ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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信長は宗教を弾圧していない

信長に対する最大の誤解の一つを正しておきたい。
それは、信長は決して宗教を弾圧していないということだ。
では、「比叡山焼き討ち」「一向一揆の大虐殺」は一体何なのか?
あれは宗教団体を弾圧したのであって、思想を弾圧したのではない。
真の宗教弾圧とは、後に徳川幕府が行ったキリスト教禁教令のように、
「その宗教を信じる者は死刑に処す」、あるいは「追放する」という
ことだ。しかし、信長はそんなことはしていないのである。
宗教学者の山折哲雄氏も次のように述べている。
「信長はたしかに比叡山の宗教権威を地上に引きずり降ろした。
しかし、比叡山という霊場そのものの存在を否定したわけではない。
同じように一向一揆による政教一致(仏法領建設)のスローガンを
粉砕はした。けれども本願寺の存続までを拒絶したわけではなかった。」(蓮如と信長)
厳密に言えば、本願寺とは11年の長きにわたって戦争を続けていた
のだから、自分の家来たちに一向宗を禁じたことはあるかもしれない。
そうしないと軍事機密が漏れるなど、様々な支障をきたすからだ。
しかし、キリスト教禁教令のような形の、民衆に対する、あるいは
国(政府)としての禁教令は、後にも先にもいかなる宗派に対しても、
出したことは無いのである。

以上、井沢元彦氏の「逆説の日本史」より抜粋。
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ちょっとマニアックなショートカット.

〔Alt]+[スペース]+[N]、[C]
まず左手の親指で[Alt]を押し、押したまま右手の親指で[スペース]を押す。すると、アプリケーションのショートカットメニューが開く。そのあとおもむろに、右手の人差し指で[N]、または左手の人差し指で[C]を押す。
[N]を押せばウインドウは最小化される。[C]を押せばアプリケーションが終了する。
 アプリケーション終了のショートカットというと、[Alt]+[F4]が有名だが、どうにも遠いショートカットで、手の小さい方にはかなり辛い。
この[Alt]+[スペース]+[C]は、ホームポジションからほとんど手を動かすことなくアプリケーションを終了させられる。

○確認事項
全アプリケーションで共通して使うショートカット
「切り取り(Ctrl+X)」「コピー(Ctrl+C)」「ペースト(Ctrl+V)」

NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』は2009年秋より放送予定

○ 司馬遼太郎の代表的長編小説「坂の上の雲」を原作として、スペシャルドラマ「坂の上の雲」を平成21年(2009年)から3年にわたって放送。
この作品はNHKが総力をあげて取り組み、国内各地・世界各国でのロケ・最新の特殊映像効果を駆使し、これまでにないスケールで制作する。
NHK30年来の悲願であり、開局以来最大級のプロジェクトに期待が寄せられている。
1回分の制作費は大河ドラマを上回る約6,000万円。

○ 「坂の上の雲」は昭和43年(1968年)から47年(1972年)にかけ、4年3か月にわたって産経新聞夕刊に連載され好評を博した作品で、司馬遼太郎が、明治という時代に立ち向かった青春群像を、10年の歳月をかけ渾身の力で書き上げた壮大な物語。

○ 主な出演者と役柄は
秋山 真之(あきやま さねゆき)・・・本木 雅弘
秋山 好古(あきやま よしふる)・・・阿部 寛
正岡 子規(まさおか しき)・・・・・・・香川 照之
正岡 律(まさおか りつ)・・・・・・・菅野 美穂

○ 放送は平成21年(2009年)から3年をかけて行う。主人公たちの少年期、青年期、壮年期という三つの時期を三部制のドラマとして描くもので、第1部が第1回~第5回、第2部が第6回~第9回、第3部が第10回~第12回と最終回の全13回・各回90分の放送になる。

補足:司馬先生ご自身は映像化に反対されていたらしいが、どんなドラマになるのか楽しみ。それまでには、今年の春に松山市に開館した坂の上の雲ミュージアムも興味津々。

★坂の上の雲ミュージアム
愛媛県松山市にある博物館で、同市が取り組んでいる司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』を軸としたまちづくりの中心を担う施設である。
2007年(平成19年)4月28日に市内中心部の松山城を頂く城山の南裾に開館し、総工費は約30億円。設計:安藤忠雄建築研究所
壁面が傾斜しているためか、中に入ると船酔いのような症状に陥り気分が悪くなるとの指摘が地方紙に寄せれている。

コロンブスが航海に出るのに7年間も待たされた理由とは?

フェルナンド2世と妻イサベルもコロンブスの計画に首を振らなかった。
くわえて教会の反発には激しいものがあり、サマランカ大学は教義に悪影響が出る恐れがあるとして、コロンブスの構想を警戒した。西回りの航路を発見しようという試みは、キリスト教を未知との遭遇によって危険にさらすかもしれない、ということを意味していたからである。日が沈む方角である西方には、死の王国が存在し、広大な海の向こうは、地獄へとつながっているのではないか。
船乗りたちが語る海の怪物の物語も、このような根深い恐怖を助長した。
しかし1492年、状況を一変させる出来事が起きる。スペイン軍がムーア人の支配下にあったグラナダを奪回し、レコンキスタがなしとげられたのである。コロンブスはイサベル1世に対して、レコンキスタの勝利はキリスト教世界の勝利と同義であるとして、その
意義を強調した。そして布教面での長所を強調するかたちで、もう一度自分の計画を説明した。新たに土地が発見されれば、かの地は
キリスト教国となり、中国の皇帝に「福音」(キリストの教え)をもたらすことになる。皇帝と同盟を結び、イスラム勢力を包囲することも可能かもしれない。イサベル1世はこの話に惹きつけられ、つににコロンブスに援助と保護を約束した。
出典『ラルース図説 世界史人物百科〈2〉』

このあたりは、映画「1492コロンブス」に描かれていた話と同じですね。

Google、「Google Earth」に天体情報を検索・表示可能な「Sky」を実装

Googleは米時間2007年8月22日、同社の地図表示ソフトウエア「Google Earth」に星座線や惑星の動きを含めた天体情報を追加、宇宙を表示する「Sky」を実装した。
 「Sky」にアクセスするには、Google Earthのメニューの [ 表示 ] にある [ Skyに切り替える ]をクリック、表示が地球から宇宙に変わり、「Google Earth」と同様、カーソルを動かすことで宇宙を移動したり、ズームを変更したりすることが可能。
 また、7つのレイヤーが用意され、星座線や星座名、ハッブル宇宙望遠鏡による高解像度画像、月や惑星の動きなど、各項目に注目して天体情報を閲覧することができる。

 

宗教改革がきっかけで民族という概念が生まれた。

民族という概念が生まれたのは宗教改革がきっかけだったと『民族とは何か』で関曠野氏は述べている。

宗教改革こそが民族概念の産婆役であった。
特権階級だけが握っていた神と知識のアクセス権を、万人に開放する闘争だったからだ。
民族主義は、民族の成員であるという資格においてあらゆる個人は平等であるとする。要するにどちらも階級闘争なのである。

宗教改革から生まれたプロテスタンティズムは、英国において史上最初の民族国家を作らせる。しかし、最初の民族国家にはモデルがあった。『旧約聖書』にでてくるヘブライ人の物語が、当時の英国、そしてその後の民族主義の考え方に大きな影響を与えた。

NHK『その時歴史が動いた』の1回あたりの制作費は?

その時歴史が動いた
NHK総合テレビで放送されている歴史情報番組。2000年3月29日開始。
NHKが2006年に公開した「ジャンル別番組制作費」によると、同番組の制作費は1回につき1,650万円掛かるとのことである。

◎影響力と問題点
この番組の影響力はかなり大きく、2006年4月5日放送の「マッカーサーを叱った男 ~白洲次郎・戦後復興への挑戦~」でゲスト出演した作家・北康利の著作『白洲次郎 占領を背負った男』の売り上げがベストセラーランキング10位台に上昇したほどである。また、この番組が紹介した新解釈や新発見は大河ドラマなどの内容にも反映される。
その一方で問題点もある。毎回の放送で定説を覆すような新説を取り上げるものの、例えば長篠合戦における「武田騎馬軍団」など、誤解を招くような旧説に固執する傾向が多々ある。また、番組の性質上しかたない面もあるが、歴史のターニングポイントとは言いがたい出来事を誇張気味に取り上げることも目立つ。

P.S 歴史の教員でこの番組のお世話になってない人はいないでしょう。
  45分という時間も絶妙。欲をいえば、世界史の内容を増やして欲し
  い。過去の放送のネット配信なんていうのも期待したいです。

筑豊御三家と石炭

筑豊御三家
九州北部の筑豊地方に地盤を置く、地方財閥3家、安川家、貝島家、麻生家のこと。
この地方に埋蔵されていた石炭(筑豊炭田)採掘を主な事業としていたところに共通点がある。

①安川氏
旧黒田藩士。安川氏は明治10年に芦屋で石炭販売業を始め、明治19年には店を若松に移転。
明治26年には門司に「安川・松本」を開き、その後、支店を東京、大阪、神戸に設けた。筑豊御三家の貝島、麻生氏と協力して、「鉄道建設」(筑豊線・伊田線等)に関わり、「炭鉱経営」「明治紡績」業にも乗り出す。
安川・松本合名会社「明治鉱業株式会社」
炭鉱経営では糸田町の「豊国炭鉱」の他に筑豊では「平山炭鉱」「明治炭鉱」「赤池炭鉱」糟屋郡に「高田炭鉱」(いずれも福岡県)佐賀県に「西杵炭鉱」、「多久炭鉱」更に北海道の「昭和炭鉱」等の諸炭鉱を経営する。
大正4年には「安川電機」を八幡西区黒崎に創業。戸畑に「明治専門学校」(現九州工大)を設立、後に、これを国に寄付した。

②貝島氏~炭鉱夫から炭鉱経営者~
 筑豊御三家の一つ「貝島氏」は、炭鉱夫から、一代で財を成し、立身出世した人物である。鞍手郡宮田町で、大之浦炭鉱(持主貝島氏)を経営、その手腕は優れていた。
炭鉱の労働者の子弟を学ばせるために、三つの小学校を造ったり、全国から労働者を集めるために、宣伝映画を製作した。
貝島炭鉱は1974年(昭和49年)閉山、最盛期であった昭和30年の宮田町人口5万1795人をピークに年々減少し、平成16年5月末現在、人口は2万1322人となっている。


③麻生氏
麻生家は、宇都宮氏の流れを汲む麻生氏の一族とされており、江戸時代には村の庄屋を務め、1868年大庄屋となった。明治の始め現外相の麻生太郎氏の曾祖父・麻生太吉が目尾御用炭山を採掘し石炭産業に着手、九州三大石炭財閥の一つにのしあがり、鉄道、電力、金融等幅広く事業を展開して大富豪となった。戦後麻生炭鉱は吉田茂の資金源となった。

この麻生氏は先見の明があったのだろう。貝島家は「石炭以外には手を出すべからず」という家訓を頑なに守って、先細りになっていったのに対し、「石炭はいつかなくなる」と新事業の備えを説いた麻生家は、セメント事業に転換し、今日まで生き残った。
そして、セメント事業が伸び悩むと、医療分野に着目し、もともと炭坑の医療施設だった麻生飯塚病院を中核に、病院経営や医療システムの開発で再び業態転換に成功した
のである。

小倉が、原爆投下目標となった理由とは?

明治時代、廃藩置県により小倉県が成立し、小倉はその県庁所在地となったが、1876年に小倉県が福岡県に合併されたため、県庁所在地ではなくなった。その後も、北九州工業地帯の中心地として商業のほか、軍需工業が発展した。
特に1933年に建設された小倉陸軍造兵廠は、最盛期には約4万人が働き、銃器や砲弾、銃弾などのほか、風船爆弾も製造した。
このように造兵廠や数多くの軍施設を擁した小倉は「軍都」と呼ばれ、朝鮮半島や中国大陸との距離的な近さから、戦略の拠点となった。(森鴎外は、軍医時代には一時期小倉に赴任)
このようなことから、アメリカは軍都の小倉を原爆投下目標の一つに定め、1945年8月9日朝、原爆をのせた米軍機が、小倉上空に飛来したが、天候不良で視界が悪く、投下は長崎に変更された。

☆風船爆弾
太平洋戦争において大日本帝国陸軍が用いた兵器である。「ふ号兵器」という秘匿名称で呼ばれていた。
当時、日本の研究者に発見されたジェット気流(偏西風の流れ)を利用し、爆弾を気球に乗せ、日本本土から直接アメリカ本土空襲を行うもので、千葉県一ノ宮・茨城県大津・福島県勿来の各海岸から大量に飛ばされた。
風船爆弾は、神奈川県の登戸陸軍研究所で開発された。満州事変後の昭和8年(1933年)頃から関東軍、陸軍によって研究され、昭和19年(1944年)から実用化された。
生産個数はおよそ9300個。アメリカ合衆国本土に到達したのは9300個のうちおよそ1割強の1000個、異説では300ほどである。危険の少ない地域の上空で、飛来する気球がアメリカ軍戦闘機の機銃射撃により爆破処分されているものもある。
当初から明確な爆撃目標は無かったが、人的被害についてはオレゴン州での女性1人と子供5人がピクニック中に木に引っかかっている爆弾部分を触り、爆死した例が一つ確認されている。この事件は第二次世界大戦中にアメリカ本土で死者がでた唯一の事例である。
また、プルトニウム製造工場(ハンフォード工場、ワシントン州リッチランド)の送電線に引っかかり原爆の完成を遅らせたり、山火事を起こしたりと、人的被害以外では北米各地に効果が見られた。

浜野浦の棚田(玄海町)

維持・保全・利活用状況
集落による農道・水路の整備清掃をおこない、特に雨期前には、危険個所水路の清掃等水田の維持管理を行っている。また、若年農業従事者の減少や緊急生産調整推進対策が推進される中において、転作田の耕起・水張りを行い国土環境の保全と美しい景観の維持に努めている。
本地区においては、地域住民と玄海町とが一体となり、棚田の維持・保全に努め、棚田景観を地域資源として有効に活用していくさらなる取り組みが検討されている。

推薦理由 景観:「棚田形状の美しさ」本地区では、玄界灘に面した海岸から駆け上がる階段のように、斜面 を幾重にも連なる棚田が覆い、時刻や天候によって自然の景色を映し出されている。特に、4月下旬から5月中旬の代かき、田植え後、夕日がオレンジ色に染まり海と水田と畦道が描く造形美は、実に素晴らしい。また、本地区は、「平成5年度美しい日本のむら景観コンテスト(農林水産省主催)」において、むらづくり対策推進本部長賞を受賞した景勝地で、他県、他市町村からのカメラマニアの絶好のキャンバスとなっている。

B-29への切り札、震電(しんでん)は福岡の九州飛行機で製作された

震電(しんでん)
第二次世界大戦末期、日本海軍が開発していた単発単座の試作局地戦闘機である。機体後部にプロペラ、機首付近に小翼を配した野心的な機体形状は「前翼型」と呼ばれるもので、B-29迎撃の切り札として期待されていた。昭和20年6月に試作機が完成。
同年8月3日、プロペラを交換し、垂直尾翼の下に補助車輪を付けた震電は脚を出したまま、水平飛行中に293.5Km/hの最高速度を記録し、初飛行に成功。その後8月6日、8日とテスト飛行は行われ、合計45分間の飛行に成功。しかし15日に終戦を迎え、その実力を発揮することはなかった。機体略号は「J7W1」。

当時、高度10,000mを凡そ570km/hで飛行する米国のB-29に対して、同高度で十分な速力を発揮できる日本の迎撃戦闘機は無かった。
そこで震電は、B-29迎撃の切り札として、またP-51を圧倒する性能を目的とし最大速度400ノット(約740km/h)以上を目標として開発された。また、将来的には陸海軍で共用される予定であった。
実戦での戦術としては、震電の快速を活かしB-29の前方に展開、高度12,000mから30mm機関砲4門を斉射。更に速力差を活かし再びB-29の前方に進出、2度目の攻撃を行うという手法が計画されていた。

Youtube 九州 十八試局地戦闘機 震電 (性能テスト時の動画)
http://www.youtube.com/watch?v=_YAej4Y4md4&NR=1

ソフトバンクが3カ月連続首位 7月携帯契約純増数

電気通信事業者協会が7日発表した7月の携帯電話大手3社の契約数によると、新規契約から解約を差し引いた純増数はソフトバンクモバイルが22万4800件と3カ月連続で首位を確保。前月比3万件増と勢いを加速した。
 2位のKDDI(au、ツーカー)は19万1200件。前月比5万8000件増と盛り返してたが、NTTドコモは8万1400件、前月比では7400件減と水を開けられた。PHSのウィルコムは一部機種の電池発熱トラブルなどが影響し、純増数は1万1300件にとどまった。
 昨年10月に導入された携帯番号継続制による7月の事業者間乗り換えは、KDDIが6万8600件増でトップ。ソフトバンクも過去最高の1万6300件増と好調を維持した。ドコモは8万2700件減と一人負け状態が続いている。(2007/08/08 08:16)

「本能寺の変」の焼け瓦見つかる 京都で発掘(2007年08月07日)

織田信長が明智光秀に謀反を起こされ、自害したとされる「本能寺の変」(1582年)で焼けたとみられる瓦や堀跡などが、京都市中京区の旧本能寺跡の発掘調査で見つかった。旧寺をはっきり示す遺物や、本能寺の変の焼け瓦が見つかったのは初めてという。
関西文化財調査会(京都市、吉川義彦代表)が7月下旬から、マンション建設に伴い、同市中京区西洞院通六角下ルの旧本能寺跡の一部分とみられる約130平方メートルを調査していた。
 瓦は、石垣が積まれた幅約6メートル、深さ約1メートルの堀の跡から、16世紀中頃の土器と共に出土した。ヘドロの中に大量に埋まっており、堀を埋めるために投げ入れられたとみられる。赤茶けた焼け瓦や本能寺を表す「●」(「●」は「能」のつくりが「去」)とデザインされた丸瓦もあった。本能寺は度重なる火事で「ヒ(火)」を嫌い、「能」の代わりに「●」を使っている。
 焼けていない瓦もあり、吉川代表は「本能寺の変の火勢はそれほど強くなく、すべてが焼け落ちたわけではないと推測できる」と話す。今谷明・国際日本文化研究センター教授(中世史)は「本能寺の周囲に堀と石垣が見つかったことも、信長が防御に力を入れていたことを示しており興味深い」と話している。

アステカ文明

出典http://chiduru72916.seesaa.net/
アステカとは1325年から1521年まで中央アメリカ|中米メキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の王国。またの名をメシカという。言語はナワトル語。

興亡
アステカ族はメキシコ中央高原に興り移動をくり返した後、テスココ湖周辺に定着すると周辺国を征服して拡張した。最大領域はテスココ湖周辺から太平洋沿岸にまで達し500万人以上を支配した。テスココ湖上に人工島を建設し首都テノチティトラン(現メキシコシティ)を築いた。テノチティトランには神殿や王宮を中心に十数万人の市民が生活した。
1519年、コンキスタドールのエルナン・コルテスは、エル・ドラドを求めて500人の部下を率いてユカタン半島に上陸し、幸運にも伝説の白い善神ケツァルコアトルと同一視され、モクテスマ2世王に迎え入れられてテノチティトランに入城した。コルテスはテノチティトランの至る所を案内され、この町の豊かさと繁栄振りに目を見張り、アステカ征服の意を固めた。
コルテスは、一時、僅かの守備隊を残してテノチティトランを去るが、アステカがコルテス勢力を除こうとするや、トラスカラ王国などの周辺諸国と連合してアステカに攻撃を加え、1521年までにこれを滅ぼした。テノチティトランの跡地にメキシコシティが建設され、同地は植民地ヌエバ・エスパーニャの首都になって現在に至る。現在、湖水は干上がっている。
政治文化

アステカ文明は、先行するオルメカ、テオティワカン、マヤ文明|マヤ、トルテカ文明を継承し、陶器|製陶・土木・建築・工芸に優れていた。精緻な天体観測で正確な暦を作った。チナンパ農法が営まれトウモロコシ|とうもろこしや芋・豆などを栽培した。リュウゼツランを原料にプルケという酒も醸造した。
王の下に貴族・神官が置かれ神権政治が行われ、神官は生贄の儀式を司祭して政治の重責を担った。国の功労者は貴族に取立てられ、特に戦争功労者は豹の戦士(またはジャガーの戦士)や鷲の戦士と称され人々の尊敬を得た。宗教は多神教で中米の諸文明に普遍的に見られた終末論|終末信仰に基づいていた。新鮮な心臓を神に奉納しなければ太陽は消滅するという信仰によって、生きた人間から心臓を摘出する儀式が日常的に行われた。生贄を確保するための戦争さえ行なってこの儀式を維持した。コルテス入城直後に生け贄の儀式が禁止されたが、太陽の運行に変化がなかったことでこの信仰が動揺し、神官の権威が急速に失墜し王に対する求心力も衰えた。

ラサで漢民族が急増、チベット民族上回る

香港の中国人権民主化運動ニュースセンターは5日までに、中国チベット自治区のラサに住む漢民族が昨年7月の青蔵鉄道開通以来激増し、現在ではチベット民族を上回るなど「中国化」が急激に進んでいると発表した。
 同センターによると、ラサの人口は現在約35万人で、チベット民族は約15万人、漢民族が約20万人。漢民族のうち10万人が隣接する四川省の出身で、ほとんどが鉄道開通後に流入、レストランなどサービス業に従事しているという。同センターはラサの公安当局が明らかにしたとしている。(香港=共同)(12:12)

「はじめに香辛料ありき」

「はじめに香辛料ありき」。シュテンファン・ツバイクの『マゼラン』は、この言葉で始まる。人類最初の地球周航を果たしたマゼラン艦隊の目的は、地球の形状を確かめることでもなく、キリスト教を広めることでもなく、「金儲け」だった。
「香料諸島に至る西回りのルートを見出すこと」、それが航海の目的だった。
そして、その目的は、実際に達成された。なぜなら、帰還した1隻が積んできた香料の価値は、出航した5隻の船の建造費を上回ったからである。
つまり、この航海はビジネス的な観点からみても、大成功だったのである。もっとも、それは、効果の途中で失われた人命-その中にはマゼラン本人も含む-の損失をカウントしなければの話だが・・・。
金儲けを目当てに航海に出たところ、人類の歴史を変える大発見をしてしまった!!
これは、マゼランに限ったことではない。コロンブスもヴァスコ=ダ=ガマも、航海の目的は、すべて金儲けだった。
 出典:『東洋経済新報』7/28号 説話ファイナンス理論(野口悠紀雄)

★それにしてもこの航海の代償はあまりのも大きかった。マゼランが途中で殺されたのは勿論、船員たちは食糧と水の欠乏、壊血病に苦しみ、途中船員達の多くが亡くなっている。出港時は、265人だった船員が、無事帰国できたのはわずか17名のみであった。その生存率15%。

マゼラン(1480~1521)
ポルトガルの航海者・探検家。ヨーロッパ人としてはじめて太平洋を横断し、人類初の世界周航をなしとげた。
ポルトガル北部のオポルト付近で貴族の子として生まれ、少年時代には宮廷の小姓をつとめた。1505年、海軍に入ってインドにおもむき、マラッカ(現ムラカ)やマルク諸島(香料諸島)への遠征に参加した。12年、ポルトガルにもどり、翌年モロッコでの戦闘に参加したが、この時右膝を負傷して生涯右脚の自由をうしなうこととなった。マゼランは、マルク諸島への西回り航路の開拓をくわだてていたが、ポルトガル王マヌエル1世の支持がえられず、また報酬増額の要求が宮廷から拒否されたこともあって、17年、スペイン宮廷に仕官をもうしでた。スペイン王カルロス1世(のちの神聖ローマ皇帝カール5世)は、マゼランの計画にただちに関心をしめした。東回り航路はポルトガルに支配されていたため、西回りで香料諸島に到達できれば、スペインに莫大な富がもたらされるはずだった。

国王の承認をえたマゼランは、1519年9月20日、5隻の船をひきいてサンルカルデバラメダ港を出航した。11月にはブラジルに到着し、南下してパタゴニアのプエルトサンフリアン港で越冬したあと、さらに南下をつづけて、20年10月、ついに海峡を発見した。のちにマゼラン海峡と名づけられたこの海峡を38日がかりで通過し、11月28日、そのおだやかさにマゼランが「太平洋」と名づけたもうひとつの大洋にぬけでることに成功した。この時点ですでに2隻の船をうしなっていたが、のこった3隻で航海をつづけ、21年3月、フィリピン諸島に達した。セブ島に上陸したマゼランは、この島の支配者と同盟をむすんでマクタン島攻撃にくわわり、4月27日、戦死した。
マゼランの死後、2隻がマルク諸島に到着したが、そのうちの1隻、ビクトリア号だけが世界周航をなしとげて1522年9月6日、スペインに帰還した。マゼランは航海途中で死亡したが、以前の東回りの航海で到達していた地点は通過していたので、世界周航をはたしたといえる。

ビクトリア号は大量の香料をスペインにもちかえったが、マゼラン海峡をとおるルートは時間がかかりすぎ、危険も多いため実用には適さず、スペインはその権益をポルトガルに売却した。しかしながら、マゼランの航海は、「新世界」と東洋をむすぶ太平洋交易の基礎をきずいた。また、フィリピンの重要性は当初は認識されなかったが、16世紀の終わりにはマニラは東洋におけるスペイン最大の貿易拠点となった。

iTunes Storeの累計ダウンロード数が30億曲を突破 - 米国第3位の音楽小売業者に

アップルは7月31日、同社が運営する「iTunes Store」からダウンロードされた楽曲の累計が、30億曲を突破したと発表した。iTunes StoreがAmazonとTargetを抜き、米国第3位の音楽小売業者となったこともあわせて公表された。

★iTunes考
iTunesもいいけど、まだ割高ですかね。sonyレーベルが不参加なのも痛い。しかも、日本は先進国の中で例外的にレンタルCDがありますから・・・・。
それに比べて、Podcastは無料で聴けるし、最近聞き応えのある番組も増えてきましたぞ。

個人的オススメPodcastベスト5
①伊藤洋一のRound Up World Now!
②小西克哉 松本ともこ ストリーム
③The CNN Daily (video)
④The Larry King Podcast:先日、マイケル・ムーアが出演
⑤Pod Surf TV

P.S 特に伊藤氏の番組は内容が国際経済から話題の映画まで
   多岐にわたり、政治・経済の授業のネタに使わせてもら
   ってます。

日本最古の「国道」通説より30年前に建設? 奈良

2007年08月01日
 奈良盆地を南北に走っていた日本最古の「国道」のひとつ「下ツ道(しもつみち)」の建設時期が、側溝跡で出土した土器から、推古(すいこ)天皇(在位592~628年)の時代の7世紀初頭だった可能性のあることが分かった。これまで日本書紀の記述などから7世紀半ば以降にできたと考えられていたが、それより30年以上前から国家的な道路網整備が進んでいたことになる。
 奈良市三条大路3丁目で見つかった道の遺構を調査していた奈良県立橿原考古学研究所が1日、発表した。幅2メートルの側溝跡から須恵器の坏蓋(つきぶた)(皿のふた、直径13センチ)1個が出土、形状から7世紀初頭前後のものと断定した。
 下ツ道は、並行する中ツ道(なかつみち)、上ツ道(かみつみち)とともに、平城京付近(奈良市)と藤原京付近(奈良県橿原市)を南北に結んだ約23キロの直線道路。道幅は23.4メートルで、一部は平城京の朱雀大路(すざくおおじ)となった。日本書紀に、壬申(じんしん)の乱(672年)の際、「軍を上道(かみつみち)・中道(なかつみち)・下道(しもつみち)の各道にあてて配置した」という内容の記述があることなどから、7世紀半ば以降の建設が通説だった。同研究所の近江俊秀・主任研究員は「権力を握っていた蘇我(そが)氏の指揮で、大規模な道路を建設し、国家権力を地方に見せつけたのでは」と話す。

なぜ鑑真は日本の政府に来日を懇願されたのか?

先日、職免研修を利用して、鑑真和上展(福岡市博物館)へ。
教科書にも必ずのっている国宝鑑真和上像は想像していたより、小さい。
しかし肖像彫刻の傑作との評判通り、崇高な鑑真の人柄が伝わって
きました。
日本行きを反対する高弟にいった鑑真の言葉。
「何ぞ身命を惜しまん。諸人ゆかずんば、我すなわちゆかんのみ。」

☆鑑真 688~763 
中国、唐代の僧で、日本律宗の開祖。742年、当時伝律授戒の師をもとめて唐にわたっていた日本僧の栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)から日本渡航を懇願され、弟子とともに日本にいくことを決意する。暴風や、出国をねがわない弟子による妨害のために5回も失敗し、高弟をうしない、みずからも失明するという苦難のすえ、ようやく753年(天平勝宝5)、来朝をはたした。日本では、伝律授戒の権限をまかされ、東大寺に戒壇をきずいて聖武上皇などに授戒した。759年唐招提寺を創建して、日本律宗の中心的道場とした。鑑真は仏像、経典をもたらしただけでなく、書、医薬、建築様式などの文化面でも大きな貢献をした。伝記に、鑑真に帰依した淡海三船(おうみのみふね)による「唐大和上(とうだいわじょう)東征伝」がある。

★なぜ鑑真は日本の政府に来日を懇願されたのか?
仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律(かいりつ)を遵守することを誓う必要がある。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、僧尼の間で誓い合うものを「律」という。
律を誓うには、10人以上の正式の僧尼の前で儀式(これが授戒(じゅかい)である)を行う必要がある。これら戒律は仏教の中でも最も重要な事項の一つとされているが、日本では仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が行われるなど、授戒の重要性が長らく認識されていなかった。
しかし、奈良時代に入ると、戒律の重要性が徐々に認識され始め、授戒の制度を整備する必要性が高まっていた。税を逃れるために私度僧になる農民が激増したからである。
政府は授戒できる僧を探すため栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)を唐に派遣した。彼らは戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れ、日本に来てくれるように説得した。日本の国家的要請を受けた鑑真は、弟子に問いかけたが、誰も渡日を希望する者がいなかった。そこで鑑真自ら渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人も随行することとなった。その後、日本への渡海を5回にわたり試みたがことごとく失敗し、両目も失明する。そして6回目の航海で成功し、実に10年の歳月を経て薩摩坊津に無事到着し宿願の渡日を果たす。その後、鑑真が日本にもたらした厳しい授戒制度によって税金逃れで僧になるものはいなくなり、誰もが自由に僧侶になれる時代は終わりを告げたのである。
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