ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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「暴行」と「乱暴」の違いは?

政治・経済の授業で生徒から質問され、その場で答えらず(恥)。

○「乱暴」:粗暴な振る舞いをする。殴る蹴るなど

●「暴行:男対男であれば、「乱暴」とほぼ同じである。
     男が女にの場合、「強姦」「強制わいせつ」の言い換え「婦
     女暴行」を更に曖昧にした用法。

「乱暴」は一般用語であるが、「暴行」は法律用語であるところに差がある。
 通常「暴行」と言えば刑法第208条で規定する暴行罪を意図する。
また「レイプ(強姦)」と「暴行」にも多少の差がある。
「レイプ」は日本語では正確には「強姦」である。
しかし次の二つの理由から「強姦」とせずに「暴行」と表現している。
まず第一に、被害者のプライバシーの尊重だ。「強姦」と表現した場合、それは被害者が姦淫されたことを意味するが、暴行ならば姦淫が達成されたか否かは一義的には決まらない。地方では未だに「傷物」などという差別的表現が残っているが、「暴行」ならばその「傷物」になったか否かあやふやにしておけるからだ。
もう一つの理由は強姦罪が捜査開始に被害者の申し立てを必要とする親告罪であることである。親告罪の趣旨はプライバシーの尊重にあるので、その意味では先の理由と重なる点もある。
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「日本のエジソン」田中 久重

田中 久重(たなか ひさしげ)1799年10月16日~1881年1月11日
江戸時代から明治時代にかけて「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれ活躍した発明家。筑後国久留米(現在の福岡県久留米市)生まれ。久重が創設した田中製作所は後年、東芝となる。

①久留米時代
田中久重は、寛政11(1799)年9月18日、筑後国久留米(現在の福岡県久留米市)のべっこう細工師・田中弥右衛門の長男として生まれた。幼名儀右衛門。幼い頃から才能を発揮し、久留米・五穀神社(久留米市通外町)の祭礼では、新しい仕掛けを次々と考案して大評判を呼ぶ。この間九州各地や大阪・京都・江戸でも興行を行い、その成功により全国にその名を知られる。

②佐賀時代
開国を要求する欧米の圧力が日に日に高まっていた。こうした動きに対し、長崎警備を担当していた佐賀藩では、藩主・鍋島直正(なべしまなおまさ)の指揮の下、優秀な技術者を集め、大砲の鋳造や蒸気機関の建造、化学薬品の研究開発などに取り組んでいた。
むろん、久重もこうした国防技術に関心を抱いており、蘭学者・広瀬元恭のもとで培った西洋知識を生かし、独力で実作に励んだ。
嘉永5年(1852年)には、日本初となる動く蒸気船雛型を完成する。
嘉永6年(1853年)、久重は佐賀藩の蘭学者・佐野常民の薦めにより、精煉方に着任する。日本初の反射炉を持つなど、当時最先端の科学技術研究機関であった精煉方の発展には、久重の技術は不可欠だった。とりわけ蒸気機関技術は佐賀藩のみならず日本の未来がかかっていた。
久重は火薬に詳しい中村奇輔(なかむらきすけ)やオランダ語の達者な石黒寛二(いしぐろかんじ)らの才人とともに、蒸気機関や大砲などの技術開発に取り組み、日本の国防技術の近代化を強力に後押しすることになる。
江戸幕府はついに安政元年(1854年)、下田と箱舘(函館)を開港する。
開国に伴い、欧米の最新技術が堰を切ったように流入し、久重は想像をはるかに超える進歩を遂げた西欧技術を目の当たりにする。
開国翌年の安政2年(1855年)、久重らはスクリュー式と水車式の本格的蒸気船の雛型を完成させる。さらに同年、ロシアの軍艦内で見た蒸気機関車の模型を参考に、わが国初の蒸気機関車の模型を製作、佐賀藩主・鍋島直正の前で走らせている。
船舶の交信に使われる電信機(エーセルテレカラフ)、蒸気砲の雛型、写真機やガラス製の手ぬぐいかけ。久重が精煉方で手がけたものは多岐にわたった。
文久2年(1862年)、久重は、佐賀藩がオランダから購入した軍艦「電流丸」の蒸気釜を完成させる。それは久重の積年の夢である蒸気機関技術を手にした瞬間でもあった。
やがて久重は郷里の久留米藩からも招かれた。技術顧問として藩陸軍の製砲事業に関わり、先端兵器であるアームストロング砲などを完成させたほか、火薬技術を使い氾濫を繰り返す筑後川の河川改修までも行った。
日本は幕末の動乱を経て、明治という新たな時代の夜明けを迎えた。
技術者・学識者らは、先を争うように新しい科学技術・文化を吸収した。そこには六十半ばにしてなお、先進の技術を探求し続ける技術者、田中久重の姿があった。
久重は時代の要請でもある国防技術開発に見事応える一方、日本初の製氷機械や自転車、人力車、精米機、川の水を引き上げる昇水機など、生活に密着した製品の開発改良にも情熱を傾けた。

③東京時代
明治6年(1873年)に上京。明治8年(1875年)に東京・銀座に電信機関係の製作所・田中製作所を設立。明治14年1月11日、発明に全てを捧げた82年の生涯に幕を閉じた。久重亡き後、養子の二代目・田中久重が会社を受け継ぎ、これが現在の東芝の基礎となった。

日本陸軍の失敗=兵站の軽視

日本の陸軍は、日清、日露のころから散々兵站で苦労したというのに、最後まで兵站や輜重を重視しなかった。代わりに現地調達ですませようとする。  ↓
このことが太平洋戦争の陸軍戦死者160万人のうち、実に70%が飢餓によるものという惨禍を招いた。
ガダルカナルにしろニューギニアにしろあんな作戦指導をしていて、エリート参謀とは恥ずかしくて言えないだろう。
出典『文藝春秋』6月号「昭和の陸軍」なぜ国家を破滅させたのか

兵站(へいたん:military logistics,logistics)
部隊の戦闘力を維持・増進し、作戦を支援する機能・活動をいう。一般的に弾薬・食料・燃料などの補給、武器、装備の性能維持のための整備、衛生(医療)、物資や装備の輸送などの労務を包括的に指す。後方補給とも呼ばれる。直接的な戦闘支援である施設(戦闘工兵などが担当する)に関する支援は兵站にはあたらない。
「素人は戦術を語り、玄人は戦略を語り、プロは兵站を語る」とも言われるように、軍隊の維持運用、ひいては戦争全体の勝敗は、この兵站の運用にかかっていると言っても過言ではない。ナポレオンや旧日本軍など、過去に兵站を軽視したために大敗した軍は数知れない。

P.S プライベートライアンなどの戦争映画を見ているとその随所に、米  軍の兵站重視の戦略が感じられる。

罪作りだった『中田ヒデ選手』の引退

中田選手と村上龍氏の対談です。こんな優良なコンテンツがフリーで
見れるようになったんですね・・・・・。感慨
http://video.msn.co.jp/rvr/taidan/nakata/default.htm

P.S 本日は中学生向けの学校見学会で出勤。明日から連休、連休!!

稀代の戦略家児玉源太郎.txt

児玉源太郎(1852年4月14日~1906年7月23日)
陸軍軍人。陸軍大将勲一等功一級伯爵
東郷平八郎、乃木希典と共に日露戦争の英雄として有名である。日露戦争全体の戦略の立案、満州での実際の戦闘指揮、戦費の調達、アメリカへの講和依頼、欧州での帝政ロシアへの革命工作、といったあらゆる局面で彼が登場する。当時のロシアは常備兵力で日本の約15倍、国家予算規模で日本の約8倍であったから、勝てる可能性がほとんど無かったともいえる日露戦争を勝利に導いた戦略家として有名である。
児玉は国際情勢や各国の力関係を考慮に入れて戦略を立てることの出来る広い視野の持ち主であった。性格的には情に脆く家庭を大事にし友誼に厚いという長所の反面、短気で激情型の性格でもあり、人間関係において無用の軋轢を招くこともあった。しかし天才肌の人間によく見られるような相手を見下したり、我を張り通すといった面はなく、内省的に己を見つめ、諧謔の精神を持ち、地位や権力に固執することはなかったので、人々から慕われた。
また、彼は己のパーソナリティの限界を弁えていたが故に、無二の親友であり自分にない人格的長所を持つ乃木希典に対する尊敬の念を終生抱き続けたと思われる。

●略歴
長州藩の支藩「徳山藩」の中級武士(百石)の家に生まれた。父親は早世し、家督を継いだ姉婿に養育された。だが源太郎が13歳のときこの義兄は佐幕派のテロにより惨殺され、家禄を失った一家は困窮した。
熊本鎮台准参謀時の明治9年(1876年)には神風連の乱鎮圧、同鎮台参謀副長(少佐)時の明治10年(1877年)には西南戦争・熊本城籠城戦に参加。鎮台司令長官の谷干城少将を良く補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護りきる。この経験が後の日露戦争に生かされる事となる。ちなみに、この時東京から現地へ真っ先に送られた電報「児玉少佐ハ無事ナリヤ」は、当時弱冠24歳の一少佐にかける期待がどれほどのものであったかを物語る逸話として有名。
台湾総督時代には、日清戦争終了後の防疫事務で才能を見いだした後藤新平を総督府民政長官に任命し、全面的な信頼をよせて統治を委任した。後藤は台湾人を統治に服せしめるため植民地統治への抵抗は徹底して弾圧しつつ、統治に従ったものには穏健な処遇を与えるという政策をとり、統治への抵抗運動をほぼ完全に抑えることに成功した。二人の統治により日本は台湾を完全に掌握することに成功したといえる。
日露戦争開戦前には内務大臣を勤めていたが、 明治36年(1903年)に対露戦計画を立案していた参謀次長の田村怡与造が死去し、大山巌参謀総長から特に請われて降格人事でありながら田村の後任を引き受ける。日本陸軍が解体する昭和20年(1945年)まで、降格人事を了承した人物は児玉源太郎ただ一人である。
日露戦争時には満州軍総参謀長を務める。旅順攻囲戦においては、満州軍総司令官大山巌の承認を得て第三軍司令官乃木希典大将の指揮権に介入し、作戦を成功に導いたとされる。しかし、旅順陥落直前に督戦に訪れたことは事実であるが、児玉大将の指揮権介入を事実として証明する一次資料は存在せず、このエピソードが広く知られるきっかけとなった司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』中の創作であるという意見もある。
ただ、児玉が旅順に到着した直後に203高地が簡単に陥落した事実から推測すると、彼ほどの戦略家が日本の命運がかかった戦闘地域にただの観戦にだけ来たはずも無く、指揮権は乃木に持たせたままで兒玉自身が考えていた作戦を乃木に教え、それを乃木が実施したとする説もある。一方、兒玉到着時には既に203高地守備隊の戦力は脆弱化しており、単にタイミングが一致しただけだとする説もある。
一般に知られている説によれば、1904年12月5日、児玉は乃木が攻めあぐねていた203高地に対し火力の集中という要塞攻撃の常道を行うため、もともと海岸防衛用の恒久据え付け砲で移動が困難な28センチ榴弾砲を、敵陣に接近した場所まで1日で配置転換を行うという奇抜な作戦を取った。そして砲撃と突撃隊の突撃を同時に行い、半日で陥落させた。さらに203高地に弾着観測所を設置し、砲兵の専門家の助言を無視して203高地越えに旅順湾内のロシア旅順艦隊に28センチ砲で砲撃を加え、これを無力化した。これによりバルチック艦隊は単独で日本の連合艦隊と戦わざるを得なくなり、旅順攻囲戦の目的は達成された。
児玉は日露戦争勝利のために心血を注ぎ込んだともいわれ、戦争終結後は急速に体調を崩し、翌年急逝した(暗殺説あり)。

●エピソード
日本軍の参謀育成の為、教官として招かれたドイツ陸軍参謀将校のメッケルから才覚を高く評価され、日露戦争開戦を聞いたメッケルは「日本にコダマ将軍が居る限り心配は要らない。コダマは必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と述べたという。児玉の能力を語るエピソードである。
晩年、浅草の凌雲閣(通称十二階)で開催された日露戦争展で、小柄な児玉をナポレオンに準えて語り合う二人の陸軍将校の傍に歩き寄り「兒玉はそれほどたいした男ではありませんよ」と囁きかけながら立ち去り、「何を言うか」と振り向いた彼らが児玉本人だと分かって驚く様を見て楽しむと言うというお茶目な面もあった。
乃木と児玉は旧知の間柄であった。児玉は乃木の軍事的才能の限界を認識しながら、一方で軍人精神と明治人の美意識の体現者として尊敬の念を持っていたともいわれる。日露戦争終結後、旅順攻略における人的被害の大きさから陸軍部内でも乃木を非難する声が上がったが、児玉は一貫して乃木を擁護したという。児玉の葬儀に際しては、激しい降雨をおして棺に付き添う乃木の姿が見られたと伝えられる。
神奈川県藤沢市江ノ島および山口県周南市にある兒玉神社は、彼を祀ったもの。

人類史上最悪の工事、パナマ運河の建設(1881~1914).txt

スエズ運河の開通に成功したレセップスは1881年にパナマ運河の工事に着手する。20年間にわたり労力を費やすが、病気そして工事難による資金枯渇により会社は倒産する。マラリアと黄熱病により3万人が死亡。破産したレセップスも心労のために亡くなる
が、葬式代にも事欠く状態だったという。
その後、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領により、工事が1903年に再開される。
28,000人の犠牲者をだす難工事も、ついに1914年完成する。

歴史
1534年、スペインのカルロス1世(ハプスブルク王朝のカール5世)が調査を指示した。
スエズ運河の設計者レセップスがパナマ地峡に海面式運河の建設を計画し、フランスの主導で1880年1月1日に建設を開始したが、黄熱病の蔓延や工事の技術的問題と資金調達の両面で難航し、1889年に計画を放棄した。
アメリカ合衆国は1902年に連邦議会でパナマ地峡に運河を建設することを決定した。当初パナマ地峡は自治権をもつ大コロンビア領であったが、パナマ運河の地政学的重要性に注目したアメリカ合衆国は、運河を自らの管轄下におくことを強く志向した。1903年1月22日、ヘイ・エルラン条約がアメリカと大コロンビアとの間で結ばれる。しかし、大コロンビア議会はこれを批准しなかった。1903年11月3日、この地域は大コロンビアから独立を宣言しパナマ共和国となったが、アメリカ合衆国は10日後の11月13日にこれを承認し、5日後の11月18日にはパナマ運河条約を結び、運河の建設権と関連地区の永久租借権などを取得し工事に着手した。1903年から工事を始め、3億ドル以上の資金を投入し、1914年8月15日に開通した。運河収入はパナマに帰属するが、運河地帯の施政権と運河の管理権はアメリカに帰属した。
建設には日本人の青山士(あおやまあきら)も従事。彼は帰国後、内務省の技官になり、信濃川大河津分水路補修工事や荒川放水路建設工事に携わった。

運河地帯両岸の永久租借地にはアメリカの軍事施設がおかれ、南米におけるアメリカの軍事拠点となっていたが、1960年代にパナマの民族主義が高まり、運河返還を求める声が強くなる中で、軍事クーデターによってオマル・トリホスが権力を握った。これよりアメリカ合衆国と返還をめぐる協議が開始され、1977年、ジミー・カーター大統領の時代に新パナマ運河条約が締結され、これにより運河および運河地帯の施政権は1999年12月31日にパナマへ正式に返還され、アメリカ軍は完全に撤退した。

現在のパナマ運河はパナマ共和国が管轄している。パナマ運河の通行料は、船種や船舶の積載量、トン数や船長など船舶の大きさに基づきパナマ運河庁が定めている。パナマ運河の通行料は1トンに対して1ドル39セント、平均しておよそ54,000ドル(約600万円)。

デジタル・アーカイヴ構築中

これまでPCに録画した歴史関係のドキュメンタリーや映画
番組をどう保存するか。というのが悩みの種だった。
動画(MPEG2)は、放っておくと、増える一方。
録画した番組を見る時間もない。動画はサイズが大きいのでハードディスクの容量をどんどん占拠する。
DVDに焼いて保存する方法もいいが、枚数が増えるとアクセスが不便で管理しづらい。

このふたつの欠点を解決する方法(ipodを使用)。

①PCで録画→②付属ソフトでMPEG2に変換
→③フリーソフト携帯動画変換君でiPod向けのMPEG4のファイルに変換

こうすると手間と時間はかかるのだが、1時間50分の番組(3.13GB)のMPEG2ファイルが、709MBのMPEG4ファイルになる。約1/4の大きさだ。この時、授業に使えそうな番組はDVDにも焼いて保存する。

去年から始めたこの方法で現在の時点でファイル数333、容量114.3GB。
もっと手軽で、容量が小さくなる方法があればいいのだが・・・・・。
当面この方法を継続するつもり。

もし、もっと良い方法をご存じの方、ご教授いただけると有り難いです。
あと、各自が持っているデジタル・アーカイブスを交換できれ場があるといいですね。ファイル交換ソフトは使わずに(苦笑)。

早稲田アカデミーの教師力養成塾.txt

以下、教育学者・中原淳(東京大学准教授)のブログhttp://www.nakahara-lab.net/blog/2007/04/post_843.html より抜粋。
自分はまだ目先の授業の教材研究で手一杯。でもいずれは、このような講座に参加してみたい。

早稲田アカデミー教師力養成塾「現役教師のためのスキルアップ講座:教師力養成塾」
http://www.waseda-ac.co.jp/t-canpass/youseijuku/index.html
「教師力養成塾」で教えられている内容は非常に多岐にわたる。が、そのストレスポイントは、「授業の力量」以前に、「学習するための雰囲気をいかにつくるか」ということである(教師養成塾では、学習する空間をつくる、と表現している)。

 学習するための雰囲気とは、要するに「気配」のようなもの。学習がはじまる前の「エモーショナルなレディネス(準備)」といってもよいかもしれない。
 教師力養成塾では、下記の点が重要だとしている。
 1.生徒とは「縦の近い関係」をつくる
  ≠決して教師と子どもが横並びではない
   ・挨拶の徹底
   ・ルールの設定
   ・しかる勇気、ほめる演技

 2.生徒の行動コントロール
   ・「単指示」の徹底
   ・レディネスの活用
   ・生徒に迎合しない

 3.生徒に「教師のやる気」を伝える
   ・発声
   ・目線
   ・体の向き

 声の大きさ、抑揚、目線、体の向き、身振り手振りのジェスチャー、明確で短い指示。そうした「演出」によって、空間と時間を分節化し、子どもをのせていく。
 教師は、授業というテーマで表現をする役者ですという言葉が印象的だった。
つまり、「教える」ということは「役割演技」であるということである。
 声の大きさ、抑揚などの「演出」によって、「教師と子どものあいだに作動する義務、ルール」を作動させ、効果的な授業を行う、という思想が、塾の根幹にあると思った。
 現役教師のスキルアップ、専門性向上に関する社会的養成は、日に日に高まるばかりである(それが妥当であるかないかは別にして)。
 戦後何度目かの教員養成、教員システムの転換点に、我々は、今、いる。

旅行大好き皇帝ハドリアヌス.txt

ハドリアヌス(76年1月24日 - 138年7月10日)
ハドリアヌスプブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌスはローマ帝国の皇帝。五賢帝の3人目に数えられる。
彼の皇帝就任時、先代トラヤヌス帝の積極策により帝国版図は最大となっていた。このため、その治世を通じて帝国領土の防衛や、各地で起こる反乱への対処、統治機構の整備など、帝国内部の充実に努めた。帝国全域を視察したことも、こうした状況を踏まえたものであった。
内政面では、統治機構の整備を徹底。特に彼の構築した官僚機構は後世の規範となった。行政改革が済んだ後は、当人の好奇心も手伝って帝国各地の視察に着手した。
視察は、少数の随行者を連れるだけであり、抜き打ちで行われた。この中で彼は、インフラ整備から軍備再編まで一つ一つに直接指示を出し、徹底して合理化を行った。特に国境であるライン川やブリタニア(現・イギリス)などにおいては、異民族の侵入に備え防衛線の強化に力を入れた。一方で、メソポタミアなど防衛・維持が困難な地域は放棄しており、常に現実的判断を下していたといえる。またその行動には、国境を示しそれ以上の拡大を戒める意図もあった。これについては、ブリタニアに建造した「ハドリアヌスの長城」と呼ばれる長城の遺跡が有名である。このように全属州を視察し自身の目で地方を見ることで、現場主義ならではの諸々の改革を行うことができた。しかし、首都ローマを長く留守にしたため元老院の評価は芳しくなかった。そのために彼の死後、ハドリアヌスもドミティアヌスのように記録抹殺刑に処しようという意見が元老院で出されたが養子となり後を継いだアントニヌス・ピウスが必死になってそれを阻止したと言う経緯がある。

ハドリアヌスは政治的にも上記のような優れた功績を収めたが、軍事面にも優れていた。軍紀の改正による軍内部の改革、自身が用兵術に長けていたことからローマ軍は連戦連勝であった。また軍隊内では一兵卒と変わぬ生活をし、戦闘では陣頭指揮を執ったため、トラヤヌス帝の積極策から消極策への転換は士気の低下には繋がらなかった。

135年にはバル・コクバの乱を鎮圧し、その後かつてのユダヤ戦争のときに破壊され放置されていたエルサレム市を、自らの氏族名アエリウスにちなんだ植民市アエリア・カピトリーナとして再建した。しかしユダヤ人はそこでの崇拝を禁止された。このくだりは、現代フランスの作家ユルスナールの著作『ハドリアヌス帝の回想』でも有名である。

文化面では、大規模な別荘ウィラ・ハドリアヌスをティヴォリに造営し、後世の新古典主義建築に大きな影響を与えた。118年には、今日まで残るパンテオン神殿の再建に着手している。

ソクラテスが死刑に処された真相とは?.txt

ソクラテスが告発された理由は「国家の認める神々を認めず、新しい鬼神(ダイモーン)の祭りを導入し、かつ青年に害悪を及ぼす」ということだった。しかし、これが本当に大思想家が死刑に処される罪だろうか。
当時、アテネはスパルタとの戦い(ペロポネソス戦争)の最中だった。
そしてこの戦いの敗れた主因を作った政治家アルキビアデスはソクラテスの弟子だったのである。
①ペロポネソス戦争の敗戦
ソクラテスの弟子アルキビアデスは、アテネの将軍として敵国スパルタへの戦争
(シチリア遠征)を指導して失敗してしまう。アテネに帰国すると敗戦の責任を問われると考えたアルキビアデスは、そのままスパルタに逃げ込み敵国スパルタにアテネを攻略する秘策を与える。その結果、アテネは包囲されて大苦戦、疫病にもみまわれて敗れてしまう。
 シチリア遠征の失敗以後、小アジアのポリスがアテネから離反し、スパルタと結んだため、以後小アジアをめぐって攻防戦が続いたが、スパルタはペルシアと同盟を結んで海上で死闘を繰り返し、前405年の最後の海戦に敗れたアテネは海上から封鎖され、食料も尽き、翌年の前404年にアテネはついに降伏し、ギリシア全土に惨禍をもたらしたペロポネソス戦争はスパルタの勝利で終わった。
②敗戦の責任
ソクラテスは、ペロポネソス戦争でアテネを裏切った弟子アルキビアデスを教育した責任を問われたのである。
戦いに敗れたアテネはスパルタの占領下に入った。。その占領軍の武力を背景に、アテネの反民主派が占領軍の武力を背景に戦争の責任追及を始めたのである。反民主派で責任追及の中心になったのはソクラテスの弟子たちであった。彼らは、敗戦の責任はアルキビアデスにあるのではなく民主派にあるとして、民主派を捕えて次々と処刑をするという恐怖政治を始めたのである。それに対し、民主派が隣国に逃れて抗戦した。この内乱「三十人政権の乱」では、ペロポネソス戦争とほぼ同数の市民が亡くなった。結局スパルタの調停で和解するが、和解の条件はアテネが民主政体にもどること、両派とも過去の責任を一切追及し合わないということであった。
ソクラテスに対する告発が行われたのはこの頃である。ソクラテスはペロポネソス戦争敗戦の責任者アルキビアデス、そしてその後の恐怖政治の指導者たちを教育した責任を問われた。しかし、過去の責任を追及し合わないという申し合わせがあったので、告発理由が「国家の認める神々を認めず、新しい鬼神(ダイモーン)の祭りを導入し、かつ青年に害悪を及ぼす」という曖昧なものになったのである。そして、ソクラテスは死刑判決を受けたのである。
③ソクラテスの死刑
「もう終わりにしよう。時刻だ。もう行かなければならない。
私はこれから死ぬために、諸君はこれから生きるために…」
紀元前399年、ソクラテスは死刑判決を受けた法廷で最後にこう
述べた。彼はその1か月後に死刑になる。その間、逃亡できるチャンスもあったが「悪法も法なり」といって逃亡しなかった。そして、友人たちと最後の対話を交わした後、日没の頃に自ら毒人参の杯を一気に飲んで死刑に服した。

初代皇帝の最強の右腕アグリッパ

古代ローマ帝国の軍人・政治家、B.C.63~B.C.12年。

塩野七生氏の人物評【初代皇帝の最強の右腕】
最高司令官の品格はあっても戦闘指揮の才能が無く体が弱いアウグストゥスと、勇将だが司令官の器ではなく、頑強で病気知らずのアグリッパは、右腕になるよう運命づけられた人で得がたい友であり協力者であった。
その一生は、ことごとく、アウグストゥスの考えの実現に力を貸すことに費やされた。
公的にも私的にもアウグストゥスに尽くし捧げぬくことは、すべてが喜びであり、すべてが感謝であった。

オクタウィアヌスの旗揚げ以来の腹心で、武将としての能力に欠ける彼を善く援け、右腕に準えられた。
彼がアウグストゥスとなってからも政治家・行政官として終生忠実に仕え、その所業によりローマ帝国滅亡以降も永く忠臣の鑑として称えられている。
ガイウス・ユリウス・カエサルに見出され、軍略の弱いアウグストゥスの補佐的役割を果たすようになっていく。とくに紀元前36年9月3日のナウロクス沖での海戦ではオクタウィアヌスの海軍を指揮しセクストゥス・ポンペイウスに決定的な勝利を収めている。
最初はポンポニウス・アッティクスの娘と結婚し、娘ウィプサニアを得ていた。このウィプサニアはティベリウスと結婚し小ドルススを出産している。その後オクタウィアとガイウス・クラウディウス・マルケッルスの娘である大マルケッラと2度目の結婚をする。前25年、アウグストゥスの娘大ユリアは、大マルケッラの兄マルケッルスと結婚した。前23年マルケッルスが死去すると、アウグストゥスはアグリッパを大マルケッラと離婚させ、紀元前21年マルケルスの寡婦アウグストゥスの娘大ユリアと結婚させる。この結婚でアウグストゥスの孫にあたる、ガイウス・カエサル、ルキウス・カエサル、小ユリア、大アグリッピナ、アグリッパ・ポストゥムスが生まれた。 病弱なアウグストゥスとしては、自分の後継者として病気知らずのアグリッパを中継ぎにし、その後アグリッパの子である自分の孫たちに帝位を継承としていたと思われる。
しかし皮肉にも病弱だったアウグストゥスが長命し、一方アグリッパや孫たちは次々に逝去し、アウグストゥスは血のつながりのないティベリウスを養子にせざるを得なかった。

建築物
アグリッパは、ローマ帝国内で多くの公共建造物を作成したことでも知られる。
・パンテオン (ローマ市内のパラティヌスの丘に建造された神殿。)
・ポン・デュ・ガール (フランスの水道橋。世界遺産。)
・イリウス港 (南イタリアに作られた海軍基地。)

初代ローマ皇帝アウグストゥスは年金制度の考案者

歴史上、最初に年金制度を考案したのは初代ローマ皇帝アウグストゥスとされる。国家の平安に貢献した兵士の老後を保障することによって、永く国の繁栄をもたらしたのである。
ローマ帝国の成功を支えた年金制度に注目し、現代の年金制度の原型を作ったのは、ドイツのビスマルク宰相であった。ビスマルクは、国家と国民の一体感を醸成するために年金制度を導入。他に、医療
保険や労災保険制度も創設している。
スウェーデンをはじめフランス、カナダなど福祉先進国の年金制度は、皆、このビスマルクの年金制度をもとに発展させたものだ。
日本の年金制度もまた、太平洋戦争中の1942年にドイツの労働者
年金保険法をまるまるコピーして創設された。
 (引用:『文藝春秋』2007年8月号年金消滅の主犯を暴く)

☆アウグストゥスの人物像(塩野七生氏のローマ人の物語より)
アウグストゥスは「独裁官」として、その後も見事な手際で帝国の「安全保障」を整えていった。通貨の改革、選挙改革、食糧の補償、東方領土の再編成、そして防衛戦
を脅かすパルティア王国との講和・・・・・・。
よくもこれほど自分と違う人間をカエサルは後継者に選んだと思うが、17歳当時の
アウグストゥスに、カエサルは、強い責任感と自己制御の意思を認めたからであると思う。だからこそ、アグリッパを抜擢してアウグストゥスにつけることで、アウグストゥスに欠けている面を補足してやろうとしたのではないか。

★アウグストゥス Augustus
前63~後14 帝政ローマ初代皇帝。在位、前27~後14年。ほぼ1世紀にわたった内乱後のローマに、統一と秩序ある政治を復活させた。平和と繁栄と文化隆盛の時代、いわゆる「アウグストゥスの平和」をもたらした。
ガイウス・オクタウィウスとしてローマで生まれる。カエサルの姉の孫にあたり、彼にかわいがられ、16歳のときに、ローマの有力な神官職である大神官団のひとりとなった。前44年にカエサルが暗殺されたときは、イリュリアに滞在していた。葬儀に参列するために帰国して、カエサルの養子として相続人に指名されていることを知り、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスと名のった。
①第2次三頭政治
カエサルの暗殺は、ローマを混乱におとしいれた。オクタウィアヌスは養父の復讐(ふくしゅう)をちかい、さらにカエサルの部下だった野心家のアントニウスと権力・名誉をきそい、後継者の地位を確保しようとした。アントニウスをガリア遠征においやり、自身は21歳で元老院議員、ついでコンスル(執政官)職を強要するなど、政治的・軍事的ないざこざのあと、アントニウスと和解する必要をみとめ、前43年末、アントニウスを支持する将軍レピドゥスの3人で会合し、第2次三頭政治を成立させた。三人委員会は大量粛清をおこない、政敵の元老院議員300人と、騎士身分の200人を殺害した。その中には、老いたる雄弁家で元老院の中心人物だったキケロもふくまれていた。
オクタウィアヌスとアントニウスは、カエサル暗殺の首謀者、ブルトゥスとカッシウスの打倒にのりだし、前42年に彼らをトラキアのフィリッピの戦でやぶり、自害させた。前40年に、三人委員会はローマ領を分割した。オクタウィアヌスは西部属州の大半を統治することになり、アントニウスは東部属州、レピドゥスはアフリカの統治権をえた。オクタウィアヌスはアントニウスとイタリア支配をめぐって衝突したが、和解にこぎつけ、姉のオクタウィアをアントニウスと結婚させた。前36年にはポンペイウスの息子で、三頭政治最後の強敵セクストゥス・ポンペイウスをうちやぶり、ついでレピドゥスを失脚させ、アントニウスは東方でパルティアの討伐にとりかかった。
しかし、両者の協力関係はしだいに崩壊していった。アントニウスは妻のオクタウィアをローマにおくりかえしてすぐ、カエサルの力でエジプトの女王となっていたクレオパトラと正式に結婚し、彼女がカエサルとの間にもうけた息子カエサリオンを、彼女の共同統治者として承認した。これは、カエサルの唯一の後継者たるオクタウィアヌスの地位をあやうくするもので、オクタウィアヌスとアントニウスの対決はさけられないものとなった。前31年、オクタウィアヌスはアクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラの連合軍をやぶり、翌年ふたりを自殺においこんだ。カエサリオンは殺害された。前29年、オクタウィアヌスはローマに凱旋(がいせん)し、34歳でローマ世界の単独支配者になった。
② 第一人者
前27年、ローマの元老院は、オクタウィアヌスに「崇高なる者」という意味の称号「アウグストゥス」をあたえた。彼の政治は元老院と協力しておこなわれたので、二頭政治とみなされることが多いが、元老院は、共和政期には他の公職者にあたえられていた肩書や権限を、次々に彼にさずけた。たとえば前36年には護民官だけに保障されていた不可侵権が、ついで前30年には護民官職権があたえられ、拒否権を発動して議会を思いのままにあやつることができた。
彼はローマとイタリアを支配するコンスルを13期つとめたが、さらに元老院が属州総督命令権を授与したので、帝国全土にわたる支配権を獲得した。レピドゥスの死後は大神祇官長(ポンティフェクス・マクシムス)にも就任し、ローマの宗教をつかさどる権利も獲得した。これらの権限はすべて、第一人者(プリンケプス)の称号のもとに行使された。以上にくわえインペラトル(最高司令官)であったにもかかわらず、アウグストゥスは独裁君主と思われないようにつねに注意し、自分がローマ共和国を復興させていることを強調した。
芸術の擁護者でもあった彼は、歴史家リウィウスをはじめ、詩人のオウィディウス、ホラティウス、ウェルギリウスらと親しくまじわった。壮麗な建築をこのみ、「レンガのローマをうけついで、大理石のローマにした」と自負したといわれている。
アウグストゥスのもとで体制整備のため、さまざまの施策が講じられた。属州の人口調査をおこなって徴税の基礎をかためるとともに、各属州のローマ化をすすめて、都市の自治を拡大。共和政以来の悪習を排するため奢侈(しゃし)取締法、姦通(かんつう)処罰法など種々の法が定められ、社会秩序の安定と道徳の確立がはかられた。また、彼はイタリア農業の復活をこころみてもいる。
アウグストゥスの3人目の妻リウィアには、前夫との間にティベリウスとドルススというふたりの息子がいた。いっぽうアウグストゥスには、先妻との間に娘ユリアがいたのみだった。彼が意図した後継者は次々に先だち、アウグストゥスが後14年8月19日南イタリアのノラで息をひきとると、養子になっていたティベリウスが後をついだ。
③さだまらぬ評価
古代や近代の歴史家たちのアウグストゥスに対する見解はさだまっていない。無情な権力者だと非難するものもいる。とくに三頭政治時代の粛清は非難のまとになっている。いっぽう、タキトゥスのような頑固な共和制支持者でさえ、彼の統治者としての業績をみとめている。近代の歴史家の中には、手段をえらばぬやり方を批判して、20世紀の独裁者になぞらえるものもいるが、彼の偉業はひろくみとめられている。
④人物
スエトニウスの「ローマ皇帝伝」によれば、アウグストゥスは背は低いが均整の取れた体格の、稀に見る美男子であったという。
若い頃は病弱であった。
元来皇帝としては短気で残酷な側面を持っていたが、3度目の妻リウィアの影響を受け寛大で温和な性格へと変わっていったといわれている。事実、リウィアの懇願を受けアウグストゥスは幾度か死刑を追放に免じている。
戦闘に参加するものの軍事的才能は皆無で、実際の指揮は親友にして腹心のアグリッパがとっていた。数々の勝利は彼の功績による所が大きい。

体育祭終了

平成19年9月8日(土)体育祭が無事終了。教員として初めて体育祭にコミットした。用具係としての反省点多し。
来週から、やっと日常にもどれる。嬉しい。
でも生徒の頭の中は非日常が続くのだろう。どうやって切り替えさせるかが課題になりそうだ。

滋賀県政と嘉田県知事.

嘉田由紀子(かだ ゆきこ)氏:滋賀県知事(第8代)。
環境社会学者・文化人類学者。1973年京都大学農学部卒。1981年京都大学大学院農学研究科博士課程修了。京都大学より農学博士(論文名『琵琶湖の水問題をめぐる生活環境史的研究』)の学位取得。元琵琶湖博物館研究顧問、京都精華大学人文学部教授を歴任。2006年7月20日の知事選に当選し、全国では5番目となる女性知事となった。
●人物
埼玉県本庄市出身。埼玉県立熊谷女子高等学校時代に小田実の「なんでも見てやろう」を読み、アフリカへ憧れを抱くようになった。京都大学農学部へ進学し、当時女性部員がいなかった探検部へ入部した。3回生の時にタンザニアで半年間生活した。

●学究
1973年に大学を卒業、京都大学大学院農学研究科に進学した。同年には、アフリカ・アジアの経済発展を社会開発や環境の面から研究しようと、アメリカのウィスコンシン大学大学院に留学したが、教員に日本の農村研究を促され、1974年に一時帰国。琵琶湖湖畔の農村の生活形態の変化について研究した。帰国以後も海外での調査研究活動は続けていた。

●地域政治
2006年、「もったいない」を合言葉に、新幹線新駅の建設凍結、県内に計画されているダムの凍結見直し、旧志賀町に予定されている廃棄物処分場の凍結、などを主張して滋賀県知事選挙に出馬。

●滋賀県知事
当選以降、自身が公約で主張した「新幹線新駅・産廃処理施設・ダム事業の凍結、見直し」政策を進め、新幹線新駅関連・廃棄物処分場については平成19年度における関係予算をつけないことが決まり、これらの事実上の凍結が達成された。 滋賀県栗東市の新幹線新駅問題では、一部では損害賠償請求を求められるという噂もあったが、JR東海の松本正之社長は07年7月9日、今後の対応について「10月末に出る地元の結論を受けて法的対応を考えるが、工事負担金を5月に仮精算したので大きな問題はない」と述べ、地元に対する新駅計画凍結による損害の賠償請求を行う可能性は低いとの認識を示し、新幹線新駅凍結の今後は地元の事後処理へと焦点が移ることとなった。
ただ、ダム事業の凍結・見直し(撤回でも中止でもない)公約では、県内に計画されているダム6つ(丹生ダム、大戸川ダム、永源寺第二ダム、芹谷ダム、北川第一ダム、北川第二ダム)の内、県営の芹谷・北川第一のダム建設計画については平成19年2月の議会で容認と取れる答弁を行った。他方、県営北川第二ダムは公約通りの凍結方針を表明しているにもかかわらず、マスコミには取り上げられることはほとんどなかった。また、国営の丹生ダムについては、今までの貯水ダム計画には否定的な見解を示している。ただ、穴あきダムの可能性はあり得るとの発言をとりあげ、マスコミはまたも推進と報じたが、その後は推進するような態度を嘉田は示していない。統一地方選挙後は、県議会の流れの変化によるものか、ダム建設計画に前向きと思わせるような発言をすることは見られなくなった。一部ではダム建設計画への否定的な発言も見られ、また、就任一年の会見では、「社会変動の中でかつて計画したことをそのまま続けることが、本当に次の世代に喜ばれることなのか。勇気ある撤退が必要。」と新幹線のみならずダム計画の凍結に対するこだわり感じさせる発言もあった。
当選後の議会における所信表明演説においては「財政的観点からもダム事業は凍結する」という姿勢を見せていたが、一方で「治水事業の瑕疵(かし)で一人でも死者が出た場合は辞任する」とも述べていた。ダム建設を推進・要望していた大津市や彦根市をはじめ県内の自治体は知事の公約に反発、特に丹生ダム建設が計画されていた余呉町とは激しく対立した(詳細は丹生ダムの項を参照)。
本人は公約について「一切ダムを作らないという、脱ダム(という意味)ではない」、「(マニフェストでは)ダムだけに頼らない治水計画を掲げた。ダムすべてを否定はしていない」また「(現在は)ダムの必要性、効果、影響も含めて議論する過程の中にある」と述べている。この間、ダム事業に対する流れは平成18年7月豪雨をひきがねとした田中康夫長野県知事(当時)の落選や後任の村井仁知事による「脱ダム宣言」の撤回、平成16年7月福井豪雨による足羽川ダム(福井県)の凍結解除・建設再開などダム事業再評価の動きが見られ、こうした流れも微妙に影響を及ぼしている。
2007年統一地方選挙では彼女を応援する「対話でつなごう滋賀の会」が結成され、躍進した。2007年4月23日には留守番電話で、「長崎のようになりたくなければ新駅を作れ」と脅迫された。
議会で新駅建設反対派が推進派を上回った結果、推進派の自民党滋賀県連は「知事の考えに従う」として新駅の凍結に賛成する意向を示した。こうした情勢を受けて中川秀直幹事長が現地入りして嘉田と対談し、7月9日には新幹線新駅の凍結方針が国から示された。森喜朗元首相に、「女の人だな、やっぱり(視野が)狭い」と批判された。しかし、嘉田は「女性蔑視(べっし)だと言うのは控えたい。問題の本質は財政問題。男だから、女だからとは無縁」などと大人の対応をし、株を上げた(by毎日新聞)。
一方、ダム事業の対応についてマスコミや一部支援者から「態度が曖昧」と批判されている。

安土城(1579~82)

信長はこの城を丹羽長秀を総普請奉行に据え、足かけ7年の歳月をかけ完成させた。築城の目的は岐阜城よりも京に近いため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから信玄亡き後信長の最大の脅威であった上杉謙信の上洛を阻止できる立地条件にあったためとされている。その規模の大きさ壮麗さは太田牛一や宣教師の記述で明らかなように天下布武、信長の天下統一事業を象徴する城郭であり、山頂の壮麗な天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。
1582年(天正10年)本能寺の変の時は蒲生賢秀が留守居役として在城していたが、本能寺の変による信長の横死を経て山崎の戦いの後、賢秀・蒲生氏郷父子は本拠地日野城に信長の妻子などを安土から移動させ退去。その後、天主とその周辺建物(主に本丸)は焼失した。原因にはいくつかの説がある。一つは織田信雄軍が誤って焼き払ったという説である。これは当時の宣教師の記述によるもので、その記述には織田信雄が暗愚だったので放火したとある。もう一つは明智光秀軍が敗走の際に放火したとの説、さらにもう一つは、略奪目的で乱入した土民が原因であるとする説である。そのほか、雷が落ちて消失したとする説もある。いずれにせよ、本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が清洲会議ののち入城したりと、主に二の丸を中心に機能していた。しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡城築城のため、1585年をもって廃城されたと伝わっている。
信長が権力を誇示するために狩野永徳に安土城を描かせた金箔の屏風がアレッサンドロ・ヴァリニャーノに贈られ、彼の離日に同行した天正遣欧使節によりヨーロッパに送られて教皇庁に保管されているとの記録がある。それは安土城の姿を知る決め手の一つと考えられ、現在に至るまで捜索が行われているが、未だに発見されていない。
築城から廃城へ
1576年、 正月中旬、安土城の築城を開始する
1577年、 安土山下町中に楽市楽座の掟書を発布する
1579年、 完成した天主に信長が移り住む
1582年、 見寺に徳川家康を迎え、能が行われる
     本能寺の変で信長死去、織田信雄が火を放ち、
安土城の天主・本丸等

●その後~現在
その後、1918年(大正7年)に安土城保存を目指して「安土保勝会」が設立される。1919年(大正8年)には史跡名勝天然記念物保存法が施行され、一層保存の機運が高まる。そして、1926年(大正15年)に安土城址が史蹟に指定される。 1927年(昭和元年)、内務省(現・総務省)が城跡に「安土城址」の石碑を建てる。翌1928年、滋賀県が史蹟安土城址の管理団体に指定される。その後、大手門跡等に標石を建てたり、二の丸跡の復旧、城内石段の改修や天主・本丸跡の発掘調査を行う。
戦後の1950年(昭和25年)、 文化財保護法施行に伴い史跡安土城跡となる。その後、特別史跡に指定される。1960年(昭和35年)には城跡修理に着手、1975年(昭和50年)まで継続。それを基に1978年(昭和53年)、 安土城跡実測図(縮尺千分の一)を作成する。そして1988年(昭和63年)、「第1回特別史跡安土城跡調査整備委員会」が開催されるに到る。
1992年(平成4年)のセビリア万国博覧会には、「天主指図」を基に復元された安土城の復元天主(5・6階部分)が出展された。現在、復元天主は安土城天主信長の館に安置されている。
1998年(平成10年)には、本丸跡から内裏の清涼殿と同じ平面を持つ建物が発見された。これは、当時の信長の思想や本能寺の変の黒幕を特定する上でも重要な発見である。
2005年(平成17年)に、安土町のプロジェクトチームがイタリアのローマに渡り、「安土城之図」と伝わる屏風絵を探したが発見には至らなかった。しかしローマ教皇に大野俊明氏が模写したミニ屏風絵を寄贈し、屏風絵の発見を依頼した。発見されると、安土城の更なる正確な復元が期待される。

信長 対 キリシタン(下)
~ 信長の反撃 信長の誇示する軍事力を見て、宣教師たちは 日本の植民地化を諦めた。
ポルトガル・スペインが、マカオやフィリピンを植民地化し、 なおかつ宣教師たちが九州のキリシタン大名を交易や軍事援助 を通じて後押ししている様を見れば、彼らの最終的な狙いが日本の植民地化にあることを信長は見通していたであろう。
天下 統一を進める信長にとって、思わぬ伏兵がいたのである。彼らの布教を許したことを「我一生の不覚也」と言ったのは、この故であった。 しかし、そこは天才・信長。宣教師たちの野望を打ち砕くための反撃を展開した。それは現代流に言えば富国強兵策であった。
当時、各地を支配する領主や貴族、寺社は、自領内において 商工業に携わる者には同業組合として「座」を組織させ、その 独占を認める代わりに、多額の上納金を徴収していた。また、 領内に多くの関所を設けて、物資の流通や人の往来に「関銭」 を課していた。たとえば琵琶湖から京都、大坂の淀川沿いのル ートには6百カ所以上もの関所があったという。 そこで信長は、こうした「座」や「関所」を撤廃し、自由競争と効率的な流通を促進することによって、商工業の発展を加 速するという経済改革を断行した。特に「楽市楽座令」では、 低額の税金を払えば、誰でも一定区域内で自由に商工業を営めるようにしたため、多くの優れた商工業者が信長の勢力圏に集まり、経済が急速に発展した。
この「楽市楽座」制は当時、ヨーロッパ各地で行われていた商工業・交易流通振興策によく似ており、信長が宣教師たちから仕入れた知識を活用したものではないか、という説がある。

■2.壮麗なる都市・安土■
特に信長が本拠地とした安土城の城下町では、税金課役の免 除、往来の安全の保証など、様々な特典を与えたので、全国各地から商工業者が集まって大変な賑わいを見せた。 信長の政策を目の当たりにした宣教師フロイスは著書『日本史』において、次のように記している。
信長はあらゆる賦課、関銭や通行税を廃止し、大いなる寛大さで、すべてに自由を与えた。この好意は民衆の支持を得て、一般の人々はますます彼に心をひかれ、彼を主君にもつことを喜んだ。・・・
信長は安土に一つの城と新しい町を建設したが、その規模は日本最大のもので、位置の優れていること、住民が立派であること、建築の壮大であること比類がない。
一般住民の住む山麓の町は、長さ5.5キロメートルに及び、道路は広くまっすぐについていて町に美観を添え、5、6千人の住民がある。安土から京都までの77キロメートルの間は、平坦な道が作られ、道路の両側に木を植え、川には非常に大きな橋が架けられた。信長は交易の振興策として、道路の拡張整備にも力を注いだ。これは軍隊の移動や軍需物資の運搬を効率化する軍事戦略でもあった。

■3.ヨーロッパを抜いた鉄砲技術■
こうした「富国」政策からあがる潤沢な税収を用いて、信長は「強兵」政策を実行した。
その第一は、常時、戦闘可能な職業軍人集団による「常備軍」を創設したことである。 従来の戦国大名は農民を兵員としていたため、農繁期には戦いが出来なかった。そこで信長は農民と兵員を完全に分けて、常時戦闘ができる軍隊を作った。そして専業の職業軍人たちには、高度な武器を操るための訓練を施した。
第2は新兵器の採用である。ポルトガル人が日本に火縄銃を伝えたのは、天文12(1543)年だったが、それからわずか6年後には信長は鉄砲5百挺を、近江の鉄砲鍛冶屋に生産させいる。
しかも、銃の性能自体も格段に改良させた。ポルトガルの火縄銃は雨に弱いという欠陥があったが、雨よけの付属装置が考案されて、雨中でも射撃できるようになっていた。 また弾丸の威力を増すために口径が広げられ、引き金の機構を改良して、弾丸が発射されるまでの時間が短縮された。
これにより、騎馬武者など高速に移動する対象への命中率も向上した。 命中精度も改善され、1580年代に信長が使用していた鉄砲は 100メートル以上の命中距離を誇っていた。
ヨーロッパでは半世紀後の30年戦争で用いられていた小銃の命中距離は50メートルほどに過ぎなかった。 装備された鉄砲の数も、ヨーロッパとは桁違いだった。天正3(1575)年に武田軍の騎馬武者隊を撃破した鉄砲隊は、3千挺もの規模だった。
この12年後にフランスのアンリ4世の軍隊が持っていたのは、25名の鉄砲隊と300名のピストル隊のみであった。 しかも、鉄砲隊が3交替で次々と一斉射撃を行う戦法を開発した。この一斉射撃法がヨーロッパで広く普及したのは、長篠の戦いから半世紀も後のことであった。

■4.宣教師を驚嘆させた鉄製軍艦■
天正6(1578)年には、信長軍は大阪の石山本願寺を海上封鎖したが、その救援に来た毛利水軍を、大砲を搭載した鉄製軍艦6艘で打ち破った。これは約2年間の研究開発の結果、建造されたもので、全長26メートル、幅13メートル、海面から高さ5メートルの軍船であった。船腹から甲板上の矢倉まで鉄板で装甲し、3門の大砲と、多数の大型鉄砲を備えていた。
この鉄製軍艦を見た宣教師オルガンチーノは驚嘆して、つぎのような報告書をポルトガル本国に送っている。 この船は、信長が伊勢の国で建造させた日本国中でもっとも大きく、また華麗な船で、わが王国ポルトガルの船に似ている。私も行って実際に見てみたが、日本でこれほどの船を造るということに驚いた。・・・ 船には大砲が3門、搭載されていたが、これを何処から持ってきたのか、想像がつかない。というのは、われわれがこれまでに確認したところでは、日本では豊後の王(大友氏)が鋳造させた数門の小さな砲を除いて他に大砲はないはずだからである。私は実際に行って、この大砲と仕掛けを見てきたが、船にはその他に、精巧な大型の長銃が無数に装備されていた。
ヨーロッパにおいて鉄製の軍艦が初めて出現したのは、この120年後であった。 信長は「石山本願寺の戦い」に勝利して手に入れた大坂を「国際貿易港」とすることを構想した。そこに強大な海軍を作り、その武力を背景に国際貿易を発展させようとしていた。これまた、スペインやポルトガルへの対抗策であった。

■5.信長のデモンストレーション■
天正9(1580)年7月、信長は正親町(おおぎまち)天皇の勅命をもって石山本願寺の平定に成功すると、翌年2月には畿内および近隣の大名と武将を京都に招集し、駿馬を揃えて、天皇のご臨席のもとに「馬揃えの儀(天覧観兵式)を盛大に挙行した。
これは中世ヨーロッパの騎士団が国王を歓待するための行事を日本流にアレンジしたものであった。この儀式には巡察使ヴァリニャーノやフロイスなどの宣教師たちも招待されていた。この儀式は、天皇のもとで国家統一が進み、強力な「国軍」が誕生しつつあることを、彼らに強く印象づけるデモンストレーションでもあった。 同年夏には、ヴァリニャーノを安土城に招待した。夜になって、安土城下の家臣や民衆を総動員して、盛大な盂蘭盆(うらぼん)行事を挙行した。安土城の天守閣や山腹のお寺に無数の提灯を吊り下げ、堀には松明を掲げた多数の船が浮かんだ。提灯や松明の火が空に照り映えて、琵琶湖の水面にも映り、ひときわ美しい眺めであった。さすがのヴァリニャーノも深く感嘆した、とフロイスの『日本史』に記されている。
信長は、自らの号令一下で、これだけの壮大な文化行事を遂行できる民度の高い共同体を、キリスト教で切り崩せるか、とヴァリニャーノに問いかけたのであろう。

■6.信長の支那征服策■
フロイスの『日本史』によると、天正10(1582)年、 信長は、事実行われたように、都に赴(おもむ)くことを決め、同所から堺に前進し、毛利を平定し、日本66カ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を派遣して支那を征服し、諸国を自らの子息たちに分かち与える考えであった。 ポルトガルはかねてよりマカオを拠点として、当時弱体化しつつあった明を植民地化する計画を持っていた。信長は、そのようなポルトガルの野望を見通していただろう。もし、ポルト ガルが中国を征服したら、その富と人民を使って、次には日本を狙ってくる。座して第二の元寇を待つよりは、先手をとって明を征服してしまおう、というのは、軍事戦略としても合理的な発想である。 交易面においても、当時はポルトガルやスペインの船がヨーロッパやアジアの物産を持ち込み、日本で漆器、刀剣、海産物、 銀などと交換するという一方的なものであった。彼らはそこから上がる独占的な利益を使って、日本での布教活動を推進し、 キリシタン大名への後押しを行い、最終的には日本の植民地化を狙っていた。
「楽市楽座」という優れた商工業振興策による税収で全国統一事業を進めていた信長である。日本から積極的に海外貿易に乗り出して、ポルトガル・スペインの利益独占を突き崩すことは、彼らの日本植民地化の野望を阻止することにもつながると考えたとしても不思議ではない。 信長が宣教師たちに「支那征服」の意思をもらしたのは、ポルトガル・スペインに対して、いよいよ攻勢に出るぞ、という宣戦布告であった。

■7.「日本は征服が可能な国土ではない」■
信長が支那征服の意思を表明した数ヶ月後、大村純忠・大友宗麟・有馬晴信の少年使節を率いて、マカオに滞在していた巡察使ヴァリニャーノは、スペインのフィリピン総督あての手紙で次のように記している。 日本は何らかの服従事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、国民は非常に勇敢で、しかもたえず軍事訓練をつんでいるので、征服が可能な国土ではないからである。すでに占領したフィリピンやマカオとは違って、当時のヨーロッパよりはるかに進んだ銃砲や鉄製軍艦を誇示する信長軍の偉容に、武力では到底、この国を植民地化することはできない、とヴァリニャーノは判断せざるをえなかった。
一時は、キリスト教の広がりに危機感を覚えて、今までのキリシタン保護政策を「我一生の不覚也」と後悔した信長であったが、富国強兵策を徹底し、強力な軍事力をアピールすることで、彼らとの冷戦に勝利したのである。

■8.豊臣、徳川に引き継がれた冷戦■
この手紙には、次のような続きが述べられている。 しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるだろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある。
「シナにおいて陛下が行いたいと思っていること」とは、スペイン国王による明の植民地化である。日本を植民地化する事は諦めるが、今度は支那征服のために、キリシタン大名の軍事力を使おう、というしたたかな戦略である。 天正10(1582)年、信長が本能寺の変で倒れると、キリシタンとの冷戦は、秀吉に引き継がれた。
秀吉はスペイン・ポルトガルの支那植民地化計画に対して、当初は日本から兵を送るから、共同で取り組もうと申し出たりしたが、相手側の警戒で実現しなかった。その結果、単独で支那征服に乗り出したのが、後の文禄・慶長の役での朝鮮出兵であった。
さらに秀吉は九州平定の途上、宣教師たちがキリシタン大名を通じて、神社仏閣を破壊し、領民に信仰を強制し、かつその一部を奴隷として海外に売りさばいたりしている実態を知って激怒した。天正15(1587)年に中国・九州平定が完了すると、直ちに「宣教師追放令」を出し、軍事要塞化されつつあった長崎を直轄地とした。これによって、宣教師たちの40余年に及ぶ日本植民地化の工作は水泡に帰したのであった。
秀吉の後を継いだ徳川幕府も、寛永14(1637)年から翌年にかけてのキリシタン勢力による島原の乱をようやく平定した後、寛永16(1639)年に、ポルトガル人の渡航を禁じた。これは「鎖国体制」と言うより、キリスト教布教をテコとして植民地化を狙うポルトガル・スペイン勢力との絶縁、と言うべきだろう。宗教を押し売りしないオランダとの交易は続けていたのであるから。

■9.信長・秀吉・家康の功績■
こうしてキリスト教布教をテコとして、日本の植民地化を狙ったポルトガルの野望は、信長・秀吉・家康の3人によって阻止された。この国家的危機に際して、これらの英邁な武将が国家統一事業を成し遂げた事は、まことに幸運であった。 それ以前の戦国時代のように、群雄割拠のままであったら、宣教師から軍事的・経済的な後押しを得たキリシタン大名が天下統一を遂げた可能性もある。そうなると、彼らは自領で行ったように、日本全国で神社仏閣を破壊し、抵抗する神官僧侶を殺害し、キリスト教を全国民に強制したであろう。皇室も廃絶 されていたろう。
その結果、わが民族固有の言語も文化もほとんど忘れ去られていたであろう。メキシコやフィリピンのように。

信長対キリシタン(上)
信長の危機感: 信者を増やし、キリシタン大名を操る宣教師たちの動きに信長は危機感を抱いた。
■1.「盗賊にして何かを得んと欲するか」■
天正8(1580)年、信長は安土城において、いつものように多数の家臣たちを同席させて、宣教師オルガンチーノとその弟子ロレンソ(琵琶法師から宣教師の弟子になった盲目の日本人) と3時間にわたって宗教論議を楽しんだ。
その後、信長は二人を別室に招いた。そこには、以前、宣教師から献上された地球儀があった。信長はオルガンチーノに乞うて、ヨーロッパから日本に至る道程を地球儀の上で示させた上で、「此(これ)の如き旅行は大なる勇気と強き心ある者にあらざれば実行すること能(あた)わず」と称賛し、笑いなが
ら、こう述べた。 『あなた方がかくの如き多くの危険と海洋を超えて日本にやって来たのは、盗賊として何かを得ようとするためか、 あるいは説こうとする教義がよほど重要であるからか。』

■2.「我らは盗賊にして」■
信長は記録に残っているだけでも永禄12(1569)年のフロイスとの最初の会見以来、他の宣教師も含めて、14年間で31回以上の会見を行っている。そして彼らの説くキリスト教の教義や科学知識に興味を持ち、彼らと議論をすることを好んだ。 しかし、信長は宣教師たちが熱心に勧めるキリスト教に帰依することはついになかった。
キリシタンたちは何のためにはるばる地球の裏側から、危険を冒し、万里の波濤を超えて、日本にやってきたのか。純粋な布教目的だけで、そこまでするだろうか。「盗賊にして何かを 得んと欲するか」と疑うのは、戦国時代を戦い抜いた武将として当然の防衛本能であろう。 信長の疑念に、オルガンチーノはこう答えた。 『そう言われるのは、ごもっともである。何故なら、我われは盗賊にして、日本人の魂と心を悪魔の手から奪い取って、その造物主の手に渡すために来たからでる。』冗談めかして「盗賊」に喩える信長と、それに巧みに応じたオルガンチーノとの間には、冷たい火花が飛び交っていた。

■3.ポルトガルの野望■
1411年、ポルトガルはイスラム勢力下にあったアフリカ北岸の商業都市セウタを陥落させた。ローマ教皇はこれを称賛し、この地をキリスト教騎士団の所領としてポルトガルに与えた。当時、地中海からペルシャ湾を経てインド洋に至る海域はイスラム帝国オスマン=トルコが支配し、インドや東南アジアとの交易を独占していた。
ポルトガルはアフリカ大陸を迂回してアジアに至る交易ルートを開拓することによって、オスマン=トルコの独占していた莫大な利益を奪おうとした。そこでセウタの所領から上がる潤沢な収益を使って、造船技術者、天文学者、地図制作者などを高給で雇い、海洋航海術を研究させて、大航海事業に乗り出したのである。
ポルトガルはアフリカ西海岸および沿岸諸島を次々と攻略していったが、そこでの特権は1455年、ローマ教皇ニコラウス5世の勅書によって認められた。その勅書は、征服した土地の所 有を認め、そこで法律を作り、税金を課し、「修道院、教会などの宗教施設を建てることができ」「非キリスト教徒を永久に奴隷状態におくことができる」として、植民地支配することを教皇の権威によって正当化したのである。

■4.東アジア争奪戦■
一方、スペインは大西洋を横断して西回りにアジアに至ろうと、コロンブスの船団を派遣し、アメリカ大陸を発見していた。 東回りのポルトガルと、西回りのスペインが競合したので、ローマ教皇は地球を二分割して両国に支配を許す勅許を与えた。しかし、その解釈上の問題で、地球の反対側の地域では両方の勢力圏が重なりあう部分ができてしまった。そこにたまたま日本が入っていたのである。 日本に最初に到達したのは、天文18(1549)年のポルトガルの宣教師フランシスコ=ザビエルであった。ザビエルは、日本を強力なキリスト教国家にしてポルトガルの支配下に置こうとした。 一方、スペインは1565年にフィリピンのルソン島を実力支配
し、そこから中国、日本に触手を伸ばそうとしていた。ポルトガルの宣教師たちは、スペイン勢力がやってくる前に、是が非でも日本を植民地化しようと、信長に近づいていたのであった。

■5.長崎に誕生したキリスト教王国■
ザビエルが日本での布教を開始して13年、永禄5(1562)年、 肥前西部(長崎県)の大名・大村純忠は、宣教師トルレスの強い説得に応じて、自領内の横瀬浦を貿易港として開港し、港とその周囲半径10キロメートルの土地をイエズス会領として寄進した。またこの地に入港してくるポルトガル商人と、各地から集まってくる日本商人に対して、10年間、一切の税を免除する事を決定した。
フロイスの『日本史』によれば、博多や山口、さらには京都からも大勢の日本商人が交易を求めてやってくるようになり、 横瀬浦は貿易港として急速に発展した。大村純忠は、この地に仏教徒が住むことを禁止し、自らもキ
リスト教に入信して、トルレスから「ドン=バルトロメウ」という洗礼名を授けられた。
以後、家臣や住民にも洗礼を受ける者が続出し、横瀬浦と純忠の本拠地・大村(長崎県大村市)の領地で12百余名のキリシタンが生まれた。純忠が戦いに臨む際には、陣羽織には「JESUS(イエス)」の文字を入れた地球が描かれ、首には十字架のついた数珠を掛け、「聖なる十字架」を描いた旗を高々と掲げた。まさに十字軍の騎士さながらの出で立ちであった。
純忠は同時に仏門にも入ったが、宣教師コエリヨはこれを強く非難し、神仏と決別する証として、領内からあらゆる偶像崇拝を根絶し、一人の異教徒も住ませないよう強く迫った。純忠はこれに従い、寺社の破壊焼失、僧侶を含む全住民への洗礼強制、抵抗する僧侶の殺害、その他反対者の国外追放を強行した。
この結果、領内では2万人の住民がキリスト教の洗礼を受け、仏像仏閣がすべて破壊され、その後に教会と十字架が建てられた。小さな子どもまでも仏像の破壊に加わり、その顔に唾を吐きかけたという。また『郷村記』は、猛り狂ったキリシタンたちによって純忠の養父・純前の墓が暴かれ、その骨は川に投げ捨てられた、と記している。

■6.キリシタン大名への軍事援助■
キリシタン大名を得るための方策として、交易による利潤の他にもう一つの手段があった。軍事援助である。それを求めて、 宣教師との結びつきを深めたのが、大友宗麟(そうりん)であった。
宗麟は豊後(大分県南部)を治めていたが、日本に最初にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルから直接、説教を受けており、キリシタン大名の中でも最も早くキリスト教に接した人物である。
永禄2(1559)年、宗麟は豊後の他に、豊前(大分県北部)、 筑前(福岡県北部)、筑後(同・南部)の4カ国の守護職となり、将軍・足利義輝から「九州探題」に任命されたため、宣教師たちの期待も高かった。 宗麟はキリスト教の保護者を持って任じ、宣教師たちの布教活動を援助するとともに、その引き替えに軍事物資の提供を求めた。永禄10(1567)年、宗麟はマカオに滞在していた司教にあてて手紙を書き、中国地方を支配する毛利元就に打ち勝って、 キリスト教を広げたいので、鉄砲の火薬の原料となる硝石の日本への輸入を禁止し、自分の領国にのみ販売するように依頼している。

■7.長崎と茂木の軍事要塞化■
天正7(1579)年に、東洋地域全域を所管する巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日すると、その指導にとってキリシタン勢力が急伸した。
大村純忠は、ヴァリニャーノの来日を機に、長崎(長崎港周辺部)と茂木(長崎市茂木町)をイエズス会の永久教会領として寄進した。
ヴァリニャーノは翌天正8(1580)年に、この長崎と茂木の地を、ポルトガル人を中心として軍事要塞化するように指示した。
これに従って数年後には、同地は大砲・鉄砲などにより武装され、軍艦も建造配備された。
天正13(1585)年には、純忠の領土の全領民約6、7万人がキリシタンとなり、ここに完全なキリシタン王国が誕生したのである。
大村純忠の縁戚で、島原を領有していた有馬晴信は、当時、肥前東部(佐賀県)の龍造寺氏から度々攻撃を受けて、窮地に陥っていた。晴信はヴァリニャーノから洗礼を受け、その見返りとして、食糧不足に苦しんでいた4つの城で、多量の糧食と金子(きんす)を受け取った。さらにマカオからやって来たポ
ルトガルの交易船から、弾丸に使う鉛や火薬の原料となる硝石を送られた。こうした軍事援助で、晴信は龍造寺氏との戦いで危機を脱することができた。晴信はこの返礼として、ヴァリニャーノが自領に滞在していた3ヶ月の間に、領内にあった40を超える神社や仏閣をすべて破壊し、領民2万人を入信させた。さらに浦上(長崎市浦上)の地を、イエズス会の教会領として寄進した。
宣教師たちは、これらのキリシタン大名を経済的軍事的に支援する一方、毛利氏、龍造寺氏、島津氏など反キリスト教の大名とは交易関係すら結ばなかった。

■8.「十字軍騎士」となったキリシタン大名■
ヴァリニャーノは、キリシタン大名との政治的・軍事的連携を強化する一方、布教体制の改革を進めた。セミナリオ(神学校)、ノビシアド(修練院)、コレジオ(学院)の3種類の教育機関を設け、日本人司祭の養成に努めた。
天正10(1582)年頃には、西日本各地に設けられた教会堂の数は大小合わせて200カ所、神父・神弟(日本人の伝道師)は75人に上り、急速な布教が進められた。信者数は京都から中国地方に2万5千人、大友宗麟の治める豊後で1万人、大村純忠・有馬晴信が支配する大村・島原・長崎地域に11万5千人、合計15万人ほどにも急増した。
この年1月には、それぞれの教育機関で育成した日本人子弟の中から優秀な4人の少年を選び出し、大村純忠・有馬晴信・大友宗麟の3キリシタン大名の使節として、ローマ教皇とスペイン・ポルトガル連合国国王の許に派遣した。
翌年2月に少年使節たちはローマで教皇グレゴリオ13世に拝謁した。教皇が皇帝や国王を迎接する「帝王の間」で拝謁するという異例の栄誉を受け、3人のキリシタン大名からの親書を手渡した。 こうした儀式を通じて、キリシタン大名たちは、ローマ教皇に忠誠を誓い、日本の「異教徒」と戦う「十字軍騎士」とされていったのである。

■9.「我一生の不覚也」■
信長が安土城で宣教師オルガンチーノと会見し、「盗賊にして何かを得んと欲するか」と聞いたのは、こういう状況下であった。
天下統一を目指す信長は、当時中国の毛利氏と戦っていたが、 その背後から九州探題・大友宗麟も中国を狙っていた。九州から京都を目指すキリシタン勢力と、京都を押さえ中国・九州へと全国統一事業を進めつつあった信長とは、早晩対決が運命づけられていた
『切支丹来朝實記』には、この頃の信長の心境をこう記している。
(日本に駐在している宣教師からの報告で、今年は日本人が何千人入信し、今年は何万人入信したかと、台帳に記して、本国のポルトガルに送っているとのうわさ。宣教師たちが貧しい者や病人を慈しみ哀れみ、それだけでなく妻子眷属に一人当たりの前金として一銭ずつ与えるなどして、弓矢を使わずに日本を征服しようと謀略を企んでいること。このため信長はキリストの教会内の活動や信者たちの怪しい所行について聞き及ぶ所があって、 内心では後悔していたのである。さら『實記』が伝える所によれば、信長は前田徳善院玄以という仏僧に「自分は彼らの布教組織を破壊し、教会を打ち壊して宣教師たちを本国に返そうと思うが、どう思うか」と諮問したが、「もしそのようなことをすれば、たちまち一揆が起こることは間違いありません」と答えたので、信長は今まで宣教師たちを保護してきた政策について「我一生の不覚也」と漏らした。

以上出典メールマガジン「Japan on the Globe 国際派日本人養成講座」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogindex.htm  

織田信長の巨大鉄船

戦国の革命児、織田信長は当時世界でも例のない船を造った。木造船を鉄板で覆った装甲艦ともいうべき巨大な鉄の船だ。技術的にも困難を極めた鉄船を、信長はなぜ造ったのか。
当時、信長は大坂本願寺との戦いのさなかで窮地に陥っていた。毛利氏配下の村上水軍の火攻めによって織田水軍は壊滅、反信長勢力が勢いづいていた。そこで「火攻めでも燃えない鉄の船」を造らせた。鉄船とその行動について記述がみられる当時の史料は「多聞院日記(当時の僧侶の日記)」、「耶蘇会士日本通信(宣教師オルガンティーノの手紙)」、「信長公記(織田信長の伝記)」。
鉄船のサイズについて
鉄船のサイズを全長32.4メートル、幅10.8メートル。

◎その後の鉄船
鉄船は、毛利・村上水軍を破ったのち、堺を本拠にして航路を守っていた。さらには、荒木村重が謀反したときには、海上から有岡城へ大筒を放っている。本能寺の変のとき、信長は鉄甲船で淡路へ渡り、三男・信孝、三好長康への四国領を確定し、それから中国地方へ行く予定だったようである。そのため、船に乗せられる人員を考慮して、本能寺の警護は少なかったという説もある。
その記述を最後にして、以降はどこにも出てこない。
これまでの流れから見れば、九鬼嘉隆が志摩へ回航したと思われるが、それすら記録が残っていない。
豊臣秀吉の朝鮮出兵に使用された際には、船足が遅くまるで役に立たなかったとも伝えられている。
波の高い東シナ海のような外洋向きの船ではなかったのだろう。

◎九鬼嘉隆の首塚
三重県鳥羽市から市営定期船で答志島・和具港へ30分。港から徒歩10分、小さな山頂にある。拝観自由。
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