1カ月後のことだった。
スターリンらペトログラードのボリシェビキや労働者・兵士代表ソビエトは、このときブルジョワジーの臨時政府に協力することをきめていた。しかし、レーニンはただちにこの方針を撤回させて「四月テーゼ」を発表、その中でソビエトのみがロシアの労働者と農民の希望、熱望、要求にこたえることができる、と主張した。ボリシェビキ党の会議はレーニンの方針をうけいれ、「全権力をソビエトへ」のスローガンをかかげた。
労働者の七月蜂起が失敗におわったのち、1917年8~9月にかけて、臨時政府の手からのがれるために、フィンランドのラズリフ湖畔に身をかくした。ここで有名な「国家と革命」を書き、社会主義政府の概念を定式化しているが、これはマルクス主義政治理論へのレーニンのもっとも重要な貢献となった。この間、ボリシェビキ党中央委員会に対し、首都で武装蜂起することをもとめる手紙を何度もおくり、ようやくその方針をうけいれさせた。
⑤ソビエト国家の建設
十月革命の数日後、人民委員会議議長、すなわち政府の首班に選出されたレーニンは、新しいソビエト国家を強固にするため、現実的な政策をとった。銀行などをのぞき、私企業を国有化しないよう主張、ゆっくりと社会主義へむかう道をえらび、社会革命党(エス・エル)左派を入閣させることによって、一党独裁と非難されるのをさけた。
レーニンは、内外の敵から革命とソビエト権力をまもることを最優先の課題と考えていた。このため、ブレスト・リトフスク条約ではドイツ側に有利な講和条件をうけいれている。成立して間もないソビエト体制は、1918~21年の国内戦で大きな犠牲をはらったが、赤軍の天才的な指導者トロツキーとともに、ソビエトを国内戦の勝利へとみちびいた。
1921年に新経済政策(ネップ)をうちだし、社会主義と資本主義の混合経済へ、そしてソビエト統治初期の多元的社会へと、国の社会体制を修復した。同時に、共産党内での分派結成の禁止をもとめ、一党独裁の原則を主張した。
1922年5月、最初の脳卒中の発作におそわれた。なんとか回復はしたものの、政府や党で積極的役割をはたすことは、もはや期待できなかった。22年末にいくぶん回復したが、23年3月に2度目の大きな発作にみまわれて言語機能をうしない、政治生命は実質的にたたれた。
⑥天才的な革命思想家
レーニンは天才的な革命思想家であり、戦略家だった。彼の明敏な現実主義によって、ボリシェビキは権力をにぎり、それを維持することができた。レーニンに関してはさまざまな見方がある。ある者はレーニンの初期の思想とスターリンの思想の間に継続性をみいだし、またある者は晩年にレーニンがおこなった多元主義的なネップに重きをおく。しかし、レーニンが20世紀のヨーロッパで第一級の革命家であることは、多くの者のみとめるところである。
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