ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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息子の誕生日にMジャクソンを呼んだブルネイ国王.txt

ブルネイのボルギア国王は、息子のアジム王子の誕生日にマイケルジャクソンを呼んだ。その費用11億7500万円。
また娘の誕生日にはスティーヴィーワンダーとホイットニーヒューストンを呼んでいる。

☆ブルネイ
石油と天然ガスが主要な地下資源である。国民のおよそ3分の2がマレー人、中国系が20%、。公用語はマレー語であるが、英語も公的な場で使用されている。イスラム教が国教であり、住民の大部分はスンナ派イスラム教徒である。
首都バンダルスリブガワン(人口5万人(1995年推計))が最大の都市。
80年代後半の年人口増加率は8%に達しているが、その数字は移民の増加を反映したものである。2005年推計では2%となっている。
医療および教育施設は比較的によく整備されており、医療は無料、教育も国内や海外での高等教育段階にいたるまで無料で、大部分は石油収入でまかなわれている。義務教育は5~16歳で12年間。初等教育と中等教育はマレー語、英語、中国語、高等教育は英語でおこなわれ、就学者数は初等学校が4万人(2000年)、中等学校が4万人になる。
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水戸黄門こと徳川光圀の実像とは?.txt

徳川光圀
非常に有名な人物であるが内政に関しては決して優れた実績を残してはいない。
茨城県水戸市の千波公園にある徳川光圀像幼少時には、兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたと言われ、少年時代は町で刀を振り回したりする不良な振る舞いを行っており、吉原遊廓通いも頻繁にしていたが、光圀18歳の時、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより学問に精を出すこととなる。しかしながらその強い性格、果断な本質は年老いても変わることはなかった。
光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。
日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、ラーメンをはじめ、餃子、チーズ、牛乳、牛乳酒、黒豆納豆がある。肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は5代将軍徳川綱吉が制定した生類憐れみの令を無視して牛肉、豚肉、ヒツジなどを食べていた。
またオランダ製の靴下(日本最古)を使用したり、ワインを愛飲するなど南蛮の物に興味を示し、朱舜水を招き、海外から朝鮮人参やインコを取り寄せ、育てている。蝦夷地探索のため黒人を二人雇い入れ、そのまま譜代の家臣にしてしまってもいる。
『大日本史』完成までには光圀の死後250年もの時間を費やすこととなり、光圀の事業は、後の水戸学とよばれる歴史学の形成に繋がり、思想的影響も与える。
1692年(元禄5年)には、南北朝時代に湊川の戦いで戦死した楠木正成の功績を称え、同地に墓石を建立(光圀65歳)。墓石には、光圀の自筆で「嗚呼忠臣楠氏之墓」と記されている。尚、その場所は1872年(明治5)明治天皇によって湊川神社が建立され、1955年(昭和30)には光圀の銅像も建立されている。

●光圀にみる水戸徳川家の地位
大日本史の編纂により、水戸藩は年間財政収入の三分の一近くをこの事業につぎ込むこととなる。
財政難に陥った水戸藩は、光圀の死後、光圀の養子である綱條が財政改革に乗り出すが、水戸藩領全体を巻き込む大規模な一揆を招き、改革は失敗する。これにより水戸藩は、幕閣や譜代大名から「綱條公は将軍の器にあらず」との認識を持たれることとなり、1716年の徳川家継の後継者選びにおいては綱條が御三家の当主の最年長であるにも関わらず、紀州藩主の徳川吉宗が後継者に選ばれた。
以後、水戸徳川家からは将軍を出さず、将軍の補佐役として参勤交代を行なわず江戸に常駐することとなる。このことから水戸徳川家は「天下の副将軍」と呼ばれるようになる。結局、2代目藩主である光圀以降、水戸藩9代目藩主斉昭の子にあたる慶喜が将軍職に就くまで、水戸徳川家からは将軍職に就く者はいなかった。
光圀の学芸振興が「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えた事は高く評価されるべきであるが、その一方で藩財政の悪化(ひいては領民への負担があり、そのため農民の逃散が絶えなかった。一説には光圀時代は年貢比率が八公二民の超重税を強いたと言われる)を招き、結果的には「水戸学」が目指した‘愛民’の理想からは逸脱してしまった側面も存在する。単純に「名君」として論じる事は出来ないのである。
水戸徳川家は、徳川氏が天皇と対立した場合、徳川の血筋を残すために天皇側につくように定められ、将軍を出さないよう決められていたとの考えもある。それを変えたのが8代将軍吉宗である。出自の紀州徳川家の地位を向上させ、御三家と同種の機能を持つ御三卿を創始するなど、徳川宗家と御三家の立場やあり方を変えてしまったことに原因があるようだ。そのため出るはずのなかった水戸徳川家からの将軍が出る事になったのである。

遠山の金さんと天保の改革.txt

遠山景元
青年期は複雑な家庭環境から家を出て、町屋で放蕩生活を送るが後に帰宅、家督相続後、勘定奉行、町奉行に就く。天保の改革の実施に当たっては、強行派の南町奉行の鳥居耀蔵や老中水野忠邦と対立しながらも様々な政策を実施する。水野忠邦が鳥居の進言を受けて芝居小屋を廃止しようとした際、景元はこれに反対して、浅草猿若町への小屋移転だけにとどめた。すなわち、この遠山の動きに感謝した関係者がしきりに遠山を賞賛する意味で『遠山の金さん』ものを上演したのである。鳥居や水野との対立が遠山イコール正義、鳥居イコール悪役を作り上げた(もっとも、鳥居はそれ以前より民衆の評判は悪かった)。
天保14年(1843年)、鳥居の策略によって北町奉行を罷免され、当時は閑職となっていた大目付になる(地位は上がったが実質的には名ばかり)。2年後、逆に遠山から水野への讒言によって(ただし、水野自身も自分をかつて失脚させた鳥居を退けようとしていたため、共犯関係にあったものと推測される)鳥居が失脚し、南町奉行として返り咲いた。同一人物が南北両方の町奉行を務めたのは、極めて異例のことである。その後、水野の後を受けて政権の地位に座った阿部正弘からも重用された。
嘉永5年(1852年)に隠居すると、剃髪して帰雲と号し、61歳で死去。
墓所:東京都豊島区西巣鴨の本妙寺(江戸時代は文京区本郷にあった)。

ボーア戦争で捕虜となったチャーチル.txt

『イギリスのチャーチルも陸軍士官学校を出て、ボーア戦争で捕虜に
なってますね。第一次大戦では海将をつとめ、軍人のいうことを聞かずに大失敗したが、それが戦争指導者として得がたい経験となって、第二次大戦に生かされている。』福田和也氏
『文藝春秋』8月号 昭和の海軍エリート集団の栄光と失墜

☆ウィンストン・チャーチル1874年11月30日 - 1965年1月24日)
イギリスの政治家である。1940年から1945年にかけてイギリス戦時内閣の首相としてイギリス国民を指導し、第二次世界大戦を勝利に導く。大戦終結後に再び首相となる。
2002年BBCが行った「偉大な英国人」投票で第1位となった。
①幼年時代
寄宿学校(ハーロー校)に入れられ、厳格な教育を受けた。生来は左利きだったが右利きになることを強要され、後遺症に苦しめられる。彼の学校時代の成績は終始ふるわず、士官学校に入るのにすらたいへんな時間がかかった。
②政界入り
1895年にサンドハースト王立陸軍士官学校卒。騎兵隊少尉任官。その後、軍事顧問としてキューバやインドに赴き、本国の雑誌に記事を寄せた。1899年のボーア戦争に従軍記者として参加。敵に捕われるが、脱走に成功。1900年、保守党から下院選挙に出馬し、初当選。
1904年、チャーチルは保護関税問題から保守党を離党し、自由党に移籍した。1906年の総選挙で自由党が勝利するとその有力政治家として頭角を現し、植民地相次官、商務相、内務相を歴任した。
③第一次世界大戦期
1911年、チャーチルは海軍相となり、在任のまま第一次世界大戦を迎えた。しかし、敵国となったオスマン帝国(トルコ)の首都イスタンブルの入り口であるダーダネルス海峡制圧をねらって彼が推進したガリポリの戦い(1915年)はイギリス軍の惨憺たる敗北に終わり、「ガリポリの肉屋(屠殺者)」と批判され、内閣を去らねばならなかった。
1917年、チャーチルはロイド・ジョージ内閣の軍需相として政権に復帰した。チャーチルは戦争推進のために意欲的に働き、1919年以降はロシア革命に対する干渉を露骨に実施する役割を果たした。1921年、彼は植民地相に転じ、アイルランド自由国の独立を認めた英愛条約(イギリス=アイルランド条約)の交渉団に加わっていた。
1922年には落選して政権を去ったが、この間「反社会主義」の立場を鮮明にして保守党に再接近した。1924年の選挙では保守党支持で立候補して当選し(翌年正式に入党)、スタンリー・ボールドウィン内閣の財務相に就任した。
1929年、保守党が選挙に敗北した後は再び政権から離れ、1931年に発足したラムゼイ・マクドナルド挙国一致内閣にも入閣しなかった。この不遇の時期、彼は先祖のマールバラ公の伝記執筆など、著作活動に専念した。
④第二次世界大戦期
ヤルタ会談1939年9月にポーランドに侵攻したアドルフ・ヒトラー率いるドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦がはじまると、チャーチルは内閣に招かれて再び海軍相に就任した(この時海軍は「ウィンストンが帰ってきた(Winston is back)」と艦隊に発信している)。1940年にはネヴィル・チェンバレン首相の後任として首相に任命され、みずから国防相を兼任して陸海空の幕僚長を直接指揮する形をとり、挙国一致内閣を率いて戦時指導にあたった。
チャーチルはラジオや議会での演説を通じて国民に戦争協力を呼びかけ、総力戦を組織化していきバトル・オブ・ブリテンを勝利に導くなど、強力な指導力を見せることになる。戦争が終結に近づくと、ヤルタ会談、ポツダム会談などに参加して戦後体制の策定にも携わった。しかし、大戦の終わる直前の1945年の春におこなわれた総選挙で保守党はクレメント・アトリー率いる労働党に敗北した。

ASローマのエンブレムは建国神話のロムルスとレムス兄弟.txt

ASローマは、イタリア・ローマを本拠地とするサッカークラブチーム。
エンブレムのオオカミのマークは古代ローマの建国神話ロムルスとレムスの兄弟の逸話から取られたものである。
1927年にアルバ、ローマン、フォルティトゥード の3クラブが合併して誕生した。 同じローマに本拠地を置くSSラツィオとはチーム、サポーター共に極めてライバル意識が高く、2チームの対戦はデルビーロマーノとしてイタリアのダービーマッチの中で最も白熱する試合として知られ、ミラノ・ダービーとともにシーズンの目玉とされている。 日本では、フランチェスコ・トッティの所属することで有名。また、中田英寿が所属していたことでも知られ、中田が所属していた2000年/2001年シーズンにはスクデットを獲得している。
本拠地が首都・ローマということもあってか、ユヴェントス、ACミラン、インテル・ミラノとともに国内外で人気の高いチームである。

★ローマの建国神話
ローマ建国までの伝説は、次のようになっている。
トロイア戦争で敗走したトロイ人の末裔(アエネイアスの息子アスカニウスら)が、イタリア半島に住みついた。この都市をアルバ・ロンガという。時代がくだり、王の息子アムリウスは兄ヌミトルから王位を簒奪する。ヌミトルの男子は殺され、娘レア・シルウィアは処女が義務付けられたウェスタの巫女とされる。ある日シルウィアが眠ったすきに、ローマ神マルスが降りてきて彼女と交わった。シルウィアは双子を産み落とすが、怒った叔父の王は双子を川に流した。双子は狼に、その後羊飼いに育てられ、ロムルスとレムスと名づけられた。成長し出生の秘密を知った兄弟は協力して大叔父を討ち、追放されていた祖父ヌミトル王の復位に協力する。兄弟は自らが育った丘に戻り、新たな都市を築こうとする。しかし兄弟の間でいさかいが起こり、レムスは殺される。この丘、パラティヌスに築かれた都市がローマであった。こののちローマは領域を拡大させ、七つの丘を都市の領域とした

「週刊ダイヤモンド」にWeb版 スクープも掲載

2007年10月01日 21時25分 更新
 ダイヤモンド社は10月1日、ビジネス情報サイト「ダイヤモンド・オンライン」をプレオープンした。ビジネス誌「週刊ダイヤモンド」の編集部による経済記事やコラムなど毎月200~300本の記事を無料で閲覧できるほか、雑誌より早くスクープ記事を掲載することもあるという。正式オープンは10月22日。http://diamond.jp/
 経済や経営、自己啓発、金融、暮らしといったカテゴリーで記事を掲載するほか、経済学者の野口悠紀雄さんやジャーナリストの上杉隆さんなど著名人のコラムを連載する。正式オープン時は、3D仮想空間「Second Life」を運営する米Linden Labのフィリップ・ローズデールCEOのインタビューなどを記念特集として掲載する予定だ。
 記事を読むためのログインなどは不要で、全記事無料で閲覧できる。連載記事ごとにRSSを提供するほか、ソーシャルブックマークに追加するためのアイコンも各記事に備えた。メールマガジンも配信する。

 

ネルソン提督の素顔は?.txt


平間 
これは結局、日本海軍が農耕民族の海軍だった、ということでしょう。年長者の方が、経験豊富だから偉い、という農耕民族特有の年功序列意識が底流にあると思います。狩猟民族の海軍ではなかった。

福田 
そこは日本がイギリスから学べなかった点ですね。トラファルガー海戦のとき、イギリスは軍務を放棄してウィーンに女と遊びに行っていたネルソンを司令官に据えました。つまりイギリスは、ネルソンが有事に任務を遂行できる能力の持ち主かどうかだけを問題にしたのです。他のことはどうでも良かった。
出典『文藝春秋』8月号「昭和の海軍」エリート集団の栄光と失墜

★ホレーショ・ネルソン(1758年9月29日 - 1805年10月21日★
アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争などで活躍したイギリス海軍提督。167~170センチ。
12才で海軍入隊。トラファルガー海戦でフランス・スペイン連合艦隊を破り、ナポレオンによる制海権獲得・英本土侵攻を阻止したが、それと引き換えに自身は戦死した。
①ナイル
1798年、地中海分遣艦隊を率いてツーロンで、エジプト遠征を企てるナポレオンのフランス艦隊の封鎖任務にあたるが、嵐をさけて寄港していた隙に仏艦隊の出港を許してしまう。その後も追跡を続けたが、フリゲートの不足などの悪条件もあって、結果的にナポレオンのエジプト上陸、アレキサンドリア入城を許すことになった。
しかし、アブキール湾停留中だったフランス艦隊を発見すると、浅瀬を背にして縦陣をしく当時としては万全とされていた防御姿勢をとる同艦隊に対して、自分の艦隊を艦と艦の間をすりぬけさせ、狭撃するという戦術でこれを撃滅してのけた(ナイルの海戦)。この海戦の敗退によって、フランス海軍には、ネルソン恐怖症が広がり、後にトラファルガーにまで引きずることになる。
これにより、ナポレオンはヨーロッパへの帰路を絶たれエジプトに孤立し、やがてその東方進出の野心は潰えることになる。ネルソンはこの戦功によって「ナイル及びパーナム・ソープのネルソン男爵」に叙せられる。
②トラファルガー
1805年トラファルガーの海戦。フランス・スペイン連合艦隊をトラファルガー岬沖に捕捉、二列の縦陣で敵艦隊に接近戦を挑む、いわゆる「ネルソン・タッチ」で勝利をおさめる。
戦闘開始を告げ、兵士たちを鼓舞した“England expects that every man will do his duty”(英国は各員がその義務を全うすることを期待する)の信号旗は、現在も名文句として残る。
一方で連合艦隊のヴィルヌーブ提督も接近戦を狙うネルソンの意図は察しており、各艦に狙撃手を配置していた。ネルソン自身はその戦勝と引き換えに狙撃され、戦死する。旗艦「ヴィクトリー」上で指揮を執るネルソンは4つの勲章(正確にはそれを模した布製のレプリカ)を胸にしており、狙撃をおそれた副官らからコートを羽織るように進言されても、「立派な行いでこれをもらったのだ、死ぬ時もこれをつけていたい」と退けた。
③死後
ネルソンの遺骸は腐敗を防ぐために、樽に入れてラム酒漬けにして本国まで運ばれた。しかしそのネルソンを漬けたラム酒は、水兵たちが盗み飲みしてしまったため、帰国の際には樽は空っぽになっていたという。一説によると、偉大なネルソンにあやかろうとした行動だったという。この逸話からラム酒は「ネルソンの血」と呼ばれることもある。
翌年、君主以外では初となる国葬としてセント・ポール大聖堂に葬られた。
現在でもネルソンはイギリスの英雄として称えられ続けており、ロンドンのトラファルガー広場中心にはネルソン記念柱が据え、大陸を向いて立っている。
④逸話
艦隊司令官でありながら生まれつき船酔いに弱かった。
人妻エマ・ハミルトンとの不倫は現在においても有名である。夫・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン卿は妻の浮気を知りながらも、ネルソンは英国にとって必要な人材であるとしてそれを黙認し、ネルソンとの間にも友情を保っていたという。またネルソンはエマに走って以降も、自分の妻が経済的に困窮しないように、十分な経済援助を続けていたという

関ヶ原古戦場

http://www.adnet.ne.jp/nikkei/shiseki/contents/046.htmlより抜粋。
戦場はおよそ東西に4キロ、南北に2キロほどの狭い盆地である。
1600(慶長5)年9月15日、ここで徳川家康の率いる東軍10万1千と、石田三成の西軍8万数千が激突し、勝利した家康の天下取りがほぼ実現した。 天を響かし 戦闘を目撃した『信長公記』の著者太田牛一は、そのすさまじさを書き残している。
 「敵身方(みかた)押合、鉄砲放ち矢さけびの声、天を響かし、地を動かし、黒煙り立ち、日中も暗夜となり、敵も身方も入り合ひ、錣(しころ)をかたむけ、干戈(かんか)を抜き持ち、おつつまくりつ攻め戦ふ。切つ先より火炎をふらし、日本国二つに分て爰(ここ)を詮度(せんど)と生便敷(おびただしく)戦ひ、数ヶ度の働きこの節なり」
 また『徳川実紀』によれば「敵味方廿万(にじゅうまん)に近き大軍、関原青野ヶ原に陣取て旗の手東西に翻へり、汗馬南北に馳(は)せちがひ、かけつかへしつ、ほこさきより炎を出してたたかひしなり」。
 現代の関ケ原は「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」である。のどかな田園と住宅街が広がり、あちこちに往時をしのぶ石碑が建っている。
 JR関ケ原駅で下車、国道21号を名古屋方面に歩くと、家康が初めに陣した桃配山(ももくばりやま)がある。主戦場からはかなりの距離だ。
 石田三成は、はるか先の笹尾山に陣取った。関ケ原の全容がよく見える位置だが、今は繁った樹木が視界を妨げていた。
 西軍は笹尾山から右方に島津義弘(惟新(いしん))、小西行長、宇喜田秀家、大谷吉継の各隊というように展開して、松尾山の小早川秀秋まで布陣した。これに東軍の諸部隊が対陣するのを背後から襲うべく、南宮山に毛利勢がいたのだ。
 西軍は中国の兵書にいう鶴翼の陣形をとり、敵を誘い込んで包囲攻撃できた。明治時代に陸軍大学校の教官だったドイツのクレメンス・メッケル少佐が、その布陣を見て「西軍の勝ち」と即断したという。
 しかし、現実は石田三成の思惑違い。寝返りや傍観が重なった。南宮山の毛利秀元は、家康に内応した吉川広家が進軍を阻んで参戦できなかった。もっとも大きかったのは松尾山に布陣した小早川秀秋の寝返りだ。これで戦局は変わった。せっかくの翼の部分がガタガタだったわけだ。裏工作を担当したのは黒田長政である。 チェスト!関ヶ原! 戦闘は午前8時ごろに始まった。東軍の先鋒(せんぽう)は福島正則だったが、井伊直政が出し抜いた。黒田の陣所の丸山から攻撃の狼煙(のろし)が上がって両軍は激突した。戦闘の詳細は不明だが、東軍の攻撃は石田隊に集中した。
 戦況は一進一退だったが、毛利は動けず、小早川の裏切りで大谷吉継隊は壊滅。西軍は総崩れで潰走(かいそう)。午後2時ごろ、三成は北国街道沿いに退却していった。心ならずも西軍に参加し、傍観していた島津義弘の隊は戦場に取り残され、壮絶な敵中突破を図る。やっと離脱した時には惟新以下数十人に減っていた。
 「チェスト!関ケ原!」。薩摩人はこう叫んで故事を忘れなかった。合戦後、過酷な処分を受けた毛利とともに、幕末に倒幕の先鋒となったのは歴史の因果である。

「敗者から見た関ヶ原合戦」三池純正著 洋泉社新書.txt

「敗者から見た関ヶ原合戦」三池純正著 洋泉社新書
 関ヶ原の合戦と言えば、万全の体制で準備をしていた家康に対し、三成はまんまとはめられて負けるべくして負けたというような語られ方をすることが多い。また三成は秀頼を利用して権力の簒奪を狙っていた野心家のようにさえ語られることもある。
しかしながらこれらはすべて、勝者から見た歴史であり、当然ながら家康にとって都合の良いように組んだ事実である。実際にこの合戦を客観的に見てみると、一般に言われていることと違う事実が見えてくるというような観点に立った著である。  この著者が挙げているポイントはいくつかあるが、まず言えるのは、三成は家康にまんまとはめられたのではなく、彼が出来る限りの最善の準備を整えた上で挙兵したということと、その戦略は家康の想像をさえ越えるものであったため、実際の関ヶ原の合戦は後に言われているような家康の余裕の勝利とはほど遠い紙一重の勝利だったというものである。  
三成がすべてを見通した上で万全の準備を整えていた証拠として、著者は小早川秀秋が陣取った松尾山をあげている。実は松尾山は合戦時には鉄壁の山城と化しており、本来はここに秀頼を要した毛利勢が入る予定であったのだという。だからこそ当初から家康に通じていた小早川秀秋は事前にこの要地を押さえにかかったのである。しかしそのような不利な事態に至っても、三成の布陣は小早川勢が寝返りの機会を逃しかけるぐらい完璧に機能したのであった。これは三成の卓越した戦略眼を物語っている。  
実際、西国の有力武将がことごとく三成側に与し、秀頼までもを押さえられてしまうような事態は家康の想定を越えていたのだという。そもそも家康と三成の力の差を考えると、三成が家康に対抗しうる軍勢を揃えられたということだけで三成の力量が並々ならぬことの証明である。
 なお上杉と三成の関係について、いわゆる事前の連絡はなかっただろうとしている。と言うのも、両者が行動した時期を見るとその余裕はありそうにないし、そもそも連絡を取り合っていたのなら、もう少し連携のやりようもあったはずであるとしている。  また三成の人となりについても、かなり肯定的に捉えている。人望がなかったかのように語られることが多い三成だが、実際には彼のために命を捨てることを厭わなかった者も少なくないし、彼の臣下や一族は最後まで善戦しているのである。また彼が私腹を肥やすことが一切なかったことは、家康でさえ認めているところであった。  

太平洋側に設置された多賀城

1.伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)の乱 
奈良時代から平安時代にかけて、古代律令国家のフロンティアは北へ北へと動いていった。国家の勢力範囲に入った土地には「柵」を設けて、移民を送り込み、やがて柵を「城」として行政・軍事の府にしていく。当初は蝦夷への融和・懐柔策がとられていたが、太政大臣・藤原仲麻呂(恵美押勝(えみのおしかつ))のころから強硬策に転じ、支配する側とされる側の軋轢(あつれき)が目立ってくる。
 その時期に伊治呰麻呂(いじのあざまろ)の乱が発生した。蝦夷の族長・呰麻呂は政権側に属する役人でもあったが、780年に反旗を翻す。最高権力者の按察使(あぜち)・紀広純(きのひろすみ)を殺し、多賀城を攻めて焼き払うという大事件になった。『続日本紀(しょくにほんぎ)』によれば、権力を笠(かさ)に着た同僚の侮蔑(ぶべつ)が反乱のきっかけになったという。
 呰麻呂の乱は蝦夷の抵抗を誘発し、4半世紀にわたって中小の反乱が繰り広げられていく。782年、万葉の歌人・大伴家持(おおとものやかもち)が按察使兼鎮守府将軍として多賀城に派遣されるが、反乱の対応にいとまがなかったようだ。この地では一首の歌も残さぬまま、785年に(おそらく多賀城で)亡くなっている。

2.歌枕の地に 
こうした乱を、もう1つの側面から眺めてみよう。多賀城の創建から25年後、陸奥国小田郡(現在の宮城県涌谷町)で大量の砂金が発見されている。奈良の都では大仏の鍍金(ときん)のために喉(のど)から手が出るほど金が欲しかったころだ。為政者たちは陸奥の黄金に目がくらみ、強引な東北制圧を繰り広げていったのである。
 呰麻呂の乱に始まる多くの反乱は、まさにそのさなかのもので、強者の理不尽な圧力が弱者のしぶとい反発を呼ぶという、よくある図式が浮かび上がってくる。陸奥における蝦夷の反乱は、征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)登場によってようやく沈静に向かうが、都はすでに奈良の平城京から長岡京へ、さらに平安京へと移っていた。
 時を経て、能因法師、西行法師らが多賀城を訪れている。平定されたとはいえ陸奥の国は依然として都から遠い僻地(へきち)であった。優れた歌人たちは「道の奥」「未知の国」に心を動かされ、「壷の碑」「末の松山」「沖の石(沖の井)」「野田の玉川」など、数々の歌枕(古歌に詠まれた名所)を多賀城周辺に生んでいく。
 さらに下って松尾芭蕉や正岡子規ら数多の俳人・歌人たちが歌枕にあこがれ、ここを旅しているが、いまは「観光客? 全く少ないですね」(多賀城市商工観光課)という状況だ。礎石や碑だけの多賀城は通過し、松島に向かう人が圧倒的に多いようである。
以上、http://www.adnet.ne.jp/nikkei/shiseki/contents/046.html抜粋。

☆多賀城の歴史
文献上の出現は「日本後紀」の839年(承和6年)の記事で、780年の伊治呰麻呂の乱で一時焼失した後に再建された事が書かれている。802年に坂上田村麻呂が蝦夷への討伐を行い、戦線の移動に伴って鎮守府も胆沢城(岩手県奥州市)へ移されて、兵站的機能に移ったと考えられる。
中世の前九年の役や後三年の役においても軍事的拠点として機能し、1097年にも陸奥国府が焼失している。南北朝時代には、後醍醐天皇の建武の新政において陸奥守に任じられた北畠顕家、父の北畠親房らが義良親王(後村上天皇)を奉じて東北へ赴き、多賀城を拠点に東北経営を行う。
近年では、曲水宴遺構が出土し、その編年の再検討も含めて注目されている。現在は特別史跡に指定され、政庁跡や城碑、復元された塀などが残されている。

情報格差社会.txt

以下、らばQより抜粋。http://labaq.com/archives/50776529.html
ここ数年、新聞やテレビで格差社会という言葉をよく見るようになりました。実際、経済格差はけっこう広がりつつあります。富める者はますます富めるようになり、貧しい者はますます貧しくなる。それが格差社会です。
しかし、格差があるとはいってもそれなりに食べてはいけますし、共働きならどうにか子供の一人くらいは育てられるくらいは稼げたりします。
……今ならば。
数十年後、いや、あるいは数年後かもしれません。その「食べていける」というレベルの格差すら生ぬるい、本当の格差社会がやってくるかもしれません。
これを一言でいうなら、「情報格差」です。それを以下より解説します。

①ググれる人、ググれない人
「ググる」子供と、「ググれない」子供という記事が、夏休みの終りに話題を賑わせました。小学6年生の娘がインターネットを活用して学習を進めて行く様を描きながら、インターネットを活用できる子供とできない子供の「貧富の差」を訴える記事です。
もちろんネットの情報だけではどうしても浅くなりがちですから、本にあたる事も重要でしょう。しかし、その本にあたろうとして挫折する子供が多いのも事実です。はずれの本を引いてしまって結局わからない、という事も少なくありません。それは大人にもよくある事です。
本を読む前の予習、あるいはどの本を読むかという前段階として、インターネットを活用するというのは、今後ますます重要になっていくでしょう。
いえ、すでに重要になっています。

②インターネットは「高速道路」
インターネットの普及がもたらした学習の高速道路と大渋滞という記事があります。この「高速道路」の比喩は将棋名人の羽生善治さんによるもので、インターネットと情報技術(IT)の活用で、プロの一歩手前程度の所までは、高速道路に乗ったかのようにあっという間に辿り着ける、という話です。
実際に将棋の世界では、プロの弱い人よりは強いアマチュアが、この高速道路によって山のように誕生してるそうです。
一般の仕事の世界でも、この高速道路の活用が差を広げてる場面もあります。
パソコンを使って仕事をする以上、その使い方やちょっとしたTIPSの類を知ってるかどうかで生産性に大幅な影響が出ます。解説書を手に入れるにも、以前は書店に注文して2週間待たされたようなものが、ネットの通販に頼めば下手すると翌日には手に入ります。
こうしたネットを活用することによる学習の超効率化が実現するにつれ、ネットとパソコンを使える人間と使えない人間との差が、とんでもなく広がり始めています。

③Web 2.0 vs マスメディア
ひところ、「Web 2.0」という言葉がネットを賑わせました。2000年頃までニュースを賑わせたいわゆるドットコム企業たちとはまた少し違った、新しいサービスたちを総称した言葉です。
代表的なのがGoogleで、「どのページがたくさんリンクされてるか」を基準に検索順位を入れ換える仕組みを用いました。
del.icio.usやはてなブックマークのようなソーシャル・ブックマーク・サービスと呼ばれる、みんなのブックマーク(ブラウザによっては「お気に入り」という名前になってます)を共有してどのページが人気があるかがわかるようにしたサービスも活況です。
似たような仕組みで、diggやnewsingのようなソーシャル・ニュースも海外では大人気です。日本では2ちゃんねるのニュース速報+板が似たような役割を果たしています。
共通してるのは、「みんながいいと思うものはいい」という理念に基づいてるということです。ユーザーが作るコンテンツ、という意味でCGM(Consumer Generated Media)とも言われます。
少し頭のいい人は、これを聞くと「そんなの衆愚になるに決まってる」と言います。実際そういう面もありますが、実際に動いてるサービスを見てみると、これが案外いい結果を出してくれるのです。思うよりも「みんな」という存在は悪くない事がわかります。

④マスメディアだけでは踊らされるだけ
さて、そのような「みんな」が作るメディアとして、Web 2.0系のサービスはおおいに賑わっています。まだ日本ではアーリーアダプタと呼ばれるいわゆる「新しい物好き」な人たちが中心ですが、徐々にWeb 2.0サービスを利用する人は増えていっています。
ブログ(Weblog)などはその最たるもので、日本には400万からのブログがあると言われています。そのブログの中には、実に専門性の高いものもあり、専門家たちが集まるコミュニティを作ってる部分もあります。
そうしたものをウォッチしているソーシャルブックマーク利用者たちが、その存在をみんなに教えてくれます。彼らがブックマークしたブログの記事は、たとえばはてなブックマークの人気エントリーに入って来ます。
そうすると、そういった専門家たちの記事をみんなが読むことになります。
さて、ここで問題です。「専門家が書いた記事」と「マスコミの記者が書いた記事」、どちらが正確でしょうか?
答えは言うまでもありません。

⑤教育もウェブ化する未来
インターネットの「高速道路」とマスコミも手に入らない情報を引き出すはてなブックマークなどの「ソーシャルメディア」。これらにより、インターネットユーザーの情報吸収力は従来の人間の何倍にもなりました。
また、昔は議論の相手を探すのも難しい事でしたが、今では掲示板やブログやチャットで嫌というほど議論できます。以前の何倍もの情報吸収力をベースにさらに議論の経験値もけた違いにあがっているのです。
こうしてインターネットユーザーは、普通の人よりも広い知識と深い知見を蓄えていきつつあります。ベテラン主婦より2ちゃんねるの既婚女性板や生活板、育児板などを巡回している若い主婦のほうが優秀だなんて話も聞きます。
ネットは人間の学習速度を飛躍的にアップさせる。これはもはや真理です。
さて、この学習速度の速さが教育に応用されたらどうなるでしょうか?
新しい時代の教育に、学校は要らない
子供の学習速度は、大人より断然速いです。親が毎日のようにパソコンを使っている家庭では、2~3歳の子供がパソコンを正常終了させるくらいの事ができると言われています。
そうして小さい頃からパソコンとインターネットに慣れ親しんだ子供は、空気を吸うようにインターネットから情報を引き出し、身につけて行く事でしょう。
そのうち体系化された知識も、ネットを見てるうちに身につくようになるでしょう。学習用のサイトがいくつも乱立する時代が、たぶんすぐそこまで迫っています。
そしてネットを利用できる子供たちは、学校で教わることよりも深くて広い知識をネットを通して身につけて行くでしょう。
そうなれば、学校や教師は必要無くなります。少なくとも義務教育レベル、もしかしたら高校レベルの知識は、10歳程度までに身につけてしまうかもしれません。大学の一般教養レベルにも達する可能性すらあります。
そうした学習サイトは広告モデルによって運営され、利用者は無料で使える事でしょう。パソコンが使えてインターネットに繋げられれば、誰でもそれ以上のお金もかけずに、高速道路にのってあっという間に広い知識と深い知見を蓄えられるようになる。
そう、今の格差社会は経済の格差です。しかし、これからはパソコンとインターネットを使えるかどうかという、それだけの格差になる可能性が高いのです。
かくして本当の格差社会が始まる
さて、ここまで読んでひとつ疑問に思うことは無いでしょうか?
さきほど「パソコンとインターネットを使えるかどうか」という格差の話をしました。しかし、インターネットに繋げられるのはパソコンだけではありません。
20代を中心に、携帯電話向けのウェブサイトが大人気です。パソコンとインターネットでできるなら、携帯電話とインターネットでも構わないのではないか。そう考える人がいてもおかしくありません。
しかし、それは間違いです。携帯電話ではパソコンほどの速度では学習が進みません。
なぜなら画面があまりに小さい。同時に複数の画面を見ることができない。パソコンなら大きな画面と分割されたウィンドウにわけて、動画を見ながら議論したり、ブログを書きながら資料を探したりが簡単にできます。携帯電話ではそこまでのことはできませんし、あの大きさである以上は将来的にも無理でしょう。
また、文章を書く速度にも差が出ます。携帯電話の予測変換を活用して、そこらのパソコンユーザーよりずっと速く携帯電話で文章を書く若者もいますが、しょせんキー十数個の世界です。最低でも60個あり、10本の指をフルに使えるパソコンのキーボードには絶対的にかないません。
しかし、携帯電話に「悪慣れ」してしまった世代には、パソコンはいつまでたっても使いにくいものでしかありません。それを乗り越えるには、相当の努力がいります。
携帯ネット万能の世の中は、いつまでも続かない!んじゃないかな・・・という記事によれば、パソコンが使えないのは20代だけ。10代は学校で教えてることもあって普通に使える人が多いようです。
また、その記事で紹介されてるネットレイティングス社の調査では、ネットユーザーの半分は30代と40代で増加傾向、10代以下と50代、60代は微増傾向であるのに、20代だけが急激な減少傾向にあります。
これはインターネットの中心世代である30代、40代の子供たちが、親を見て普通にパソコンでインターネットを使っているのに対し、20代は「ケータイ世代」で、パソコン離れが激しいことを示すのだと思われます。
さて、この20代のケータイ世代が親になったとき、今の子供たちよりパソコンをを使える子供を育てられるでしょうか?
ここに本当の格差社会が産まれます。
パソコンでインターネットが使える人、携帯電話しか使えない人との間に、猛烈な情報格差が産まれます。その情報格差はそのまま学習や仕事の成績に直結するようになるでしょう。
つまりは経済格差に繋がるわけです。
どれだけ裕福な家に産まれた子供でも、パソコンとインターネットが使えなければ学習も仕事も使える人よりうまくいかない。そんな時代がやってくる可能性が高いわけです。
これは何もこれから生まれて来る子供たちだけの話ではありません。今でも着実に、パソコンとインターネットが使える人と使えない人の格差が広がり始めてるのです。新聞しか読まない経験豊富な50代より、ネットを見る若手の30代のほうが優秀な判断を下せる可能性すら高い。携帯電話に悪慣れしてしまった今の20代、ケータイ世代が、一番不幸な事になるかもしれません。

⑥新しい時代のリーダー
パソコンとインターネットが使える、ベテラン主婦より優秀な若手主婦の話を前に出しました。それは主婦業だけの話ではないでしょう。
どれだけ経験を積んでも、人間の時間には限りがあります。その限りある時間をインターネットという高速道路を活用して効率的に学習してきた世代と、インターネットが無かった時代に学習して来た世代。その両者には深い溝が生まれています。
読売グループの総力あげて麻生を潰すとナベツネは言ったという記事では、やはり50代以上の多い自民党議員がマスコミに踊らされて福田支持に動いた、という事が書かれています。ネットを見てないがために、このような指摘にも彼らは触れることができません。
こんな時代に必要なのは、ベテランの50代60代のリーダーではありません。
30代、40代の、パソコンでインターネットが使えて、高速道路に乗って圧倒的な速度で学習できるリーダーでなくては、時代には追い付けない。
そのようなリーダーを擁することができるかどうか、そこでも組織の格差が生まれ、どの組織に所属したかによる大きな大きな格差社会が待ち受けているのです。

動物園もあった宮殿シェーンブルン宮殿.txt

シェーンブルン宮殿(1693~1918)
オーストリアの首都ウィーンにある宮殿。ハプスブルク王朝の歴代君主が主に離宮として使用した。マティアス帝(在位1612年 - 1619年)が狩猟時にシェーン(美しい)ブルン(泉)を発見した為にシェーンブルンと命名したと伝えられている。
現在同宮殿と庭園群は世界遺産に登録されている。
建物は、あらゆる部屋を合計すると1,441室あり、両翼の端から端まで180mあり、正面右側翼には宮廷劇場がある。 また、広いフランス式庭園を挟んで宮殿に向かい合う丘の上にはグロリエッテという見晴台のような建物があり、ここからは周囲が一望できる(写真はこの丘からの 眺望)。 オーストリアで一番重要な観光資源で、年間入場数150万人。更に公園と動物園や行事での集客数520万人を合計すると年間には670万人が訪れる。 外壁は金を塗ろうとしたところ、マリア・テレジアが財政の状況を考慮し、黄金に近い黄色にした。彼女が好んでいた色というわけではない。

●歴史
1693年 レオポルト1世(在位1658年 - 1705年)が狩猟用の別荘をつくり、歴代の皇帝らが増築・造作を行い、マリア・テレジア(在位1740年 - 1780年)の時代に完成された。ウィーン風ロココ様式といわれている。
1752年 フランツ1世(在位1745年 - 1765年)が宮殿脇にシェーンブルン動物園を設置。1762年 マリア・テレジアの娘マリー・アントワネットがここに滞在している時、6歳の神童モーツァルトが招待され訪れる。
この時宮殿内で転んだモーツァルトをマリー・アントワネットが助け起こしたところ、モーツァルトが「僕と結婚して」とプロポーズした、という伝説がある。
1805年及び1809年 ナポレオンが司令部として使い、軍隊と共に滞在。
1815年 ウィーン会議がここで開催される。
1916年 皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848年 - 1916年)がここで死去。
1918年 絶対君主制の崩壊に伴い、政府の所有となり、改装され博物館にも利用。

探検家ハバロフに由来する極東の中心都市ハバロフスク.txt

1.歴史
1858年、アムール川を東進してきたロシア帝国の監視所が建設され、17世紀のロシアの探検家エロフェイ・ハバロフにちなんでハバロフカと命名された。1860年の北京条約により、この町の中心部になるアムール川東岸(右岸)の地域は正式に清からロシアに割譲された。1895年には現在のハバロフスクという名前になった。
その後はロシアの極東進出の拠点となり、1916年にはアムール川を渡る鉄橋が完成して、シベリア鉄道の国内線が完成した(それまでは東清鉄道による中国領内のショートカット)。1917年にロシア革命が起こると、極東地域は反革命軍が制圧し、1918年にはシベリア出兵により日本軍がハバロフスクを占領した。その後、1920年に日本軍は撤退して極東共和国が成立し、1922年に日本軍がシベリア出兵を終了すると、ハバロフスクはソビエト政権の支配下に入った。
ソビエトもロシア帝国と同様にハバロフスクを極東開発の拠点として重視し、機械工業や金属工業などの重工業や、シベリアの豊かな森林資源を利用した木材業などの工業建設を進めた。また、極東では数少ない外国人開放都市と指定され、シベリア鉄道を利用する旅客や貨物の重要な拠点となった。その後、ペレストロイカによりウラジオストクなどが開放されても、経済や行政の中心地としての地位は維持した。
2000年にウラジーミル・プーチン大統領がロシア全土を7地区に分けた連邦管区制を導入すると、ハバロフスクは極東連邦管区の本部が設置され、名実ともに「極東の首都」となった。

2.日本との関係
1918年から1920年には日本軍がハバロフスクを占領した。一方、第二次世界大戦後のシベリア抑留では多くの日本軍将兵がこの近辺でも強制労働に従事させられ、その中の多くがこの地で没した。現在でも日本人墓地が維持され、近親者などによる墓参が行われている。また、一部の日本人向け観光コースにもここへの墓参が含まれている。
1956年に日ソ国交回復が実現すると、1961年に横浜からナホトカへの定期航路が開設された。ナホトカ港でソビエトに入国した外国人旅行者は連絡列車でハバロフスクに向かうように指定された。モスクワや、ヨーロッパ方面など、ハバロフスク以遠を目指す場合でも、ここからは別の列車や航空機に乗り換える必要があった。そのため、ハバロフスクは極東経由でソ連を訪れる旅行者は必ず訪れる町となった。また、1962年には新潟市長がハバロフスクを訪問し、1965年に両市の姉妹都市提携が調印された。同年にはモスクワと共に出羽海親方を団長とした大相撲のソビエト公演が行われた。
1973年には新潟と結ぶ航空路がアエロフロートにより開設され(後に日本航空も運行)、その後長く日本からシベリアへ向かう唯一の直行路線となっていた。同時に、新潟空港にとっても初の国際線で、北東アジアの各都市へ路線網を拡大するきっかけとなった。
ソビエト崩壊後もハバロフスクと日本との関係は深く、1993年には日本の総領事館が設置されている。また、1996年にはハバロフスク地方と友好提携関係を結んだ青森県の青森空港からの定期航空路が開設され、現在は夏季の運行となっている。なお、新潟線・青森線共に、現在の運行会社はハバロフスクが本社のダリアビア航空になっている。

『1491―先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見 』(単行本)

☆西欧文明との出会い当時、中米にはマヤ文明(ユカタン半島)を引き継いだアステカ文明(現メキシコ)が栄え、南米アンデス山中にはオスマン帝国をも凌ぐ世界一のインカ大帝国が支配していた。
それがいずれも数十年で消滅した。インカ破滅の原因は、ピサロら
の鉄器と馬ではなく、天然痘と神権体制と内紛であった。ミシシッピ川流域に密集していたアメリカ先住民の大集落は百年で消滅した。
この原因も、実は歩く食肉であった豚300頭を病原とする人と動物
への急性感染(炭疽病、結核、天然痘など)であった。
インディオ遊牧狩猟民族説は征服者による神話に過ぎない。
金子勝(大阪府立大名誉教授)

出版社/著者からの内容紹介
 1492年のコロンブス到達以前のアメリカ大陸について、私たち
の常識を根本から覆す画期的な研究。
 従来アメリカ人は、南北アメリカに住む先住民たちの祖先は、1万2千年前にベーリング地峡を渡ってやってきたと学校の授業で習ってきた。彼らは小数の狩猟採集民集団で、この両大陸にまばらに散らばって暮らし、そこには依然として、手つかずの広大な自然が広がっていたのだ、と。
しかし本書でチャールズC.マンが明らかにするように、考古学者や人類学者はこの30年にわたって、「長らく信じられてきた」こうした仮定の多くが誤りであることを次々と証明してきたのだ。
 本書において著者は、新世代の研究者たちが最新の科学技術を用いることで、如何にかつて聞いたこともないような驚くべき結論を説得力をもって導き出したかを明らかにしている。
たとえば ・ 1491年のアメリカ両大陸には、恐らく当時のヨーロッパ全体を越える数の人々が暮らしていた。
・ アステカの首都ティノチティトランなどいくつかの都市は、同時代のヨーロッパのどの都市よりもはるかに多くの人口を擁していた。さらには、ティノチティトランには当時のヨーロッパのどの都市にも見られなかった水道や植物園、掃き清められた道路があった。 ・ アメリカ大陸の最古の都市は、エジプトが大ピラミッドを建設する以前にすでに栄えていた。
・ 先コロンブス期のメキシコの先住民はトウモロコシの交配を繰り返し現在の品種を作り上げた。その洗練された技術について先頃サイエンス誌は、「人類による初めての、そして恐らくもっとも偉大な遺伝子工学の業績だ」と述べている。
・ アマゾンの先住民たちは、熱帯雨林を破壊せずに耕作する術を熟知していた。今日研究者たちは、この失われた知恵を取り戻そうと研究を続けている。
・ アメリカ先住民は彼らの土地を徹底的に改良した。西欧人がこの地に来た時点で、すでにアメリカ大陸は広範囲にわたり人間の手によって「作られた自然」になっていたのだ。

文化大革命の粛正方法.txt

毛沢東の文化大革命や浅間山事件の連合赤軍の粛正は
「積極攻撃型組織防衛論」という手法がとられた。
内部に敵を作り出して、仲間内でその敵を叩くのである。
そのうち自分もその“敵”にされるのではないかという疑心暗鬼を生み出して味方叩きが強烈になる。

☆文化大革命(ぶんかだいかくめい)
無産階級文化大革命、プロレタリア文化大革命とも言う)は、中華人民共和国で1960年代後半から1970年代前半まで続いた、毛沢東らが引き起こした権力闘争。大躍進政策の大失敗により国家主席を辞任して以降、共産党指導部内での共産主義が修正主義へと後退したと危機感を深めた毛沢東が、国家の路線と権力を再び自らに取り戻す為に仕掛けた大規模な権力奪還闘争である。
政治・社会・思想・文化の全般に渡る改革運動のはずであったが、実際には殆どの中華人民共和国国民を巻き込んだ粛清運動として展開され、結果的に約1000万人と言われる大量虐殺とそれに伴う内戦へと発展、国内は長期間に渡る混乱に陥った。
始めは毛沢東指示の下、劉少奇からの政権奪還を目的として林彪の主導により進められた。林彪の毛沢東暗殺失敗に伴う国外逃亡時の事故死後は、「四人組」に率いられて毛沢東思想に基く独自の社会主義国家建設を目指したが、実質は中国共産党指導部における大規模な権力闘争に大衆を巻き込んだ大粛清であった。
共産党指導部に煽動された暴力的な大衆運動によって、当初は事業家などの資本家層が、更に学者、医者などの知識人等が弾圧の対象となった。しかし、その後弾圧の対象は中国共産党員にも及び、多くの人材や文化財などが甚大な被害を受けた。期間中の行方不明者を含めた虐殺数は、数百万人から約1000万人(異説では3000万人)と言われ、これで中国の経済発展は20年遅れたと言われている。
時の政権の最高権力者が民衆を扇動して現政権内の政敵を打倒するという、一般の革命と一線を画す前代未聞の暴挙である。

「メメント・モリ(Memento mori)」.txt

中世ヨーロッパの時代は、黒死病(ペスト)が流行るなどして、
いつなんどき誰に対しても死が襲ってくるか分からないような時代だった。
そのように死が日常化していた時代、人々は、骸骨、死神などを描いた絵を身近に置き、そこに「メメント・モリ」とラテン語の格言を書き込んだ。
「メメント・モリ」を日本では「死を意識せよ」などと訳しているが、文字通りの意味は「汝もまた死すべき存在であることを忘れるな」ということである。
以上、立花隆氏の寄稿(文藝春秋6月号)より抜粋。

★メメント・モリ(Memento mori)
ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句である。日本語では「死を想え」「死を忘れるな」などと訳される事が普通。芸術作品のモチーフとして広く使われ、「自分が死すべきものである」ということを人々に思い起こさせるために使われた。
古代ローマでは、これは将軍が凱旋のパレードを行なった際に使われた、と伝えられる。将軍の後ろに使用人が立ち、この使用人は、将軍は今日絶頂にあるが、明日はそうであるかわからない、ということを思い起こさせる役目をになっていた。そこで、使用人は「メメント・モリ」と言うことによって、それを思い起こさせていた。
ただし、古代ではあまり広くは使われなかった。当時「メメント・モリ」の趣旨はcarpe diem(今を楽しめ)ということで、「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから」というアドバイスであった。これの起源は聖書にあり、イザヤ書22:13には「食べ、飲もう。我々は明日死ぬのだから」とある。ただし、この考えは聖書以外で現れている。例えば、ホラティウスの詩にはNunc est bibendum, nunc pede libero pulsanda tellus.(今は飲むときだ、今は気ままに踊るときだ)とある。ホラティウスは、死後においてはそういうことができない、と言うことを示そうとしたのである。これがcarpe diemの古典的なテーマである。
しかし、この言葉はその後のキリスト教世界で違った意味を持つようになった。天国、地獄、魂の救済が重要視されることにより、死が意識の前面に出てきたためである。キリスト教的な芸術作品において、「メメント・モリ」はほとんどこの文脈で使用されることになる。キリスト教の文脈では、「メメント・モリ」はNunc est bibendumとは反対の、かなり徳化された意味合いで使われるようになった。キリスト教徒にとっては、死への思いは現世での楽しみ・贅沢・手柄が空虚でむなしいものであることを強調するものであり、来世に思いをはせる誘引となった。

キューバやボリビアで式典 チェ・ゲバラ没後40周年

キューバ革命の英雄チェ・ゲバラの没後40周年を記念するキューバ政府主催の式典が8日朝、遺骨が埋葬されているサンタクララの革命広場で開かれ、約1万人の市民が参加した。病気療養中のカストロ国家評議会議長(81)は欠席したが、「あまりに早く手折られた花だった。彼がやろうとしてくれたことに感謝したい」とのメッセージが会場で読み上げられた。
 式典はゲバラの巨大な記念碑の前で開かれ、カストロ氏の弟のラウル暫定議長や遺族らが出席。碑の下にある霊廟(れいびょう)にはゲバラや共に戦ったゲリラらの遺骨が埋葬されており、式典の終了後、関係者らは次々に献花した。サンタクララは58年、ゲバラが率いる部隊が攻略し、独裁政権崩壊につながる重要な舞台になった。
 ゲバラが銃殺されたボリビアでも、遺体が秘密裏に埋められたバジェグランデなどで追悼式典が開かれた。ロイター通信などによると、同国の大統領として初めて参加した左派のモラレス氏は「チェは生き続けている。彼の英雄的な闘いは、残酷な資本主義を終わらせるまで続くだろう」などと称賛した。
 ゲバラは67年10月8日に拘束され、翌9日にボリビア軍によって銃殺された。

永田 鉄山(1884年1月14日 - 1935年8月12日)

日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。陸軍省軍務局長、参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長を歴任し、階級は陸軍中将に至る。
略歴・人物
長野県諏訪郡上諏訪町本町出身。幼年学校、士官学校、陸大をいずれも首席で卒業する秀才ぶりで、軍務官僚として常に本流を歩み、「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」と言われる逸材だったが、陸軍内部の派閥抗争に絡んで陸軍中佐相沢三郎に暗殺される。皇道派の領袖、真崎甚三郎大将を教育総監の要職から更迭したことが暗殺の引き金となった。死亡当時、陸軍省軍務局長。
日赤諏訪病院長永田志解理の三男として生まれ、高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現諏訪市立高島小学校)、東京牛込北町・愛日高等小学校を経て、1898年(明治31年)9月に東京陸軍幼年学校に入校する。なお、高島尋常小学校・諏訪高等小学校では「お天気博士」の愛称で知られる中央気象台長の藤原咲平と同級であり、同じく諏訪出身で岩波書店の創立者である岩波茂雄らとは生涯にわたって交友があった。
1903年(明治36年)5月に士官候補生となり兵科は歩兵に指定され、歩兵第3連隊付となる。1904年(明治37年)10月24日に陸軍士官学校を卒業し、陸軍歩兵少尉に任ぜられる。
1908年(明治41年)に陸軍大学校23期入校。1910年(明治43年)11月に陸軍大学校を首席で卒業し恩賜の軍刀を賜る。
その後、1920年(大正9年)に駐スイス大使館付駐在武官。1921年(大正10年)10月頃、陸士同期である小畑敏四郎、岡村寧次や一期下の東条英機と共に、ドイツ南部の温泉地バーデン・バーデンにおいて、陸軍の薩長閥除去を目指す「バーデン・バーデンの密約」を行なったという。
以後、麻布歩兵第3連隊長、1930年(昭和5年)に陸軍省軍事課長となる。さらに南次郎陸軍大臣の下で、国家総動員法の策定に関わる。1932年(昭和7年)に陸軍少将に任ぜられる。1934年(昭和9年)に陸軍省軍務局長となる。
1935年(昭和10年)7月15日に真崎甚三郎教育総監を更迭。同年7月19日に有末精三中佐の紹介により歩兵第41連隊付の相沢三郎中佐と面会し辞職を迫られる。同年8月12日、相沢に軍務局長室で斬殺された(相沢事件)。死亡時は陸軍少将であったが、特に陸軍中将に昇任される。墓所は東京都港区・立山墓地。
永田暗殺によって派閥抗争はいっそう激化し、後に皇道派の青年将校が二・二六事件を起こすに至る。永田の死後、永田の長年の同志であった東條英機が統制派筆頭となり石原莞爾らと対決してゆくこととなる。
企画院総裁だった鈴木貞一は戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」、「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」と言っていた。

『自壊する帝国』 佐藤優(著).txt

ロシア外交のプロとして鳴らし、「外務省のラスプーチン」などの異名を取った著者の回想録。在ソ連日本大使館の外交官として見聞きしたソ連崩壊までの一部始終を振り返る。
「もともと、人見知りが激しい」という著者だが、モスクワ大学留学中に知り合った学生を仲介に、多くの重要人物と交流を深め、インテリジェンス(機密情報)を得る。ウオツカをがぶ飲みしながら、神学の教養を中心に幅広いテーマで議論を交わし、信頼と友情を勝ち取る。その豊富な人脈と情報収集力を1991年のクーデター未遂事件でも発揮、ゴルバチョフ大統領の生存情報をいち早く入手した。
出世競争が最大の関心事であるキャリア組とは大きく異なる仕事・生活ぶりで、外交官の本質を考えさせられる。
(日経ビジネス 2006/07/17)

作家の恩田陸さんは佐藤優氏の本をこう評しています。
「佐藤さんは現実世界で教養が武器になるということを久々に教えてくれたんです。今の日本はドストエフスキーって誰ですかという
大学生が出てきたり、教養なんてなくてもいいという風潮なので、
もの凄いインパクトがあって」
その教養の中でも、一番の武器になったのがキリスト教。佐藤氏は
同志社大学の神学部で学んだ。本の中で、佐藤氏はしばしば、ロシアの知識人とキリスト教について議論する。
「神学部で勉強したことがあったので、自分の軸がぶれなかった。
おかげでロシアの知識人に信用されたということが書いてあったんです。そこに感動しましたね。」

★私感
「現実世界で教養が武器になる」ということを生徒に伝えられる授業。それが究極の目標でしょうか・・・・。
歴史や地理は、大学受験だけではなく、人生を豊かにするもの。
尤も、金銭と結びつくことはあまりないんでしょうが(苦笑)
「現実世界で教養が武器になる」って、名言ですね。

☆佐藤優(さとう まさる、1960年 - )
日本の外交官である。2007年現在、起訴休職外務事務官。ロシアで情報活動を行い、「異能の外交官」、「外務省のラスプーチン」などの異名をとる。護憲派にして、「国体」を重視し皇統の維持を強く訴える尊皇家であり、かつ、キリスト教徒でもある。
①外交官
東京都生まれ。埼玉県立浦和高等学校、同志社大学神学部卒業。琉球大学にも合格していたが、当時マルクス主義に傾倒していた佐藤を心配した親族によって、同志社大学に進学させられることとなった。同大学院神学研究科修了後、1985年にノンキャリアの専門職員として外務省に入省。1988年から1995年まで在露日本大使館三等書記官。モスクワ大学留学を経て、旧ソ連での外交情報収集・情報分析を担当する。

②鈴木宗男との関係
この頃、鈴木宗男代議士と関係を築く。その威光を背景にその後国際情報局分析第一課で主任分析官(課長補佐級、佐藤優のために急造されたポストといわれる)として活躍したとされる。が、彼の著作などから類推すると、反鈴木宗男キャンペーンなどによりつくられた話、という見方もできる。

③ 逮捕
2002年2月22日に外交史料館へ異動。2002年5月14日に背任容疑で逮捕。同年7月3日、偽計業務妨害容疑で再逮捕。2004年10月、保釈。2005年2月に東京地裁(安井久治裁判長)で執行猶予付き有罪判決を受け控訴していたが、2007年1月31日、二審の東京高等裁判所(高橋省吾裁判長)は一審の地裁判決(懲役2年6ヶ月 執行猶予4年)を支持し控訴を棄却。一審判決で執行猶予がついたことを機に、捜査の内幕や背景などをつづった『国家の罠』を出版し大きな反響を呼んだ。同書などにおいて、佐藤本人は自身にかけられた一連の容疑・判決を「国策捜査」であったと批判している。

④容疑
支援委員会をめぐる背任
2000年1月にガブリエル=ゴロデツキー・テルアビブ大学教授夫妻を日本に招待したとき、
同年4月にテルアビブ大学主催国際学会「東と西の間のロシア」に7名の民間の学者と外務省から6人のメンバーを派遣したとき、
この二つの費用を、外務省の支援委員会から違法に引き出して支払った疑い。
北方領土支援にからむ偽計業務妨害
2000年3月に行われた国後島におけるディーゼル発電機供用事業の入札で、鈴木宗男の意向を受けて、三井物産に対して違法な便宜を図ったり支援委員会の業務を妨害した疑い。

実績ではなく、期待感から投票するのが有権者

民主主義政体下の有権者とは、「何をやったか」で支持するのではなく、「何かやってくれそう」という想いで支持を寄せるのである。
業績から判断して投票するのではなく、期待感で票を投じる人々なのだ。業績によって評価を下すのは、政治的センスを持ったごく少数の有権者だけである。塩野七生氏

☆塩野七生(しおの ななみ、1937年7月7日 - )
東京都出身の作家、小説家。
東京都立日比谷高等学校、学習院大学文学部哲学科卒業。1963年からイタリアへ遊学し、1968年に帰国すると執筆を開始。雑誌『中央公論』掲載の『ルネサンスの女たち』で作家デビューをはたす。
1970年には『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』で毎日出版文化賞を受賞。また同年から再びイタリアへ移り住み、その後イタリア人医師と結婚(後に離婚した)。イタリア永住権を得ており、現在もイタリアの首都・ローマに在住。舞台をイタリア中心に限定し、古代から近世に至る歴史小説を多数執筆し続ける。
1992年から古代ローマを描く『ローマ人の物語』を年一冊のペースで執筆し、2006年第15巻『ローマ世界の終焉』にて完結した。現在も『文芸春秋』でエッセイを担当しており、歯に衣着せぬ論評が好評を博している。

「兵士」になれなかった三島由紀夫」(杉山隆男著).txt

日本中を震撼させた衝撃の自決から37年―初めて明かされる「兵士」三島由紀夫の素顔とオビにある。面白いノンフィクションで一気に最後まで読んでしまった。
1970年11月25日の事件の衝撃は小学校時代の鮮烈な記憶のひとコマではあるが、その背景についての知識が断片的だったこともあり、本書で語られる三島と自衛隊との関係の深さ、三島の肉体の鍛錬の具体的レベル、自衛隊で受けた訓練の詳細、訓練を受ける過程で心を通わせた自衛隊員と三島の間での問答、当時の自衛隊将校の心にいまも残る三島の意味、三島夫人の雰囲気、自決当日の檄文の先見性・・・どれもが興味深かった。
本書は1960年代後半に三島と深い交流のあった自衛隊員の徹底的な取材によって書かれたもの。「ボディビルで上半身だけは鍛えた」と言われていた三島の肉体が実際にはどのくらい強靭なものだったのか(腕立て伏せなら普通の自衛隊員以上にできたとか)、三島の剣道の実力(自衛隊員の一人が「お手合わせ」をと頼み挑んだが完敗したとか)、そういう細部から立ち上がるリアリティが、一人の人物を饒舌に語るものなのだなと改めて思った。
しかし「あれから37年なのか」と思うが、本書を読み通してみて、「1970年の日本」は、同じ日本でも、今とはずいぶん違う国のような印象を受けた。考えてみれば1970年当時は終戦からまだ25年。それ以降の37年という時間のほうが遥かに長いのだから、当たり前といえば当たり前なのだが・・・。同時代を考えるのは本当に難しいものである。
以上出典は梅田望夫氏のBlogより
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p://d.hatena.ne.jp/umedamochio/


P.S先日ETVで城山三郎氏の特集が放映されていた。三島、城山両氏は
ジャンルは違うが、戦後日本を代表する作家である。
天皇制、国家、組織に対するスタンスの違いは、両氏の軍隊経験
の有無にあったのだろう。そういう意味で、この兵士になれなかったというタイトルは当を得ているのかもしれない。

東郷平八郎は肉じゃがの考案者?

1870年から1878年までイギリスのポーツマス市に留学していた東郷平八郎が留学先で食べたビーフシチューの味を非常に気に入り、日本へ帰国後、艦上食として作らせようとした。しかし、ワインもデミグラスソースも無く、そもそも命じられた料理長はビーフシチューなど知らず、醤油と砂糖を使って作ったのが始まりと言われている。この説を脚色されたものとするものも居るが、牛肉を醤油と砂糖で煮るのは牛鍋や牛肉の大和煮と同様の手法である。ビーフカレーと材料が同じ料理という事で軍隊食として非常に都合が良く定着した。
出典「第3回(2007年9月30日放送)タモリのヒストリーX」

☆東郷 平八郎(1848年1月27日~1934年5月30日)
日本の武士・薩摩藩士、大日本帝国海軍軍人である。本姓は桓武平氏渋谷氏流。元帥海軍大将従一位大勲位功一級侯爵。
明治期の日本海軍の司令官として、日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げた。日露戦争における日本海海戦でロシア海軍を破って世界の注目を集め、当時の西洋のジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と賞賛した。日本海海戦での敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督と評価され、日露戦争の英雄として乃木希典と並び称された。日露戦争の際に連合艦隊を率いて行った急速旋回「東郷ターン」を行った。
ホレーショ・ネルソン、ジョン・ポール・ジョーンズと並ぶ世界三大提督の一人でもあり世界の海軍将校からAdmiral Togoとしてその名を知られている。
●神格化と批判
東郷元帥記念公園(東京都千代田区)死後、東京都渋谷区と福岡県宗像郡津屋崎町(現福津市)に「東郷神社」が建立され神として祭られた。但し、東郷自身は生前、乃木神社建立の時、将来自身を祭る神社の設立計画を聞いて、止めて欲しいと強く懇願したが、結局神社は建立されている。また、銅像が長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園と鹿児島県鹿児島市の多賀山公園にある。東京都府中市には別荘地に建立された東郷寺があり、桜の名所である。
晩年において海軍における東郷の権威は絶大で、井上成美は「東郷さんが平時に口出しすると、いつもよくないことが起きた」と述懐している。また岡田啓介・米内光政・山本五十六なども、東郷の神格化については否定的な態度をとっている。
錬度を上げることに熱心で聯合艦隊解散の辞に「百発百中の一砲能(よ)く百発一中の敵砲百門に対抗し得る」という言葉を残している。この言葉が東郷の信念を表すとともにその後の日本海軍の姿勢と限界(後に井上成美は「百発百中の砲一門と百発一中の砲百門が撃ち合ったら,相手には百発一中の砲九十九門が残る」と批判)をも示したものとなっている。
昭和天皇は学習院時代、院長であった乃木希典については印象深く、尊敬もしていると述べているが、東宮御学問所総裁であった東郷については、後年、記者の質問に「何の印象もない」と答えている。
●東郷ビール伝説
長年、ロシアの圧迫を受けてきた北欧諸国では人気絶大で、フィンランドでは東郷提督の肖像をラベルにしたビールが売られていた、といういわゆる「東郷ビール伝説」があるが、実際には世界の有名な提督の肖像をラベルにした「提督ビールシリーズ」の一つで、日本人では他に山本五十六、また東郷と戦ったロシアのマカロフ、ロジェストヴェンスキー両提督も同じビールのラベルになっている。実際はフィンランドで東郷が人気絶大といった事実はない。なお「東郷ビール」の製造会社は現在はオランダ資本に買収されており、同ビールも日本向けにのみ製造されている
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