ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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『フューチャーリスト宣言』.txt

以下『フューチャーリスト宣言』梅田望夫・茂木健一郎より引用
●梅田
シリコンバレーのルーツは、フロンティア精神、テクノロジー志向、反権威、反中央、反体制、それからヒッピー文化、カウンター・カルチャーというか、その辺の組み合わせといえますね。
◎茂木
日本にも反体制、ヒッピーぼい人はいますが、その人達は往々にして技術を持っていない。しかも、うらめしそうな視点(ルサンチマン)を世界にもっている。意欲でも権威の側に負けていることが多い。でもアメリカには全然違うタイプがいますよね。
●梅田
テクノロジーがそういう人達をエンパワーすると信ずるのが、シリコンバレーの特徴でしょう。要するに自分一人の能力がテクノロジーによって増幅されなければ、必ず権威に負けるわけですね。権威と闘う道具としてのテクノロジーということです。YouTubeもそういうことです。
(中略)
日本の電機産業は、電力会社と放送局と政府とNTT、ここに納めている部分がかなり大きい。だからインターネットが出てきた瞬間に、インターネットの性質というのは極めて破壊的、アナーキーなので、そこに踏み込めなかった。
「なぜ日本の電機メーカーがインターネットに踏み込めなかったか」という原因は、すべてそこにあるんですよ。何かをやろうとすると、必ず今の社会を支えている仕組みに触るから、そこで最後まで行ってやろうとする狂気が生まれない。
Amazon.comやeベイだったら小売り・流通の仕組みが壊れるとか。YouTubeだったらメディアが壊れるとか。壊して何かをやろう、あるいは壊して新しいものを想像しようとすることとインターネットの性質はイコールなんです。
P.S
巻末にある茂木健一郎氏の横浜国大における講演『脳と仕事力』
は筆者のブログからダウンロード可能。web2.0を自ら実践する姿勢に改めて敬服&感謝。
音声ファイル(MP3, 74.5MB, 81分)
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2006/11/post_f648.html
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胡錦濤体制が続く限り、もはやチベット問題は抑えきれない.txt

引用:中国経済ジャーナリスト柏木理佳氏(2008/03/25)の論文より
http://diamond.jp/series/china_rika/10006/
チベット問題で、共産主義が足音を立てて崩れている。
 近年、チベット自治区ラサでは小規模なデモが繰り返され、弾圧が行われている。今回のチベット問題は、これまで中国国内では抑えられてきた小規模デモに対する弾圧が、チベット自治区では通用しなかったことが明らかになった。
 今回、中国政府にとって手痛かったのは、3月16日までの党大会の時期を狙われたことだ。日頃、中国政府がもっとも緊張するのは、党大会(日本の国会)にあたる時期である。大事な党大会中にデモが発生、拡大することは、胡錦濤国家主席にとって失脚にもつながる大変な失敗である。北京五輪前で世界が注目しているこの時期、しかも党大会の時期を選んで、チベット側は長年の胡錦濤への恨みを爆発させたのである。
①チベット弾圧が評価され出世街道を上り詰めた胡錦濤
 チベット側の胡錦濤への恨みは、1989年に遡る。その年、チベットではチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世らによるデモが発生した。そのデモを沈静化し、チベット支配を強化するために、自治区の共産党書記として派遣されたのが、胡錦濤である。戒厳令を敷く弾圧政策を実施して、反乱を鎮圧したことで胡錦濤は出世した。今、国家主席にまでのしあがったのは、チベットの民族独立を阻止し、支配を強めたことが手柄となっているからだ。そのため胡錦濤は、反省や融和の意向を示すよりも、むしろダライ・ラマを批判し続けている。今さら反省の意を見せては、1989年以来のすべての行動に対して謝罪しなければならなくなるからである。
 近年、ダライ・ラマは香港型の一国二制度を提案していたが、これが中国中央政府に拒否されたことが現在のデモや反政府活動の強化につながった。ダライ・ラマはこれを国際問題として取り上げられるよう、積極的に欧米を訪問していた。
 アメリカを味方につけ、国際問題になれば、チベット側に有利になる。しかし実際にそうなれば中国にとっては、台湾独立にも繋がっていく危険がある。なんとしてでもチベットの反乱を鎮めたいところであった。ところがデモを抑制できないばかりか、弾圧によりデモに関係のない女性や子供などの死者まで出す始末である。
 一方、中国政府が話し合いの場を持たなければ、ダライ・ラマは退位すると明言している。そうなれば、これまでよりも活動家たちは尖鋭化することになる。後継者はこれまでよりも強硬派である。
さらに今後はチベットだけでなく、中国全土で貧富の格差、インフレ対策などにおいて不満が爆発し、小規模なデモがあちこちで見られることになることが予測される。これまでは弾圧を怖がっていた中国人たちが、チベット人の信念をみならうことにでもなったら、デモの勢いはさらに拡大し、全土に飛び火する。
 中国政府が何より阻止したいのは、チベット独立問題が国際化することである。それなのに、今回、中国政府にとって誤算だったのは、情報を統制できているはずの中国で、政府の規制をかいかぐってユーチューブにチベット自治区ラサでの騒乱を伝える動画が流れたことだ。また携帯電話によるショートメッセージで情報が交換されたり、海外サイトへのアクセス制限を解除する専用ソフトまで、国内に出回っている。中国国民は、政府のメディア規制を知り、外国メディアへの信頼が高まっている。さらにこの情報の流出が海外メディアを通して、国際世論を動かすまでにいたっている。
②多くの火種を抱えた中国で五輪は無事に開けるのか
 昨年11月に民主党の鳩山由紀夫幹事長らがダライ・ラマと会談したことで、中国は民主党に対して、「今後民主党幹部が中国を訪問しても中国要人に会えなくさせる」と圧力をかけた。経済面から考えれば、台湾やチベット側に立つよりも中国市場を選んだほうが各国にとってメリットがあることは一目瞭然である。特に景気低迷が騒がれる日本にとって、中国への貿易依存度は高まるばかりで、簡単には切れない関係に陥っている。そういう意味では、中国が抑えつけることができるのは、日本の政治家だけかもしれない。
 北京五輪を控えた中国には、多くの火種がある。模倣品や食品問題以上に、人権問題は最大のリスク要因である。台湾独立、チベット問題、スーダン内戦間接的支援問題……IOCはこれらを解決してから中国を五輪会場国に選ぶべきであった、IOCの責任も今後問われるだろう。
 中国が胡錦濤体制のときに五輪開催に名乗りをあげた不幸もある。共産主義の悪あがきが通用せず、だからといって国際社会が提案する要求を即座に飲むことは、強気の中国政府にできるはずがない。別な言葉でいうと、胡錦濤が失脚し、胡錦濤体制が完全に入れ替わらなければ不可能に近い。
 欧州を中心に、すでに北京五輪ボイコットの声が出始めている。このまま問題を終息させることができなければ、五輪をボイコットする国が出ることは避けられないだろう。そして胡錦濤体制は2012年の次の党大会まで維持できるのか、脅かされることになる。

中華料理レストラン「バーミヤーン」の名前の由来は?.txt

「バーミヤン」の意味と由来は? (公式サイトより引用)
バーミヤンは、シルクロードの中心地にあったアフガニスタンの古い都で、隊商の休息の地、東洋と西洋の文化の交流の地として栄えました。それにちなんで、世界をクロスオーバーさせた新しい中華料理をお届けしたいという思いをこめてつけられた名前です。

★バーミヤーン石窟
アフガニスタン中部、ヒンドゥークシュ山脈の山間の盆地バーミヤーンにある石窟寺院遺跡。標高2500mに位置する東西に細長いバーミヤーン渓谷の断崖(だんがい)各所に開かれた石窟群の中でも、東西1300mにわたり100~150mの高さで屹立(きつりつ)するバーミヤーン大摩崖の石窟群をいう。東に中国、南にインド、西にイラン、北に中央アジア遊牧民世界をひかえ「文明の十字路」とよばれた地のシルクロード沿いにあって、仏像、壁画から装飾モチーフにまで、さまざまな文明の影響を反映した、美術的にも考古学的にもきわめて貴重な遺跡である。しかし、1998年と2001年の2度にわたり、イスラム原理主義のタリバーンによって、バーミヤーン石窟のシンボルともなっていた2体の巨大な大仏像が破壊され、壁画も大半がうしなわれた。
バーミヤーンは、中国隋唐時代の記録によると、「隋書(ずいしょ)」に失範延、「新唐書」に失範延や望衍とあり、玄奘は梵衍那、新羅の僧、慧超(けいちょう)は犯引としるしている。中世ペルシャ語ではバーミカーンやバーミヤーンとよばれていた。バーミヤーン石窟の創建とその沿革についてはさまざまな説があるが、6~7世紀に興隆したことは、玄奘の旅行記「大唐西域記」と後世の調査結果によってほぼ判明している。その後、9世紀にイスラム教徒のアフガン侵入のために荒廃した。バーミヤーン石窟の調査は、19世紀にイギリス人探検家によってはじまった。1920年代初めからフランスが本格的な調査にとりくみ、第2次世界大戦後は欧米各国による現地調査が活発におこなわれてきた。日本の京都大学や名古屋大学の調査隊も大きな成果をあげている。
崖面全体に開かれた石窟の総数は約750。大半は、僧坊窟・僧院窟(ビハーラ窟)と祠堂窟(しどうくつ:チャイティヤ窟)で、講堂と推測される大型の石窟もあり、一大寺院遺跡であったと考えられるが、その詳細については不明である。一方、一般人の住居と思われる石窟も多数みられる。破壊された大仏像2体は、東崖中央と西崖西端にうがたれた、巨大なアーチ型の龕(がん:仏像を安置するため岩壁にほられたくぼみ)に、それぞれ安置されていた。東大仏は高さ38m、西大仏55mという巨大な立像で、仏龕の奥壁に背をつけた形で高浮彫により造形され、その上に粘土をかぶせ漆喰をかけて整形されていた。ただし、タリバーンに破壊される以前に、二大仏とも顔面がけずられ、両手は折損し、足の部分もいたんだ状態だった。とくに西の大仏立像の膝(ひざ)から下はかなりいたんでいたが、これはムガル帝国のアウラングゼーブがブハラ遠征(16世紀)の途次ここにたちよったとき、大砲をうちこんだという伝承と符合している。このほか、大座仏を安置した5つの座仏龕があるが、仏像部分ははやくにうしなわれ、ほとんど残存していない。
壁画は約50基の仏龕や祠堂窟にみられる。岩肌の上に泥土を厚くぬり、その上に漆喰をうすく上塗りして壁画の下地とし、黄土、赤土、石緑、石青などの岩絵具をもちいて描いたものである。ことに東の大仏龕天井に描かれた、四頭立ての馬車にのる太陽神を中心とした大構図はササン朝絵画の流れをくむユニークなものであり、一方、西の大仏龕の天上から側壁にかけて描かれた仏、菩薩、天人、供養者などが混然一体となっている大構図は、剥落(はくらく)・退色で欠損部分も多いが、ガンダーラ美術、グプタ朝美術などことなる様式をあわせもっていることなどが注目されていた。しかし、これら大仏龕の壁画は、二大仏の完全破壊にともなって消滅した。

祠堂窟の壁画は、おもに天井に配され、主題は千仏が主であり、菩薩あるいは仏の座像を主尊として周囲に仏像を数体ずつ配置している。その構図には円輪式、同心円式、扇形式などがあり、なかでも円輪式はバーミヤーンの壁画のうちで、もっとも特徴的な構図である。千仏のほかには涅槃図だけが描かれ、仏伝図と本生図(ほんじょうず:→ ジャータカ)および各種の経変図などはみあたらない。涅槃図7例は、いずれも小さく、釈迦(しゃか)の母、摩耶夫人(まやぶにん)が描かれている点がめずらしいが、これらもまた多くがうしなわれた。
バーミヤーンは、1998年にタリバーンに占領された。その際タリバーンの一部兵士らの砲撃によって、東大仏の顔面がふきとばされ、このとき太陽神の壁画が跡形もない状態になった。この出来事は国際世論の強い反発をまねき、タリバーン政権穏健派の文化相によって偶像破壊禁止令が出されたが、その後方針を転換。最高指導者モハマド・オマールの命をうけて2001年3月、ダイナマイトによって二大仏の完全破壊が実行されたのである。その被害は二大仏にとどまらず、壁画や塑像装飾などの大半もうしなわれ、世界に大きな衝撃をあたえた。
その後も石窟の壁画の剥落などがつづいたため、2003年7月ユネスコの世界遺産委員会(WHC)は、バーミヤーン石窟をふくむ「バーミヤーン渓谷の文化的景観と考古遺跡群」を世界遺産に登録、同時に危機にさらされている世界遺産リストにも登録した。世界遺産委員会では、さらなる遺跡破壊や劣化、略奪や不法な発掘などからの保護をうったえている。

料理がまずいプロテスタント、美味いカトリック.txt

たとえば、ドイツ料理とイギリス料理はおいしくないことで
定評がある。確かにまずいと思う。それは宗教改革の時代に
わざわざまずくするために、白い小麦粉でパンを焼けばいい
のに雑穀を入れたり、料理に手間をかけないようにしたりした。
こんな地上にいるより早く神の国に行きたいと思うために、
わざわざまずい食事を食べることにしたという歴史的経緯がある。
それにひきかえ、イタリア料理やフランス料理はおいしい。
それはカトリックだからです。カトリックなら、少々罪深い
おこないをしても、教会に救ってもらえる。
引用「アメリカの行動原理」橋爪大三郎

最近オススメのPodcast「ラジオの街で逢いましょう」.txt

http://www.radio-cafe.co.jp/podcast/
静かな番組ですが内容が濃く30分が瞬く間に過ぎます。このような良質の番組を好きな時間に聴けるというのもiPodエコシステムの素晴らしさなのかも。

これまでの番組内容より抜粋
●「ニュースの真意を読み取る」ゲスト 田中宇
 ニュース読解の達人、国際情勢解説者の田中宇さんがゲスト。アメリカ同時多発テロ事件以降、一般のニュースが偏向していると感じた人々を中心にメルマガ「田中宇の国際ニュース解説」が支持を広げ、今や読者は17万5千人を数えています。
 学生時代に世界を放浪し、全く違う時代感覚を生きる諸外国の人々に接した田中さん。勤務した共同通信社の経済部でも世界のニュースを読みながら、そこに政治的な意志が多分に入っていると気づきました。新聞は必ずしも客観的ではないし、何が中立なのかは測れない。だから多様な報道を読み解いて、背後にある大局を推測する必要があるのです。
 後半は、アメリカの未来についての興味深いお話。イラク戦争に突き進んだアメリカを「意図的に失敗している」と疑う田中さん。アメリカは中国やロシアをわざと怒らせて世界の覇権という荷物を下ろし、世界の多極化を目論んでいるのではないかという推察を展開します。
 ニュースの論調の裏にある、そこには書かれていない世界の読み方を示唆してくれる田中宇さん。知的興奮に満ちた30分です。

●「開高健に“人たらし”を学んだメディア人」ゲスト 渡辺幸裕
 多数の文化人を輩出したサントリー宣伝部に長く在籍し、退社後も多彩な文化人との交流からユニークな活動を続けている渡辺幸裕さんがゲスト。
 サントリー社員時代の思い出で特に忘れられないのは、開高健さんの剛毅な旅をテーマにしたスペシャル番組を5本作り、その最終回が他界した開高さんの追悼番組となったこと。計らずも晩年にあった大作家の姿を間近に見ることができた幸運を、たくさんのエピソードとともに振り返ります。
 2000年にはサントリーを退社し、翌年株式会社ギリーを設立した渡辺さん。創刊した雑誌『ギリー』は、1年後に『PEN』と名前を変えました。現在も活動は多方面に及び、「日経ビジネスアソシエ」に連載中の日本文化指南も好評です。また週に2度のペースでイベントがあるという「ギリークラブ」は、毎回様々な分野の達人と呼ばれる人たちから素敵なお話を聞き出すという知的探求者の集まり。
 ギリーとは、スコットランドでフィッシングやハンティングの案内をするプロのガイドのこと。人と人とを結びつける無私の案内人、それが渡辺幸裕さんの天職なのです。

●「ビート・ジェネレーションふたたび」ゲスト 青山南
 このたび、ジャック・ケルアックの「オン・ザ・ロード」を改訳した青山南さんがゲスト。今年で刊行50年となるこの作品は、アメリカ文化への理解が深まった現代にこそ読み直す価値があるというお話です。若いのにくたびれ、チャンスを奪われている人たちが、やりきれない現状をなんとか至福に転じようと発想を変えたビート・ジェネレーションの時代。それまでは庭仕事用の服だったジーンズやTシャツをお洒落だと認知させるなど、60年代以降のアメリカ文化に与えた影響力の大きさを振り返ります。
 さらに青山さんは、ケルアックがフランス系移民の両親を持ち、不思議な言語感覚を持っていた事実に注目します。彼が目標にしたのは、ジャズの即興演奏のように物語を書くこと。文法を気にせず、最初に浮かんだ言葉が最も適切と考え、28日間タイプを打ち続けて「オン・ザ・ロード」を書き上げました。そんなケルアックは、結果的に造語の名人だったのです。
 青山さんの好きな言葉は「hit the road」。行き詰まったら道へ出て、次のチャンスを探せばいい。そんな生き方を最初に堂々と示してくれたのが、ケルアックの「オン・ザ・ロード」でした。

BSドキュメンタリー「証言でつづる現代史」世紀の外交米中接近

ウォーターゲート事件などであまり人気のないニクソンであったが、外交に関しては評価が高い。
彼の功績の一つとしてヴェトナム戦争を見事終結に導いたことがあげられる。しかしニクソンは大統領になる前から戦争に終止符を打つと約束していながら、ずるずると長引かせ周辺諸国にまで戦火を拡大したということも忘れてはならないだろう。それは負けを認めず、「名誉ある撤退」に拘り続けたことに要因があるのかもしれない。このあたりは現在のイラク情勢ともダブって見えるところでもあるのですが・・・・。the Best and the Brightestが集まるホワイトハウスがなぜ同じ過ちを繰り返すのか。不思議でなりません。

番組内容
1972年2月21日、ニクソンが米大統領として初めて中国を訪問した。東西冷戦の真っ只中での米大統領による訪中。それは、朝鮮戦争以来20年にわたる対立に終止符を打つ歴史的なできごとだった。極秘裏に準備を進めたのは、ヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官(米国)と周恩来総理(中国)。キッシンジャーの行動は、数名の大統領側近以外には一切知らされず、時に国務省をも欺いての極秘作戦だった。
世界に衝撃を与えたニクソンの訪中から35年。ここ数年、当時の外交交渉の膨大な記録が、外交文書やメモだけでなく、ニクソンやキッシンジャーの会話のテープなど、アメリカ側から次々に公開され、その全貌が明らかになってきている。
●前編「キッシンジャー訪中の舞台裏」
キッシンジャーは、訪問先のパキスタンで「胃腸を悪くして休む」と、48時間公式の場からとつぜん姿を消す。周到に仕組まれた芝居だった。極秘裏に側近らと北京に向かったキッシンジャーは、周恩来との世紀の外交交渉に臨んだ。両国首脳が、腹を探り合いながら、“極秘連絡”を取り合い、キッシンジャーが北京に降り立つまでをスリリングに描く。
●後編「キッシンジャー・周恩来会談とニクソン・毛沢東会談」
1972年2月、中国を訪問したニクソンと毛沢東の会談。毛は「哲学の話がしたい」と、政治的な話を避けつつも、ニクソンと世界情勢の共通認識を固めようと話題を導いて行った。「上海コミュニケ」の発表に至るまでの緊迫した外交交渉を描く。

★ヘンリー・キッシンジャー
①生い立ち
1923年、ドイツ・ヴァイマル共和国のフュルトに生まれる。本来の姓名はハインツ・アルフレート・キッシンガーで、父ルイス・キッシンガーは女子高で歴史と地理を教え、母パウラは富裕な家畜業者の娘。両親ともにユダヤ人である。ハインツは、1歳下の弟ヴァルターと共に幸福な少年時代を過ごしたが、1933年、ヒトラー支配のもと反ユダヤ人政策を推し進めるナチスが政権を掌握したために運命が一変した。
一家はナチスを嫌って1938年にアメリカへ移住し、1943年に同国に帰化。(ドイツに残った親類はナチに殺害された。)ニューヨーク市立大学シティカレッジを卒業後、第二次世界大戦にはアメリカ軍情報部の士官として参戦し、戦後母国ドイツに駐留した。
②政権入り
ニクソンとド・ゴールの会談に臨席するキッシンジャー(後列右から2人目)その後ハーバード大学に進学、19世紀のヨーロッパ外交史を研究し、1954年博士の学位を取得。1951年には日米学生会議に参加している。大学院在学時には指導教授であったウィリアム・エリオットの庇護を受け、世界各国の有望な若手指導者をハーバード大学に集めて国際情勢について講義や議論を行なうサマー・セミナーの幹事役となり、国内外にその後のワシントン入りにもつながる人脈を形成した。
大学院修了後はハーバードに残り、同校の政治学部で教鞭をとっていたが、外交問題評議会への参加を通じて、同時代の安全保障政策にも積極的な提言をはじめる。特にキッシンジャーはアイゼンハワー政権の採用した核政策(「大量報復戦略」)の硬直性を辛辣に批判し、のちのケネディ政権が採用する「柔軟反応戦略」のひな型ともいえる、核兵器・通常兵器の段階的な運用による制限戦争の展開を主張した。
1968年の大統領選では共和党の大統領候補指名選に立候補し、ニクソンに敗北したネルソン・ロックフェラーの外交顧問を務めていたが、ニクソン政権の誕生とともに国家安全保障担当大統領補佐官として政権中枢に入り、外交全般を取り仕切る。1971年にはニクソンの「密使」として中華人民共和国を極秘に二度訪問、周恩来と直接会談を行い、米中和解への道筋をつける。ソ連とも第一次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結するなどデタント政策を推進。さらに長らく続いていたベトナム戦争和平交渉を取りまとめ、1973年にはパリ協定調印にいたる。同年には補佐官に留任したまま国務長官に就任し、外交政策実務の全般を掌握することとなった(翌1974年、ジェラルド・R・フォード政権の成立に伴い、補佐官は退任する)。
キッシンジャーの推進したデタント政策はベトナム戦争からの脱出という短期的な意味と、米ソ二極対立という約20年間継続されてきた従来の冷戦構造に、台頭してきた中華人民共和国を新たな同次元のプレイヤーに組み入れること(「米中ソ三角関係」などとも評される)、ソ連が核戦力の面でアメリカと対等な立場にあることを明示的に認めることによって、大国間の勢力バランスを現状に即したものへと安定的に再編成するという、長期的な意味を持った戦略の組み合わせだった。中ソ対立を利用した米中国交樹立、中ソと関係改善を行ない、北ベトナムを国際的に孤立させた上で展開されたベトナム和平交渉はその代表的なエピソードといえる。
③キッシンジャーの外交
周恩来と毛沢東とともにキッシンジャーとニクソンが推進した外交の特徴はその現実主義にある。国益を外交の中心に据え、世界的なバランス・オブ・パワーに配慮しつつ、国際政治秩序をアメリカにとって受け入れられる形の安定へと導くことを目的としたものである。これは冷戦と、そしてそれが熱い形で具体化されたベトナム戦争という構図の中で、従来アメリカが基本的国策としていた孤立主義と理想主義という外交姿勢がもはや機能しなくなったことを端的に表わすものだった。
一方で、ニクソン・キッシンジャー外交は道徳問題への無関心でも知られた。一例としてあげられるのは、チリのアジェンデ政権転覆(1973年)への関与、続く親米軍事政権として知られたのピノチェト政権の国内弾圧の黙認である。1998年にピノチェトが欧州で拘束された際には、弾圧への加担者としてキッシンジャーの訴追が論じられるという事態にまで発展した。ピノチェトのチリ・クーデターについては、「われわれは、ひとつの国がその国民が無責任なせいで、共産主義化するのを無為に見ている必要はない」と述べたともされる。これに拠れば、キッシンジャーは反共主義や勢力圏の安定という自らの信念を民主主義より上位に置き、選挙によって示されたチリ国民の民意を積極的に踏みにじろうとしたとも言える。
道徳問題への無関心の与えた大きな影響としては、米国外交においてポール・ウォルフォウィッツ、リチャード・パールなどの新保守主義者の台頭を促したことがあげられる。理想主義者たちにとり、国家間のパワーバランスばかりを重視し、抑圧的で「邪悪」な政治体制のソ連とデタントを模索するニクソン・キッシンジャー外交は許容しがたいものであり、理想主義者たちは当時の米外交路線に強い不満を抱くこととなる。
フォード政権下でデタントが行き詰まり、続くジミー・カーター民主党政権下の1979年にソ連のアフガニスタン侵攻によって「新冷戦」と呼ばれる米ソの緊張が再来するに至って、デタントに強い反発を抱いていた理想主義者たちはイデオロギー的な対ソ強硬派としてロナルド・レーガン政権へと参画し、新保守主義者という立場を明確にすることとなった。
④「外交の達人」
キッシンジャーは、国家安全保障問題担当補佐官時代から国務長官(1973年8月23日指名)時代に至るまで、その独特な風貌やドイツ風のアクセント、さまざまなパーティで有名女優を同伴して登場するなどの派手なパフォーマンス、日本で「忍者外交」などと形容された神出鬼没の外交スタイル、さらにベトナム戦争和平への貢献によるノーベル平和賞受賞などといったさまざまな理由から、歴代の前任者たちとは比較にならないほど目立つ存在だった。アメリカでは今日でも「ドクター・キッシンジャー」は20世紀後半を代表する外交専門家とする認識が多数を占めている。
しかし、このような「外交の専門家」という一般的な評価は、キッシンジャーが国務長官退任後間もなく発表した著書や回想録に拠るところが大きいそのため、近年ではニクソン政権の外交構想や個々の外交案件について、公開された文書史料をもとに「外交政策の構想者・決定者は外交通としても知られた大統領・ニクソンであり、キッシンジャーはそのメッセンジャー・ボーイに過ぎなかった」とする研究も現れている[9]。しかし制度的にはどの政権においても最終決定権を握る者は大統領であり、閣僚や補佐官は大統領の手足である。こうした「キッシンジャー否定論」が出てくること自体が、いかにキッシンジャーへの高い評価が定着しているかということの証左となっているともいえる。
ニクソンとキッシンジャーは厚い信頼で結ばれていたとされるが、個人的には決して親しい友人ではなかった。ニクソンが他の側近の前でキッシンジャーのことをその出自を背景に侮蔑的に呼んだことが数回確認されており、キッシンジャー自身も「一度として二人きりで食事を取ったことはなかった」と語っている。

チベット デモ激化 中国当局出動 14人死亡情報.txt

2008年03月15日03時02分 asahi.co
 中国チベット自治区ラサで14日、共産党・政府に対する僧侶や市民の抗議行動が激化し、中心部の商店街から出火、武装警察隊などが鎮圧に当たり、混乱が広がっている。在京チベット関係者によると、治安当局との衝突で14日だけで少なくとも14人が死亡、100人以上が負傷したとの情報がある。日中関係筋によると、中国政府は15日から外国人と一般の中国人の自治区入りを禁じる措置をとるという。
 中国筋は14日夜、すでに中国の武装警察などが出動していることを確認。「制圧するには数日間を要する」との見方を示した。ラサから東京のチベット関係者に入った情報によると市内の一部チベット寺院の周囲に多数の僧侶の遺体があり、漢族が経営する商店を中心に襲撃も起きている。米政府系のラジオ・フリー・アジア(RFA)は、チベット亡命政府があるインド北部ダラムサラから得た話として、鎮圧行動による犠牲者の中に16歳の少女が含まれているとの情報があると伝えた。
 今回のチベットでの抗議行動は、戒厳令が敷かれた89年の騒乱以来最大の規模になった。外国メディアだけでなく中国の国営新華社通信も報じた。
 抗議デモが激化した背景には、8月の北京五輪に向けて国際社会のチベット支援が広がることへの期待があるとみられる。五輪成功を至上命題とする党指導部には強烈な打撃となりそうだ。
 新華社の英文配信によると、14日午後に主要道路2カ所や旧市街の中心部にある大昭寺付近の商店、路上の複数の車両が放火され、市内は煙に包まれた。
 北京の米国大使館によると、現地にいる米国人から「銃声を聞いた」との報告が入ったという。また、海外の複数の人権団体は、ラサに駐屯する中国軍が出動して鎮圧にあたっているとの情報を伝えている。
 北京では14日夜、米CNNテレビによるチベット報道の映像が遮断された。ラサ市内の電話も一部の施設で通話しにくい状態になっている。89年の「ラサ暴動」では、軍や武装警察が出動し、市民に向けて発砲。当時の当局発表で市民と当局の双方に死者16人、負傷者100人以上を出した。
 米ホワイトハウスのフラトー副報道官は14日、事態に「遺憾の意」を表明。「中国当局はチベットの文化を尊重しなければならない」と記者団に語った。米国務省のマコーマック報道官は14日、ラント駐中国米大使が中国政府高官と会い、武力による鎮圧をせず、「自制した行動」をとるよう申し入れたことを明らかにした。チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世も同日、ダラムサラで「中国指導部に、武力の行使をやめるように求める」との声明を出した。

公演で「チベット独立」叫んだビョークに、中国政府が非難声明【3月7日 AFP】.txt

http://jp.youtube.com/watch?v=DLKM06AzSfI
アイスランド人歌手ビョーク(Bjork)が2日の上海公演中に「チベット」を連呼して叫んだ件で、中国当局がビョークに対する非難の声明を出した。
 ビョークは、公演で歌った『Declare Independence(独立を宣言しよう)』という曲の最後の部分で「チベット、チベット」と叫んだという。この件について、レイキャビクの中国大使館は次のような声明を発表した。
「ビョークさんが上海で取った行動に、中国の人々は強い憤りを感じている。中国は多民族国家であり、チベットは古代から中国の不可分の一部だ。これが国際社会の認識とされており、チベットを独立国家として認めている国はひとつもない。チベットを中国から独立させようとするいかなる試みも、中国人と正義を重んじる世界中の人々から、必ず反対を受けるだろう」
 問題となった『Declare Independence』はもともと、デンマークに属するグリーンランドとフェロー諸島の独立運動について書かれた曲。
 ビョークがチベット独立を支援するのは今回が初めてではない。1996年に米サンフランシスコ(San Francisco)で行われた「フリー・チベット(Free Tibet)」コンサートにも出演している。


★映画『クンドゥン』 監督マーティン・スコセッシ
1937年。チベットの寒村、タクツェル村。普通の家庭の末っ子だった幼子のハモ(テンジン・イェシェ・パチュン)は、第13世ダライ・ラマの生まれ変わりを探し求め、長旅を続けた高僧たちによって、慈悲の仏陀、観音菩薩の生まれ変わり、“法王猊下(クンドゥン)”と判断された。2年後、成長したハモ(トゥルク・ジャムヤン・クンガ・テンジン)は母親(テンチョー・ギャルボ)ら家族と別れ、彼らと共に首都ラサへと旅立ち、ダライ・ラマとして生きるための修行の日々に入った。ポタラ宮殿での日々は過ぎて行く。その間、ハモを連れてくるように命じ、彼に初代菩薩の誕生の話を聞かせた摂政レディング(ソナム・ブンツォク)は、かねて僧仲間からの反感を買っていたこともあって退任。ダライ・ラマは後任にタクラ(ツェワン・ジグメ・ツァロン)を定めた。さらに成長し、望遠鏡で外をのぞいたり、ニュースフィルムや文献で海外の事情にも通じるようになったダライ・ラマ(ギュルメ・テトン)。だが、ある日、彼は前摂政のレティングがタクラの暗殺を企てたかどで連行されるのを目撃し、こうした醜い現実からおのれが遠ざけられていることを知って苛立ちを覚えた。折しも中国では毛沢東(ロバート・リン)指導のもと、共産党支配による中華人民共和国が勃興、チベットが中国の領土だと各国にアピールし、さらにチベット政府に同様の趣旨の三つの要求を通告してきた。50年。ダライ・ラマ(テンジン・トゥタブ・ツァロン)は中国の要求を拒否し、戴冠式を執行、政府をインド国境近くのドンカル僧院に移した。インドへの亡命を勧める側近の声を聞きながら、非暴力の立場を貫きつつ、民を守ろうと新たな決意をするダライ・ラマ。だが、現実は厳しく、解放軍将軍は執拗に礼を失した訪問を繰り返し、国連もチベットの独立承認を拒否するに及んで、ダライ・ラマは54年、自ら北京に赴き、毛沢東と会見する。会見の席上、毛沢東は穏やかだったが、最後に冷然と、「宗教は人民の麻薬です」と告げるのだった。帰国したダライ・ラマは激化する解放軍の爆撃と罪なき人民へのいわれなき迫害を目にして、苦悩の末、ついに亡命を決意する。かくして59年、ダライ・ラマはラサを脱出、インドヘと亡命するのだった。

★映画『セブン・イヤーズ・イン・チベット
映画の公開後、中国政府は、映画の中で紅軍の士官が意図的に無礼で傲慢な人物として描かれている、また紅軍兵士がチベット人に対し虐殺したかのような演出がされたとして強く非難した。中国で反逆者、帝国主義者の手先とされているダライ・ラマ14世だが、映画の中では肯定的に描かれている。このため『セブン・イヤーズ・イン・チベット』は中国で上映禁止となった。また、映画の監督および主演者のブラッド・ピット及びデヴィッド・シューリスは生涯中国大陸への立ち入りを禁止された。
中国に入国できなかったため、映画の大半はアルゼンチンで撮影された。しかし映画の放映から2年後、監督ジャン=ジャック・アノーは2名のクルーがチベットに潜入し、一部の映像を中国国内で撮影したことを明らかにした。中国政府の強い反応にもかかわらず、ジャン=ジャック・アノーは映画に20分ほどのチベットで撮影された映像を加えていた。また、一部の映像はチベット近隣のネパールで撮影された。

10年前のヴェトナムで流れていた曲.txt

10年前、灼熱のサイゴンのベンタイン市場を徘徊しているときに流れていた曲。フォングーラオ通りでも毎日のようにかかっていた。
あれから長い歳月を経て、やっとタイトルが判明。これも文明の利器のおかげ。
あの頃、アジアを彷徨っていた旅人には懐かしいかも・・・。
Fool's Garden 『 Lemon Tree』
http://jp.youtube.com/watch?v=bCDIt50hRDs

イスラム世界の血縁主義.txt

「トーキング・マイノリティ」より引用
イスラム圏、殊にアラブ世界ではイスラエルべったりでムスリムには厳しい欧米の姿勢をダブル・スタンダートと非難する。もちろんアラブ側の非難は正しい。だが、欧米の二重基準を糾弾する中東世界もまたその縁故主義、身びいきは凄まじい。血縁重視主義は日本の比ではなく、むしろ儒教圏に近いものがある。アラブに限らず、イラン、トルコも人間関係の基本は血縁なのだ。
「水は血にならない」というアラブの諺がある。血縁関係のない者は結局のところ他人、との意味であり、英語の“Blood is thicker than water”の訳である「血は水よりも濃い」以上に血縁絶対が強い。日本ならいとこの子供同士さえ顔を見たことがないという例も少なくないが、そんなことはイスラム世界では稀らしい。血が繋がっている者は必ず交際し、複雑な権利や義務を持っている。「遠い親戚より近くの他人」の諺が成立する日本とはかなり違うのだ。
 中東の血縁関係とは生物学的な関係であり、日本式の擬制的な血縁関係ではないと、トルコ史研究家の大島直政氏は指摘する。日本では嫁が夫の両親に対し、「おとうさん、おかあさん」と呼ぶのが普通だが、アラブ社会なら「おじさん、おばさん」が一般的だという。本当の父母ではない者を父母とは呼べないからだが、日本でそんな呼び方をしたら、離婚騒動となっても不思議はない。そのためイスラム社会では、日本式の「ウチの会社(または役所)」という観念や表現はありえない。もしあったとしても、それなら組織のトップから末端に至るまで血族で固めた場合である。この血族も本当に血の繋がる者であり、単に婚姻関係があるだけの者は血族ではない。何しろ、シャリーア(イスラム聖法)では養子さえ禁止されているそうだ。
 シャリーアがそれほど血縁関係を重視しているのは、アラブはもちろんトルコ、かつてのペルシア(イラン)も全て遊牧民だった伝統によると見られている。移動生活が基本の遊牧民は農耕民と異なり、「地縁」とは大して関係がない。だから遊牧民にとっての人間関係はあくまで血縁の有無が第一で、それが発展した部族意識が人々の行動の基本となるのだ。それゆえ、己の属する部族の行動の善悪はともかく、部族の幹部会議で決められたからには、それに従わなければ、村八分ならぬ「部族八分」となり、社会的な権利を失うのだ。曲がりなりにも近代国民国家をつくり上げたトルコさえ、西欧流の個人主義を身に付けた者には、「ドイツ帰り」呼ばわりされるらしい。血縁関係をないがしろにしたがる西欧かぶれの意味合いも含まれるという。
 絶対君主制と思われるサウジアラビアも、一皮むけば今も部族連合国家そのものなのだ。初代国王イブン=サウードが百回以上(!)も結婚したのは好色ばかりでなく、全ての有力部族長の娘に子を産ませることで、サウード家との血縁関係を基本とし、部族間の「大部族化」を図ったのだ。サウジアラビアの国名からして、「サウード家のアラビア」の意味。その「家」も部族であり、日本の「家」とは観念がまるで違う。
 同じアラブ人のムスリムでさえ、部族も異なり血縁関係がないなら赤の他人となるのだから、ましてや異民族、異教徒に対する姿勢は想像が付く。イギリス人イスラム学者バーナード・ルイスはイスラム社会の異教徒、女性、奴隷への扱いを「聖なる差別」と表現していた。西欧のキリスト教による“聖なる差別”はさておき、異教徒、異人種には公平な態度など望むべくもないのがイスラム圏。
 ムスリムが好む言葉に平等、公正があるが、逆にそれが実現困難な社会であるのが伺える。平等や公正が行き渡っているならば、この言葉の使用度は至って少ないだろう。礼節をモットーにする儒教圏こそ、非礼節がまかり通っているのと同じく。
 先の五輪予選ハンドボール大会で所謂“中東の笛”が問題となったが、この先も同じ現象が続くのは明らかだ。ただ、中東の強烈な縁故主義を封建的と批判する欧米も身びいきなど当り前であり、頻繁なルール改正を見ればアジア・アフリカに公正な態度など取らないだろう。ハンドボールなど火中の栗を拾わされ、韓国に利用されたのが日本なのは言うまでもないが、政治とスポーツは別と本気で信じているのは日本くらいかも。
■参考:「イスラムからの発想」大島直政著、講談社現代新書
http://blog.goo.ne.jp/mugi411

クフ王のピラミッドより高いケルン大聖堂.txt

その圧倒的な高さと人々を包む神秘的な光
→「大聖堂は人々に神の存在を実感させるための巨大な装置」
ケルンはドイツ西部、ライン川沿いに位置する。人口100万。ビールとカーニバルで有名な活気あふれる街。オーデコロンを世界で最初に製造したのもケルン。オーデコロンとはフランス語で「ケルンの水」の意味である。この街のシンボルが、世界最大級のキリスト教建築であり、ゴシック様式の最高峰といわれるケルン大聖堂だ。双塔の高さは157メートル、まるで岩山のようにたちはだかっている。13世紀に着工され、632年のときをかけて築かれた。 大聖堂の内部、最も神聖な場所に、まばゆい光を放つ黄金の柩が置かれている。1000個以上もの宝石で飾られたこの柩の内部には、大聖堂の歴史を作ってきた「東方三博士の聖遺物」が納められている。建設に600年以上の時間が費やされた事情もここにある。

★ケルン大聖堂
現存の大聖堂は3代目で、初代が完成したのは4世紀のことであった。正方形の建物で、最も古い聖堂として知られていた。
2代目は818年に完成し、12世紀後半に東方三博士の聖遺物がおかれたことで多くの巡礼者を集め、ケルンの発展に貢献した。1248年の4月30日に火災により消失した。3代目は2代目が消失した年である1248年に建設がはじまった。しかし、16世紀に入って宗教革命を発端とする財政難から一度工事が途絶し、正面のファサードの塔がひとつしかない状態が続いた。建設が再開されるのは19世紀に入ってからだった。
ナポレオン戦争の影響によりドイツでナショナリズムが高揚する中、中世ドイツに自民族の伝統を探し求める動きが強まった。建築ではゴシック・リヴァイヴァルの潮流が強まり、建設途中であったケルン大聖堂に注目が集まったため、1842年に建設が再開され、もうひとつの塔の完成が急がれた。全てが完成したのは建設開始から600年以上が経過した1880年のことであり、高さが157mの大聖堂はアメリカのワシントン記念塔(高さ169m)が完成する1884年まで建築物としては世界一の高さを誇った。「皇帝の鐘」と称される鐘が南塔にとりつけられたが、第一次世界大戦の際に接収され、溶かされたのちに武器として用いられた。
大聖堂は第二次世界大戦時のケルン市に対する英米軍の空襲で14発の直撃弾を受けた。内部は激しく破壊されたものの全体は崩れなかったため、1956年まで復旧工事が行われ、元の状態に復元された。この際に周囲の廃墟から再利用した粗悪なレンガで復旧された部分が残っていたが、1990年代に入り空襲前の外観に戻す作業が始まっている。また、修復の一環として破損したステンドグラスの一部はゲルハルト・リヒターによって近代的なモザイク風の市松模様の物に置き換わったのだが、これについては未だに賛否両論がある。
1996年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたものの、周辺の高層建築物計画による景観破壊の危機にさらされた。2004年には危機遺産に指定されたが、大聖堂の周囲に高さ規制を敷くなど市当局の懸命な努力により2006年を以って解除された。
2005年8月18日にはローマ教皇ベネディクト16世が自ら大聖堂を訪問している。

ソニータイマー?

自宅のデスクトップ(VAIO)が故障。ドライヴがDVDを認識せず。
サポセンに電話したが、修理にださないと駄目とのこと。
1週間以上かかる模様。いつ修理に出すかが問題だ。
不幸中の幸いは延長保障をかけていたことか・・・。
購入して3年目で初故障。もしかして、これがソニータイマー?
P.S尤もソニーはUIがMACに似ているので多分次もVAIOを買うだろうな(苦笑)。

●ソニータイマー
ソニータイマー(Sony timer)とは、ソニー(SONY)の製品において、その高い技術力により製品寿命をコントロールしているかのように、メーカー保証期間が過ぎたあたりの絶妙な時期に故障する事象を皮肉った言葉。しかし、故障発生装置(タイマー)がソニーの製品に装填されている事実は確認されていない。そのため都市伝説の一例としても挙げられる。もともとこの言葉は、ネット環境が当たり前になる1990年代以前から一部の人達の間で使用されていた隠語だったのだが、今ではソニーの役員などが会見で使用するほどに一般化している。

日本最古の大学足利学校.txt

以下引用日本の史跡101選http://www.adnet.jp/nikkei/shiseki/contents/082.html
古(いにしえ)の足利は学問の街だった。いまも、市内の道案内板には、さりげなく『論語』の教えが刻まれている。「巧言令色、鮮(すくな)し仁」「過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し」。思わず襟を正したくなる。街のど真ん中に美しい姿を見せる建物群が「学校さま」と市民が慕う足利学校である。中世から近世にかけて日本最古の総合学府として栄えた。
 JR両毛線の足利駅から徒歩で10分。石畳の歩道を進むと「学校門」。その内部に施設が並ぶ。正面が孔子廟(びょう)、その右手に、かつて教室のあった方丈と庫裏。建物の南北に庭園があり、書院の飾り窓から見る眺めは見事だ。建物の配置や名前には手本がある。儒教の開祖、孔子の生誕地、山東省曲阜(きょくふ)の廟である。
 構内の両隅には学生の寄宿舎だった衆寮。国宝の4種77冊など多数の漢籍を備える収蔵庫、遺跡図書館なども併設している。ざっと100メートル四方の周囲は、堀と土塁で囲み、ここだけが別天地であったことがうかがえる。
●坂東の大学 
江戸時代中期の姿を半分に縮小して再現したという。ただ、創建がいつかについては諸説ある。律令制下、国ごとに置いた学校、国学の流れだとすれば奈良時代。源氏の坂東進出に伴い、この地で勃興(ぼっこう)した足利氏のころとすれば平安末期。
 はっきりしているのは、室町時代の中期に再興したことだ。文武両道に優れていた関東管領、上杉憲実が校則を作り、自ら収集した漢籍を寄進。さらには校長を鎌倉の円覚寺から呼び寄せた。
 「坂東に足利学校という大学がある」。宣教師として日本にやって来たフランシスコ・ザビエルらは、こぞって足利学校の存在を書簡で本国に伝えた。ルイス・フロイスの書いた『日本史』にも登場する。学校の実力を卒業生から伝え聞いて驚き、布教活動の脅威になると感じたようだ。
 学生の数は最盛期には3000人。蔵書も2万冊が揃(そろ)っていた。知識欲のある者は無料で好きなだけ勉強ができた。校則では僧職が入学の条件だが、評判を聞いて、にわか僧侶でもぐりこむ学生も多かったようだ。
 教科は、四書五経など儒学が中心で、易学や医学、天文学、暦学なども。『史記』の輪読などを通じて兵学も教えた。
 この学校が最高学府とか総合大学と言われるのはまんざら誇張ではない。江戸時代の寺子屋が初等教育の原点とすれば、足利学校は高等教育の起源だった。
●軍師らを養成 
最盛期は戦国時代だった。易学や兵学に長じた卒業生は戦国の有力武将の間で軍師や補佐役として引っ張りだこだったという。
 武田信玄は家臣の連れて来た軍師が足利で学んだかどうかを重用の物差しとした。徳川の将軍3代に仕えた天海和尚は4年間も在籍した。日本医学の草分け的存在と言われる戦国時代の医師、曲直瀬道三(まなせどうさん)も卒業生だ。
 江戸幕府が朱子学を奨励するにつれ次第に存在価値が薄れ、明治の版籍奉還で廃校になった。とはいえ、再興からだけ数えても実に400年続いた。教育や学問を尊ぶ気風は日本中に広がった。

世界はGoogleの前にひざまずくか?.txt

「超」整理日記より引用http://www.noguchi.co.jp/essays/archives/51#more-51
ほぼ発足当初から、私はニフティのメールサービスを使っていた。1980年代、「パソコン通信」と呼ばれていた頃の話である。
90年代の中頃、それまでニフティを使っていた人びとが、次々とインターネットメールに移行していった。企業や大学がドメインを取得し、組織メンバーにメールアドレスを配り始めたからである。私自身も大学のアドレスはもらったのだが、律儀にニフティにとどまった。
しかし、最近、ついにニフティを見限らざるをえなくなった。メールが使いにくくなってしまったからである。それまではPCに記憶させることができたIDとパスワードを、そのつど入力しなければならなくなった。PCに記憶させることは可能だが、接続を切ると、記憶が失われてしまう。
したがって、毎日、IDとパスワードを入力しなければならない。そのうえ、トップページの「メール」のボタンは画面の外にあるので、画面を動かす操作が必要だ。たいした手間ではないとはいえ、毎日無意味な操作を強いられるのは、精神的に苦痛だ。スパムメール排除機能が向上して使いやすくなったと感じていた矢先だけに残念なことだが、ニフティを主要な連絡手段にはできなくなった。
そこで、グーグルが提供するGメールに切り替えることとした。これは、登録するだけで無料で使えるサービスである。まだβ版だが、きわめて使いやすい。
①サービス利用の見返りに個人情報を提供する
なにより便利なのは、メール発信者やメール内容を検索できることだ。
これまで、特定のメールを参照したいとき、多数の着信分から目的のメールを探し出す必要があった。しかし、発信者名を検索できれば、目的メールの発見はきわめて容易になる。
強力な検索サービスが利用できると、仕事の進め方だけでなく、基本的なものの考え方さえ変化する。
過去のメールを、なにも整理せず保存しておく。そして、必要なものを即座に取り出す。これだけで、さまざまなことができる。
たとえば、ある案件についての連絡や交渉の経緯を、一覧することができる。「言った言わない」問題を防ぐため、重要なやり取りは日記に残しておくことが必要だと、私はこれまで考えていた。しかし、いまやその必要はなくなった。了解事項や約束事をメールに書いておけば、ただちに経緯を一覧することができるからである。
このように、蓄積されたメールは、きわめて有用なデータベースになる。これまでもメール記録のデータベース的利用は可能だったが、強力な検索機能が利用できるようになって、その有用性は格段と高まった。もはや私は、Gメールから離れることができない。
ところで、私のメールはグーグルのサーバーに保存されている。したがって、グーグルは、私の個人情報を知り、利用することができるわけだ。
「検索連動広告」というかたちで、すでにその利用が行なわれている。発信者やメール内容を検索すると、それに関連した広告が現れる。それを見たとき、「これは単なるメールサービスではない」と、強く感じた。
私は、有用なサービスの無料利用と引き替えに、個人情報を提供しているわけである。前回述べたように、一般的検索サービスやオンライン書店のサービスを通じて、われわれはすでに個人情報をサービス供給者に提供している。それに、メールの情報が加わるわけだ。
メールの情報は、孤立的な検索語や購入書籍に比べて、はるかに詳細である。それを用いれば、サービス提供者は、原理的にはさまざまな情報を得ることができる。
メールの内容をチェックすればもちろんのこと、そこまでしなくとも、誰と誰がどのような頻度でメールを交換しているかを分析するだけで、人間関係を知ることができる。
これまでマーケティングに利用可能だった情報のほとんどは、地域、年齢、所得などで分類された集計量だった。しかし、メールサービス提供者は、個別情報を直接に知ることができるわけだ。販売者や政治家にとっては、のどから手が出るほどほしい情報だろう。
企業は従業員のメールは把握できるが、それ以外はわからない。しかし、Gメールは、社会全体のメールを鳥瞰できるのである。
原理的には、これまでも郵便配達でこの類いの情報は入手できた。しかし、人間の手作業による分析では、全体像を描くことはとてもできなかった。メールは電子情報なので、自動的な操作によって処理し、分析することができる。したがって、きわめて大量のデータを処理し、そこから目的の情報を得ることが可能になったのである。
『1984年』のビッグ・ブラザーが望んで果たせなかった全国民の監視が、技術的な観点だけから言えば、近い将来に可能になる。
グーグルは、「デスクトップ検索」というサービスも提供している。これは、個人のPC内情報の検索だ。便利なサービスだろうとは思ったが、PCの情報が見られることになるので、敬遠していた。しかし、「メールを見られている以上、PCの情報を隠したところで無意味かもしれない」と考えるようになった。私のように考えて個人情報を提供している人は、かなりいるに違いない。そして今後ますます増えるだろう。
②われわれの個人情報は他国の企業に吸い上げられる
これまでも、「グーグルは全知全能であり、世界を支配する」と言われた。しかし、それは「グーグルの検索結果の上位に位置しなければ存在しないのと同じ」という意味であり、主として提供者である企業の立場からの評価であった。
しかし、ここで述べたことは、個人も含めてすべての人びとがグーグルの監視下に入る状況が、ありえなくはないということだ。
もちろん、グーグルはメールサービスを独占しているわけではない。グーグルが保有するサーバーがきわめて多数であるのは事実とはいえ、全世界の情報を把握しているわけではない。また、グーグルは、検索連動広告以外に個人情報を利用することはないだろう。
しかし、全人類がグーグルの前にひざまずくSF的世界が絶対に来ないとは断言できない。このような状況下で、個人情報保護法などまったく無意味だろう。
では、こうした事態を回避するために、何が必要だろうか。それは、サービスの供給を独占させないことだ。複数の主体が競合的なサービスを提供し、利用者が分散するなら、ただ1つの主体が全世界の個人情報を独占するような状況を回避することができる。
「複数の供給主体が競争する状態」は、これまでも求められたことだ。ただそれは、価格支配の防止を念頭に置いたものだった。競争の維持は、情報独占の防止という観点から、新しい意味を持つようになったのである。
こうした状態は、規制や法律によって実現できるものではない。優れたサービスの提供者が次々に登場することによって実現するのである。シリコンバレーの状況を見ると、期待が持てそうだ。
しかし、日本にそうした提供者は登場しそうにない。政府が「日本は世界最先端のIT国家」などと寝言を言っているあいだに、日本人の個人情報は他国の企業に吸い上げられつつある。日本人はこのことをはっきりと自覚する必要がある。

「旅の寿命」

この地に来たことを後悔していた。温度計は50度をこえている。下痢が止まらず、熱も引く気配すらみせない。マラケシュで飲んだ生水が悪かったのだろうか。手持ちの薬も、とうとう尽きてしまった。
医者のいないこのオアシスの村では、薬をもった旅行者が、運良くこの宿に来てくれるのを待つより他なかった。まとわりつくハエをはらいながら、故郷を離れてからの異国での日々が脳裏に蘇ってきた。
最初の3ヶ月は毎日が祝祭だった。好きな時間に目を覚まし,街を徘徊する。
その街に世界遺産があれば、時間をかけて歩く。夜は安宿のさまざまな国籍の旅人たちと杯を交わす。旅してきたルート、印象に残った国や街、話は尽きない。
相手が日本人であれば、読み終えたお互いの本を交換するのも愉しみのひとつだった。バックパックに詰め込んだ数冊の文庫本が人や風景と出会うごとに変わっていく。
しかし4ヶ月を過ぎたころからだろうか、遺跡を見ても以前ほどの感動を味わうことがなくなった。
「なぜ自分は旅するのだろう」と意識がどんどん内向していく。
自分のやりたいことを見つけられぬまま、旅が終わってしまうのだろうかという恐怖感。
旅に寿命というものがあるのだとすれば、すでに尽きていたのだろう。
モロッコのメルズーガはサハラ砂漠に飲まれそうな街である。サハラを見てから旅のケリをつけよう。そう自分に言い聞かせるようにして、ジブラルタル海峡を渡り、この地にやってきた。
フランス人がくれた薬が効いたらしく、徐々に体調が良くなってきた僕は、沢木耕太郎の「彼らの流儀」を読み始めた。このノンフィクションは、はさまざまな人たちの「生き方」が描かれている。一つ一つは短いコラムだが一人の人間の人生が凝縮された中身は濃い。その中の一つ「ミッシング」は、ひとり詠みながら手が震えた。インド、ネパールあたりを旅して、ある日突然消息を絶った息子。そして彼を探す親たちと作者の思い。その母の流す涙・・・・・・。
翌日、僕は旅行代理店に行き、日本へのチケットを購入したのだった。

蛇足:本日は勤務する高校の卒業式。天気は最高の晴れ舞台を卒業生達に用意してくれました。
   上記は、これも本日生徒に配布された学校の図書館報に寄稿した小生の駄文。
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