ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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ヤマト政権による国家統一の礎を築いた継体天皇.txt

1500年前の倭国。ヤマト政権は、皇位継承をめぐる豪族たちの争いで混迷を深めていた。そうした中、越前の地にいた王族が天皇位につく。第26代・継体天皇である。越前から近江にかけてを地盤とした継体天皇は、朝鮮半島との交易や鉄生産など、強固な経済的基盤を背景にしてヤマトの豪族たちに迎えられた。継体天皇はそれまでの天皇とは異なり、ヤマトの中枢には入らずに淀川沿いに王宮を構えて港づくりを展開する。それは、朝鮮半島との外交ルートを強化し、国家統一のために必要な大陸の先進の知識を導入するためだった。
しかし、継体天皇が国家統一にむけて動き出したまさにその時、目の前に大きな敵が立ちふさがった。筑紫君磐井(つくしのきみいわい)率いる九州の豪族たちが、独立のために反旗を翻したのだ。ヤマト政権をゆるがすこの危機に、継体天皇は豪族たちの力を結集して立ち向かった。
25年の治世で、ヤマト政権による国家統一の礎を築き上げた継体天皇。即位から1500年を迎えたいま、謎多きその実像が衆目を集めている。


☆継体天皇(けいたいてんのう、允恭天皇39年(450年)? - 継体天皇25年2月7日(531年3月12日))は第26代の天皇(在位:継体天皇元年2月4日(507年3月5日) - 同25年2月7日(531年3月12日))。オホド王。継体天皇以降、大和の勢力と越前や近江など北方の豪族の勢力が一体化し、ヤマト王権の力が国内で強くなった。また天皇家の系譜として伝わるものは彼以降はほぼ正確であるとされる。しかし継体の出自に関しては諸説ある。
別名として伝わるのは『古事記』に袁本杼命(おおどのみこと)、『日本書紀』に男大迹王(おおどのおおきみ)、彦太尊(ひこふとのみこと)、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(おおどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(おおどのおおきみ)。なお、隅田八幡宮(和歌山県橋本市)蔵の人物画像鏡銘(443年説と503年説)に見える「孚弟王(男弟王?)」は継体天皇を指すとする説がある)。
①生涯
『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の孫であり、父は彦主人王。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが幼い時に父を亡くし、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で成長した。『日本書紀』によれば506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、大連(おおむらじ)・大伴金村らは越前に赴いて男大迹王を大王に推戴した。これを承諾した王は翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)で即位。武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。526年、大倭(後の大和国)に都をおいた。その直後、継体は百済救援の軍を送ったが新羅と結んだ磐井により九州北部で九州で磐井の乱が勃発し、その平定に苦心している(磐井の乱については諸説ある)。
しかしこの記述が事実とすれば、継体は507年に即位してから大和に都をおくまで約20年かかっており、天皇家周辺で何らかの混乱があったとする見方もある。531年に後継を皇子の勾大兄に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位(安閑天皇)と同日に崩御したという。また『日本書紀』は『百済本記』(「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞?城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」)を引いて天皇及び太子、皇子が同時に死んだという説を紹介しており、何らかの政変によって殺害されたとの見方もある(「辛亥の変」説)。また、『古事記』では没年を527年としている。
②出自を巡る議論
記紀によると先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前(近江とも)から応神天皇5世の孫である継体天皇が迎えられ群臣の要請に従って即位したとされるが『日本書紀』の系図一巻が失われたために正確な系譜が書けず、『上宮記』逸文によって辛うじて知ることが出来る。しかし、この特殊な即位事情を巡っては議論がある。
記紀の記述を尊重して継体天皇を大王家(「天皇」号成立は7世紀)の「遠い傍系に連なる有力王族」とする旧来の説に対し、戦後、歴史とりわけ天皇に関する自由な研究が認められることになったことから継体は従来の大王家とは血縁のない「新王朝の始祖(初代大王)」とする説(水野祐「三王朝交代説」)が提唱され、にわかに有力となった。この説によれば、いわゆる万世一系は否定され出自不明の第26代・継体天皇から新たな大王家が始まったということである。さらに論を進め、近江の皇別氏族(皇族が臣籍降下して誕生した氏族)息長氏(おきながうじ)の出身と見なし、大和王権を武力制圧して王位を簒奪したとする説も出された。
ところが1980年代に入り、継体の出自を伝える『上宮記』の成立が推古朝に遡る可能性が指摘され(黛弘道「継体天皇の系譜について」『律令国家成立史の研究』吉川弘文館、1982年)、傍系王族説が再び支持を集めるようになった。[要出典]『上宮記』逸文が載せられている『釈日本紀』の記述内容は「上宮記曰一伝」という文章があり、『上宮記』の作者が別の史料を引用していることが判る。ただ単に継体即位から1世紀後の推古朝の伝承を書いたものではなく、さらに古い資料に基づき系譜を載せている。
近年では継体以前には大王の地位は特定の血縁に固定されなかったとする見解も出されている。つまり、継体を含め祖先の異なる複数の豪族があり、祖先が誰かは分からないという意味である。武光誠は継体以前の大王は複数の有力豪族から出たとの見方を紹介している(以下の文献参照)。現在は「王族」「王朝」の概念自体を根本的に問い直す時期に来ていると言えよう。武光によれば、武烈天皇などは実在した天皇でなく創作との見方が現在では有力であり、応神天皇の実在に関しても諸説ある。また、現在伝わる継体の系譜は事実ではなく信用できるのはせいぜい継体の祖父まであり、それ以前については『上宮記』の成立時点で既に伝説上の人物だった応神天皇を継体の祖先として系譜に持ってきたのみとする見方もある。
現在の歴史学界では継体が応神の5世孫かどうか不明とする慎重な立場をとる学者も多くいるものの、中央豪族の支持を得て平和裏に即位したとする説が有力である。記紀の記録も継体以降の系譜は、ある程度信用できるとされている。
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聞き応えのあるジブリのPodcast.txt

「鈴木敏夫のジブリ汗まみれ」好評オンエア中
10月からスタートした鈴木プロデューサーのラジオ番組のタイトルが「鈴木敏夫のジブリ汗まみれ」に決定。
スタジオジブリの生の情報をプロデューサー自らが伝える30分。
ポッドキャストにより、PC上でも聞くことも可能。

☆スタジオジブリ
株式会社スタジオジブリ(英語表記:STUDIO GHIBLI INC.)は、アニメーションを主体とした映像作品の企画・制作を主な事業内容とする日本の企業である。
長編アニメーション映画の制作を主力事業としているが、1990年代中期以降、短編作品の制作及び実写作品の企画を手がけている。『熱風』という小冊子の発行を行う出版事業、さらに音楽事業も行っている。
◎名称
「スタジオジブリ」の名称は、サハラ砂漠に吹く熱風(ghibli)に由来しており、第二次世界大戦中のイタリアの飛行機の名前でもある。宮崎駿の思い込みから「ジブリ」となったが、「ギブリ」の方が原語に近い発音である(イタリアのマセラティ社の乗用車ghibliは日本でも1970年代から「ギブリ」と呼ばれている)。スタジオジブリのマークは、スタジオジブリの作品『となりのトトロ』に登場するキャラクター、トトロがデザインされている。スタジオジブリの第2レーベルで実写作品部門の「スタジオカジノ」は、スタジオの所在地東京都小金井市梶野町から命名された。

『深夜特急』

以下は高校の図書館便り(11月号)に寄稿した文章。

26歳の沢木耕太郎は、1900ドルを作り、仕事の全てを放擲して旅に出た。「デリーからロンドンまで乗り合いバスで行くことができるか。」その酔狂な旅の途中で、さまざまな場面に出会っていく・・・。
「深夜特急」を手にとった時、私は社会人1年目。学生気分が抜けきらず、鬱々と日々を過ごしていた。仕事を辞めてユーラシア大陸を横断する。それが私のささやかな目標となった。
3年後、沢木氏の言葉に肩を押されるように日本を発った。鉄道とバスのみを使って旅をする。それ
以外は何も決めていなかった。金と好奇心が摩耗するまで、どこまでも歩き続けよう、と。
「もし、この本を読んで旅に出たくなった人がいたら、そう、私も友情をもって挨拶を送りたい。恐れずに。 しかし、気をつけて。」 (「深夜特急 第三便」 あとがきより)

公安調査庁.txt

破壊活動防止法や無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律に基づき、日本に対する治安・安全保障上の脅威に関する情報収集(諜報活動)を行う組織である。
法務省の外局。略して「公安庁」・「公調」。
①概要
公安調査庁は、内閣情報調査室、警察庁(警備局)、外務省(国際情報統括官組織)、防衛省(情報本部)とともに、内閣情報会議・合同情報会議を構成する日本の情報機関のひとつに挙げられる。特に、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の情報に強いとされ、同庁長官が首相に面会し、直接情報を伝えることもある。
本来は、破壊活動防止法、及び無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律の規制対象に該当する団体であるかどうかの調査(情報収集)と処分請求を行う機関として存在するが、調査活動の過程で入手した情報を分析・評価し、関係機関に提供する。
公安調査庁が処分請求を行った後に、その処分を審査・決定する機関として公安審査委員会が設置されている。
敵対組織(国家)内部にスパイ網を構築し、情報を入手することを常套手段としており、その活動は“スパイ機関”そのものである。その実態が明らかになることはほとんどなく、小説などでは特殊な秘密諜報機関のように表現されている。
秘密警察・特高警察の再来と非難されることがあるが、逮捕権はなく、出来るのは内通者を使って情報を流させるなど純粋な調査活動のみ。いわゆる“公安”、“公安当局”とは、公安調査庁と公安警察を指す言葉である。
②沿革
公安調査庁は、1952年(昭和27年)7月、破壊活動防止法の施行と同時に、法務府特別審査局を発展的解消する形で設置された。特別審査局は、「秘密的、軍国主義的、極端な国家主義的、暴力主義的及び反民主主義的な団体」を取り締まる目的で制定された「団体等規正令」を所管しており、同政令が後の破壊活動防止法の基礎となった。同庁の設置には、戦後、公職追放されていた陸軍中野学校、特高警察、旧日本軍特務機関の出身者が参画したとされる(逆コース)。
破壊活動防止法は、当時、武装闘争路線をとり、「山村工作隊」、「中核自衛隊」などの武装組織建設を進めていた日本共産党に対する規制を念頭に制定された。そのため、同党は、現在でも破壊活動防止法の調査指定団体となっている。 1961年(昭和36年)には、元旧軍将校らが画策したクーデター未遂事件(三無事件)で、同法が初適用(個人適用)されている。
1994年(平成6年)から1995年(平成7年)にかけて松本サリン事件や地下鉄サリン事件などを起こしたオウム真理教(現アーレフ)に対し、破壊活動防止法の解散処分請求が行われたものの、1997年(平成9年)1月、公安審査委員会が同法の要件を満たさないと判断して適用は見送られた。
その後、再びアーレフの活動が活発になったことから、1999年(平成11年)12月、破壊活動防止法の適用要件を柔軟にした「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律」が施行された。公安調査庁は、同法に基づき、アーレフ施設の立入検査を継続している。
③国内関係
日本国内に関しては、アーレフ(旧オウム真理教)、犯罪組織(暴力団)、日本共産党、革マル派・中核派などの新左翼、右翼団体、朝鮮総連 などの情報を収集している。2001年(平成13年)9月の「9.11米国同時多発テロ事件」以降、アルカイダなどのイスラム過激派発見にも力を注いでいるとみられるが、第一は朝鮮半島の脅威調査である。
また、“白装束集団”として世間を騒がせたパナウェーブ研究所のようなカルトとされる団体についても情報収集を行っているとみられるが、信教の自由との絡みもあるためか、詳細は明らかにされていない。ただ、世界基督教統一神霊協会については保守政党(=自民党)とのコネがあるため対象になっていないと見られる。
一部の労働組合や労働争議支援団体、反戦運動・反基地運動、反核運動、原発反対運動、市民オンブズマンなど行政監視グループ、部落解放・女性解放など人権擁護運動(アムネスティ・インターナショナル、自由法曹団、日本国民救援会、青年法律家協会等)、消費者団体(生活協同組合や産地直送運動・環境保護団体)、言論団体(日本ペンクラブ、日本ジャーナリスト会議等)などについても情報収集を行っているとされ、これらの団体から“調査・監視対象化は不当”と非難されている。
一方、“治安上の脅威となる団体はまず「市民運動」等を隠れ蓑として勢力伸長を図るのが常套手段である以上、これらの団体に対する合法的情報収集・分析は業務の一環として当然である”との保守派からの反論もある。
④国外関係
日本国外に関しては、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、中華人民共和国(中国)、ロシアなど、日本と敵対もしくは緊張関係にある国の情報収集を行っているが、その実態は明らかにされていない。当該国の政治・経済情報の入手及び分析を得意とすると言われるが、情報活動の性質上、軍事情報も扱っているとみられる。
北朝鮮情報については、日本の置かれた位置や在日朝鮮人との関係によって、ヒューミント(HUMINT; human intelligence)に関してCIA(米国・中央情報局)なども一目置くと言われている。
警察庁警備局を頂点とする公安警察とは、担当領域が重複するためにライバル関係にある。一方、3自衛隊の情報保全部門(情報保全隊)との関係は良好とされる。
⑤組織概要
平成17年度の定員は1,498人。国家公務員削減の流れに反し、平成16年度定員から36人増員されている。職員のうち、公安調査官(公安職)が調査業務に従事している。なお、幹部以外の職員氏名は公表されない。
東京・霞が関の法務省庁舎内にある本庁以下、東京、大阪など8か所にブロックを管轄する公安調査局、横浜、京都など14か所に府県を管轄する公安調査事務所、その他必要に応じて駐在官事務所が置かれている。 以前は、公安調査局の置かれる都道府県以外の全ての府県に地方組織(地方公安調査局、後に縮小され公安調査事務所)が置かれていたが、2001年(平成13年)1月の中央省庁再編に伴い、一部の事務所が閉鎖統合され、現体制となった。
本庁と地方組織の役割分担としては、地方組織が収集した情報を本庁が一元的に分析・評価し、関係省庁に提供する仕組みとなっている。
本庁は、人事・管理を担当する総務部、国内情報を担当する調査第一部、国外情報を担当する調査第二部で構成されており、公安調査局・公安調査事務所もこれに準じた組織となっている。北朝鮮情報、イスラム過激派によるテロ情報を扱うのは調査第二部である。
法務省の外局らしく、長官・次長・総務部長、以上ナンバー3までが検事である。このほか、調査第一部長に警察庁から警視監クラスの出向者、同第二部長に公安調査官生え抜きが充てられているが、これら最高幹部以外には出向者を受け入れない特異な組織でもある。
一方、その組織規模とは不釣り合いなほどに他省庁への出向ポストが多く、内閣情報調査室を中心として内閣官房に二十数人、外務省(本省、在外公館)に数十人、同じ法務省の組織である入国管理局に数人を出向させている。このほかにも出向ポストが存在するとみられるが、詳細は不明である。出向者は定員にカウントされないため、実際には1,600人弱の職員を抱えていると推定される。
⑥ヒューミント
情報収集の手法として、監視・尾行のほか、対象団体の関係者を協力者(スパイ)として勧誘し、内部の情報を探るという手法(ヒューミント)をとり、通信傍受(シギント、エリント、コミント)などの技術的手段を用いた情報収集は行っていないとされるが、業務の性質上、活動の実態には不明な点が多い。
職員は、その特殊性から、所属・職名(場合によっては氏名)を偽って活動することが多く、危険に晒されることもあるとされる。
1999年(平成11年)12月、元日本経済新聞記者杉嶋岑が北朝鮮当局に2年2ヶ月間にわたり拘束される事件が発生。この記者は帰国後、以前から公安調査庁に依頼されて北朝鮮の情報を提供していたこと、その件が北朝鮮側に漏洩していたためにスパイ容疑で取り調べを受けたことなどを明らかにしている。(日経新聞記者北朝鮮拘束事件)
また、2003年(平成15年)には、元オウム真理教信者で公安調査庁の協力者であったとされる女性が北朝鮮に“亡命”していた事実が判明するなど、時折、諜報活動の得体の知れなさを窺わせる事件が明るみに出ている。
⑦権限
公安調査庁の調査活動は、あくまで任意調査に限られており、逮捕、家宅捜索等の強制捜査権は与えられていない。これは、日本に限ったことではなく、諸外国の情報機関においても、対外情報機関はもとより、治安情報機関であっても、SS(英・保安局、MI5)、BfV(独・憲法擁護庁)などは逮捕権を与えられていない。
警察当局が事件発生後に捜査を開始するのにくらべ、情報機関は具体的な事件の発生前から広範かつフリーハンドで情報活動を行う必要がある以上、逮捕権や強制捜査権を付与することによって生じる権力の異常な増大、独断専行を回避するためでもある。
⑧警察との違い
警察当局と情報当局の役割については、警察当局は、あくまで入手した情報によって事件を解決すること(犯人逮捕)を最終目標とする一方で、情報当局は、入手した情報から治安・外交面での中・長期的な予測をはじき出し、国家の政策判断の材料として政治指導者に提供する点で異なっている。
日本の公安警察は、事件解決や対象の継続的な監視(防犯)を目的としており、収集した情報を総理官邸・関係省庁に提供することはほとんどない。一方、公安調査庁は、政策の判断材料となるように情報を分析・評価し、首相官邸・関係省庁に提供する点で違いがある。
例えば、同じ北朝鮮情報を扱うにしても、公安警察が日本国内の工作員の存在という“違法行為”の把握を第一目標とするのに対し、公安調査庁は北朝鮮本国の政治・経済情勢の把握を優先する。公安調査庁に逮捕や家宅捜索等の強制捜査権が与えられていないのはこのためである。
⑨情報交換
公安調査庁は、CIA(米国・中央情報局)、SIS(英・秘密情報部、MI6)、DGSE(仏・対外治安総局)、BND(独・連邦情報局)、モサド(イスラエル)、国家情報院(韓国)などとも情報交換を行っており、元職員によると、情報交換だけではなく、研修のためにCIAに職員を派遣しているとされる。
公安調査庁は、北朝鮮や中国等の東アジア情報を武器に情報を交換しているとみられるが、情報機関同士の情報交換は、“ギブ・アンド・テイク”が基本とされ、相手方に提供する情報の質によって、得られる情報の質・量が変化する。“見返り”が期待できない組織とは関係を維持しない。

スカル・アンド・ボーンズ(Skull and Bones、S&B、頭骸骨と骨)

アメリカのイェール大学にある秘密結社。構成員同士が協力し合いアメリカで経済的・社会的に成功することを目的としている。入会と同時に、過去の恥ずかしい秘密を暴露させられ、その秘密を共有することによって結束を深めるという。トゥーレ協会に関係があるという説もある。
一方で、ユダヤ財閥と密接に繋がっているとも言われている。
2004年秋のアメリカ大統領選挙の2人の候補者である、ジョン・ケリーとジョージ・ウォーカー・ブッシュが2人ともS&B出身だったのは有名。また、第43代アメリカ合衆国大統領のジョージ・ウォーカー・ブッシュの父である第41代アメリカ合衆国大統領のジョージ・H・W・ブッシュや、祖父のプレスコット・ブッシュもS&Bのメンバーだった。
第一次世界大戦中、S&Bのメンバー6人が、アメリカ先住民族・アパッチ族の指導者であるジェロニモの墓を暴いて遺骨を持ち去り、S&B本部に納めたと言われている。遺骨は、今も所在不明。なお、持ち去りメンバーとされる6人のうちの1人は、プレスコット・ブッシュであるとされている

★イェール大学(英称:Yale University)★
米国コネチカット州ニューヘイブン市に本部を置くアメリカの私立大学である。1701年に設置された。
一般にエール大学とも表記される。アメリカの大学としては3番目に古い。モットーは"Lux et Veritas"(ラテン語「光と真実」) である。アメリカで最初に設立されたハーヴァード大学では単にVeritas(「真実」)であったが、ハーヴァードの世俗化を批判して創設されたイェールではこれにLux(「光」)を付け加えた。
アメリカ東部の名門大学群アイビー・リーグに所属する8大学のうちの1校である。US NEWS RANKINGS(学部課程のランキング)では毎年ハーヴァード大学、プリンストン大学と共に3位以内に入り、米国を代表する名門大学として不動の地位を保っている。これら3校はBIG3と呼ばれ、また頭文字を創立年順に並べてHYPと略記されることもある(西海岸の名門スタンフォード大学を加えたBIG4、HYPSという略称も用いられることがある)。2006年度には、イェールの学部課程の合格率は一桁台で全米で最も低かった。イェール大学は米国内だけでなく、世界でも最高の名声を得ている大学の一つである。無論、自然科学分野でも多くの専攻で全米ランキング及び世界ランキングの最上位を占めるのは言うまでもないが、人文科学、社会科学分野での評価がとりわけ高い。大学院レベルでは、特にロー・スクール(法科大学院)が全米最難関として知られる。
アイビー・リーグのアメリカン・フットボール最終戦は、伝統的にハーヴァード対イェールであり、The Gameと呼ばれている。教育・研究・卒業生の活躍においても両校のライバル関係が語られることがある。2004年大統領選の主要候補6名の内、4名がイェール出身であるなど、近年の政治家の輩出においては全米で最も脚光を浴びている。2008年の大統領選の最有力候補と目されるヒラリー・クリントン上院議員もイェール・ロー・スクール出身である。ハーヴァードが「学問研究の中枢」として語られるのに対し、イェールは「国家権力の中枢」として語られることが多い(映画「Good Shephard」等を参照)。これまで5人の大統領を輩出。その迷信がかった象徴として、秘密結社「スカル・アンド・ボーンズ」が頻繁に引き合いに出される。イェールには格式の高いものからそうでないものまで多くの秘密結社が存在する。キャンパスに点在する窓のない建物の多くはそうした秘密結社のものである。
学生数は学部、大学院合わせて約11,000人(ハーヴァードは約19,000人。これらの数字は、2006年8月のニューズウィーク誌のランキングが掲載しているものに拠る)。特に理数系分野の研究においてはハーヴァードの方が規模が大きい。

映画『グッド・シェパード』とCIA.txt

『グッド・シェパード』(The Good Shepherd)
ロバート・デ・ニーロ監督による2006年のアメリカ映画。監督本人も出演している。アンジェリーナ・ジョリーとマット・デイモンの共演作で、全米では2006年12月に公開された。
なお、タイトルの『グッド・シェパード』とは聖書内に登場する「良き羊飼い」を意味する。
①ストーリー
1961年4月17日、キューバ革命により共産主義政権へと変わったキューバ・ピッグス湾に、亡命キューバ人の部隊が政権の転覆をもくろんで上陸。しかし、これを支援するアメリカ・CIA内部の情報漏れによって作戦は失敗してしまう。世に言うピッグス湾事件である。
この一件によりCIAは窮地に追い込まれ、作戦の指揮を取った諜報員・エドワード・ウィルソンにも疑いの目が及ぶ。そんな中、彼の元に一本のテープと写真が送られてくる。そこにCIAの内通者と敵国のスパイの臭いを感じ取ったエドワードは、部下にテープと写真の分析を依頼する…。
②登場人物
・エドワード・ウィルソン(マット・デイモン)
本映画の主人公。イェール大学に在籍し、エリートの秘密結社・スカル・アンド・ボーンズに参加する。敵国のスパイの疑いがあった教授を調査したことから、OSSにリクルートされ、諜報員の道を進むことになる。戦後もCIAに勤務し、敵国からは“マザー”のコードネームで恐れられた、優秀な諜報員。
映画のCIAテクニカル・アドバイザーであるミルト・ヘアデン、脚本のエリック・ロスによれば、モデルは実在のCIA諜報員であるジェームズ・アングルトンやリチャード・ビッセルなどの複合的イメージに、オリジナル要素が組み合わせられているという。
・ビル・サリヴァン将軍(ロバート・デ・ニーロ)
エドワードをOSS、CIAにリクルートした老将軍。
モデルは「アメリカ情報活動の父」と呼ばれたウィリアム・ジョゼフ・ドノヴァン。

☆CIA(Central Intelligence Agency:アメリカ中央情報局)
アメリカ合衆国の諜報機関。国家情報長官によって統括されるインテリジェンス・コミュニティーの中核組織のひとつであり、アメリカ合衆国の国策遂行のために、情報収集・対外工作を行う機関である。
【概要】
反米的な政権に対するクーデターの支援、外国の親米政党に対する秘密援助など、連邦政府・国務省が公的には出来ない“裏稼業”に関わる事から、「第二のアメリカ政府」、「見えない政府(invisible government)」、「クーメーカー(クーデターメーカー)」とあだ名される。敵指導者の暗殺や情報操作、プロパガンダ、民衆扇動などにも関わっていると考えられている。ホワイトハウス(大統領府)直轄で、米軍からは独立している。
また徹底した秘密主義、度々噂されるいくつかの“悪事”から、ほとんどの日本人の間ではいかにも怪しい組織といった印象が強いため、数々の功績があるにも拘らず、尊敬の対象というよりむしろ畏怖と疑念の対象として見られることも多い。イランなど反米国家においては、逆にテロ組織に指定されている。
【沿革】
第二次世界大戦中のOSS(Office of Strategic Service―戦略事務局)がCIG(Central Intelligence Group―中央情報グループ)とOPC(Office of Political Cordination―政策調整局)を経て1947年国家安全保障法により改組。アメリカ合衆国の外交政策・国防政策の決定に必要な諜報・謀略活動(ヒューミント)を行い膨大な予算と権限を与えられているが、その活動の詳細は明らかにされておらず、アメリカ国民にとって一般に知られる訳にはいかない機密の保持、または証拠物件等を抹消する任務を帯びた組織であると説明される事が多い。
近年公開された文書によれば、冷戦時代にはアメリカ政府の反共政策に基づき日本の親米右派・左派勢力(これは自民党や旧民社党のことを指すと思われる)に支援をしていたことが判明している。これ以外にも世界中の数多くの親米政府・ゲリラなどに人材・資金面で交流・援助していると言われる。
映画や小説の中では、かの有名な、ジョン・F・ケネディ大統領の暗殺にも関与していたとされることもある。通称は本部所在地のバージニア州ラングレーにちなみ「ラングレー」。または「ザ・カンパニー」などと呼ばれることもある。CIAが世界有数の強力な諜報機関になった背景には、かつてOSSの幹部を務め、後にアイゼンハワー政権下で8年間長官を務めたアレン・ダレスによる影響が大きいといわれる。
1980年代ソ連崩壊直前には、世界中で主要敵であるKGBの諜報員の離反を成功させるなどして冷戦の終結に貢献したが、冷戦後はCIAの予算も大幅に縮小される傾向にあった。その結果、諜報能力の低下を招きアメリカ同時多発テロを防げなかったという批判から2001年よりブッシュ政権下で予算は大幅に増額された。

ユダヤ人の離散(ディアスポラ)とハドリアヌス帝.txt

ハドリアヌス帝が旅の最後に行ったもう一つの事件は、ユダヤ人の運命をその後20世紀に至るまで決定づける事件であった。

ローマ属州に組み込まれた諸地域において、原住民はローマが定める法に従いさえすれば、広範な自治が認められてた。またローマ文明圏に属することで安全にかつ豊かに暮らすことがでたのである。
このような属州としての地位にひとり肯んじなかったのがユダヤの地に住むユダヤ人である。ユダヤ教の神のみに服するユダヤ人は、ローマ法に服そうとしない。カエサル以来歴代のローマ指導者は、何とかユダヤ人とうまくやっていこうと苦労する。

ハドリアヌス帝は旅の最後にユダヤを訪れ、「割礼の禁止」を言い渡す。この措置はユダヤ人の気持ちを逆なでし、ユダヤ人の過激派が暴動を起こす。塩野七生氏は、ハドリアヌス帝はこれを狙って「割礼の禁止」措置を講じたのではないかと推測している。
ハドリアヌス帝は何年もかかって暴動を鎮圧した後、イェルサレムからのユダヤ教徒の追放を決定した。ユダヤ教徒はイェルサレムに居住できなくなり、各地に離散(ディアスポラ)することになる。
帝はユダヤの不安定要因はユダヤ教とその文化にあると考え、その根絶をはかった。ユダヤ暦の廃止が命じられ、ユダヤ教指導者たちは殺害された。律法の書物は神殿の丘に廃棄され、埋められた。さらにエルサレムの名称を廃して「アエリア・カピトリナ」とし、ユダヤ人の立ち入りを禁じた。紀元4世紀になってはじめてユダヤ人は、決められた日のみに神殿跡の礎石(いわゆる嘆きの壁)の前に立つことを許された。ハドリアヌスは徹底的にユダヤ的なものの根絶を目指し、属州ユダヤの名を廃して、属州「シリア・パレスティナ」とした。これはユダヤ人の敵対者ペリシテ人の名前からとったものである。現代まで続くパレスティナの名前はここに由来している。

こうしてユダヤ人は祖国を失い、元老院での採決を経て公式に発効した紀元135年からの「ディアスポラ」は、20世紀半ばのイスラエル建国までつづくことになりる。

右翼と左翼の起源は?.txt

右翼・左翼の語源はフランス革命時代の議会において議長の右側の席を保守派が左側の席を急進派が占めたことに由来する。

【右翼】
フランス革命時、フランス国民議会で、保守派のジロンド党が議長席から見て右側の席を占めていたことから、極端に保守的・国粋的な思想傾向の団体や分子を指すようになった。
基本的に右翼は社会主義や共産主義など左翼思想に激しい敵愾心をもつが、現代の右翼には左翼思想に強い影響を受けた存在もある。例えば、ナチズムに代表されるファシズムであるが、ファシズムを右翼と見る見方もあるが、反対にナチズムに代表されるファシズムを「社会主義の亜流」として"左翼"と見る見方もある。
色では白で表現される事が通例だが、特にファシストはファシスト党のシンボルカラーから黒で表現される事が多い(通常、黒はアナキストのカラーである)。ナチスは共産革命色とされる赤も使用した。またスタイルの一つとしてナチス式敬礼がある。右手を前方に突き出すものである(左翼に定式はないが、左手を握り拳にするものもある)。
自民族に対する人種的優越論を持ち出して民族主義に走る傾向が多く、国内に住む少数民族、移民や外国人労働者の排斥を訴える排外主義など、極端に過激な政治思想を持つ右翼の事を極右と呼ぶ。
欧米におけるプアホワイトの事例のように、国内の低取得者が現状に対する不満から、マイノリティーや移民などの攻撃し易い勢力に怒りの戈先を向ける事から発生する右翼運動も多い。

【左翼】
フランス革命時、フランス国民議会で、急進派のジャコバン党が議長席から見て左側の席を占めていたことから、急進的・革命的な思想傾向の団体や分子を指す。
政治思想・政治勢力を大きく二分した場合における革新(対義語は保守)側のことである。右翼と対立する。20世紀以降は市場原理を認める穏健な社会民主主義から革命を志向するアナキズム、社会主義や共産主義まで、幅広い勢力を指す語として用いられる。社会主義や社会民主主義、共産主義は赤、アナキズムは黒で表されることが多い。
穏健な左派(社会民主主義や第三の道など)は中道左派やリベラルと呼ばれる。また、アメリカ合衆国では「左翼」と呼ばれることを嫌い「リベラル」と呼ぶのが一般的である。



 

チェーザレ 4―破壊の創造者 (4) 11月22日発売.txt

歴史マンガ「脇役」に脚光 2007年05月21日13時16分(asahi.com)

 歴史マンガといえば、かつては著名な歴史上の人物や事件を題材にしたものが主流だったが、最近では幅が広がってきた。特に「週刊モーニング」(講談社)連載中の2作品が異彩を放つ。茶人武将やルネサンスの立役者といった歴史上の“名わき役”を主人公に描く、「美意識」や時代考証へのこだわりが人気を集めている。
 今月発表された、手塚治虫文化賞の第1次選考で、5位になった山田芳裕の「へうげもの」。主人公は、安土・桃山時代の武将古田織部。志野や織部など日本の陶芸デザインに一大変革をもたらした茶人の異色時代劇として、選考会でも話題を呼んだ。05年に連載が始まり、単行本が4巻まで刊行されている。
 美濃出身の織部は、信長、秀吉、家康と3代の権力者に仕えながら千利休に師事。利休とは対照的に色鮮やかな釉薬(ゆうやく)が施され、ゆがんだ形の「ひょうげた」器をプロデュースした。
 これまで利休を主人公にした小説や映画、漫画は多数あったが、織部が活躍した作品はほとんどない。家康に切腹を命じられ、江戸時代に人々から遠ざけられたために史料も少ないが、「逆に想像を働かせやすかった」という山田は、織部を物欲の塊として描く。
 茶釜や茶碗(ちゃわん)を死守するため、家族や家臣も捨て「美」に殉じる武将・松永久秀や荒木村重らも登場。織部は信長の「茶の湯政道」や、利休がプロデュースする黒い楽茶碗など「侘(わ)び茶」の世界に目をむきながら、独自の「美」を探る。
 一方、惣領(そうりょう)冬実の「チェーザレ 破壊の創造者」は、イタリア・ルネサンス期に活躍した政治家で軍人のチェーザレ・ボルジアの生涯を描く。同じく05年に連載が始まり、このほど、第3巻が出た。
 特徴の一つは、専門家とチームを組み、考証にこだわった点だ。たとえば、物語に出てくるピサの大司教邸。マンガで描かれる15世紀から存在しているが、その後、増改築され、現在はバロック様式になってしまっている。作品では、その部分を取り除き、他のルネサンス様式の邸宅の外観をあてはめて作画している。
 「ミケランジェロの天井画が描かれる前のシスティーナ礼拝堂が、絵として再現された時の感動は忘れられません。苦しくとも、楽しい作業です」と、監修にあたる、くらしき作陽大の原基晶・専任講師(イタリア中世文学)。
 連載でのチェーザレはまだ16歳。後に「君主論」で彼のことを記すマキァヴェッリも登場する。レオナルド・ダ・ヴィンチとも親交があった、ルネサンスの“早すぎた天才”が今後、どう描かれるか注目される。
 「週刊モーニング」は、宮本武蔵を主人公にした「バガボンド」(井上雄彦)をはじめ、以前から歴史に題材を採った作品が目立つ。
 「うちの読者は知識欲が旺盛で、かなりコアな作品でもおもしろがってくれるので」と同編集部。「2作品とも、こだわりのある作品を描きたいという作家の思いがうまく花開いた」と話している。

長州ファイブと山尾庸三.txt

映画「長州ファイブ」は、山尾庸三という一般にはあまり知られていない人物を中心として描かれた青春群像。
攘夷の嵐が吹き荒れる幕末期に幕府の禁を破ってイギリスへ命がけの密航を果たし、後に近代日本の幕開けに大きな足跡を残した長州藩の5人の若者、「長州ファイブ」と呼ばれる、伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三の激動の運命を描く歴史ドラマ。
ペリー率いる黒船の来航以来、尊皇攘夷の気運が勢いを増す幕末の日本。
そんな中、西欧に人材を派遣し見聞を広め学問や技術を習得することが必要と説く佐久間象山の言葉に
深く心を動かされた長州藩の若者、志道聞多。見つかれば死罪という国禁を犯してまでもイギリスへ渡りたいという聞多の情熱は、
藩主の毛利敬親にも聞き入れられ、藩は密航を黙認するのだった。
こうして、志道聞多と彼の情熱に突き動かされた山尾庸三、野村弥吉、伊藤俊輔、遠藤謹助の5人は、
日本の未来のため、遥かなる異国の地、イギリスを目指して危険な航海に旅立つのだった。

☆山尾庸三
天保8年10月8日(1837年11月5日) - 大正6年(1917年)12月21日)は幕末~明治時代の人物。周防国吉敷郡二島村(現・山口県山口市秋穂二島)出身。
江戸で航海術を学ぶ。『史料』、『武家名目抄』、『続群書類従』などの編纂に携わった。また、『南朝編年稿』、『近世武家名目一覧』、『集古文書』などを編著した。 文久2年(1862年)、塙忠宝を、伊藤博文とふたりで暗殺した。文久3年(1863年)、密航でロンドン・グラスゴーに渡りさまざまな工学を学び、明治元年1868年に帰国。帰国後に工部権大丞・工部小輔、大輔、工部卿など工学関連の重職を任された。新たに創設された法制局の初代長官も務めている。
のちの東京大学工学部の前身となる工学寮を創立。
聾を患う身体障害者の人材教育に熱心に取り組み、明治10年(1876年)には日本初の盲聾学校を設立した。
伊藤博文・井上馨・井上勝・遠藤謹助・山尾の5人は、長州五傑と呼ばれた。

カツラをしていた「太陽王」ルイ14世.txt

 1643年、5歳で即位したルイ14世は、ヨーロッパ史上最長の72年間にわたってフランスに君臨し、まさに「朕は国家なり」を実践した、王の中の王である。 そうなるまでの努力たるや、しかし並みたいていではなかった。生きた偶像として自分を常に国内外へアピールするのは、肉体的にも精神的にも相当タフでなければ務まらない。 戦争や国務の合い間に、舞台でバレエを踊り、狩猟で野を駆け、球技に興じた。芝居見物や、明け方まで続く舞踏会、妻や愛人たちのベッドのお相手も、王たるものの義務として几帳面にこなした。外見の重要さを認識して、ファッションにも気を配った。
しかし、彼の身長は160センチそこそこ。そこでハイヒールを履くことで7,8センチは高くなった。でもまだ足りない。そこで、かつらの出番となる。
 かつらは父親である13世もハゲ隠しに用いたが、息子14世は17歳から使いはじめた。あれこれ試して嵩高20センチほどの品を特注し、外出時はさらにその上に派手な羽飾りの帽子までかぶって、堂々たる偉丈夫を演出した。
でも寝るときかつらを取る姿を決して臣下には見せなかったというから、背の低いことを忘れてしまったわけではないのだろう。太陽王にしてこのコンプレックス! 

世界一死刑が残酷な国はイラン.txt

世界一死刑が残酷な国はイランといわれる。絞首刑、石打ち刑、体切断刑、高所から突き落とす刑、と4つの刑から選ばれる。未成年者も死刑に相当する犯罪を犯した場合は4つの刑から選ばれる。
①恐怖の『石打ち刑』
シャリア法に従い、囚人は胸まで埋められ、手の自由も奪われる。さらには即死せずに苦しんで死ぬよう投げる石の大きさまで定められている。石打ちによる死刑は男女ともに対象であるが、石打ち刑の適用は女性が圧倒的に多いのが現実である
元々は預言者モーセが律法の中で「姦通した女は石で打て」と命じたものだ。
ユダヤ教から派生したイスラム教の規範と罰則を記した律法の中で、一般に知られていることがらは、泥棒すればその手を切り落とし、夫以外の男に通じたり、姦通した未婚女性は石打ちの死刑にされるという掟である。旧約聖書時代から普遍的にあった「目には目を歯には歯を」という応復規律がイスラム教のシャリア律法に取り入れられた。今もアフガニスタン、イラン、ナイジェリアなど一部のイスラム教国ので行われ、
人権団体などが調査・抗議を続けている。
②事例:イランで女性7人に石打ち刑の判決 2006/10/08
7人のうちほぼ全員が、姦通罪での石打ちによる死刑判決である。
貧困のため夫に売春を強要され、姦通罪で石打ちによる死刑判決を受けている女性
ある1人の女性は「絞首刑を受ける用意はできているが、頭や顔に石を投げられて死ぬのは堪え難い」と述べているとアムネスティは伝えている。
③その他の事例
【テヘラン 2007年7月11日共同】
イラン北部の村で妻以外の女性と関係を持ったとして姦通罪に問われた男性に対し、石打ちによる死刑が最近執行されたことが分かった。ジャムシディ司法府報道官が10日の記者会見で明らかにした。
 石打ち刑は死刑囚が男性の場合、下半身を土に埋めて身動きができないようにした上で、死亡するまで地元住民が石を投げつける刑罰とされ、公開で行われる。
 今回、刑が執行されたのはイラン北部タケスタン近郊の村に住んでいた男性。11日付シャルグ紙によると、住民が石打ちを拒否したため、裁判官と警察官数人が公開で刑を執行した。男性と関係を持ったとされる女性も同じ刑を言い渡されたが、裁判所が執行するかどうか再検討しているという。
③レズやゲイも死刑
【2007年08月28日】
イラン人レズビアンのペガーさんが強制送還の危機に日本人支援者が英国大使館・外務省に請願提出した。 同性愛者であることから死刑が予想され、母国イランを離れ
イギリスに亡命している女性の難民申請が、イギリス入国管理局に棄却された。
 彼女はここ数日の間(当初の予定では8月28日)に、イランへ強制送還される可能性が高い。命の危機に直面しているのは、イラン人でレズビアンのペガー・エマンバクシュさん(40)。
イランでは同性愛は違法とされ、死刑に処されることがある。現在、彼女はイギリス入国管理局の収容所にいる。 イスラム刑法では「レズビアン同士の性交への罰則はむち打ち100回。3回以上繰り返された場合は死刑」 (英国内務省,、イランに関するガイダンス資料 2007年)とされている。
 2005年には10代のゲイ男性2人が絞首刑に処された。亡命イラン人同性愛者の人権団体「ホーマン」 は、イラン政府が1979年以降、少なくとも4000人の同性愛者を処刑してきたと非難しているという。
 ペガーさんのパートナーだった女性はすでに逮捕され、拷問を受け、石打ちによる死刑に処せられたそうだ。ペガーさんは、2005年にイランを脱出し、英国で難民申請を行った。レズビアンを公言しているペガーさんが今イランに戻れば、拷問と死刑が待ち受けていることが容易に予想される。

ツタンカーメンの顔、初公開 墓内部に展示ケース(2007年11月05日08時03分)

黄金のマスクで知られる約3300年前のエジプトの少年王、ツタンカーメンのミイラの顔が4日、エジプト南部ルクソールの「王家の谷」にある同王の墓で、初めて公開された。王墓内にあったミイラを墓内部に新しく設けた展示ケースに移し、観光客にも顔を見られるようにした。
 エジプト考古最高評議会によると、ツタンカーメン王のミイラは王墓内の石棺に安置されてきたが、室温や湿度を一定に保つことが難しく、傷みが激しいという。展示ケースにはこうした問題を解消するための装置がついているという。
 王墓は1922年に発見された。ミイラの頭部を覆っていた黄金のマスクは現在、カイロのエジプト考古学博物館に展示されている。

田川のシンボル香春岳.txt

先日、研究授業で福岡県立田川高等学校に行きました。後藤寺のバスセンターより、バスに乗り豊産で下車。バス停から田川高校へ向かう道から、仰ぎ見えた真っ白い山が香春岳です。最初、雪が降ったのかと思いましたが、それは石灰岩でした。

作家五木寛之氏が「青春の門」の中で「異様な山」と評した香春岳。
香春岳は昔より銅の産出した場所であり、新羅からの渡来人がその高度な技術で精製していた。奈良東大寺の大仏造営でも、ここから搬出された銅が相当量使われたという。平安時代には宇佐八幡宮に奉納する御神鏡を鋳造している。近代ではセメント原料としての石灰の採掘が昭和10年から始まっている。湿式回転窯という、当時としては最新の設備を備えた香春工場で加工されたセメントは、世界各国に輸出されていた。
石炭が黒ダイヤ、セメントが白ダイヤといわれた時代の話である。

☆香春岳(かわらだけ)
福岡県田川郡香春町にある石灰岩で出来た山である。一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳があるが、これらをまとめてこう呼ぶ。地元の人は、香春岳と呼ばず、一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳と呼ぶ事が多い。 全体が高品位の石灰岩で出来た山のため、昭和初期からこれを原料にしたセメント工場が立地していたが、消費地からも海からも離れている事が災いして工場は閉鎖され、現在では石灰石(特に白色度の高いものは「寒水石」と称し、製紙原料として珍重される)の採掘のみが行われている。

歩くエンサイクロペディア南方熊楠.txt

南方 熊楠(みなかた くまぐす)1867年5月18日 - 1941年12月29日博物学者、菌類学者、民俗学者。菌類学者としては動物の特徴と植物の特徴を併せ持つ粘菌の研究で知られている。主著『十二支考』『南方随筆』など。投稿論文や書簡が主な執筆対象であったため、平凡社編集による全集が刊行された。歩くエンサイクロペディア(百科事典)と呼ばれ、彼の言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。
①人物
子供の頃から、驚異的な記憶力を持つ神童だった。また常軌を逸した読書家でもあり、旧制中学入学前に『和漢三才図会』『本草綱目』『諸国名産図会』『大和本草』『太平記』を筆写し、旧制中学在学中には漢訳大蔵経を読破したとされる。彼のその学風は、ひとつの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものであり、土蔵や那智山中に篭っていそしんだ研究からは、曼荼羅のような知識の網が産まれた。当時としては早い段階での、世界規模での比較人類文化学を得意とした。現代科学の方法論の見地からは、考察は粗雑であり、学問的に純化されていないとする批判もあるが、独特の宇宙観、破天荒な生き方を評価する向きもある。
彼にまつわるエピソードは膨大である。語学に堪能で19ヶ国語の言語を操ったといわれた。また、当時政府が進めていた神社合祀反対運動を起こした。今日、この運動は自然保護運動、あるいはエコロジー活動の先駆とも言われ評価されており、熊野古道が残る所以となった。
②生涯
1867年(慶応3年)、和歌山城下の橋丁に金物商を営む南方弥兵衛、スミの次男として生まれる。
1873年(明治6年)、雄小学校に入学(6歳)。すでに抜群の記憶力を発揮し、明治8年(1875年)には『和漢三才図会』を5年かけて写筆、その前後『本草綱目』『諸国名所図会』『大和本草』等も写筆。
1879年(明治12年)、和歌山中学校(現和歌山県立桐蔭高校)に入学。鳥山啓(とりやま ひらく)(軍艦マーチの作詞者としても知られている)に師事する。鳥山は生物学、天文学、和歌、漢籍、英語など広範な学識を有する博物学者であり、後に『異変弁動物図彙』、『木水魚譜』、『植物図彙』といった図鑑を著している。鳥山は熊楠をして生涯ただ1人の「先生」と言わしめ、後の人生を決定づけるような多大な影響を与えた。
1883年(明治16年)、和歌山中学校を卒業し上京。共立学校(現開成高校)に籍を置いた。当時の共立学校は大学予備門入学を目指して英語でもって主として教授する受験予備校の一校で、同じクラスメートに幸田露伴の弟の成友らもいた。この頃に世界的な植物学者バ-クレイが菌類6000点集めたと知り、それ以上の標品を採集し、図譜を作ろうと思い立った。
1884年(明治17年)9月、大学予備門に入学する。同級生には夏目漱石、正岡子規、秋山真之、寺石正路、芳賀矢一、山田美妙、本多光太郎などがいた。学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れ、翌年、落第を契機に中退。
1886年(明治19年)、渡米。はじめにサンフランシスコのパシフィック・ビジネス・カレッジに入学、半年後にミシガン州に移動し、州立農業学校に入学。1888年に同校学生との衝突等もあり退学、アナーバーに移り、同植物の観察と読書にいそしむ。1891年から、フロリダに向かい、各地で生物を調査。生活費を稼ぐために、カリニ一座というサーカス団に入り、象使いの助手としてキューバやメキシコを回って働いていたこともあるという。
1892年(明治25年)、イギリスに渡る。この時期、馬小屋に住み、極貧生活を送りながら科学雑誌『Nature』に「東洋の星座」、「ミツバチとジガバチに関する東洋の見解」、「拇印考」などの論文を投稿している。大英博物館で図書目録編纂係として職を得た。仕事の合間には考古学、人類学などの蔵書を読みふける日々が続いた。ロンドンではロンドン大学事務総長ディキンスや、ダグラス、リ-ドなどと知り合い、孫文や、高野山管長の土宜法龍の知遇を得ている。また、正式な博物館員の推薦も受けるが自由な学問を求め、断っている。
1900年(明治33年)、帰国。弟の常楠家に居候する。1901年には孫文が和歌山に来訪、歓談する。 その後、常楠家を追い出されて熊野へ向かう。勝浦、那智を渡り歩き、菌類などの調査採集を行った。
1904年(明治37年)に和歌山県田辺市に居を定める。田辺にて神社合祀反対運動を始める。合祀による社林の伐採によって、動植物学の貴重な資料である隠花植物や粘菌が絶滅することを危惧し『南方二書』を自費出版した。この運動が縁で民俗学者柳田國男と頻繁に文通をするようになる。1906年に田辺闘鶏神社宮司の四女田村松枝と結婚。1910年に長男熊弥、1911年に長女文枝誕生。
1917年(大正6年)、自宅の柿の木から新属新種となる粘菌を発見した。この粘菌はイギリスのグリエルマ・リスターによって記載され、ミナカテルラ・ロンギフィラ(Minakatella longifila、「ミナカタの小さなもの・長い糸の」の意) という学名がつけられた。今日、日本ではミナカタホコリとの和名がつけられている。
1929年(昭和4年)、昭和天皇が神島(和歌山県田辺市)に行幸をした際、熊楠は粘菌などに関する進講を行った。このとき、キャラメル箱に入れた粘菌標本を陛下に進献したエピソードはよく知られている。
後年(1962年・昭和37年)、昭和天皇は南紀白浜にて海上の神島を眺めつつ「雨にけふる 神島を見て紀伊の国 生みし南方熊楠を思ふ」と熊楠を偲ぶ歌を詠んでいる。
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