ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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傑作『MONSTER』とポル=ポトの共通点とは?.txt

引用:梶ピエールの備忘録  http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20080205/p1
『ポル・ポト―ある悪夢の歴史』
作者: フィリップショート, 山形浩生
出版社/メーカー: 白水社 発売日: 2008/02
ポル・ポト。誰もがあの忌まわしい悲劇と結びつけてその名前を覚えていながら、彼が一体どんな人物なのか、自信を持って語ることのできる人はほとんどいないだろう。この分厚い本を読めばポル・ポトという人物の具体的な像が浮かんでくるかというと、残念ながら必ずしもそうではない。読後も強く印象に残るようなエピソードや言動といったものがこの人物についてはそもそも乏しいからだ。本書の大部分は、むしろ複雑極まりない第二次世界大戦後のカンボジア国内の政治状況やインドシナ半島を取り巻く国際情勢の解説などに費やされている。
 もちろん、クメール・ルージュが極端に秘密主義だったため、彼の人物を示す資料や関係者の証言も少ないので、さすがの著者もその実像に迫れていない、という可能性もあるだろう。しかし、いくら資料が出てきても例えば毛沢東とか周恩来、あるいはレーニンやスターリンといった、肯定的にせよ否定的にせよとにかく分かりやすくて感情移入しやすい人物像が描かれる可能性はまずない。そう確信させるだけの力がこの本にある。むしろアレントが『イェルサレムのアイヒマン』で提示したような「悪の凡庸さ」こそがカンボジアの独裁者の特質だった、ということを浮かび上がらせることこそ、本書の持つ最大の意義なのかもしれない。
 山形さんの解説でも触れられているように、著者のフィリップ・ショートはクメール・ルージュ政権下のカンボジアで起こったことは「ジェノサイドではない」という立場をとっている。では、「あの悪夢」は一体なんだったのか。ショートは明確な答えを出すのを慎重に避けているけど、誤解を恐れず言ってしまえば、僕のイメージに浦沢直樹の『MONSTER』で描かれたような、どこかの平和な田舎町が憎悪と殺戮の連鎖に巻き込まれていく恐怖に一番近いように思う。もちろん、『MONSTER』との一番の違いは、おぞましい悲劇を引き起こしたのがヨハンのような特別な存在=モンスターではなく、徹底して「凡庸な理想主義者たち」であったという点だ。もちろん、その背景には古谷実の『シガテラ』で有名になった「弱い毒」の蓄積―ベトナム人への民族的憎悪、農民の都市民に対する憎悪、旧宗主国フランスやアメリカの自己中で非人道的な振る舞い、著者の言うところの「クメール人気質」・・etcがあったということが前提条件なのだが。
 チャン=ハリディの『マオ』にもいえることだが、筆舌に尽くしがたい歴史的な悲劇が起こったとき、「モンスター」がそれを引き起こした、という解釈をとることは一番安直な方法で、それゆえ大国の政治的利害のために使われやすい。かといって「凡庸な役者」しか登場しないところになぜあれほどとんでもない悲劇が生じるのか、それを説得力のある道筋をつけて描くのはとても難しい。本書は必ずしもその道筋を分かりやすい形で示しているわけではないが、その代わり膨大な資料収集と丹念な実証的記述によって、少なくとも起こったことを「ありのままに」提示し、「モンスター史観」を葬り去るのにかなりの程度成功しているといえるだろう。口で言うのは簡単なことだが、大変な労力と強靭な精神力を要する仕事だ。
 「モンスター史観」を否定するということは、安易な「救い」「希望」を拒絶するという意味でも重要だ。それにしても本書の記述の救いのなさは徹底している。それは、次のような一節に端的に現れているだろう。
何世紀にもわたってかれらの国家の運命は外国勢力の気まぐれに左右されてきた。そしてこの論理を唯一拒絶した統治者ポル・ポトは、さらにひどい災厄をもたらしたのだ。
このような表現からはシニカルな冷徹さが感じられるかもしれない。しかし、国際社会が長い間「支援」してきたカンボジアの現政権の首脳がいずれもクメール・ルージュの生き残りであり、「全く無慈悲で人間的な感情を持ち合わせていない」と評される現実に思いをいたせば、このような冷徹さこそが精一杯誠実な態度なのだ、ということが分かるはずである。
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村八分の語源とは?.txt

日本の村落の中で掟や秩序を破った者に対して課される消極的制裁行為についての俗称。
地域の生活における十の共同行為のうち、葬式の世話(死体を放置すると腐臭が漂う、また伝染病の原因となるため)と火事の消火活動(延焼を防ぐため)という、放置した場合他の人間に迷惑のかかる場合(二分)以外の一切の交流を絶つこと(残り八分は成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行)。
江戸時代はこれを課されると入会地などの共同所有地が使えなくなり事実上生活が出来なくなった。しかし、村落の中で掟や秩序は合法的でなくその地域の有力者の利益に沿うものも少なく無く、公平な秩序維持活動とは言えない。1909年(明治42年)の大審院判決で、村八分は脅迫あるいは名誉毀損とされた。しかしこういった村八分行為は戦後になっても存続し、戦後で有名になった事件としては1952年に静岡県富士郡上野村(現富士宮市)で起きた、参議院補欠選挙での村ぐるみの不正を告発した女子高校生が一家共々村八分にされた事件がある。
現代の日本の都市の内、新住民が多く住む地区では隣近所と疎遠なこともそれほど珍しくないが、現在でも田舎で、特に近所との連帯が必要とされる地域(農村、漁村など)では依然存在する現象で、生活不能な状態に追い込まれることもままあると言われているが、現在では脅迫罪が適用される行為といえる。
現代においては、放送禁止用語と考えられることがある。

●村八分裁判
新潟県関川村において、2004年春お盆のイワナのつかみ取り大会において「準備と後片づけでお盆をゆっくり過ごせない」と一部の村民が不参加を申し出た。 集落の有力者が「従わなければ村八分にする」と、11戸に山菜採りやゴミ収集箱の使用を禁じた。この村八分行為を受けて、村民11人は同年夏、「村八分」の停止などを求めて有力者ら3人を新潟地裁に提訴した。1審の新潟地裁新発田支部では有力者側に行為の禁止と計220万円の損害賠償を命じた。有力者は東京高裁に控訴したが、2007年10月10日東京高裁も地裁の判断を支持し、控訴を棄却した。

「仕事が好きだから」 川島教授、「脳トレ」の報酬24億円受け取らず.txt

ニンテンドーDSの大ヒット作「脳トレ」の看板教授は、「仕事が好きだから」という理由で一切の報酬を受け取ることを断っていると話している。
「Dr. Kawashima's Brain Training」(日本版の名称は「東北大学未来科学技術共同研究センター川島隆太教授監修脳を鍛える大人のDSトレーニング」、米国版は「Brain Age」)は英国だけで100万本以上販売されており、ニンテンドーDSの販売数を押し上げ、ゲームの魅力をより広い層に広めた。
しかし、このゲームの看板教授はAFPとのインタビューで「私の財布には円も入ってきて
いない」と話している。この48歳の教授は、印税の半分- -およそ24億円(約2200万ドル)を受け取ることもできたが、同氏は1100万円(10万ドル)の年収で満足しているという。その代わり、この支払いは同氏の雇用者である東北大学に対して行われている。
川島氏の家族は本人ほどは淡泊にはなれなかったらしく、問題が生じたという。同氏は
「私の家族はみな私に腹を立てているが、お金が欲しければ自分で稼ぐようにと言っている」と認めた。
川島氏はまた、同氏が仕事中毒であると告白した。同氏は「うんざりするかも知れないが、私の趣味は仕事だ」と言っている。
川島氏はさらに、自分のゲームを遊ぶ時間を持てておらず、子供のゲーム時間も厳しく制限していることを明らかにした。同氏の4歳の息子は平日はゲームを禁止されており、週末に1時間だけ遊ぶことができる。川島氏は「私はゲームをすること自体が悪いとは思わないが、ゲームを許すと子供たちが勉強や家族とのコミュニケーションなどのすべきことができなくなってしまう」と述べている。

ローマ教皇ピウス12世がナチスに対して沈黙したのはなぜか?.txt

出典:http://www.wound-treatment.jp/next/dokusho71.htm
『ローマ教皇とナチス』(大澤武男,文春新書)
 地上におけるイエスの代理者,使徒ペテロの後継者,それがローマ教皇である。全世界5億人のカトリック信者の尊敬を集めるモラルの体現者,それがローマ教皇だ。
 そんな歴代のローマ教皇の中でも,第一次大戦から第二次大戦の期間に教皇を努めたピウス12世は,戦争犠牲者,負傷者,困窮者の支援と慰問に超人的ともいえる活動を行い,最も尊敬を集めたローマ教皇の一人だった。
 しかし彼は別名「ヒトラーの教皇」とも呼ばれていた。彼はナチスによるユダヤ人大量虐殺の事実を知りながらそれを黙認し,他のカトリック司祭達がナチス非難の声を上げ,ピウス12世も声明を上げるようにと要求されても,最後まで沈黙を続けた。そしてそのような彼の態度は結果として,あの悪夢のホロコーストを影で支えるものとなってしまった。
 この本は,平和の使徒であり,隣人愛を唱えるローマ・カトリックの最高責任者が,人類の汚点とも言うべき大虐殺に反対しなかったのか,なぜ教皇は沈黙を続けたのかを解明しようとする力作である。
 本書で解き明かされる原因をまとめると,次のようになるようだ。
宗教を否定する共産主義が勢力を伸ばしていたことに危機感を抱いていた事
キリスト教ヨーロッパ文明の根本にある反ユダヤ主義の影響
ドイツ文化,ドイツ社会に強く親しんでいたピウス12世の個人的性向
軍事力も強制力も持たず,権威のみしか持っていないローマ教皇と言う存在自体の弱さへの認識 これらがないまぜになり,ナチスの政策に賛同し,ナチスの大量虐殺を非難する声に意識的に耳を塞いでしまったようだ。
 もちろん,ピウス12世の業績自体は非常に大きなものだ。歴史上の幾多のローマ法王が発してきた膨大な法律をまとめあげ,それらと現実の法律との整合性を持たせ,現実の法律体系に匹敵する法体系として作り上げたのはを彼の個人的成果であるし(通常は,これだけでも一生物の大事業である),両大戦の犠牲者の家族を見舞い,傷ついた人達に声をかけ,医薬品を配布した。一日に4時間しか眠らず,粗末な食事しかとらず,万事控えめで,私欲と言うものがなく常に他人のために行動した。まさに超人であり,「使徒ペテロの後継者」にふさわしいものだったと思う。
 しかし彼の行動や発言は「ローマ・カトリック」の範囲内であり,その範疇をついに超えられなかったのも事実だし,ドイツを愛するあまりナチス・ドイツを無批判に受けいれ,反ユダヤ主義に疑いを持つ事もなかった。彼は繰り返し「隣人愛」を説いたが,その「隣人」にユダヤ人は最初から含まれていなかったのである。
 このあたりは,彼が仕えた前教皇のピウス11世が反ユダヤ主義を憎み,ナチスの危険性がわかっていたのと好対照である。
 また彼は,無神論を主張する共産主義に恐怖を抱いていた。これは,若い頃にユダヤ人過激派に監禁された事がある,という個人的経験が背景にあって,革命行為自体に嫌悪感を持ってしまったのが原因らしいが,同時にバチカンを守ることを第一義に考えてしまい,「共産勢力でなければ誰でもいい。ましてそれが共産勢力に対抗してくれるならもっといい」と考えてしまい,ナチスという最悪の悪魔をバチカンの守護者として受け入れてしまった。
 結局彼は,ローマ・カトリックとバチカンを守ることをメインに据えてしまい,人間個人の命を守る事を忘れてしまったようにも思われる。目の前の人達を守る事には全力を捧げたが,遠くポーランドや東欧で虐殺されている人間に対しては,ついに発言する事はなかった。また,ユダヤ人やロマ(ジプシー)への迫害に抗議したために収容所に送られ,虐殺されたドイツのカトリック司祭について知らされても,ついにナチスを非難することはなかった。「迫害はあってはならない事だ」と発言しても「誰が迫害しているのか」については,全く言及しなかった。恐らくこれが宗教者としての彼の限界だったのではないだろうか。
 そして何より根深いのは反ユダヤ主義の思想である。本書の内容を引用するとユダヤ人とはキリストが説く神の声に耳を貸さず十字架にかけて殺し,その天罰として祖国を失い放浪を続ける煩わしい民,キリスト教の隣人愛の教えに反する高利貸によって富みを築き,社会が困窮している時にかえって私腹を肥やしている人々
だそうである。要するに最初から,ユダヤ人は人間扱いされていないし,ユダヤ人を最初から敵視することで作り上げられているのがキリスト教である。
 その後の研究で,イエス殺害にユダヤ人は手を貸していなかったことが証明されているらしい。要するにそれは,新約聖書が作り出したフィクションであり,ユダヤ人にとっては濡れ衣に過ぎなかった,というのが真相らしい。
 だが,いくらそのような研究結果が発表されようと,敬虔なキリスト教とにとっては聖書の記述が全てであり,聖書が絶対に正しいわけだから,ユダヤ人はキリスト殺害に手を貸した永遠の敵でなければいけない。イエスの教えに背く異教徒であり,愛すべき隣人ですらないのである。その意味で,「ユダヤ人の絶滅政策と言う人類史上最大の犯罪を許してしまったのは,キリスト教ヨーロッパ文化全体の本質そのものではないか」,とのノーマン・メイラーは指摘は極めて重い。
 そして,この第二次大戦でのユダヤ人虐殺に沈黙していたのはローマ教皇だけではない。実は,アメリカもイギリスもフランスも無視していた。例えば,第二次大戦後半,アウシュヴィッツでの大量虐殺がアメリカで報告され,アウシュヴィッツに通じる鉄道の空爆が提案された。もしもそれが実現していれば,恐らく数万人のユダヤ人は虐殺されずに済んだはずと言われている。
 だが,結局アメリカは鉄道近くまで爆撃しておきながら,アウシュヴィッツには手を出さなかったし,その結果,鉄道で毎日のように数千人のユダヤ人がアウシュヴィッツに送られた。要するに,アメリカ首脳部にとってもユダヤ人は「厄介者」でしかなかったわけであり,ナチスによる大量虐殺を心のどこかで支持していたわけだ。
 そしてこの「ユダヤ民族見殺し」の負い目が現代のパレスチナ情勢につながっている。第二次大戦中に見殺しにした負い目があるため,パレスチナに対するイスラエルの攻撃を見逃しているらしいのだ。第二次大戦の事を引きあいに出されると,どの国もそれ以上強い事が言えないのだ。
 ピウス12世は数世代に渡りローマ法王庁に仕えてきた家柄の生まれであり,このような反ユダヤ主義の聖書物語(実は上述のようにお伽話である)を乳児期から繰り返し聞かされて育ってきた。そして,10代初めで宗教生活に入り,20代で法王庁の役職についてしまったため,恐らく生涯において他の宗教に触れる機会はなかったはずだ。だから,キリスト教の教義を相対的に眺める機会はなかったろうし,他の宗教と比較する事もなかったはずだし,神の存在そのものを疑った事もないのではないだろうか。
 キリスト教の説く友愛の精神,隣人愛の精神はすばらしいが,それは上記のように「限定条件付きの愛」である。イエスの言葉は博愛に満ちたものだが,聖書の中の異教徒,特にユダヤ教信者に対しての彼の言葉は極めて攻撃的であり,人間扱いすらしていない表現も随所に見られる。何しろイエスはマルコ伝で,異教徒を「まむしの子」と呼び捨て,哺乳類ですらなく爬虫類扱いしているのだ。
 ピウス12世の生涯を見ていると,一つの宗教だけを盲信する恐ろしさ,怖さが見えてこないだろうか。神を信じるのはいいとしても,その神の愛が「限定条件付き」であって,対象が限定されたものである事を知らなかったことが,ピウス12世の悲劇(本人は悲劇と思っていなかったかもしれないが・・・)の原因ではなかったのではないか,という気がしてならない。

エベレストと登山家マロリー.txt

ジョージ・マロリー(1886年6月18日 - 1924年6月8日)は登山家。イギリス人。
1886年、牧師の子として生まれる。
1921年英国山岳会がエベレストに派遣した第一次遠征隊に参加。 翌1922年の登頂目的で編成された第二次遠征隊で登頂チームのメンバーとなった。5月20日のアタックで8,225mまで到達。人類史上初めて8,000mを越えた。この時は雪崩による死亡事故もあり、登頂は断念する。
1924年6月8日、イギリス第三次遠征で、第二次アタック隊としてマロリーとアーヴィンがチベット側から頂上に向かった。途中第セカンドステップと呼ばれる切り立った岩壁の難所を登るところまではN・オデルに目撃されていたが、その後行方不明となる。目撃されたのは本当に人影かどうかは定かではなく、見たという位置もファーストステップ、セカンドステップと時期によって供述が違う。第三次アタック隊がマロリーの登頂に懐疑的な立場を取ったため、マロリーらが登頂を果たしたかどうかはエベレスト登山史上最大の謎となった。
1999年5月1日、遺体がアメリカのマロリー&アーヴィン捜索隊により、標高8,160m付近でうつ伏せのままガレキに体の一部が埋まった状態で発見される。この時、彼が登山時に携帯していたコダックのカメラ (Vest Pocket Model B)の有無が注目された。マロリーは登頂の証明として必ず写真を撮っており、さらにコダック社が「エベレストならば何十年経とうと現像は可能」と断言していたからだ。遺留品の中にカメラはなく、マロリーが登頂を果たしたかどうかは未だ謎のままである。マロリーが「頂上に置いてくる」と言った奥さんの写真が遺留品の中に見つからなかったことからマロリーは登頂に成功したと唱える説もある。 8,570m地点においてマロリーと共に頂上に向かったアーヴィンのピッケルが発見されていた事から、アーヴィンとマロリーは登頂を果たしたが、下山中に何らかの不具合が起き、死亡したという説も新たに出てきた。
イタリアの登山家、ラインホルト・メスナーは、マロリーの登頂成功を明確に否定している。マロリーとアーヴィンの登頂ルートには、「ファーストステップ」と「セカンドステップ」と呼ばれる岩壁があるが、特に「セカンドステップ」と呼ばれる高さ6メートルの岩壁は急峻で迂回路も無く、当時の靴で乗り越えることが不可能だとメスナーは指摘している。「セカンドステップ」は難所であり、中国の登山隊はアルミのハシゴをかけて乗り越えなければならなかった(60年代、中国の第一次遠征隊は、三人組の人梯でここを乗り越えて登頂に成功したと主張しているが、この時の登頂成功は中国人ですら信用していない)。そして現在に至るも、中国隊が残したハシゴに頼らず「セカンドステップ」を越えられたのはたった一人で、仲間のサポートがあり、しかもハシゴにいつでも手が届く位置だった。マロリー・アーヴィン捜索隊は「セカンドステップ」の急峻さを無視して牽強付会に登頂成功の結論を導いていると、メスナーは批判している。
◎驚異の軽装備
ジョージ・マロリーらは、サングラスをかけ、冬用ジャケットにゲートルを巻いただけという、その程度の軽装備でエベレストに挑んでいる。現在では安全面から到底考えられない事で、常人ではこの程度の防寒具では、富士山でも冬期ならおそらく登頂できないだろうと言われている。
酸素ボンベも現在使われているものは約3.5キロであるが、当時は15キロもの重量があった。他の装備も現在の4~5倍の重量でありながら強度は現在のものより遥かに脆かった。従って、ジョージ・マロリーがこの程度の防寒具と、旧式の重い装備で約8,200mまで登ったという事実は驚嘆に値するものである。登頂に成功したか否かはではなく、8,200m付近まで登ったという点に注目してマロリーの偉業に感銘を受けている登山家も多い。
◎「そこに山があるから」
1923年、ニューヨーク・タイムズ紙のインタビューで「なぜエベレストに登るのか」という質問に、"Because it is there."(そこにそれがあるから)と答えた。"it"(それ)とは「処女峰エベレスト」を指すものであるが、日本では藤木九三によって「そこに山があるから」と訳された。面倒くさくて適当に答えていただけと言う説もあるが、登山家の信念を表す名言として現在まで語り継がれている。

「探検は知的情熱の肉体的表現である」.txt

“Exploration is the physical expression of the intellectual passion”(探検家 A. Cherry-Garrard) 
「情熱大陸」:天文学者小久保栄一郎氏の好きな言葉として紹介。

1910年ー1913年に行われた英国のスコット南極探検隊に参加した、24歳の新進動物学者チェリー・ガラードが書いた「世界最悪の旅」の中に書かれている言葉である。
 スコット探検隊は、南極の極点に向かったスコット隊長以下、全員が死亡する。しかも、極点に達しながら、競合的に行動していたアムンゼンに先を越されてしまう。チェリー・ガラードは、生物進化の謎をもとめて、ペンギンの卵を得るために、別働隊として動き、極進する隊には参加せず、帰還して1923年に「世界最悪の旅」を書いている。やむなく生命を落としてしまうスコット探検隊は、危険を求めての行動ではない。極点に素早く到達して、無事に帰還したアムンゼンは成功者であり、スコットは敗者である。無事ではなかったのだから、欠点の多い探検隊だったと言われても仕方がないが、決して危険を好んで冒す冒険ではなく、真の意味の探検だった。

オランダの至宝「夜警」.txt

映画「レンブラントの夜警」を見る。「真珠の耳飾りの少女」のように一枚の絵画を見るような映像美を期待するとがっかりする。そう聞いていはいたのだが、果たしてその通りだった。
劇中劇みたいな感じで、リアリティがない。黄金の時代のオランダがあそこまで陰鬱で退廃していたとは思えない。ちょっとデフォルメしすぎではないか。
もっとも「夜警」が彼にとっての分岐点であることは分かったのだけれど・・・。。
これなら、「エリザベス:ゴールデン・エイジ」にすれば良かったかも(苦笑)。

☆夜警(オランダ語:De Nachtwacht)☆
オランダの17世紀の画家レンブラント・ファン・レインによる絵画作品の通称。この作品は18世紀以降この通称で呼ばれているが、より適切な題名は『フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ラウテンブルフ副隊長の市民隊』となる。現在はアムステルダムの国立美術館に展示されており、レンブラントの代表作とされている。
①絵の中の要素
この絵画は次の三つの要素のために有名である。まずその巨大さ(縦3メートル63センチ、横4メートル37センチ)、次に光と影の効果的な使用、そして当時は不動の姿勢で描かれた軍隊や自警団の集団肖像画に動きの要素を取り入れたことである。
『夜警』はオランダ黄金時代の絶頂期であった1642年に完成した。この絵は題名となった市民隊(火縄銃手組合による市民自警団[1])が出動する瞬間を描いている。黒い服に隊長の印である赤い飾り帯を斜めにかけたフランス・バニング・コック隊長と、その右横の黄色の服を着たウィレム・ファン・ラウテンブルフ副隊長は隊を率いて動き出そうとし、その周辺では銃に火薬を詰める隊員や銃を構える隊員が銃の技量を示し、鼓手がドラムを構え、後ろでは旗手のヤン・フィッシェル・コーネリッセンが隊旗を掲げている。一斉に人々が動き始めたため、その下では犬が吠えたて、左には少年が走り回っている。各隊員はそれぞれ異なった方向に体を向け、多様な表情を見せており、隊員の動きが交錯して画面に興奮を生み出している。
レンブラントはキアロスクーロ(明暗法)を用いて群像にドラマチックな表情を与えた。強い日光が斜め上から差し込み影を作ることで、レンブラントは群像の中から3人の主要人物、すなわち中央の隊長と副隊長、そして中央左奥の少女を浮かび上がらせている。
レンブラントは火縄銃手組合の象徴物をさりげなく画面に配している。黄色いドレスの少女は隊のマスコット的な存在であったが、彼女の帯にぶら下がった鶏の爪は火縄銃手の象徴である。死んだ鶏は打ち倒された敵の象徴でもあり、黄色は勝利の色でもある。鶏の後ろの銃も火縄銃隊を象徴する。また彼女は自警団の盃(ゴブレット)を持っている。彼女の前の人物はオークの葉のあしらわれた兜をかぶっているが、これは火縄銃手の伝統的な主題(モチーフ)である。
②発注
レンブラントは、市民隊の隊長バニング・コックと隊員17名の計18名により制作を受注した。バニング・コックは薬剤師の一人息子だったがフランスで法学を学び、アムステルダムに戻って市民隊(自警団)隊長になっていた。彼は富裕な商人・船主・貴族のフォルケルト・オーヴァランターの娘と結婚し、彼の死後はその遺産や領主の地位を継いでおり、この絵が描かれた後の1650年にはアムステルダム市長にまでなった人物だった。レンブラントに発注した18人の名は中央右後方の盾に描かれている。その他、鼓手、少女、少年などが絵の中には描かれたほか、左側には絵が切り詰められる前はあと2人ほどの傍観者が描かれていた。この時の支払いや受注の記録は全く残っていないが、発注者たちの記録によれば各人が100ギルダー、計1,600ギルダーがレンブラントに払われた。これは当時の肖像画の報酬としては大きな額である。
この絵はレンブラントを含む画家たちに市民隊が発注した7枚の集団肖像画のうちの1点であり、新しく建てられた火縄銃手組合集会所の宴会場に掲げるために発注された。研究者の中には、レンブラントや他の画家たちに対する絵の発注は、フランスの王妃マリー・ド・メディシスの1638年のオランダ訪問に合わせてのものだったと考えている。彼女は当時フランスを追われた身だったが、彼女はアムステルダムで派手な歓迎を受けている。
この絵を発注した隊員たちが、支払った額と同じ様な平等さで各人を描かなかったレンブラントに不満を持ち、これが『夜警』以後の受注減やレンブラントの人生の転落の始まりになったという言い伝えもあるが正確ではない。レンブラントは妻サスキアが『夜警』完成と同じ年の1642年に死去したことや、『夜警』などの大作の受注で財をなしたことで翌1643年から仕事のペースを落とし、美術商としての仕事や絵画のコレクションに力を入れた。しかし妻の死、絵画売買のトラブル、絵画購入やぜいたくのための借金でレンブラントは疲弊し、画家の仕事も画商の仕事もうまくゆかなくなってゆく。

ウェブは「学習の高速道路」.txt

引用文藝春秋2008年1月号 「ウェブは知識の宝の山」梅田望氏よりウェブの進化によって、私たちは、やる気さえあればいくらでも知の先端に触れることが可能になったのである。私は、こうしたウェブの機能を「学習の高速道路」と呼んでいる。
すなわち、ウェブ進化以前の社会では、何かについて学ぼうと思ったら、先人の書いた本を読み、その分野の第一人者の講演を聞きに出かけ、という物理的な努力が不可欠であった。ところがウェブが進化した社会では、リアル社会での物理的なハンディはなくなり、市井の人が各分野の最先端まで一気に高速スピードで到達することが可能になったのである。
とくに、欧米では「社会のために知を広く公開すべき」という考え方が浸透しているので、
英語圏のウェブ社会には、日本語のウェブ世界とは段違いに質の高い情報が大量に流通している。
そんな中、この面白い時代の申し子ともいえる少女が日本にも登場した。将棋の里見女流初段である。彼女は2007年初め、まだ14歳のときに、レディースオープントーナメントの決勝まで勝ち上がり注目を集めたのだが、そのとき誰もが驚いたのが、彼女が生まれ故郷の島根県で独自に将棋を鍛錬したということだった。彼女は東京に出て師匠について修行したことはなく、もっぱら「将棋倶楽部24」というウェブ対局サイトで腕を磨いてきた。四六時中いつでも
対局相手を見つけられる対局サイトを利用することで、彼女は物理的ハンディを乗り越えてしまったのである。

天才・ユダヤと達人・日本(上).txt

以下、伊勢雅臣氏のメルマガ [メルマ!:00000115] より引用

■1.19世紀、国際社会に引きずり出された二つの民族■ 19世紀には西洋列強が近代科学による経済力と軍事力を用いて、アジア、アフリカへの勢力拡張を急速に進めていた。日本史を専攻するイスラエル・ヘブライ大学のベン=アミー・シロニー教授はこう書いている。急速に統合化が進む19世紀の世界には、一つの社会だけが全体から離れ、独自のルールにしたがって暮らしていけるような場所はなかった。それまで独自の社会に閉じこもっていた日本人が、初めて国際社会に「引きずり出された」のは、この時である。17世紀には、日本が世界に扉を閉ざす権利を問題にする者はなく、その方針に異議を唱えるだけの力を持った外国勢力もなかった。しかし19世紀になると、日本の孤立は国際秩序への侮辱とみなされ、また西洋列強も、日本の孤立を終わらせる手段を所有するようになっていた。北アメリカから東アジアへの海上ルートに位置する一国が世界との貿易を拒否することは、拡張を続ける西洋にとって許せることではなかった。
こうして日本はペリーの黒船による脅しに屈して開国したのだが、同様に国際社会に引きずり出された民族がもう一つあった。ユダヤ人である。
■2.ゲットーの中で孤立して生きてきたユダヤ人■
日本は西洋から最も遠い、海に囲まれた列島に安住して孤立を許されていたのだが、ユダヤ人は西洋社会の中に点々と浮かぶゲットーの中で孤立した生活を送ってきた。  
ユダヤ人がその故郷であるエルサレムを追われたのは、紀元66年に反ローマ蜂起を起こし、70年に鎮圧されたのがきっかけだった。ローマ人はこの間、エルサレムにいたユダヤ人の大半を虐殺または奴隷化し、その都市を破壊した。跡地には新しい都市が建設されたが、ユダヤ人の居住は許されず、彼らは千年にわたって宗教的首都であった土地から締め出された。ユダヤ人は中東の近隣諸国に移り住み、そこから地中海世界の他地域に広がり、ヨーロッパやアジアに四散していった。異境の各地で、商業的職業的な貢献と引き替えに「容認される少数派」の地位を得ようと努め、居住と労働を許された土地では成功しても、やがて迫害されては逃げ出すという、地球史上でも類を見ない放浪の民となった。土地を所有する事のできないユダヤ人は、商業を主な職業とした。商人なら財産として金を隠し持ち、危なくなればそれを持って容易に逃げ出せる。しかも世界各地に親戚や仲間を持つユダヤ人にとっては、国際貿易はうってつけの仕事だった。
中世ヨーロッパでは、ユダヤ人は町の一角に固まって暮らし、そのコミュニティーの中だけで生活していた。16世紀には法律によって、居住を町の特定区画に制限されるようになった。これをゲットーと呼ぶ。最初にゲットーが出来たのは1516年のヴェネツィアである。「ゲットー」とはイタリア語で「鋳造所」を意味するが、この地域にたまたま大砲の鋳造所があったからである。その後、ゲットーはイタリア、南フランス、ドイツの各地に登場した。同様に大半のイスラム教国でもユダヤ人は隔離され、孤立した一角に閉ざされて生きてきた。
■3.世界を驚かせたアウトサイダー■
フランス革命によって登場した「近代民族国家」という概念で、全市民が平等に国家を構成する事を理想としていたが、その中で異民族の共同体が独自のルールに従って孤立した暮らしを営む事は許されなかった。そのためにユダヤ人は独自のコミュニティの自治を放棄し、個人として西洋社会に入っていった。日本人が一つのまとまった近代民族国家として外から近代世界に引きずり込まれたのに対し、ユダヤ人は個人として内から参加したのである。そして新たに近代世界に参加したこの二種類のアウトサイダーは西洋社会を驚かせる才能を発揮した。  
金融や国際貿易を扱う技術に長けていたユダヤ人は、近代経済の要諦を素早く学びとった。文学や芸術、思想、学術の世界でも、詩人のハインリッヒ・ハイネ、作曲家のグスタフ・マーラー、画家のアメディオ・モジリアーニ、精神分析学のジーグムント・フロイト、経済学者カール・マルクスなどの天才が陸続と現れて、それぞれの分野で革命的な業績を上げた。  
日本も、1868年に明治維新を敢行すると、あっという間に郵便、鉄道、陸海軍、義務教育、新聞、銀行、近代憲法と自由選挙による国会を備えた近代国家を作り上げてしまった。  
日露戦争では、シロニー教授が「東洋の強国が西洋の強国に勝利したのではなく、むしろ近代化の進んできた日本が近代化の遅れていたロシアに勝ったというべきなのである」 と指摘したように、高速戦艦によるT字戦法という独創的な新戦術、新発明の下瀬火薬と高速高精度の砲撃技術による飛躍的な破壊力向上といった技術革新が、世界海戦史上最大の完勝をもたらした。
さらに細菌学の北里柴三郎、野口英世、化学の高峯譲吉など、開国後、半世紀足らずの間に、科学技術の分野でも世界をリードする研究が現れた。
■4.天才・ユダヤと達人・日本■
 このように同じく西洋近代社会を驚かせたユダヤ人と日本人 であったが、そのアプローチにおいては異なる特長を見せた。 日本が西洋の競争相手を凌ごうとしたのに対し、ユダヤ人は、西洋の基本教義を改め、書き直し、新たなものと取り替えようとした。日本人の業績は典型的な達人のものであり、ユダヤ人の成功の頂点には天才がいたのである。
天才と達人という違いこそあれ、ユダヤ人と日本人が新参者にも関わらず、西洋社会を驚かせるだけの実力を示せたのには、訳がある。それまでの孤立した共同体の中で、高度の知的能力を鍛えていたからである。  
ユダヤ人は昔から「書物の民」と呼ばれていた。敬虔なユダヤ教徒はほとんどの時間を宗教文書の前で過ごし、その文書やそれについての注釈書を読み、朗唱し、暗唱し、分析し、論じ、暗記する。  幼児はベート・セーフェル(書物の家)に通い、年齢が上がると青少年とともにイェシヴァ(座席)という高等教育機関に学んだ。こうした学校で教えられる文章はどれも難解だった。ヘブライ語ないしアラム語という、日常生活では話すことのない古代語で書かれているうえに、その内容は抽象的で、謎めいていて、しかも議論を求めてくる。しかしユダヤ人はそうした文章を幼児期から学び、暗記して、それについて難しい議論をすることで自身を訓練していった。
このように幼児期から鍛えられた高度な知的能力が、西洋社会における文学や芸術、思想、学術の分野に向かい、偉大な天才たちを生み出したのである。
■5.知的エネルギーの爆発■
日本人もまた孤立した世界で、高度の知的能力を磨いてきた。
中国文化は難解な外国語で書かれた複雑な書体というかたちで日本に入ってきた。しかし日本人は、驚くほどの関心を持ってそうした難解な書物を読み、理解し、習得し、数世紀のうちに中国語の書体を学び、これを採用した。しかも多数の中国語彙を日本語に吸収し、仏教と儒教という偉大な宗教的哲学的体系をも自らの思想と宗教のなかに取 り込んでいったのである。  
徳川時代(1603~1868)の日本では、多種多様な学校が花盛りだった。武家の男児はほぼ全員が幕府ないしは藩が運営する学校に入って読み書きを学んだ。これ以外にも多くの私塾があり、古典から蘭学(西洋の学問は当時こう呼ばれた)まで、さまざまな分野の知識を得ることができた。
幕末には全国で1万5千もの寺子屋や塾があったという。現在の小学校が全国で2万36百校余りであるから、学校数としては現代に匹敵する規模の教育制度がすでに展開されていた。  
嘉永年間(1850年頃)での江戸での就学率は70~86%に達していたと推定され、当時の最先進国イギリスでの大工業都市における就学率20~25%をはるかに抜く水準であった。
19世紀初めのユダヤ人と日本人は、おそらく世界でもっとも識字率の高い民族だっただろう。西洋諸国が切り開いた近代化とは、科学技術を工業生産や軍事に適用するなど、高度の知識と合理的思考を活用することだった。その知的能力をロシアや中国のように一部のごく限られた階級が独占していたのでは、国家全体の近代化はなかなか進まない。ユダヤ人と日本人は、かつての閉ざされた社会の中で教育制度を整え、そのような知的能力を多くの一般人に与えていた。
そこに蓄積されていた膨大な知的エネルギーが、ひとたび社会の扉が開かれるや、西欧社会を驚かせるほどの爆発力を見せたのである。
■6.自分たちの歴史文化への誇りを武器として■  
ユダヤ人と日本人は西洋近代社会に参加したと言っても、自らの文化伝統を捨て去って、にわか西洋人として登場したのではなかった。逆に自分たちの歴史文化への誇りを武器として 西洋近代社会に乗り込んでいった所に成功の秘訣があった。  
ユダヤ人の西欧近代社会への参加において、大きな役割を果たしたのはモーゼス・メンデルスゾーン(1729-86)であった。ロマン派の作曲家フェリクス・メンデルスゾーンの祖父にあたる人物である。 初めは伝統的なユダヤ教の教育で育ったが、その後、西洋式教育を受けて、ドイツ語、ラテン語、ギリシャ語、英語、フランス語をマスターし、ドイツ啓蒙主義の指導的人物になったが、正統的ユダヤ教から離れることはなかった。  
メンデルスゾーンは、ユダヤ人はユダヤ文化に加えて西洋文明を身につけるべきだ、両者は互いを豊かにするものだ、と主張した。同時に古代ユダヤ文化を復興することを志し、文章は古代ヘブライ語と近代ドイツ語の両方で書いた。古代ヘブライ語の復活は、続く19世紀におけるユダヤ民族復興に道を開くものであった。  独自の民族文化に閉じこもることなく、またそれを捨てることなく、自らの文化的バックボーンを堅持しながら、西洋近代社会に参加するという姿勢は、その後のユダヤ人の生き方に大 きな影響を与えた。
ドイツ文学史最高の詩人と言われるハインリッヒ・ハイネは27歳にしてルター派の洗礼を受けてキリスト教徒となったが、終生ユダヤの出自を誇りとしていた。  
20世紀最大の理論物理学者と目されるアルベルト・アインシュタインもユダヤ人であることを誇りとし、イスラエルの地(パレスチナ)にユダヤ民族国家を再建しようとするシオニストでもあった。■7.変化の正統性を古代に求めた復古運動■  
メンデルスゾーンの主張は、日本での「和魂洋才」の考えに通ずる。日本人もまた「和魂」という日本文化のバックボーンを維持しつつ、「洋才」という西洋近代文明を取り入れようとしたのである。  慶応4(1868)年3月14日、京都紫宸殿で明治天皇が「五カ 条の御誓文」を神明に誓った。明治維新の精神を謳った御誓文 であるが、その第5条には「智識を世界に求め、大いに皇基を 振起すべし」とあった。「智識を世界に求め」て西洋近代文明 から学ぶことで、「皇基(皇国の基)」を振るい起こすことが できる、というのである。
そもそも明治天皇が神に誓う、という形式そのものが、日本の政治の原初的な姿を表したものであった。そして、そこから目指された「明治維新」も、過去を否定した「革命」ではなく、あくまで「維新」("Restoration"、復古)なのであった。
シオニストと明治の指導者たちは、どちらも古い過去を蘇らせることで近代国家を建設しようとした。シオニストは、異境で迫害され続けた直近の過去を拒絶して、ユダヤ人が政治的主権を持っていた聖書の時代を志向した。明治の指導者たちは、封建制をとっていた直近の過去を拒絶して、天皇が名実ともに支配者とされていた千年前の平安時代初期を目指した。このように、シオニズムも日本の民族主義も、変化の正統性を古代に求めた復古運動だったのである。■8.自らの歴史文化への誇り■  
自らの伝統文化を忘れ、即席の西洋人になりきって近代西洋文明を学んだのでは、それに追いつくことはできても、達人として本家を凌駕したり、あるいは天才として新しい領域を切り開くことはできない。  
天才・ユダヤと達人・日本が新参のアウトサイダーとして近代西欧文明に参加しながら、驚くべき成功を収めたのは、それぞれの歴史と文化を誇りとするバックボーンを堅持していたからであった。 同時に、各人がいくら西洋文明から学んでも、それを個人的利益のためだけに使おうとしたのでは、全体のパワーにつながらない。民族の歴史と文化への誇りは、各自がその共同体の一員であるとの同胞意識を生み、民族全体の発展のために尽くそうという「志」を育む。ユダヤ人と日本人の近代世界における成功は、同胞意識に基づく志の結果でもあった。  
ユダヤ人と日本人がそれぞれの孤立した世界で展開していた教育は、高度な知的能力と共に、自らの歴史伝統への誇りと愛情を育んでいたのである。
(文責:伊勢雅臣)

極めて危険な、空気読み過ぎ+思考停止する日本

出典:http://blogs.itmedia.co.jp/mm21/2008/01/post-3d10.html
昨年の流行語大賞にノミネートされた「KY」。
「あいつ、KYじゃん」ということを若い世代の人達が言うのを見ていると、聖徳太子が「和を以って貴しとする」と言った頃からの空気を大切にする日本人らしさは、確実に若い世代に受け継がれていると実感します。
同じく、「そんなの関係ねえ」も流行語大賞のベスト10に入りました。
流行語というのは、その時代の世相を非常に的確に反映します。
この二つに共通していることは、理屈に合わないことを押し通す場合に、極めて有効であること。
そもそも、「KY」というのは考えてみれば怖い言葉です。
何となく浮いていて気に食わない誰かがいると、「あいつ、KYじゃん」の一言で、論理な説明をすることなく、コミュニティから抹殺できます。
「そんなの関係ねえ」も同様で、まずい立場に立たされたらこの言葉で開き直ることができます。
まぁ、とは言っても、実際に小島よしおのように「そんなの関係ねぇ」と開き直る人は、滅多にいないでしょうけれど。 逆に、実社会ではこのように開き直れないというフラストレーションがあるからこそ、その気持ちを代弁してくれる「そんなの関係ねぇ」が流行語になったのかもしれません。
このような発言をすると、
「えー、半分シャレなんだし、そこまで厳しく言うのは無粋じゃない?」
「もしかして、KY?」
って言われるかもしれません。でもとっても気になります。
気になっていたところで、先日、NBonlineの津本陽さんのインタビュー記事「今なぜ竜馬なのか――富国ということ 津本陽著『商人龍馬』」を読んで、気になっていた理由が明確になったように思いました。
---(以下、引用)---
....。実は、最近の日本は少し変になってきた気がするのです。アフガニスタンの治安維持活動の一環として自衛隊をインド洋に派遣することなどは、その表れではないかと思います。
自衛隊による洋上給油そのことの良否を言っているのではありません。決め方が不透明でなし崩し的でしょう。日本の歴史を振り返って、このような決め方をする時が一番恐ろしいと申し上げたいのです。
近代軍備を整えたロシア軍に対して、鉄砲と手榴弾で立ち向かい全滅したノモンハン事件があったでしょう。.......。1000台以上の戦車が前にも横にも砲身をこちらに向けている中を、士官が「行け」と怒鳴って兵隊を突進させたわけです。そこが屠殺場と化すのは分かっているのにですよ。
しかも、あんな永久凍土の土地を占領しても何にもなりません。にもかかわらず軍隊のメンツだけで信じられない戦争に日本を引き込んでしまった。
....。この国をどう発展させるか、そのためには何をしなければならないかという最も大切なことを忘れて、目の前にあることだけにとらわれて行動する。しかも、それがつまらないメンツが動機になっている。
今の日本も、同じような道を進み始めたのではないかと危惧するのです。明治維新も竜馬がいなければどうなっていたか。竜馬の考えと行動をもう一度、日本人が見直すべきなのではないかと思ったのです。
---(以上、引用)---
津本さんが指摘されているように、あの頃も、ノモンハン、ガダルカナル、インパール、他の例を挙げるまでもなく、軍部では、論理ではなくその場の空気でモノゴトが決まっていきました。
そして世間では、戦争に向かう社会全体の空気に逆らう人に対して、当時は「KY」ならぬ「非国民」というレッテルを貼りました。
戦争末期には日本全体に厭戦気分が漂い「戦争は真っ平」という空気がありましたが、戦争の当初は日本全体が緒戦の戦勝に酔った空気が漂い、日本全体がズルズルと泥沼の中に入ってしまったこともまた、我々は認識すべきではないでしょうか?
論理が排除され、思考停止状態になり、空気でモノゴトが決まっていく日本。
これ、極めて危険です。
一旦、日本全体が空気だけでモノゴトが決まってしまうモードになると、論理的な議論が極めて難しくなります。
そうなる前に、思考停止状態に陥りかけている社会に対して、私達一人一人が自分の頭で考え、本来何をすべきなのかを問いかけていく必要があります。
常に論理的である必要は必ずしもありません。
しかし必要な時は、「あなた、KY?」と言われても、論理を通し、逆に「そんなの関係ねえ」と開き直るべきなのかもしれません。
社会は、他の誰かが変えてくれるのではありません。
社会を変えられるのは、他の誰でもなく、自分達一人一人です。自分が変わらない限り、社会は変わらないのですから。

Parisにおける作法とは?.txt

引用:「都と京」酒井順子
生まれて初めてパリに行ったとき-とはいっても三十歳は過ぎていたわけですが―パリに住んでいる友だちから言われたことがあります。それは「お店に入った時は必ず『ボンジュール』、出る時は『オー ルヴワール』って言った方がいいわよ」ということでした。
何でも、「日本人の観光客って、よく『パリの人って何か冷たくて嫌な感じだった』みやいなこと言うけど、そりゃ無言で店に入って無言で出て行ったりすれば冷たくもされるわよ」なのだそう。
私はフランス語を全く理解しない者なのですが、その教えだけはきっちり守りました。たとえ買う気が全く無くとも、店に出入りする時は絶対に、店の人に聞こえるように『ボンジュール』及び『オー ルヴワール』を言うようにした結果、確かに嫌な思いは一度もせずに済んだのです。

商人としての坂本竜馬

■■ Japan On the Globe(529)■ 国際派日本人養成講座 ■
■1.ジョン万次郎の語ったアメリカ■
 アメリカに漂流して、彼の地で航海術などを学び、日本に戻ってきたジョン万次郎に、坂本龍馬が初めて会ったのは嘉永5(1852)年の末頃であったと言われている。友人に勧められて、 万次郎の話を聞きに行ったのである。龍馬18歳の時であった。  万次郎が滞在したヌーベッポー(ニューベッドフォード)という町には何百隻もの巨大な捕鯨船が浮かんでいて、その港の砲台には大砲が20門ほど置かれている。大きなものは口径8寸(24センチ)もある。お城の石垣程度のものなら、弾丸一 発で打ち砕いてしまう。蔵にはその砲弾を何千発とも知れないほど収めているという。
 軍艦はそんな大砲で撃たれてもなかなか砕けない。1隻に500人ほど乗る船は珍しくなく、戦のときには1500人も乗り込むそうである。  
龍馬はさらに航海の術について尋ねた。万次郎は、アメリカで一等航海士という偉い船頭の資格をとっており、地図とオクタント(六分儀)と磁石さえあれば、陸の影も見えない大洋に 船を乗り出しても迷わないという。龍馬は夢の中の出来事を聞いているような気がした。胸が躍ってならなかった。
■2.黒船来る■  
翌嘉永6(1853)年、龍馬は剣術修行のために江戸に出た。江 戸に着いてまもない6月4日の朝、アメリカの黒船が浦賀沖に現れたという知らせが届いた。万次郎の語ったアメリカの軍艦を直接目にすることになったのである。
 旗艦サスケハナ号は長さ約78メートル、幅14メートル、数十門の大砲を備えていて、日本人には巨大な浮城のように見える。そんな黒船が4隻も現れた。
 龍馬は土佐藩の品川屋敷のある大森海岸の防備に駆り出され、土手を築き、垣を結んだ。やがて幕府がペリーから受け取ったアメリカ国書の内容は、龍馬たちの耳にも伝わってきた。  蒸気船ならカリフォルニアから、パシフィック・オーシャンを渡って18日間で日本に達することができる。カリフォルニアは毎年金6千万ドルを産し、日本の様々な産物と交易を行えば互いの利益になる。
また日本沿岸で捕鯨を行うアメリカ船舶が、日本で石炭、水、食料を補給できるようにしたい。そのために通商交易条約を結びたいというのだ。日本がそれに応じなければ戦争を仕掛ける、という姿勢で、黒船は品川沖で空砲を鳴らし、沿岸に詰めかけた数万の諸藩兵 を驚かせた。  アメリカは近頃メキシコと戦争をして、カリフォルニアを含 む領地のおおかたをとってしまったが、その理由はメキシコが アメリカの蒸気船に領地の海辺に近寄るのを咎めたためであるという。
■3.「外国と通商することがなぜいけないのか」■
龍馬が江戸で師事していたオランダ砲術の権威・佐久間象山は、こう主張していた。 今戦えば我らに勝ち目はない。ひとたび敗れたときは皇国は滅亡、我らは異族の奴隷となるのだ。  江戸の沖に常に5、6隻の黒船がいて、大坂からの千石船を捕らえ、米などの消費物資の海上輸送を遮断すれば、江戸は10日ももたない。廻船の輸送量を牛馬によって陸路で運ぶことは不可能である、と言う。  確かにそのとおりであると龍馬は思った。今はアメリカの要求を入れて通商を行い、それを通じて国力を養って、国防力を充実させるのが、日本の生きのびる道である。
 一方、ジョン万次郎は幕府の老中たちに意見を聞かれて、アメリカが日本を攻め取ることはないと答えていた。カリフォルニアのように莫大な金が算出する国であれば戦を仕掛けることもあるが、日本はそれほどの物産はなく、また遠い。軍艦を何十隻も派遣して攻めるよりも、仲良くして石炭などを分けて貰うのが得である、とアメリカは考えるはずだという。 龍馬はこれもまたその通りだと思った。龍馬が幼い頃によく 遊びに行っていた遠縁の廻船問屋は江戸に米や鰹節などを運ぶ千石の大廻し船を何隻も運用して、大きな利益を上げていた。外国と通商することがなぜいけないのか、と龍馬は考えた。
■4.「自由な大海に漕ぎ出したい」■  
およそ1年ほども江戸に滞在して、龍馬が高知に帰ったのは、安政元(1854)年6月下旬のことであった。翌年正月に龍馬は河田小龍を訪れた。河田はジョン万次郎を自宅に寝泊まりさせて、聞き書きを行っていた人物である。  
河田は「このような非常のときに一つの商業を興してはどうじゃ」と龍馬に薦めた。そして万次郎から聞いた話をもとに、こう語った。アメリカじゃあ商業の元手をこしらえるのに、株仲間のような者を大勢集め自在に大金を融通しゆうがじゃ。お前(ま)んらぁがそこのところを工夫して、株仲間を何とかしてこしらえて一隻の蒸気船を買うてみい。同志を募り、日本中を往来する旅人やら諸藩の蔵米、産物を運んだら、蒸気船運航に使う石炭、油の費用や同志の給金を払うことができるろうが。そうやって操船の稽古をすりゃ、しだいに航海の術も身につくというもんぜよ。盗人を捕まえて縄をなうというような有り様で始めても、一日でも早う蒸気船の運用を始めざったら、いつまでたっても外国に追いつけんがじゃ。  小龍の言葉に龍馬は刺激されたが、高度な蒸気船を動かせる 秀才は数が少ない、と言うと、小龍はこう応じた。  
日頃俸禄を仰山もらいゆう上士にゃ志というものがありゃせん。志を持ちゆう者は、ひと働きするにも元手のない下士、百姓、町民ら下等人民の秀才ぜよ。そがな下等人民の 秀才は俺の弟子にも多少はいゆう。働かせりゃ工夫するぜよ。  大洋を自由に航海する蒸気船は、また身分制度からも自由な世界であった。龍馬は自由な大海に漕ぎ出したいと思った。
■5.「蒸気船の扱いを覚えたいがです」■
 文久2(1862)年3月、龍馬は脱藩した。城下で剣術道場を開く資格は得ていたが、もはや高知に留まる気はなかった。江戸に出て、ジョン万次郎の紹介状を持って勝麟太郎を訪れ、弟子入りを頼んだ。勝は長崎海軍伝習所で教監を務め、また幕 府の使節を乗せた咸臨丸を操って、太平洋横断を果たした人物 である。「俺の弟子になって何をしたいのかね」と聞かれて、龍馬は 「蒸気船の扱いを覚えたいがです」と答えた。さらに「尊王と攘夷についてどう考えているのかね」と聞かれて、「攘夷はとても無理ですろう」「そうか。それなら無理を言わず異人の言うがままに商いをするのかね」 「そこが知りたいがです。攘夷をやらにゃあ異人がのさばりますろう。けんど今の日本じゃとても勝てん。そうなると、異人と同じ土俵で相撲がとれるほどの力を持つまで待たにゃあいかんですろう」麟太郎は笑いながら「土佐にいながら天下の形勢をよく知っているじゃないか」と言って、弟子入りを許した。
■6.海軍建設■  
勝は龍馬を護衛役として側に置きながら、いろいろ話して聞かせた。攘夷の戦いを日本の側から起こせば、イギリス、フランスは対馬、壱岐、佐渡を占領する。アメリカは伊豆七島、ロシアは蝦夷を占領するだろう。淡路島も乗っ取られかねない。そうなれば航海の道はすべて閉ざされ、全国は籠城の有り様になる。危機に迫られると一揆が方々で起こる。その苦しみに耐えかね、外国につく者が現れると日本は外国の属国になるだろう。そのような事態を未然に防ぐために、勝は西洋諸国と対抗できるほどの陸海軍を作るという意見書を幕府に提出していた。日本全国を6つの海域に分けて、それぞれに艦隊を置くという案である。 その経費を捻出させるためには、各大名に海外貿易を許し、 それを財源に10万石あたり蒸気軍艦1隻などと費用を出させる。この案に従えば、軍艦3百隻の海軍を建設することも可能であった。  しかし、軍艦は金で揃えることができても、それを動かす人材が問題である。勝と龍馬は神戸に海軍塾を作る準備を進めた。先頃まで将軍側近であった大久保忠寛(ただひろ)越中守も、それを励ましてくれた。貴公らが麟太郎と相計って神戸に海軍塾を開く支度をしておるそうだが、それが肝心だ。海軍を大いに発展させる ため幕府は、アメリカ、オランダに軍艦を注文している。だが、その操船を自在にいたす航海乗り組みの学生を取り立てねばならんのだ。幕府の先の読めない腑抜け役人どもができることではない。貴公らが操船を自在にできるよう一日も早く学び取らねばならぬのだ。文久3(1863)年4月、将軍家茂は神戸に海軍操錬所を建設し、その入用金として年3千両を下すことを決めた。また勝の門人たちを引き連れて、私塾として海軍塾を開くことを許した。龍馬はその設立と運営に奔走した。
■7.「亀山社中」■  
元治元(1864)年6月19日、長州勢と幕府方が京都蛤(はまぐり)御門にて衝突した。この際に操錬所生徒である因幡藩士数十名が長州方に味方したとして、勝は江戸表に呼び戻された。  勝は薩摩の西郷吉之助(隆盛)に、龍馬以下6人の土佐藩脱 藩者の庇護を頼んだ。西郷は、龍馬の人を引きつける性格と時 代を切り開いていく才覚を認め、密貿易をさせつつ、いずれ長 州藩に薩長連合を勧める使者として働いて貰おうと考えた。  元治2(1865)年、龍馬らは長崎の町はずれの亀山という山麓 の地に宿舎を与えられ、薩摩藩から毎月給金を貰うようになっ た。彼らの結社は「亀山社中」と呼ばれ、ここを根拠地として密貿易にあたることになった。5月、龍馬は下関に潜入し、西郷の使者として、長州の指導者・桂小五郎と会った。長州は幕府軍15万の大軍を迎え撃た ねばならないという窮地に陥っていた。しかし、薩摩は蛤御門 の変で幕府方についていたので、「いまさら薩摩の芋と手を結べるか。そんなことを抜かす奴は首を斬れ」という声が上がるほどだった。
■8.薩長同盟を実現した交易■  
龍馬は桂にこう持ちかけた。長州の四境に幕軍が間なしに参りますきに、外国から薩摩の名義で蒸気船、鉄砲を買い入れ、尊藩に持ち込むというのはいかがですろう。  桂は思わず、龍馬の顔を見直した。幕府の大軍を迎え撃たね ばならない長州にとって、これはよだれの出るような好餌である。龍馬は亀山社中の同志を使って、最新式の小銃7500丁 と蒸気船1隻を調達し、約束通り、長州に収めてみせた。
 一方、薩摩は長州征伐には参加せず、京都に大兵力を集めて、幕府を牽制することとした。西郷はそのための兵糧を長州から借りてくれるよう、龍馬に依頼した。「さしあたって5百俵も あればえいですろう」と龍馬は承知して、すぐに山口に行き、 桂から快諾を得た。こうした実利的な助け合いを通じて、薩摩と長州は旧怨を解き、同盟関係を築いていった。その掛け橋となったのが、龍馬の働きだった。
■9.実現した海洋立国の夢■  
兵糧貸与の話がまとまった後、龍馬は下関で貿易を営む大商人・伊藤助太夫の家に泊まり込んで、杯を交わした。助太夫は、長州と幕府の戦いが終われば、蝦夷の海産物などを買い入れる交易をしたいと言った。北前船は一隻作るのに千両かかるが、 蝦夷へ3度も行けば元手がとれるという。龍馬は感心した。「まっことのう。蒸気船を使うたらなお儲かるろうねや」龍馬は今は亀山社中の同志と共に、薩長の必要とする武器な どの購入を行っているが、戦が収まれば長崎、下関を根拠地に 蝦夷や上海、さらには広東からルソンに行き来して貿易をした いと考えていた。蒸気船を使えば、パシフィック・オセアン (太平洋)を渡ってアメリカとの交易もできる。それによって 国を富まし、日本を異国から守れるだけの海軍も持つことがで きよう。龍馬の夢は広がっていった。龍馬はその夢を実現するひまもなく、慶応3(1867)年11月、京都にて何者かに暗殺されてしまった。しかし、海外貿易の夢を抱いていたのは龍馬だけではなかった。「海外貿易の志士」森村市左衛門などはその好例である。さらに神戸の海軍操錬所を淵源の一つとする日本海軍はやがて日清・日露戦争を通じて国家の独立を維持し、英米と並ぶ世界3大海軍の一つとして数えられるまでになった。龍馬の描いた海洋立国の夢は幕末から明治にかけての日本人全体が共有していたもので、多くの人々の努力によって実現されたと言える。 (文責:伊勢雅臣)

オバマ演説 ここがスゴイ!! 

2月3日10時0分配信 日刊ゲンダイ
(原文=There’s not a liberal America and a conservative America-there’s the United States of America. There’s not a black America and white America and Latino America and Asian America;there’s the United States of America。)
 民主党の大統領候補指名レースで、ヒラリーとデッドヒートを繰り広げているオバマ。評判なのは、彼の演説のうまさである。J・F・ケネディやキング牧師の“再来”などといわれているのだ。一体、どこがスゴイのか。
 翻訳家の菊谷匡祐氏は、“伝説”といわれている04年7月27日の民主党全国党大会基調演説の原稿を読んで驚嘆したという。
「オバマの演説原稿は、時事英語のような専門用語がなく、センテンスも短いので、とても分かりやすい。ロジックの展開も絶妙で、クラシックの協奏曲を聴くようにリズミカルに読めるのです」
 ジャーナリストの堀田佳男氏は、この演説を現地の会場で実際に聞いた。
「約5000人の民主党員がうっとり聞きほれ、中には泣いている人もいました。私も鳥肌が立ったほどです。『リベラルのアメリカも保守のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ。黒人のアメリカも白人のアメリカもラテン人のアメリカもアジア人のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ』という部分は、全米で繰り返し放送されて、オバマは一躍脚光を浴びました」
 菊谷氏(=前出)は、声の良さも魅力だという。
「音域に例えると、ローバリトン。いい響きで、とても心地良く、長く聞いていてもストレスにならない」
 演説力を磨く努力もしている。選挙コンサルタントの指導を積極的に取り入れているのだ。
「テレビCMで、短い時間でインパクトあるメッセージを伝えることを“10 Seconds Bite”と呼びますが、その訓練を熱心に受けて、演説の演出力を磨いたのです。ニューハンプシャー州予備選後の演説では、理念や政策を語る間に“Yes、We Can”を多用し、直後に間を置いていました。こうした巧みな抑揚のつけ方は、訓練で磨いたものです。敗戦を認める演説なのに印象に残りました」(堀田氏=前出)
 

本能寺の変の秀吉黒幕説.txt

録画していた『天下統一!三武将スペシャル 信長 秀吉 家康 ~真のリーダーは誰か!?』をやっと見る。最近多い面白おかしく系の歴史番組と思いきや・・・・。
これが時代考証もしっかりしており(素人観測だが)、断定的な黒幕説や陰謀論もなく見応えがあった。
本能寺は寺ではなく、寺を要塞化したものということがある程度発掘調査により証明されたようだ。

★本能寺
2007年のマンション建設に伴う遺構調査では、本能寺の変において焼けたと思われる瓦や、「能」の旁が「去」となる異体字がデザインされた丸瓦が、堀跡のヘドロの中から見つかっている。石垣や堀が周囲に廻らされていたことから、信長は本能寺にある程度の防御機能を持たせていたことを覗わせる。

★本能寺の変の黒幕説
秀吉が信長を暗殺した本能寺の変の黒幕ではないかとされる説が、近年浮上している。その説の根拠は秀吉の必要ない信長に対する援軍要請である。秀吉は備中高松城攻めのとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らが高松城の救援に出てきたため、信長に苦境を訴えて援軍を要請した。当時、東の脅威であった武田勝頼を滅ぼしていた信長は、毛利氏を滅ぼす機会と捉えてこれを承諾し、援軍として明智光秀を派遣することを命じた。
ところが当時の毛利氏は、相次ぐ対外戦争で財政的に破綻寸前にあった上、豊後の大友宗麟や山陰の南条元続らの侵攻も受けていたため、高松城救援に出向いた兵力は1万5000人ほどでしかなく、3万を数える羽柴軍の半分ほどでしかなかった。このため、秀吉は単独でも毛利軍と戦うことは可能だったのである。さらに秀吉は、信長に援軍要請を行なった頃から、毛利方と密かに和睦交渉を行なっていた節がある。
では、なぜこのような要請を行なったのかと言えば、当時の信長は三職補任問題や皇位継承問題などで朝廷と頻繁に交渉していたため、京都に上洛する必要があった。明智光秀は俗説では近衛前久と通じて信長暗殺計画を謀っていたとされているが、本能寺に滞留している信長を討つ場合、ひとつだけ大きな問題があった。それは、軍勢を集める理由である。何の理由も無く軍勢を集めれば、たちまち信長に謀反と見なされて逆に討伐される可能性があった。ところが、秀吉の必要ない救援要請で援軍に赴くように命じられたため、信長に疑われること無く軍勢を集め、その軍勢で光秀は京都の信長を討ち果たしているのである。
光秀が近衛前久と内通していたという説があるように、秀吉も当時の朝廷の実力者である大納言の勧修寺晴豊あたりと内通しており、その筋から光秀の謀反計画を知り、わざわざこのような要請を行なったのではないかと思われる。ちなみに光秀の死後、近衛前久は秀吉から光秀との結託を疑われたが、なぜか晴豊は疑われていない(ちなみに晴豊は、光秀が信長を殺した後に光秀への使者を務めた吉田兼和とも懇意にあった)。さらに、秀吉の中国大返しに関しても、如何に秀吉が優秀な武将だったとはいえ、あの速さは事前に用意をしていなければ疑問が残るところも多い。この研究も待たれるところである。

映画版「20世紀少年」のメインキャスト決定

唐沢、豊川、常盤「20世紀少年」主役に(nikkansports.comより)
 人気コミック「20世紀少年」が3部作で実写映画化され、メーンキャストを唐沢寿明(44)豊川悦司(45)常盤貴子(35)が務めることが3日、分かった。総製作費がシリーズ合計60億円の超大作となる。原作コミックは全22巻で2000万部を売り上げ、世界11カ国で翻訳版も出版。昨年末の映画化発表以来、米国をはじめ世界34の国と地域から配給オファーが殺到している。メガホンは堤幸彦監督(52)がとり、東宝配給で公開。
 SFサスペンス「20世紀少年」の映画化が空前のスケールで動きだした。シリーズ合計製作費60億円は、1つのプロジェクトに投じる予算として邦画では歴代最高。堤監督は「原作の雰囲気を忠実にクリアするために圧倒的な量のシーンの撮影とCGを使ったVFX(視覚効果)が必要」と説明する。撮影地も世界規模で国内のほか、ニューヨークやロンドン、パリ、北京、バンコク、リオデジャネイロ、マドリードなど世界各都市で撮影を行う。
 撮影・公開スケジュールも邦画の枠組みを超える。シリーズ化を視野に入れていても、通常は第1作の興行成績次第で続編製作を決断する。「20世紀少年」製作陣は原作が持つ、圧倒的なスケールや複雑な物語展開を1本の作品に集約することが難しいと判断。いきなり、3部作のシリーズ作品として製作・公開する。
 主人公ケンヂは唐沢が演じる。幼なじみを集めて悪の組織と戦う正義感強い男で、原作の大ファンでもある唐沢は「読んだ時の衝撃は今でも鮮明。主人公を演じられることを光栄に思います」。ケンヂの幼なじみでワイルドな魅力を持つオッチョ役に決まった豊川は「原作ファンを裏切らないように丁寧に演じていきたい」。ケンヂに思いを寄せていた幼なじみのユキジ役の常盤も原作のファンで「まさか実写で映画にするなんて!」と、映画化自体に驚いている。
 原作が世界11カ国で翻訳出版されていることもあって、映画化は世界各国から注目されている。欧米、アジア合わせ34の国と地域の映画会社から配給オファーが届いており、世界公開は確定している。撮影はすでに始まっており、第1、2作を6月まで撮影、8月から第3作に入る。東宝配給で公開は第1作が8月30日、第2作が来年1月、第3作が来年秋に公開。
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