ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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映画「レンブラントの夜警」.txt

①~莫大な富と名声・敏腕な妻・待望の男子誕生~
1641年、市民が社会を動かすほどの力を持つ共和国オランダ。その中でも西洋で最も豊かな都市であるアムステルダムの邸宅に暮らすレンブラント(マーティン・フリーマン)は、35歳にして人生の絶頂期にいた。一流の肖像画家としての名声がヨーロッパ中に響きわたり、何人もの弟子たちと共に広々としたアトリエで次々と舞い込む仕事をこなしていた。
妻のサスキア(エヴァ・バーシッスル)は、8年間にわたってレンブラントの画商をしていたヘンドリック・アイレンブルグの姪で、今では伯父に代わって優秀なパートナーとして、着々と富を築いている。ビジネスがらみで始まった結婚だったために、レンブラントは2人の愛は本物かと自問することもあったが、夫婦仲は円満だった。サスキアは待望の男子を出産、レンブラントの栄華には一片の翳りもなかった。この時までは……。
②転落への第一歩 ~市警団の肖像画・もみ消された殺人・告発の決意~
1642年、アムステルダムの市警団から集団肖像画を依頼されるが、レンブラントは乗り気ではなかった。モデルたちが列に並んでいるか、テーブルを囲んでいるというのが集団肖像画のお約束だが、レンブラントは「ただ顔を並べて描くのはまっぴら」と言うのだ。しかし、産後の体調がすぐれないサスキアに、息子のためにもっと富を蓄えたいと言われ、レンブラントはいやいやながら承諾する。
注文主の人となりを画家がよく理解してから肖像画を描いたこの時代、レンブラントは特にその才能に長けていた。注文主の隠された一面を暴き出し、訴訟騒ぎを起こしたこともあった。レンブラントはまず、軍曹のロンバウト・ケンプの身辺に踏み込み、汚らわしい罪の臭いを嗅ぎつける。彼の表の顔は孤児院の院長だったが、裏では子供たちに売春させ、養女にしたマリッケとマリタの姉妹には自らが虐待を加えていたのだ。
ある日、隊長のハッセルブルグが右目を撃たれて死んだという報せが入る。訓練中の事故だと発表され、発砲命令を下した副隊長のエグレモントは逃亡、リッペンダムの領主バニング・コックが次期隊長に就任した。さらにバニング・コックは、同性愛の相手だと噂のあるウィレムを副隊長に任命する。英国のメアリー・スチュアート王女のアムステルダム来訪を控えた今、隊長として護衛の任務にあたれば、栄誉と利益が待っている。一連の動きに陰謀を感じたレンブラントは心を決める。市民を守るどころか、金と欲望のためには殺人も恐れず、弱者を踏み台にする権力者たちを許すわけにはいかない。世の中のために自分にできることは、絵筆で彼らの罪を“告発”することだ──創作意欲に満ち溢れたレンブラントは、まさかそれが転落の第1歩だとは思いもしなかった。
③破滅への道 ~殺人事件の真相・妻の死・肖像画完成~
殺人事件の真相を究明しなければ、この絵は完成できない。もはやレンブラントは画家であり、探偵だった。どうやら訓練をサボって酒を飲んでいたエグレモントは、責任を押し付けられたらしい。発砲命令を下したのは、誰なのか? 発砲したのは隊員ではなく射撃練習に来ていたホラティオで、彼はケンプの孤児院にいる少年だった。マリタと愛し合っていて、怒ったケンプがマリタに熱湯をかけて二目と見られぬ顔にしたという、訳ありの少年だ。調べれば調べるほど、市警団はスキャンダルの宝庫だった。
1絵がほぼ仕上がったと聞いたサスキアは、「これで死ねるわ」と呟く。彼女は自分の命は長くないと知っていた。レンブラントは、陰謀と不正を随所に巧妙に描き込んでいたが、殺人事件の真相を描くためには、どうしてもエグレモントのスケッチが必要だった。エグレモントを探し出したレンブラントは、彼の口から“真実”を聞く……。
たどり着いた真相に浮き立つレンブラントを待っていたのは、サスキアの死だった。「俺を置いていくのか、今すぐ戻って来い!」妻が死んで初めて深い愛に気づいたレンブラントは、涙にかきくれる。無断で肖像画を見た伯父のヘンドリックが、葬儀の席でレンブラントに警告する。「あの絵はおまえに災難をもたらす。破って描き直せ」その予言が当たるとも知らず、レンブラントは肖像画を完成させ、やがて破滅への道を進んでいく……。
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カルタゴの天才武将ハンニバル・バルカ②.txt

ハンニバル・バルカ(紀元前247年 - 紀元前183年)
カルタゴの高名な将軍である。ハミルカル・バルカの長子。
歴史上で彼は第二次ポエニ戦争を開始した人物とされており、ローマ史上最大の敵として後世まで伝えられた。また現在でも、彼は歴史上で最も偉大な戦術家の一人として高く評価されている。
①少年期
第一次ポエニ戦争でシチリアをローマに奪われると、父・ハミルカルは当時未開であったイベリア半島の植民地化政策に乗り出す。そして「カルタゴ・ノヴァ」を建設、イベリア人諸部族をまとめて軍隊を養成した。ティトゥス・リウィウスによると、ハンニバルが父に同行を願い出た際に父はハンニバルをバアル神の神殿に連れて行き、息子に一生ローマを敵とする事を誓わせたという。ハミルカルの死後は、ハミルカルの娘婿であり、ハンニバルにとっては義理の兄にあたるハスドルバルのもとで少年期を過ごす。
②ハンニバル戦争
アルプス山脈を越えるハンニバルの軍紀元前221年にハスドルバルが暗殺されるとハンニバルは軍隊に司令官として指名され、カルタゴから承認を受ける。そしてイベリア半島の指揮を取り、エブロ川南方の制圧に着手した。当時カルタゴはローマとエブロ川を境界に相互不可侵条約を結んでいたが、ハンニバルの力を恐れたローマはエブロ川南方にある都市ザグントゥムと同盟関係を結び彼の侵出を阻止しようとする。しかし彼はザグントゥムを包囲攻撃、8ヶ月後に陥落させる。ローマはハンニバルの行動を条約違反としてカルタゴ政府に懲罰を要求したが、ハンニバルの絶対的な人気の前に、カルタゴ政府は彼に対して何も手を打たなかった。
紀元前218年にハンニバルは5万の兵と37頭の象を率い、途中で遭遇するガリア人を懐柔あるいは服従させつつピレネー山脈を越える。そして制圧した彼等を配下に加えつつ西進、ローマが彼の進路に気付くころにはすでにローヌ川付近にまで近付いていた。ローマ軍に発見されるも所在をくらましてアルプス山脈を越える。この時のルートは詳しくは分かってはおらず、現在でも歴史家の間で意見が異なっている。ついにハンニバルはイタリアへ進軍し、ローマの元老院を驚愕させる。第二次ポエニ戦争(別名、ハンニバル戦争:紀元前218年~紀元前201年)の始まりであった。
③カンナエの戦い
紀元前216年になって執政官にガイウス・テレンティウス・ウァロとルキウス・アエミリウス・パウルスが当選した。中でもファビウスの戦法に不満を持つウァロはハンニバルに対して果敢に立ち向かってゆく。ウァロはローマ軍を増強し、同盟都市からも兵を募って、ハンニバルのいるアプーリアへ南進した。しかしハンニバルはウァロの性急さを逆手に取り、カンナエの戦いでローマ軍を完膚なきまでに叩き潰す。50,000から70,000人のローマ兵士が戦死あるいは捕虜になった。執政官パウルスは戦死、次期執政官に内定していた者2名も戦死、2人のクァエストル、48人のトリブヌス・ミリトゥムも戦死、ローマは一度の戦闘で指導者層の25%を失うという過去に例がないほどの完敗を喫した。これ以降ローマはハンニバルに対しては消極的な戦法に徹する事になる。
勝利したカルタゴ側ではこの勝利の余勢を駆って一気にローマを攻略すべきだという意見があり、とくに騎兵隊長のマハルバルが強く進言するが、ハンニバルは攻城兵器や兵站の不足という戦略上の理由から首都ローマに進軍せずにローマ同盟都市の離反を図る事を選択する。この時マハルバルは「あなたは勝利を得る事ができるが、それを活用する事は知らない」と言ったという。
ハンニバルは紀元前216年にカプアを、紀元前212年にタレントゥムを離反させ、シチリア島のギリシア人都市を反乱させるなど成果を挙げたが、それらごく一部を除いて目立った成果を上げられず、以後イタリア半島では一進一退の膠着状態が続く。その中でシラクサのヒエロニモスと同盟、カルタゴ本国に補給を要求するも、カルタゴ政府はこの戦争に対して、はじめは日和見の立場を取り、制海権をローマに握られているせいもあってハンニバルは本国との連携をうまく取ることが出来なかった。現在の戦史論議においても、カルタゴからの物資援助があればハンニバルはローマを直接攻撃できたのではないかと指摘されている。
④ローマ側の反撃、スキピオ登場
ファビウスの戦法が効果を発揮し、ハンニバルの行動はカンパニア領内に封じ込められるようになってきた。しかし紀元前215年にハンニバルはアンティゴノス朝マケドニアのフィリッポス5世とも同盟を結び、ローマを内外から圧迫してゆく。
だがローマはハンニバルを国内に抱え込みつつ国外の敵対勢力を撃破してゆく。紀元前211年に大スキピオによってハンニバルの本拠地であるイベリア半島を攻略し、他方ギリシアのアエトリア同盟とも結託して東方マケドニアのフィリッポス5世の押さえとする。
対するハンニバルは紀元前210年アプリアに進撃するが、同年タレントゥムを失ってしまう。また紀元前208年にはロクリを攻略するローマ軍を蹴散らし、執政官マルクス・クラウディウス・マルケッルスを戦死させるものの、やはりタレントゥムの損失は大きく補給のおぼつかない彼の行動地域は制限を受けてしまう。さらにローマがルカニア地方、サムニウム地方を取り戻すと南イタリアでの彼の戦略的な主導権は奪われてしまう。
紀元前207年にハンニバルは再度北上しアプリア地方を制圧、ここでイベリア半島から西進する弟・ハスドルバルの支援を待ったが、ハスドルバルはその途次、メタウルスの戦いで戦死してしまう。さらにハンニバルと行動を共にしていた弟・マゴのリグリア攻略失敗、またフィリップ5世との連携失敗などによって、南イタリアでの主導権回復の術を失う。このようにローマは彼の指揮下にない敵対勢力を徐々に削り取っていった。
ハンニバルがアプリア地方に囲い込まれる中、ローマではヒスパニアで功績を挙げた大スキピオが攻勢に転じようと試みていた。シチリア島を占拠後、彼は志願兵を募りここを拠点にしていたが、カンナエの戦いの失敗から攻勢への転換を自重する元老院は、スキピオに渡航許可を与えなかった。しかし、ようやく元老院の許可(実際は黙認)が出てスキピオはアフリカに渡航する。いきなりハンニバルを無視して現れた敵にカルタゴ政府は驚き、ヌミディア王国のシファクス率いる騎兵を援軍として戦うが敗北してしまう。
この敗戦に狼狽したカルタゴ政府は態度を一変してローマとの休戦交渉とハンニバルの召還との両方を画策、一見休戦交渉は成立するか見えたが、ハンニバル召還の連絡によって休戦交渉は突如反故となり、カルタゴ政府は外交上致命的な失敗を犯してしまう。
ともあれ紀元前203年ハンニバルは十数年ぶりに故国カルタゴに戻ってくる事となった。
この時彼が引き連れてきた兵士とはどこの兵士だったのかということについては現代の歴史家でも異論がある。ハンニバルを擁護する者はイベリア半島からの歴戦の兵士たちは長い戦役でほとんど絶えてしまい、南イタリアで現地採用したイタリア人を連れて来ざるを得なかったと言い、スキピオ贔屓の者はイタリアでの戦役での損失は主に現地採用兵であったので彼は自らの精鋭部隊をアフリカへ連れてくる事ができたと言っている。
カンナエの戦い
⑤カンナエの戦い
紀元前216年になって執政官にガイウス・テレンティウス・ウァロとルキウス・アエミリウス・パウルスが当選した。中でもファビウスの戦法に不満を持つウァロはハンニバルに対して果敢に立ち向かってゆく。ウァロはローマ軍を増強し、同盟都市からも兵を募って、ハンニバルのいるアプーリアへ南進した。しかしハンニバルはウァロの性急さを逆手に取り、カンナエの戦いでローマ軍を完膚なきまでに叩き潰す。50,000から70,000人のローマ兵士が戦死あるいは捕虜になった。執政官パウルスは戦死、次期執政官に内定していた者2名も戦死、2人のクァエストル、48人のトリブヌス・ミリトゥムも戦死、ローマは一度の戦闘で指導者層の25%を失うという過去に例がないほどの完敗を喫した。これ以降ローマはハンニバルに対しては消極的な戦法に徹する事になる。
勝利したカルタゴ側ではこの勝利の余勢を駆って一気にローマを攻略すべきだという意見があり、とくに騎兵隊長のマハルバルが強く進言するが、ハンニバルは攻城兵器や兵站の不足という戦略上の理由から首都ローマに進軍せずにローマ同盟都市の離反を図る事を選択する。この時マハルバルは「あなたは勝利を得る事ができるが、それを活用する事は知らない」と言ったという。
ハンニバルは紀元前216年にカプアを、紀元前212年にタレントゥムを離反させ、シチリア島のギリシア人都市を反乱させるなど成果を挙げたが、それらごく一部を除いて目立った成果を上げられず、以後イタリア半島では一進一退の膠着状態が続く。その中でシラクサのヒエロニモスと同盟、カルタゴ本国に補給を要求するも、カルタゴ政府はこの戦争に対して、はじめは日和見の立場を取り、制海権をローマに握られているせいもあってハンニバルは本国との連携をうまく取ることが出来なかった。現在の戦史論議においても、カルタゴからの物資援助があればハンニバルはローマを直接攻撃できたのではないかと指摘されている。
⑥ローマ側の反撃、スキピオ登場
ファビウスの戦法が効果を発揮し、ハンニバルの行動はカンパニア領内に封じ込められるようになってきた。しかし紀元前215年にハンニバルはアンティゴノス朝マケドニアのフィリッポス5世とも同盟を結び、ローマを内外から圧迫してゆく。
だがローマはハンニバルを国内に抱え込みつつ国外の敵対勢力を撃破してゆく。紀元前211年に大スキピオによってハンニバルの本拠地であるイベリア半島を攻略し、他方ギリシアのアエトリア同盟とも結託して東方マケドニアのフィリッポス5世の押さえとする。
対するハンニバルは紀元前210年アプリアに進撃するが、同年タレントゥムを失ってしまう。また紀元前208年にはロクリを攻略するローマ軍を蹴散らし、執政官マルクス・クラウディウス・マルケッルスを戦死させるものの、やはりタレントゥムの損失は大きく補給のおぼつかない彼の行動地域は制限を受けてしまう。さらにローマがルカニア地方、サムニウム地方を取り戻すと南イタリアでの彼の戦略的な主導権は奪われてしまう。
紀元前207年にハンニバルは再度北上しアプリア地方を制圧、ここでイベリア半島から西進する弟・ハスドルバルの支援を待ったが、ハスドルバルはその途次、メタウルスの戦いで戦死してしまう。さらにハンニバルと行動を共にしていた弟・マゴのリグリア攻略失敗、またフィリップ5世との連携失敗などによって、南イタリアでの主導権回復の術を失う。このようにローマは彼の指揮下にない敵対勢力を徐々に削り取っていった。
ハンニバルがアプリア地方に囲い込まれる中、ローマではヒスパニアで功績を挙げた大スキピオが攻勢に転じようと試みていた。シチリア島を占拠後、彼は志願兵を募りここを拠点にしていたが、カンナエの戦いの失敗から攻勢への転換を自重する元老院は、スキピオに渡航許可を与えなかった。しかし、ようやく元老院の許可(実際は黙認)が出てスキピオはアフリカに渡航する。いきなりハンニバルを無視して現れた敵にカルタゴ政府は驚き、ヌミディア王国のシファクス率いる騎兵を援軍として戦うが敗北してしまう。
この敗戦に狼狽したカルタゴ政府は態度を一変してローマとの休戦交渉とハンニバルの召還との両方を画策、一見休戦交渉は成立するか見えたが、ハンニバル召還の連絡によって休戦交渉は突如反故となり、カルタゴ政府は外交上致命的な失敗を犯してしまう。
ともあれ紀元前203年ハンニバルは十数年ぶりに故国カルタゴに戻ってくる事となった。
この時彼が引き連れてきた兵士とはどこの兵士だったのかということについては現代の歴史家でも異論がある。ハンニバルを擁護する者はイベリア半島からの歴戦の兵士たちは長い戦役でほとんど絶えてしまい、南イタリアで現地採用したイタリア人を連れて来ざるを得なかったと言い、スキピオ贔屓の者はイタリアでの戦役での損失は主に現地採用兵であったので彼は自らの精鋭部隊をアフリカへ連れてくる事ができたと言っている。
⑦エピソード
先のカプア出土の胸像を元に19世紀に描かれたハンニバル像ザマの戦いから数年後、エフェソスに亡命していたハンニバルは使節として同地を訪れたスキピオと再会し、しばし言葉を交わしたというエピソードがティトゥス・リウィウスによって伝えられている。スキピオが史上もっとも偉大な指揮官は誰かと問いかけると、ハンニバルは「第1にアレクサンドロス大王、第2にエペイロスのピュロス、そして第3に自分だ」と答えた。スキピオが重ねて「ザマの戦いで自分を破っていたら」と問うと、「アレクサンドロスを越えてわたしが史上第一の指揮官になっていた」と率直に答えたという。
実際、スキピオはハンニバルを破ったものの、その戦法(騎兵の後方機動による包囲殲滅)はハンニバルの模倣であり、ハンニバルのほうがスキピオよりも優れた戦術家である事は、両者ともに認めていたと思われる。
ただしこのエピソードはリウィウスの伝える話であるため、真実性を疑う声も多い。
もっとも、ハンニバルの用いた包囲殲滅戦法は現代の陸軍士官学校でも必ず教材として使われる程に完成度の高いものであり、ハンニバルが戦術を研究する際にピュロスやアレクサンドロス大王を参考にしていたとしても、現代においては彼らに対する戦術家としての評価はすでに逆転していると言える。
⑧その他
ラテン語に「戸口にハンニバル(Hannibal erat ad portas.)=危険が迫っている!」という格言がある。転じて、イタリアでは今でも子供が悪い事をすると「ハンニバルが来てあなたを連れて行ってしまうよ!」と叱ることがある。ハンニバルがいまだに恐怖の代名詞となっていることが伺われる。他方、ローマ人に制圧されてきた国では、カルタゴの後裔であると否とを問わず、ハンニバルを英雄とたたえる場合がある。

カルタゴの天才武将ハンニバル・バルカ①.txt

ハンニバル・バルカ(BC247~183)

塩野七生氏の人物評
ローマ撃破を目指し、象を連れてのアルプス越えを敢行した30才にも満たない若者が、断じて優れていたものは、情報の重要性に注目したこと。
冒険ではあっても、冷徹な計算のうえに立って、実行された冒険であって、前人未踏の偉業に挑みながらも、熱い思いで目と頭を曇らせるようなことはしなかった。
情報を収集し、冷静に分析し、敏速に行動する能力で群を抜いていたハンニバルだから、多くのことは、それ自体では不可能に見える。だが、視点を変えるだけで、可能事になりうると断言できたのだろう。
優れてたリーダーとは、優秀な才能によって人びとを率いていくだけの人間ではない。
率いられていく人々に、自分たちがいなくては、と思わせることに成功した人でもある。

I プロローグ
カルタゴの将軍。ハミルカル・バルカスの長男。前218~前217年に、カルタゴ軍をひきいてスペインからアルプスをこえたローマへの進撃は、戦史にのこる偉業とされている。
9歳のとき、カルタゴ軍の指揮をとる父に同行してスペインにわたった。出発の前に、少年ハンニバルは宿敵ローマに対する永遠の憎しみをちかったという。父の死後、18歳から25歳までは、義兄ハスドルバルとともにイベリア半島でカルタゴ領拡大に活躍したが、前221年に義兄が暗殺されると、カルタゴ軍の将軍にえらばれた。2年後、ハンニバルはスペインの大半を征服し、さらに8カ月かけてスペイン東部のローマの同盟市サグントゥム(現サグント)を占領した。
ローマはこの行動をカルタゴ、ローマ間の条約違反とみなし、ハンニバルの引き渡しを要求したが、カルタゴは拒否した。ローマはカルタゴに宣戦布告し、前218年、第2次ポエニ戦争がはじまった。

II アルプス越え
ローマへの進撃は前218年4月にはじまった。スペインを出発したとき、彼には4万人の兵士がしたがっていた。カルタゴ軍には、騎兵のほか多くの象もふくまれていた。象は荷物をはこぶだけでなく、のちには戦闘にもつかわれた。カルタゴ軍はピレネー山脈をこえ、ローヌ川をわたり、それから15日をかけて冬のアルプスをこえた。吹雪や土砂崩れ、山岳民族の襲撃にあいながらの苦難の進軍だった。北イタリアに侵入すると、それまでの長い行軍中にうしなった1万5000人の兵力をおぎなうために、ガリア人傭兵をやとい、周辺諸部族と同盟した。
ハンニバルはまず、ティキヌスの戦でローマ軍を敗北させ、さらに12月のトレビア川の戦でもローマ軍をやぶった。翌年には、トラシメヌス湖畔でローマ軍を急襲した。これらの勝利のあと、アペニノ山脈をこえ、ローマ領内に侵入した。
ローマの将軍ファビウスは、ハンニバルに対して慎重で巧妙な作戦にでた。カルタゴ軍との決定的な衝突をさけながら、少しずつハンニバルの焦りをさそい、その間にローマが軍事的な劣勢からたちなおるのをまった。しかし前216年、ハンニバルはカンネーの戦で徹底的にローマ軍を撃破した。ローマ軍の死者は5万人以上にのぼり、カルタゴ軍は約6700人だった。
しかし、カンネーの戦のあと、戦争の様相はかわりはじめた。ハンニバルは武器も不足してきた軍隊の補強を本国に要請したが、ききいれられなかった。ネアポリス(現ナポリ)をおとせなかったハンニバルは、カンネーの戦でかちとったイタリア同盟都市のひとつで裕福な町カプアで前216年からしばらく時をすごし、新たな展開の機会をまった。そして、前211年にローマ攻略をくわだてたが、ローマ人の抵抗にあって攻略できなかったばかりでなく、カプアの町をとりかえされてしまった。
イタリア第2の都市カプアをうしなったことは、他の同盟都市の忠誠心をうしなうことでもあった。もはや同盟都市から兵士を補充するという期待はもてなくなった。膠着(こうちゃく)状態が4年つづき、弟ハスドルバルがスペインから救援にかけつけたが、ハンニバルと合流する前に北イタリアでやぶれ戦死してしまった。

III ローマの勝利
戦争開始から15年たった前203年、カルタゴ本国の戦況は悪化し、ハンニバルはアフリカによびもどされ、スキピオ(大)ひきいるローマ軍の攻撃から本国を防衛する指揮をとった。しかし翌年のザマの戦ではカルタゴ軍のわかい兵士たちが逃亡し、その多くがローマ軍についてしまった。カルタゴはついにローマに降伏し、第2次ポエニ戦争はおわった。
前201年にローマとの和平は成立したが、ハンニバルは戦争再開の準備にとりかかっていた。彼は行政長官になり、憲法を改定し、政治腐敗をなくし、財政をたてなおした。しかしローマは、ハンニバルが平和をやぶろうとしていると非難し、ハンニバルは、シリアのアンティオコス3世のもとにのがれた。そこでシリア艦隊を指揮してローマとたたかったが、前190年、マグネシアの戦で敗北した。ローマはハンニバルの引き渡しを要求し、彼は小アジア北部、ビテュニアのプルシアス王のもとにのがれたが、ローマの追及はやまず、その地で服毒自殺した。

三方ヶ原の戦いで脱糞した?徳川家康.txt

三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(1573年1月25日)、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった、武田信玄と徳川家康との戦いのことである。信玄の上洛の過程での合戦といわれ、徳川軍1万1000(うち、織田氏からの援軍3000)、武田軍2万5000の軍勢が戦い、武田軍が勝利した。武田勢は余勢を駆って遠江・三河の諸城を攻撃するものの大将の信玄が発病したために上洛は中止され、甲斐国へ帰還中に信玄は病死した。
◎概観
当時、甲斐の戦国大名・武田信玄のもとに、信長の傀儡政権と化していた室町幕府将軍・足利義昭から数度にわたり、上洛の要請、信長征討の御教書が届いていた。これに応じ兵を動かしたが、上洛が目的かは意見が分かれている。
この戦いで家康は討ち死に寸前まで追いつめられるが、追撃を振り切り浜松城に一騎で逃げ帰った。このあと全ての城門を開き、篝火を焚き「空城の計」を行う。これに対し、伏兵がいるのではないか、との疑念を持った信玄は城内突入をためらい、家康は九死に一生を得た。その夜家康は何とか一矢報いようと野営中の武田勢を奇襲、犀ヶ崖の絶壁に次々と転落させている。この惨敗において家康は、夏目吉信、鈴木久三郎らを身代わりの憤死により失い、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といったわずかな供回りを連れて浜松城へ引き上げた。途中恐怖のあまり馬上で脱糞したと言われている。
この敗戦時に描かせた、苦渋の表情の肖像画(「顰像」と言われる)が残されているが、これは家康にとって、軍略の重要性を自らの戒めにするため、と解釈することもできる。そして、城に籠もる相手方を出陣させて野戦に持ち込むという手法は、関ヶ原で家康自身により再現される(ただし、このような敵を城からおびき出して野戦で決戦を挑む戦法は、信長が得意としていた戦法でもあり、そこから家康が学んだとも考えられ、また,三方ヶ原の敗戦もひとつの教訓にしたともいえる)。

旧江田島海軍兵学校にあるネルソン提督の遺髪.txt

海軍兵学校は、海軍機関学校、海軍経理学校とともに生徒三校と呼ばれた。第二次世界大戦後に廃校になるまで、イギリス海軍兵学校(デヴォン州ダートマス)、アメリカ合衆国海軍兵学校(メリーランド州アナポリス)とともに、世界三大兵学校として知られ、当時一高と並び最難関校だった。合計12,433名の卒業生を輩出。
また当校は海軍の兵科将校(一般に戦闘指揮官)の養成校であり、他の職種には別の養成課程が設けられた。江田島といえば、戦前・戦中では海軍兵学校を意味した
採用年齢は16歳から19歳で、必要受験資格は特に無いが、全国から文武両道、男の中の男を自負する優秀な青年が競って志願した超難関校であった。
海軍兵学校は兵科上級将校になるためには絶対に通らなければならない学校であった。
終戦により昭和20年(1945)12月1日、約60年の幕を閉じ、以後の10年間は連合軍が教育施設等に使用してた。
 昭和31年(1956)1月10日返還が決まり、当時横須賀にあった術科学校が同年1月16日江田島に移転し、その後昭和32年5月10日に幹部候補生学校が開校、昭和33年4月1日には術科学校が第1術科学校と改称され、同日江田島病院が開設された。
◎ネルソン提督の遺髪が展示されている教育参考館
幕末から第二次世界大戦までの海軍関係の貴重な資料が収められてる。
ネルソン、東郷平八郎、山本五十六の3提督の遺髪室(非公開)、特攻隊員の遺書・遺品室などがある。
館外の左には真珠湾攻撃に使用された特殊潜航艇、中央には戦艦「大和」の46cm主砲砲弾が展示されています。ちなみに右の小さく見える砲弾は、日露戦争時に東郷平八郎司令長官の座乗した戦艦「三笠」の30cm主砲砲弾。

キング牧師の暗殺

Martin Luther King, Jr.: I Have a Dream
http://jp.youtube.com/watch?v=iEMXaTktUfA
キング牧師の暗殺
1964年10月14日、アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせるための非暴力抵抗運動によってノーベル平和賞受賞が決定(受賞は12月10日)。その後、ベトナム戦争反対運動にも立ち上がったが、ベトナム戦争が泥沼化して行く最中の1968年4月4日に、遊説活動中テネシー州メンフィスで"I'm over the Mountaintop"(私は山頂に達した)を遊説後、モーテルのバルコニーで40代の白人男性レイに撃たれる。弾丸は喉から脊髄に達し、病院に搬送されたが、間もなく死亡した。
キング・ジュニアの棺アメリカではキングの栄誉を称え、ロナルド・レーガン政権下の1983年より、彼の誕生日(1月15日)に近い毎年1月第3月曜日が「マーティン・ルーサー・キング・デー (Martin Luther King, Jr. Day)」として祝日になっている。なお、アメリカにおいて祝日となった故人は他にクリストファー・コロンブスとジョージ・ワシントンの2人である。
アメリカ国内において、アフリカ系アメリカ人やネイティブ・アメリカン、日系アメリカ人をはじめとする少数民族に対する人種差別は未だなくなっていないものの、運動の結果、公民権法が施行されたことによる法的側面からの人種差別撤廃の動きを、平和的な手段によって大きく前進させた意味は大きいといえる。公民権運動に携わった時期及び凶弾に倒れた際の話は、日本の中学校3年英語教科書の教材として使用されている。
「人は兄弟姉妹として共に生きていく術を学ばなければならない。さもなくば、私たちは愚か者として滅びるだろう」は、キングがメンフィスで語った言葉である。

知らないと損する便利なGoogle検索Tips.txt

出典『Google Mania』 http://google-mania.net/archives/858
★質問サイトから横断検索★
例えばパソコンの調子がおかしいときなど、役に立つのが人力検索はてなや教えて!gooなどの質問サイトの過去ログです。どうせならそれらのサイトをまとめて横断検索してしまいましょう。
「キーワード site:q.hatena.ne.jp site:oshiete.goo.ne.jp 」というように、サイト内検索で複数サイトを横断します。でもこれは入力が面倒なので、Googleカスタム検索で、簡単に横断検索エンジンを作ることができます。ご利用は下のリンクからどうぞ。
http://www.google.com/coop/cse?cx=011151499970974866323%3Asio_qhhjox0

実は達筆だった秀吉.txt

意外なことに書に優れ、北大路魯山人は秀吉の書に対して、新たに三筆を選べば、秀吉も加えられると高く評価した。

★秀吉は六本指だった?
秀吉は指が一本多い多指症だったとルイス・フロイスや前田利家の家臣が残した記録に書かれている。後者によれば右手の親指が一本多く、信長からは「六ツめ」と呼ばれていたという。当時(現在もそうだが)、普通は小さい頃に1本を切除し5本とするが、秀吉はいくら周囲から奇異な目で見られても6本指を生涯通し、天下人になる前はその事を強いて隠しはしなかったという。しかし、天下人となった後は記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す形で描かせたりした。その為に「秀吉6本指」説は長く邪説扱いされていた。現在は前田利家の証言の記録から事実と断定できるが、未だにこの事に触れない秀吉の伝記は多く、近年発表された小説でさえこの事実を奇説扱いするなど、まだまだ一般には認知されていない。戦国時代を題材にした漫画では、センゴクとシグルイがこの説を取り入れており、これらの作品に登場する秀吉は六本指である。
身長は不明。150センチ以下から160センチ余まで諸説あり。

「沈まぬ太陽」映像化が“進まぬ”ワケ.txt

【映画】山崎豊子さん原作のベストセラー小説「沈まぬ太陽」の映像化が暗礁に乗り上げている。昨年5月に角川ヘラルド映画(現角川映画)が新作ラインアップ発表会で映画化を発表したが、その後は何の音沙汰もなし。関係者によると、脚本の執筆は続けているが、肝心の山崎さんのOKが得られていないとか。「沈まぬ太陽」は全5巻という大作。当の山崎さん自身は、映画よりも連続ドラマでじっくり描いてほしいという願望が強く、映画化自体にはそれほど乗り気ではないとも言われている。
 それではテレビドラマ化はどうかというと、こちらも実現は遠そうだ。フジテレビでは09年の開局50周年を記念した大型企画を予定。その1つとして「沈まぬ太陽」のドラマ化を検討していた。45周年で同じ山崎さん原作の「白い巨塔」を連ドラ化した実績もあり、「すべての世代に訴える骨太な原作はそうはない」(フジ幹部)と、「白い巨塔」と同じ通常の連ドラの倍の2クール(6か月)で企画していた。しかし最近になって、小説のモデルになった日本航空に気を遣った“経営判断”で、最終的に見送りが決定したという。
 「白い巨塔」「華麗なる一族」「不毛地帯」「大地の子」と、映像化されるたびに話題になってきた山崎さんの小説。その中で唯一といっていい未映像化作品が「沈まぬ太陽」だが、その実現はなかなか「進まぬ」ようだ。
                (引用:2007年10月30日01時38分 スポーツ報知)

Macworld 2008 Steve Jobs Apple Keynote Highlights(2008/01/16)

米アップルは、新たな映画オンラインレンタルサービスとインターネットからダウンロードした動画をテレビで視聴するための機器をリニューアルし、オンライン動画サービスを刷新し、新しい超薄型ノートパソコン「マックブック・エアー」を発表した。
http://jp.youtube.com/watch?v=mmoDqPyofok
★スティーブ・ジョブズ(Steven Paul Jobs、1955年2月24日 - )
アメリカ合衆国の企業家。スティーブ・ウォズニアック、マイク・マークラらと共に、商用パーソナルコンピュータで世界で初めて成功を収めたアップル社の共同設立者の一人。また、そのカリスマ性の高さから、発言や行動が常に注目を集め続ける人物である。
①【略歴】
スティーブ・ウォズニアックと共にワンボードマイコン「Apple I」を開発・販売し、アップル社設立後にはパーソナルコンピュータ「Apple II」を発表。株式公開後には2億ドルもの巨額を手中にし、20代でフォーブスの長者番付に載った数少ない人物だった事から世間の注目を集める。
ゼロックス社パロアルト研究所を見学した際、Altoで動作していた暫定Dynabook環境のグラフィカルユーザインターフェースにインスピレーションを受け、パーソナルコンピュータ「Lisa」を開発。続いてジェフ・ラスキンらのマッキントッシュ・プロジェクトの主導権を握り、新たなコンピューター像を創造する。発表された「Macintosh」は当時存在したあらゆるパソコンを凌駕する洗練されたもので、再び時の人となる。しかし、本人の立ち居振舞いのために社内を混乱させたとされ、アップルの役員達から社内での全ての職を剥奪される。
アップル退職後、ルーカスフィルムのコンピュータ・アニメーション部門を買収してピクサー・アニメーション・スタジオを設立。自ら創立したNeXT Computerで、先進的ワークステーション「NeXTcube」を開発した。1996年業績不振に陥っていたアップル社にNeXTを売却する事で復帰、1997年には暫定CEOとなる。
その後ライバルとされていたMicrosoftとの資本連携に踏み切り、アップル社の業績を回復させた。2000年正式にCEOに就任、iMac・iPod・iTunes・Mac OS X・iPhoneといった先進的な製品を次々リリースして、多くの消費者の絶大な支持を得ている。プレゼンテーションの素晴らしさ、ライバル企業の経営者をも惹き付ける人間的魅力で知られる。暫定CEOに就任して以来、基本給与を年1ドルしか受け取っていないことで有名であり、このため「世界で最も給与の安いCEO」とも呼ばれている。また、2006年にピクサーをディズニーが買収したことにより、ディズニーの個人筆頭株主となり役員に就任している。
②【人物像】
アップル復帰当時は、上記のような解任前後のジョブズに対する人物評から、完璧主義による強引な経営を懸念する者もいた。しかし、復帰後は対立しているとされていた競合他社とも提携するなどし、ライバル企業の経営者をさえも惹き付ける人間性で知られている(オラクルのラリー・エリソン等は彼の友人である)。物事を切り離して捉える合理的な考え方を持っており「ソニーのHDVカメラは優秀で、高価だが一家に一台必要だ」と言う一方で、「iPodに劣る」としてウォークマンを批判するといった姿勢を示すこともある。1999年10月5日のメディアイベントのスピーチ冒頭で、ソニー共同創業者盛田昭夫の死に追悼の意を表し、トランジスターラジオやトリニトロン、ウォークマンなど革新的な商品開発をアップルに大きな影響を与えたものとして賞賛している。
部下に対して高い目標を提示し、精力的に優れた仕事へと導くため、理想の上司として評価される事も多い。と同時に、ジョブズの要求する水準を満たさない者に対しては情け容赦がない事でも知られ、アップル復帰後に次々と社員がリストラされた際には「スティーブされる」(=クビになる)という隠語が生まれた。
また、アップルコンピュータ社の暫定CEOに就任して以来、当時赤字続きだったアップルのために自分はピクサー社の収入があるとし、一貫して給与は毎年1ドルしか受け取っていないことは有名である(しかし、慢性的赤字から経営を回復させた功績により、高額の成功報酬及びストックオプションがアップル社から与えられている。この1ドルという額は居住地の州法により、社会保障を受けるために給与証明が必要なことによる)。実際、2004年にはストックオプションのほかの成功報酬はなく、本当に1ドルしか受け取っていない。
日本にも彼の熱狂的ファンが多い反面、日本では支持されたPowerBook2400を講演で失敗と片付けたり(世界的な売り上げからみれば実際に明らかな失敗であったが)、日本人の事を「海岸を埋めつくす死んだ魚」と表現するなど、辛辣な一面を見せることもある。
しかしながら、日本の文化や技術に関しては関心も高く、iPodに日本製の部品を導入したり、また、日本食を好み、特に蕎麦が好物である。アップル本社の食堂Mac Cafeにはジョブズが考案したという「刺身ソバ」なるメニューがある。
腹心の部下であるバッド・トリブルが使い始めたという現実歪曲空間 (en: Reality Distortion Field) は、たとえ彼をよく知る人間がそれに備えていたとしても抵抗できないといわれている。Macintoshの開発時、ジョブズの引き留めに逆らって会社を辞める方法として「ジョブズのオフィスで立ち小便をする」という無力化案が考案されたほどである。
食生活ではヴェジタリアンの立場をとり、食事には強いこだわりを持つという。アップルに復帰後、社員食堂を自社運営に切り替えて、ジョブズ自身がスカウトしたシェフが腕を振るっている。
ちなみにジョブズは英国のロックバンド ビートルズ(特にジョン・レノン)の大ファンであり、アップルコンピュータの新製品プレゼンテーションで、実際にThe Beatlesのジャケット写真を使ったことが過去に数回ある。

アップル、iTunesの映画レンタルを正式発表

iTunesでの映画レンタルサービスが発表。参加する映画会社はTouchstone, MGM, Miramax, Lions Gate, Fox, Warner Brothers, Walt Disney, Paramount, Universal, ソニー。
開始は2月、ラインナップは1000本から。価格は通常$2.99、新作$3.00。レンタル開始から30秒で(バッファして)視聴開始が可能。iPodやiPhoneへの転送も可。

★MacBook Airを発表
「ひと言でいえば、世界で最も薄いノートブック」。厚さ0.4〜1.94cm!13.3インチディスプレイ、解像度1280 x 800。重さは1.36kg。Core 2 Duo、1.8インチHDD。HDD容量は80GB、オプションで64GB SSD。
日本アップルストアでの出荷予定日は2-3週間、価格は1.6GHzモデルが22万9800円、1.8GHz + 64GB SSD搭載モデルが38万8400円。
拡張ポート類はほぼUSB 2.0 x1だけ。FireWireなし、ExpressCardなし。802.11nとBluetooth 2.1+EDRは搭載するものの、期待されていた内蔵3Gデータ通信なし。有線イーサネットは別売りのUSB to Ethernetアダプタ(10/100BASE-T)。

次の世界遺産?「沖ノ島」.txt

福岡県宗像市にある宗像大社の神領で、玄界灘の真っ只中に浮かぶ周囲4kmの孤島である。島全体が御神体とされ、今でも女人禁制である。宗像大社沖津宮があり、現在の住人は沖津宮の神職1人である。
また、九州全土、特に宗像地方を中心に沖ノ島世界遺産化運動が全国各地で行われている発掘調査の結果、古代祭祀跡から12万点を超す神宝類が出土され、ほとんどが国宝や重要文化財に指定された。よって沖ノ島は「海の正倉院」と称される。
位置は玄界灘の真ん中に位置する絶海の孤島。南北1㎞、東西500m
の小さな島。博多港から船で1時間。
島にはいるときは、全裸になり海水を浴びて身体を清める禊ぎを
しなければならない。
2006年島から出土した8万点の品々が国宝に指定された。
縄文弥生期から奈良平安にわたる品々が、この島にはあちらこちらに眠っている。

エベレスト初登頂のエドモンド・ヒラリー氏死去.txt

2008年01月11日10時03分 asahi.comより抜粋
 世界最高峰エベレスト(中国名チョモランマ、8848メートル)に初登頂した登山家のエドモンド・ヒラリー氏が11日、ニュージーランド北島オークランドの病院で死去した。88歳だった。ニュージーランドのクラーク首相が同日、発表した。ネパール訪問中の昨年4月に脳梗塞(こうそく)で倒れ、療養中だった。
オークランド近郊のツアカウ生まれ。高校時代に登山を始め、家業の養蜂業を手伝いつつ、地元の山々に登った。
 英国の第9次エベレスト遠征隊に参加していた53年5月29日未明、ネパール人のシェルパ、テンジン・ノルゲイ氏(86年に死去)と8500メートルの最終キャンプからアタックをかけた。後に「ヒラリーステップ」と名付けられる山頂直下の垂直に近い約12メートルの岩場の難所を乗り越え、同日午前11時半、史上初めて世界最高地点に到達した。
 2人の登頂成功はエリザベス女王の戴冠式前夜にロンドンに伝えられた。英国王室からナイトの称号を授与された。
 エベレスト登頂後は、トラクターでの南極点到達やネパール奥地での雪男捜索などの探検も行った。85年からはニュージーランドの駐インド、ネパール大使も務めた。
 エベレスト登頂を助けてくれたシェルパたちとの交流も続け、「ヒマラヤ基金」を設立。シェルパの住むエベレストの南方にあるネパールのクンブー地方に学校や病院を建設する活動にも力を入れた。登山者の増加でヒマラヤの環境破壊が進んだことに心を痛め、自然保護についても晩年まで積極的に発言を続けた。
なお、ヒラリー氏はタイム誌が選ぶ20世紀の100人にも選ばれている。

オセロゲームの名称の由来は?.txt

オセロゲームの名称の由来はシェイクスピアの戯曲「オセロ」で、ストーリーが黒人の将軍「オセロ」(=黒石)と白人の妻「デスデモーナ」(=白石)の関係がめまぐるしく変わる展開であることから取ったという。
●『オセロ』 (Othello)○
ウィリアム・シェイクスピア作の悲劇。5幕で、1602年の作。副題は「ヴェニスのムーア人」 (The Moor of Venice) 。
ヴェニスの貴族であるオセロが、旗手イアーゴーの奸計にかかり、妻デズデモーナの貞操を疑い殺す。のち真実を知ったオセロは自殺する、という話。シェイクスピアの四大悲劇の一つ。最も古い上演の記録は1604年11月1日にロンドンのホワイトホール宮殿で行われたものである。
登場人物の心理が非常に明快であり、シェイクスピアの四大悲劇中、最も平明な構造をもつ。
①あらすじ
ヴェニスの貴族でムーア人のオセロは、デズデモーナを自らの妻とし、これをよく愛している。オセロの旗手イアーゴーは、同輩キャシオーの昇進を憎み、オセロに、デズデモーナがキャシオーと通じていると進言する。真実味を増すために、イアーゴーは、オセロがデズデモーナに送ったハンカチを盗み、キャシオーの部屋に置く。

これを知ったオセロは怒り、イアーゴーにキャシオを殺すように命じ、自らはデズデモーナを殺してしまう。だが、イアーゴーの妻のエミリアは、ハンカチを盗んだのは夫であることを告白し、イアーゴーはエミリアを刺し殺して逃げる。イアーゴーは捕らえられるが、オセロはデズデモーナに口づけをしながら自殺をする。
②作品解説
表題の人物であるオセロは気高いムーア人(北アフリカのムスリム)であり、キプロスの軍隊の指揮官である。オセロはムーア人であるにもかかわらず、同情的に描かれている。これはムーア人のような肌の黒い人々が悪役として描かれることが多かった、シェイクスピアの時代のイギリス文学においては珍しいことである。オセロが黒人であるかアラブ人であるかについては研究者の間でも議論があるが、一般には前者と解釈されている。当時は黒人は人種差別の対象ではなく、イアーゴーがことにおよんだ原因がオセロの人種にあるとするのは誤り。シェイクスピアは劇中でイスラム教について全く触れていない。

大韓航空機爆破事件

1987年11月29日、イラクのバグダッドからアラブ首長国連邦のアブダビ、タイのバンコクを経由して韓国のソウルへ向う途中の大韓航空858便・ボーイング707型機(登録記号HL7406)を朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の工作員が時限爆弾で飛行中に爆破したテロ事件。
①事件概要
ボーイング707型機(同型機)韓国の捜査当局と、爆破された大韓航空機の捜索に当たったミャンマー、タイ両政府、経由地のアラブ首長国連邦の捜査によると、北朝鮮の工作員男女各1名がこの飛行機に乗り込み、時限爆弾を手荷物入れに入れたまま経由地のアブダビで降り、バンコクに向かう途中ベンガル湾上空を飛行中に時限爆弾が爆発し墜落、乗客・乗員115人全員が行方不明(死亡確定)となった。この航空機の乗客のほとんどは中近東への出稼ぎから帰る韓国人労働者だった。
なお実行犯(後述)の供述によれば、爆発物は時限装置付きのプラスチック爆弾が入った携帯ラジオと液体爆弾が入った酒ビンであるとされた。なお爆発は現地時間午前11時30分に発生したとされ、目撃証言から機体は風船が破裂したように空中分解したとされた。なお858便の遺留品は救命筏や機体の部品、乗客の手荷物とばらばらになった遺体の一部が発見されたが、搭乗者の完全な形での遺体は、他の多くの空中分解事故のケースと同様に一人も発見されず、遺体の一部がDNA解析され身元が判明した。
なお、この事件の指導・総指揮は、当時既に金日成の後継者に指名されていた朝鮮労働党書記・金正日(朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員長)が取ったと言われており、その主な目的は、「大韓航空機の原因不明の空中分解」によって大韓航空のみならず韓国政府の国際社会における信頼性低下を引き起こし、その結果として翌年にソウルで行われるソウルオリンピックの妨害を行うことであったと言われている。主犯者の北朝鮮当局は当然のことながら否定しているが、この事件は日本人や韓国人、レバノン人などに対する拉致問題やラングーン事件に並んで北朝鮮による国家犯罪の典型として一般的に認識されている。
②犯人逮捕の経緯
事件直後、バグダッドで搭乗して経由地のアブダビ空港で降機した不審な男女2名がいた。この2名は日本の旅券を持っており、バーレーンの空港で別の飛行機に乗り換えようとしていた。そのため日本大使館員がバーレーンの警察官とともに駆け付け、その場で旅券を確認したところ、偽造であると判明したため警察官が連行しようとした。しかし、男性はその場であらかじめ用意していたカプセル入り薬物で服毒自殺を図り死亡した。同伴の女性も自殺を図ったが一命を取りとめた。
バーレーン警察による取り調べが行われた後、女性の身柄は韓国へ引き渡され尋問が行なわれた。この女性は北朝鮮工作員の金賢姫(??? キム・ヒョンヒ)で、当初は、日本人になりすまして容疑を否認し続けたが、取調員からの「普段愛用している服のブランドは?」という質問に、韓国のブランド名を答えてしまった事から、日本人ではない事がばれ、この事をきっかけに一連の航空機爆破の犯行を認めた。
金賢姫は、「李恩恵」(??? リ・ウネ)と呼ばれる女性(日本から北朝鮮により拉致されたとされる田口八重子とみられている)に教育を受け、「蜂谷真由美」という実在の日本人名を使用し日本人になりすましていた。
偽造パスポートが日本人名義の物であり、連行時には大韓航空機爆破の犯人であることや北朝鮮の工作員であることは判明していなかったにも拘らず、日本大使館員がバーレーン政府に対して(その時点で唯一犯行が確定されていた)旅券法違反容疑で身柄引き渡しを要求せず、韓国側に身柄を渡してしまった事については、その不手際を指摘する声があった)
③その後
なお、事件後に当事国のみならず世界各国により北朝鮮への非難が巻き起こったが、北朝鮮が意図した「韓国の信頼低下」という現象は起こらず、翌1988年には無事ソウルオリンピックが開催された。
金は韓国における裁判で死刑判決を受けたものの、政治的な配慮から、事故の遺族の抗議の中で特赦された。特赦の理由については、北朝鮮当局からの強い要請によるもの、とされている。

孫文よりも傑物だった?宋教仁.txt

「中原の虹」を完結させた浅田次郎氏のコメント。
「中原の虹」の群衆の中で際だつのは、国民党の幹部宋教仁だ。
31歳で凶弾に倒れたが、「孫文より傑物だった」と見る。
『名誉は何もいらない。私が勲とするところは、ひとえに民の平安である』この宋の最後の演説に、政治家たる者への浅田さんの思いが込められた。

☆宋教仁(そうきょうじん、1882年4月5日 - 1913年3月22日)
中国清末民初の革命運動家、政治家。湖南省桃源県の小地主の家に生まれる。字は得尊、号は敦初。漁夫などの書名を用いた。
幼少より塾で学び、1900年には生員の資格を得る。1903年、黄興を知り排満革命思想に目覚め、黄興、陳天華らと華興会を創設し、副会長に推される。1904年、西太后の誕生日に合わせ蜂起計画を立てるが清朝に露見し、同年末日本に亡命する。
1905年6月、法政大学に入学する。雑誌『二〇世紀之支那』を発行する。7月、宮崎滔天を介して孫文を知る。8月、興中会、光復会、華興会が合併して中国同盟会が成立する。12月、文部省の「清国留学生取締規則」に抗議して陳天華が自殺し、遺体を引き取りに行き、留学生の帰国を訴える。1906年、早稲田大学留学生予科に学ぶ。1907年3月、大陸浪人古河清らと馬賊工作のため満州に赴く。夏、日本に帰る。1908年、『間島問題』を著す。1910年末、帰国する。1911年7月、中国同盟会中部総会を設立する。
同年10月、武昌蜂起が起き、宋も武昌に入った。11月、北一輝と上海にいたり、各省都督代表連合会に湖南省都督府代表として出席。翌1912年1月、中華民国が成立し孫文が臨時大総統に就任した。翌月宣統帝が退位して清朝が滅亡、さらに翌月、孫文に代わって前政権の実力者であり、大きな軍事力を持つ袁世凱が臨時大総統に就任した。
しかし、袁は彼を大総統につかしめた革命勢力を好まず、インフラ整備などの近代化政策を自らの手で強権的に進めようとした。宋は最高権力者が専権を振るう状況よりも、議院内閣制に基づいた法による統治、大総統の権限を制限することが、中国を安定させしめると考えた(詳しくは後述)。そこで革命組織を改組して国民党を組織、事実上の党首として活躍、同年12月の選挙では圧勝した。
この間、袁世凱は宋の懐柔を図るがことごとく失敗した。業を煮やした袁は刺客を放ち、1913年3月、上海駅頭で宋を射殺した。なお、宋教仁の唯一無二の理解者であった北一輝は、宋暗殺の刺客を放ったのは孫文であったとしている。
★宋教仁の思想
宋教仁は、中国の伝統的学問を身につけていたが、科挙の廃止に伴い革命を志向するようになった。
宋は終始孫文に対立した革命家であると言われる。革命戦略については孫文の唱えた辺境根拠地革命に対し、宋は長江流域における都市革命を主張し、中部総会を設立した。また、宋は孫文の唱えた大総統制に対し、議院内閣制を主張した。孫文が強力な権限を持つ大総統による統治を望んだのに対し、宋は民主的な議院内閣制を主張したのである。
無論、その背景には袁世凱大総統の独裁をどう抑えるか、という問題があったのだが、宋は議院内閣制により大総統の権限を抑制しようとしたのであった。そしてこの法を以て対立するという態度が袁世凱に恐れられ、ついには暗殺されるに至った。実際、民国初期の段階で政治的主導権を握ったのは、孫文派ではなく、宋教仁であった。
このように孫文と対立し、また孫文が軍事力で袁世凱に対決しようとしたのに対し、宋は法を以て対決しようとした事から妥協的であるといわれ、「革命右派」と呼ばれ、中国では批判されてきた。しかし1970年代以後、日本でも宋教仁研究が進み、現在では現実的な愛国者であると評価されるようになってきた。

「フランダースの犬」日本人だけ共感?…ベルギーで検証映画.txt

【2007年12月25日11時39分 読売新聞】
ベルギー北部フランドル(英名フランダース)地方在住のベルギー人映画監督が、クリスマスにちなんだ悲運の物語として日本で知られる「フランダースの犬」を“検証”するドキュメンタリー映画を作成した。
 物語の主人公ネロと忠犬パトラッシュが、クリスマスイブの夜に力尽きたアントワープの大聖堂で、27日に上映される。映画のタイトルは「パトラッシュ」で、監督はディディエ・ボルカールトさん(36)。制作のきっかけは、大聖堂でルーベンスの絵を見上げ、涙を流す日本人の姿を見たことだったという。
 物語では、画家を夢見る少年ネロが、放火のぬれぎぬを着せられて、村を追われ、吹雪の中をさまよった揚げ句、一度見たかったこの絵を目にする。そして誰を恨むこともなく、忠犬とともに天に召される。原作は英国人作家ウィーダが1870年代に書いたが、欧州では、物語は「負け犬の死」(ボルカールトさん)としか映らず、評価されることはなかった。米国では過去に5回映画化されているが、いずれもハッピーエンドに書き換えられた。悲しい結末の原作が、なぜ日本でのみ共感を集めたのかは、長く謎とされてきた。ボルカールトさんらは、3年をかけて謎の解明を試みた。資料発掘や、世界6か国での計100人を超えるインタビューで、浮かび上がったのは、日本人の心に潜む「滅びの美学」だった。
 プロデューサーのアン・バンディーンデレンさん(36)は「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけた。
 上映時間は1時間25分。使用言語は主にオランダ語で、日英の字幕付きDVDが今月からインターネットなどで販売されている。

聴衆の魂を揺さぶったオバマ議員の演説(アイオワ州の勝利スピーチ).txt

その若さもさることながら、オバマ氏の演説の旨さは圧巻。
JFKやキング牧師の名演説を彷彿とさせられる。
http://www.youtube.com/watch?v=XB-sNaaaJRU&feature=user

★バラック・オバマ★
アメリカ合衆国の政治家。現在イリノイ州選出のアメリカ合衆国上院議員である。政党は民主党。現在、唯一のアフリカ系アメリカ人の上院議員であり、選挙により選ばれた歴代3人目のアフリカ系上院議員である。但し、白人とのハーフである為純然たるアフリカ系ではない。
①生い立ち
ハワイ・ホノルル生まれ。父親はケニア生まれのイスラム教徒であり、母親はアメリカカンザス州出身のスウェーデン系白人労働者一家の生まれである。したがって、「奴隷の子孫」としてのアフリカ系アメリカ人の血は引いていない。
イスラム教の戒律では(少なくとも建前の上では)ムスリムの子はムスリムであらねばならないとされているが、本人は現在キリスト教徒(プロテスタント)である。これについてオバマは自伝で「父はムスリム(イスラム教徒)だったが殆ど無宗教に近かった」と釈明している。実際には、ハワイにおいて白人である母親と母親の両親によって育てられたという出自である。
コロンビア大学を卒業後にシカゴに渡りNPOに勤務した後、ハーバード大学ロースクールに入学。アフリカ系として史上初の「Harvard Law Review」の編集長を務めた。
②イリノイ州議会議員
2006年(左から2番目)卒業後シカゴに戻り、有権者登録活動(voter registration drive)に関わった後、弁護士として法律事務所に勤務。またシカゴ大学ロースクール講師(lecturer)として合衆国憲法を講じていた。人権派弁護士として頭角を現し、貧困層救済の草の根社会活動を通して、1997年にイリノイ州議会上院議員に選出され2004年まで務めた。
③上院議員
2004年には、対立候補を得票率70%対27%の大差で破りイリノイ州選出の上院議員に初当選した。2004年のアメリカ大統領選挙では、ジョン・ケリー上院議員を大統領候補として選出した民主党大会で「リベラルのアメリカも保守のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ。黒人のアメリカも白人のアメリカもラテン人のアメリカもアジア人のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ」。「イラク戦争に反対した愛国者も、支持した愛国者も、みな同じアメリカに忠誠を誓う“アメリカ人”なのだ」との基調スピーチを行い、その模様が広く全米に中継されるとともに高い評価を受けた。
③「保守系メディア」からの扱い
保守系メディアでは、オバマの報道をするときには必ず名前にミドルネームのフセインを付ける。これは、イラクの元指導者でアメリカと対立していたサダム・フセインを連想させ、オバマがイスラム教徒であるかのように誤解させる(実際はキリスト教徒)ためであると思われる。保守系テレビ局、フォックス・テレビがイスラム神学校で教育を受けたと報じたが、後にCNNの現地取材によって否定された(最終2段落出典・新潮社 Foresight3月号)。
④大統領候補
2004年以降、2008年アメリカ合衆国大統領選挙の候補として推す声が地元の上院議員や新聞などを中心に高まっていった。本人は当初出馬を否定していたが、2006年10月、NBCテレビのインタビューに出馬を検討すると発言。翌2007年1月、大統領選出馬へ向けた準備委員会設立届を連邦選挙委員会に提出、事実上の出馬表明となった。そして2007年2月、イリノイ州スプリングフィールドにて正式な立候補宣言を行った。有権者に対し、建国当初のフロンティア精神へ回帰することを呼びかけ支持を集めている。
出馬の演説で彼は「ここ6年間の政府決定や放置されてきた諸問題は、われわれの国を不安定な状態にしている」と述べ、医療保険制度や年金制度、大学授業料、石油への依存度を、取り組みが必要な問題として挙げた。グローバル資本主義に懐疑的であり、大量の失業者を生んだ新自由主義経済政策のNAFTAに反対し国内労働者の保護を訴えるなど、ヒラリー・クリントンよりもリベラルな政治姿勢で知られている。
外交政策に関しては一貫してイラク戦争に反対しているが、一方で治安の悪化が懸念されているアフガニスタンやパキスタンなどにアメリカ軍の派遣を「増派すべき」と最近になって主張し始めたため、一部のメディアから「タカ派」と言われている。また、「私が大統領に選出されれば国際的な核兵器禁止を目指す」とも発言しており、「ロシアと協力し、双方の弾道ミサイルを一触即発の状況から取り去る方針だ。まずは、兵器製造に転用可能な核分裂性物質の生産を世界的に禁止することから始める。そして、米ロ間の中距離ミサイル禁止を国際的に拡大することを目指す」と具体的な内容にも言及している。
オバマが大統領に就任すると、アメリカ合衆国建国以来初めてのアフリカ系アメリカ人の大統領となる。元大統領夫人のヒラリー・クリントンと並んで大統領候補として知名度が高い。
⑤大統領予備選
大統領予備選の第1弾が行われるアイオワ州の地元紙(電子版)により、予備選直前の2007年12月に行われた世論調査では、支持率がクリントンを下してトップであった。その後の2008年1月3日に行われた大統領予備選のアイオワ州党員集会にて、ジョン・エドワーズやクリントンら他の候補者を10ポイント近い大差で破りオバマが勝利した。

ロンドンとパリを2時間15分で結ぶユーロスター.txt

ユーロスター (Eurostar)
ロンドンとリール、パリおよびブリュッセルを最高300km/hで結ぶ国際高速列車。列車はユーロトンネル(チャネルトンネル)を通って英仏海峡(ドーバー海峡)を横断し、イギリス、フランス、ベルギー各国内の高速路線を使用する。ユーロトンネルが開通した同じ年の1994年11月14日に開業した。
ユーロスターはTGVをもとにフランス・イギリス・ベルギー3国により共同開発された車両で、3カ国直通運転の為に工夫されている。尚、形式としてはクラス 373(British Rail Class 373)となっており、クラス 373の3000番台は英国、3100番台はベルギー、3200番台はフランスが所有する。しかし3200番台のうち4編成はTGVとしてパリ-リール間の短距離区間で使用されており、3300番台7編成は将来のイングランド北部・スコットランド方面への乗り入れに備え、2005年12月まで英国の鉄道会社GNERがリース契約で借り受けたものである。車両の色もGNERのコーポレートカラーであるダークブラウンに変更し、ロンドン・キングスクロス-リーズ/ヨーク間を実験的に営業運転を行っていた。しかし、航空機との競争等による採算性の問題からユーロスターの延伸は中止となった(現在はロンドン・ノースポール車両基地にて一時的に保管されている)。また、増結用寝台車として新造された"Nightstar"は結局一度も営業運転で使われること無く、カナダのVIA鉄道に売却された。
2007年11月に、イギリスの高速新線HS1(CTRL)が開業するまでは、セント・パンクラス駅ではなく、ウォータールー駅(フランス語読みでは『ワーテルロー』)に発着していた。当時は、軌道の関係(第三軌条方式)のためスピードが出せず、現在よりも数十分時間を要していた。
また、当初は一部列車についてはウォータールー発着を残す予定であったが、コスト面での折り合いが付かないため全列車がセント・パンクラス発着となった。
因みにキングスクロス駅とセント・パンクラス駅は隣同士に位置している。


★ウォータールー駅(フランス語読みでは『ワーテルロー』)
ウォータールー駅ロンドン・ウォータールー駅(Waterloo station)はロンドンサウスバンクに近いランベス地区にある主要な複合ターミナル駅である。4つの鉄道駅とバスターミナルがつながっている。全ては運賃区間のゾーン1に収まっている。 ウォータールー国際駅は現在、ロンドン側のユーロスターのターミナルとなっている。ウォータールー地下鉄駅とウォータールー・イースト駅はそれぞれウォータールー駅と隣接している。
ロンドン・ウォータールー駅はイギリスでは一番旅客数が多い駅となっている。CTRLが全線開業する2007年中にはユーロスターのターミナル駅がセント・パンクラス駅に移されるので旅客数の減少が考えられている。
ユーロスターが営業を開始してから、フランス側から駅名を改称してほしいという要求がたびたびあった。理由は、ナポレオンが戦いに敗れた地名だからである。

☆ワーテルローの戦い
1815年6月18日、イギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍が、フランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍を破った戦いである。
英語での発音はウォータールーである。ラ・ベル・アリアンスの戦い(ラ・ベル・アリアンスのたたかい, (独)Schlacht bei Belle-Alliance)とも呼ばれる。ベルギーのラ・ベル・アリアンスを主戦場としたが、ウェリントン公により近郊のワーテルローの名を取り、このように命名された。
ナポレオンにとっては最後の戦いとなった。

対談:僕たちが旅に出る理由「中田英寿×沢木耕太郎」.txt

「COURRiER Japon1月号掲載」http://blog.moura.jp/courrier/2008/01/10/index.html#002
サッカー選手を突然引退し、
旅人となった男、中田英寿。
若き旅人たちの永遠のバイブル
『深夜特急』をはじめ、「旅」をめぐる
傑作を多くものしてきた作家、沢木耕太郎。
二人の旅路が交錯した場所で、
旅人たちは何を語るのか。
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