ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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マサダ要塞とイスラエルの悲劇

マサダ要塞(世界遺産)
東経35度21分13秒、北緯31度18分55秒に位置する、標高約400メートルの岩山である。紀元前120年頃 要塞が建設され、後にヘロデ大王が離宮兼要塞として改修し、難攻不落と言われた。

ユダヤ戦争
70年のティトゥス率いるローマ軍によるエルサレム陥落後、熱心党員を中心としたユダヤ人967人が、エルアザル・ベン・ヤイルに率いられてマサダ要塞に立てこもり、ローマ軍15000人がこれを包囲した。ユダヤ人たちは2年近く抵抗したが、73年、ついにローマ軍によって攻め落とされた。陥落直前、ユダヤ人たちは、投降してローマの奴隷となるよりは死をと、2人の女と5人の子供を残して全員が集団自決したという。マサダ陥落によって66年以来続いたユダヤ戦争は完全に終結した。
上記の詳細は、歴史家フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』に記述されている。
その歴史的経緯から、現在でもなお、多くのユダヤ人にとって特別な思い入れのある場所であり、「ユダヤ人全滅の悲劇を再び繰り返してはならない」という決意から、イスラエル国防軍の入隊式がマサダ頂上で行われ、国家への忠誠を誓う。
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checkpadで自分のToDoを管理しませんか?

iGoogleのToDoリストを使っていたのですが、いまひとつ安定性に欠けるとこがありました。
最近、教えて貰ったcheck*pad を使い始めました。結構便利なフリーのソフトウェアです。しかもシンプルなUIで直感的に使えそう。

check*padhttp://www.checkpad.jp/
オンラインで簡単にToDoリストが作れる上に、モバイルにも対応していますので 出先でも携帯からチェックすることができます。
さらに嬉しいのは、あらかじめメールアドレスを登録しておけば自分が作ったリストのうち一つを
「モーニングリスト」として毎朝指定した時間に自動送信してくれる機能。 これさえあればToDo管理は大丈夫!!

フランスではギロチンによる処刑は1981年まで行われた。

ギロチンは、1792年4月25日にフランスで正式に処刑道具として認められたものである。刃が斜めになっており刃についているおもりによってすばやく切り落とすことができ、従来の処刑器よりも苦痛を与えないと言われる。ルイ16世やマリー・アントワネットがこれによって処刑されたのは有名である。

当時はフランス革命後の恐怖政治により、毎日何百人もの人が処刑されていた。貴族は断首、平民は絞首刑と区別されており、また断首の場合、首切り役人が熟練していないと、何度も切り付けて受刑者に多大な苦痛を与えることが多かった。
そこで、内科医で国民議会議員だったギヨタンが、受刑者に無駄な苦痛を与えず、しかも身分に関係せず同じ方法が適用できる、「単なる機械装置の作用」によって「人道的」な処刑を行うよう議会で提案した。ギヨタン医師の提案は初め嘲笑を以て迎えられたが、ギヨタン医師の再度の提案と説得によりその案が採択された。
当初はギロチンの刃が内側に反っていたため切れ味が悪く、一撃で罪人の首を飛ばすことは難しかった。
そのため、フランス国王ルイ16世が、刃を外側に反り返らせることを提案した。これにより、ギロチンの殺傷力は格段に上昇した。のちにルイ16世自身が改良したギロチンで処刑されたということは歴史の皮肉というほかないだろう。また、恐怖政治を主導し、受刑者をギロチン台に送り続けたロベスピエールも最後はギロチンの露と消えた。このように、フランス革命期すべての党派を次々と呑み込み処刑する状況は、当時の人々によって「ギロチンの嘔吐」と呼ばれた。なお、ギヨタン自身もギロチンで処刑されたという俗説があるが、これは誤りである。

フランスでは、1981年9月に死刑制度自体が廃止されるまで、ギロチンが使用されていた。他に使用されていた国として、ナチス・ドイツやベトナム戦争時の南ベトナムがある。
またギロチンで処刑された後に、生首が瞬きをすることがある。実際に自ら処刑後に人は意識があるのかを確かめた人物もいる(化学者のラヴォアジエ)が、これは筋肉の痙攣によるものとされており、斬首の瞬間に血圧が変化し意識を失うので、意図的に瞬きをすることは出来ないというのが通説である。
国内では明治大学博物館に唯一展示・収蔵されており、見学することが出来る。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

☆市民の気晴らしだったギロチンの公開処刑
フランスではギロチンによる処刑は、長い間一般に公開された。
そのたびに刑場にはフランス各地から大勢の野次馬が集まってきた。
彼らにとって、処刑は最高の気晴らしの一つだったのだ。
フランスにおける最後の公開ギロチン処刑は、1939年のワイトマンなる殺人犯の処刑である。いつものように大変なお祭り騒ぎになったため、政府はもう二度と同じ事を繰り返すまいと決意したという。
出典『処刑台から見た世界史』桐生操

人類史上最高額の懸賞金

ビンラディンには2500万ドル(27億円)の懸賞金が!!
あのウサマ・ビン・ラディンと、その側近のアイマン・ザワヒリには、米国政府が2500万ドル(約27億円)の懸賞金を賭けているという!彼らの拘束に繋がる情報提供が、懸賞金の条件だそうだ。
無論この金額は、懸賞金としては人類史上最高額。
その後のイラク戦争で、イラクのフセイン元大統領にも、これと同額の2500万ドルの報奨金が掛けられていた。結局フセインは拘束されたが、その情報提供元はフセインの側近だったと言う噂もある。
なお、フセイン元大統領の長男ウダイ氏と二男クサイ氏についての情報提供をしたイラク人に、計3000万ドルの支払いがすでに行われたという。

400億円の建設費用が投じられた鹿苑寺金閣は迎賓館だった

~足利義満の日明外交~
室町幕府・三代将軍の足利義満は、500年にわたる国交断絶を乗り越えて、中国・明と国交を回復しようとした。しかしおよそ100年前の蒙古襲来で、日本は二度に渡って中国から侵略を受けた経験から中国への根深い警戒感があった。
義満は幕府内の反対を押し切って明に使節を派遣する。義満は国交回復して明国と貿易を行い、銅銭を輸入しようと考えていた。当時、中国の銭が日本の通貨として使用されていたが、明は民間貿易を禁止したため、市場に通貨が不足し、現代でいうデフレ経済の状況に陥っていたのである。
しかし義満は明の皇帝から「日本の代表の資格がない」と交渉を拒絶される。さらに日本を属国として扱う態度も交渉を困難にさせた。義満は南北朝を統一し、争乱の時代に終止符を打ち、日本国王にふさわしい地位と権力を手に入れる。
さらに、明の使節をもてなす迎賓館として京の北山に金閣を造営、交渉再開の機会を伺っていた。そして交渉開始から29年目、ついに国交回復交渉の絶好の好機が巡ってきたのである。

金閣寺について
「金閣寺」は通称で、正式には「鹿苑寺(ろくおんじ)」
北山第完成までの費用「100万貫」について。
当時の米の値段をもとに概算し、「少なく見積もっても400億円」とされる。

NHKがTV番組をネット配信へ 08年度にも、過去1週間分を.

NHKが過去一週間に放送したテレビ番組をインターネットで配信する計画が十八日、明らかになった。国会で継続審議となっている放送法改正案が成立すれば、2008年度にも開始する。
 テレビ局による本格的な番組ネット配信は日本では初めて。見逃した番組を再放送を待たずに好きな時に見られるようになる。ただ、違法複製を懸念する出演者や公共放送の肥大化を警戒する民放などからの反発も予想され、どれだけの番組を提供できるかは不明だ。
 サービスは有料にする案が有力だが、受信料を支払っている視聴者に限り無料にすることも検討している。
 計画では、過去七日間に放送した番組を視聴者がダウンロードしてパソコンなどで視聴できるようにする。番組はコピーできず、視聴後一定期間を過ぎると消滅する仕組み。ニュースやドキュメンタリーのほか、大河ドラマなど娯楽番組も俳優ら権利者の許諾が得られれば配信するという。古い人気番組なども有料でネット配信する方針だ。
 NHK幹部は「どのぐらいニーズがあるか予測は難しいが、番組のネット配信は世界の流れ」と話している。

レパントの海戦

1571年10月7日に起きた、オスマン帝国海軍と、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍との海戦である。ヨーロッパ連合側には、ジェノヴァやイタリアの諸国家、マルタ騎士団も加わっていた。この海戦は、ヨーロッパ史にとっては大いなる転換点ではあったが、オスマン史にとってはさほど衝撃的なものではなかった。ただしオスマン帝国がこの大敗に動揺し、スレイマン1世没後の帝国の曲がり角に立った大事件であった事は事実である。

ヨーロッパの連合艦隊は300隻からなり、有能な指揮官オーストリア公ドン・ファン・デ・アウストリアによって指揮されていた。オスマン帝国側は、アリ・パシャに率いられた300隻であった。両軍とも大多数をガレー船が占めており、これを主力として用いた海戦としては最後のものとなった。

戦闘は午前10時に始まり、午後4時に終わった。オスマン帝国の旗艦が捕獲され、ドン・ファンの意向とは反対に敵の司令官アリ・パシャは捕らえられ斬首された。スペインの旗艦のマストにアリ・パシャの首が掲げられたことで、オスマン帝国側の士気は崩壊した。

結果は、オスマン帝国の壊滅的敗北に終わった。戦争に参加したおよそ300隻の内、40隻しか生き残ることができない程であった。3万人が死亡、ガレー船のこぎ手として拘束されていたキリスト教徒の奴隷15000人が解放された。この戦いは、紀元前31年のアクティウムの海戦とナポレオン戦争中のナイルの海戦の間に位置し、それらと同じように地中海の趨勢を決める重要な戦いの一つとなった。

この戦闘は、ヨーロッパの軍隊がオスマン帝国に大きく勝利した最初の戦いとなり、ヨーロッパに大きな心理的影響を与えた。しかし、その後、ヨーロッパ諸国は足並みがそろわず、その勝利をさらに前進させて、オスマン帝国に対する優位を獲得することにつなげることができなかった。大敗と言っても、オスマン帝国側の提督の戦略的失策によるもので、この海戦の結果が即、欧州、オスマン帝国の軍事的逆転に繋がる訳ではなかった。

オスマン帝国はすぐに艦隊の再建にとりかかり、6ヶ月後には再び大艦隊を保有し、ヴェネツィアからキプロス島を割譲させるなど、地中海における優位性を依然として維持した。ただし、地中海の西側においては、オスマン帝国の影響は及ばなくなっており世界史上のこの戦いの意義は大きい。

小説「ドン・キホーテ」の作者ミゲル・デ・セルバンテスもこの戦闘に参加し、左手が不自由になるほどの怪我を負っている。

Take Action! 7.29 ~中田英寿~

久しぶりに中田ヒデ氏を拝見しました。
http://www.youtube.com/watch?v=hqKJ8tI_5JM

映画アポカリプトとマヤ(アステカ)文明

「文明は他者に破壊されるより先に、内部から崩壊する」 
※ アステカ文明はスペイン人のコルテスが率いたわずか550人の  兵士でアステカの4万の兵はあっけなく降伏したといわれて
いる。しかしこの映画の時代考証者によれば、スペイン人た
  ちが来る前から、アステカ文明の内部崩壊は始まっていたとの
  解釈。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スペイン人侵略直前のユカタン半島を舞台に、マヤ文明の衰退を描く。全編通じて、マヤ語を使った映画となっている。
米国では、激しい暴力シーンが続くことからR指定作品となった。

時代考証
詳細な研究を行って撮影したとされるギブソンの描写に賛成する学者もいれば、実際のマヤ文明に対して極めて理解不足であり、観客に誤った認識を植え付けるおそれがあるともいわれている。マヤ学界ではわずかな資料から様々な学説が述べられている(英語項目参照)が、いくつかの批判的な意見は次の通りである。
マヤは農耕文明であり、森林も管理されていた、また、行政システムも全土に行き届いていたため、狩猟採取を行う、帝国の存在を知らない密林の村は存在し得ないと言う声もある。
生け贄には戦争の結果や政争の結果敗者となったものが捧げられる。また、生け贄の儀式が公開されることもなく、血を抜いて徐々に死に至らしめる方法が採られる。奴隷を生け贄とした証拠が少なく、公開の場で首切りによって大量虐殺するようなことについても歴史的資料は明白ではない。
この映画に見られる首斬りはアステカ方式であるが、アステカとマヤとが交流し合った時代もあったので、「全くあり得ない」とまでは必ずしも言い切れない。
マヤが一般の住民を生け贄用に狩るなどという証拠はない。
王族以外の人々が翡翠を身につけるような事は珍しいだろうと思われる。
マヤ文明とアステカ文明を混同している(出典:館内で販売していたプログラムより)。

インディ・ジョーンズのモデルとなったビンガムがマチュピチュ遺跡を発見した

ハイラム・ビンガム(1875年~1956年)
アメリカの探検家、政治家。ペルーのマチュ・ピチュ遺跡の発見者として有名。また、インディ・ジョーンズのモデルとなったとも言われる。
イェール大学の歴史家であるハイラム・ビンガムは、1911年7月24日、この地域の古いインカの道路を探検していた時、山の上に遺跡を発見した。
ビンガムは1915年までに3回の発掘を行った。彼はマチュ・ピチュについて一連の書籍や論文を発表し、最も有名な解説「失われたインカの都市」がベスト・セラーになった。この本は、ナショナル・ジオグラフィック誌 が1913年4月号のすべてをマチュ・ピチュ特集にしたことで有名になった。また、1930年の著書『マチュ・ピチュ:インカの要塞』は廃墟の写真と地図が記載されており、説得力のある決定的な論文となった。以後、太陽を崇める神官たちが統治したとか、あるいは太陽の処女たちが生贄にされたといった定説が形成された。
マチュピチュとは間違えて付けられたといわれている説がある。遺跡に名前は決まっておらずビンガムが地元民にあれは何かと聞くと地元民は今、立っている山の名前を聞かれたと思いマチュピチュと答えたため、この遺跡はマチュピチュという名前なのだと間違って伝わったとされている。

ビンガムはイェール大学の教職を辞してから、コネチカット州の副知事、知事を経て上院議員になったが、彼のインカ調査への影響力は死後も40年近くにわたって強く残った。それは一つに彼の情熱的な文章のせいであった。
ただし、最近になり、マチュ・ピチュはすでにペルー人が発見していたという説が浮上した。それによると、クスコの農場主アグスティン・リサラガが、ビンガムより9年早い1902年7月14日にマチュ・ピチュを発見したという。

●マチュピチュの人口は最大でも750名
この都市は通常の都市ではなく、インカの王族や貴族のための田舎の別荘といった種類のものであった。
遺跡には大きな宮殿や寺院が王宮の周囲にあり、そこでの生活を支える職員の住居もある。マチュ・ピチュでは最大でも一時に約750名の住民しかいなかったと推定され、雨季や王族が不在の時には、ほんの一握りの住民しかいなかったと推定されている。
この都市はインカの王パチャクティ(Pachacuti)の時代の1440年頃に建設が着手され、1532年にスペイン人により征服されるまでの約80年間、人々が生活していた。ペルーの考古学者アルフレド・バレンシア・セガーラ (Dr.Alfredo Valencia Zegarra)とコロンビアの水利技術者ケネス・ライト(Kenneth Wright)による調査では、この都市の建設に要した努力の60%は急傾斜の城壁の見えない土台などの部分に傾注されており、積み上げられた石積みが500年も崩れないのは、農耕のためだけに斜面を整地したのではなかった。渓谷から細かい砂と表土を運び上げ、現在見える石積みの下に、うね状に盛り上げた表層を造ったとしている。

●マチュピチュは神をまつる神殿としての役割
なぜこのような急峻な山の上に造ったかという質問に対して、ラファイエット単科大学のナイルズ(Dr.Niles of Lafayette College)は、「パチャクチがこの場所を選んだのは……圧倒する景色としか答えようがありません」と言う。
イェール大学の近年の研究成果では、高地であり、かつ両側が切り立った崖上になっているため、太陽観測に最も適し、かつ宗教的理念として、太陽に近いところである、という点が場所選定の理由として挙げられている。
急斜面に位置したマチュピチュの頂上には、太陽の神殿があり、頂上にはインティワタナ(Intihuatana…太陽をつなぎ止める石)が設置されている。夏至と冬至が正確に分かる窓があるなど、太陽を使った暦を観測、作成したとも言われている。
インカの神は日本やエジプトと同じく太陽神であるため、太陽により近い山の頂(いただき)は儀礼場として適当だった。
神殿の畑など耕作地で栽培された農作物は神への供物として栽培されていたか、神が人間に下賜されたものとして人々に食べられたか、いずれにしても宗教儀礼的意味が色濃く反映されている。そのようないきさつから、現在、マチュピチュは宗教都市として捉えられている。
なおインカの人々にとっての神は、太陽とともに月も挙げられ、多くの遺跡には太陽神殿と月の神殿が対で祭られている。マチュ・ピチュの太陽神殿に対しては、ワイナ・ピチュ(「若い峰」という意味で、マチュ・ピチュの背後にある尖った山)の裏手に、月の神殿が洞窟に作られている。

『海に眠る船 ― コロンブス大航海の謎』

『海に眠る船 ― コロンブス大航海の謎』
クラウス・ブリンクボイマー&クレメンス・ヘーゲス著
①もしかするとスペインではなく、フランスが新大陸の覇者となっていたかもしれない。
交渉決裂寸前で、王室会計主任のサンタンヘルという男が、「危険がほとんどなく、多大な利益をもたらす」と女王に断言したことから、形勢逆転。コロンブスが航海に出発。
なぜ、この男はコロンブスの計画をどうしても実現させたかったのか。
仮説1。クリストファー・コロンブスの祖先はユダヤ人だったこと
仮説2。イサベル女王はムーア人を破った後、ユダヤ人をスペインから放逐したかったため、ユダヤ人が永住できる亡命地をさがしていたこと。サンタンヘルは、異端審問を恐れて改名したユダヤ人だったのであり、コロンブスの航海は、旧約聖書にあるユダヤ帝国再建の試みだったというわけ。

②カリブ海の島々がインドや中国ではないことが分かっていながら、
 なぜコロンブスは、その事実を認めなかったのか。
王室との契約ではアジアとインドの発見と明記されていたため。コロンブスは知っていた。そう考えるのが自然。

③なぜコロンブスは、新大陸の帝王にはなれなかったのか。
これは、ひとえに、植民地経営者としての無能ということに尽きる。
コロンブスは、優れた航海者だったが、黄金ばかりを追い求めたため、インディオからは抵抗され、植民者からも反発を受けたのだ。

      【週刊文春 鹿島茂『私の読書日記』より】

クリストファー・コロンブス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
コロンブスクリストファー・コロンブス(1451年頃 - 1506年5月20日)はイタリアのジェノヴァ出身の探検家・航海者・商人。大航海時代において最初にアメリカ海域へ到達したヨーロッパ人である。
前歴
毛織物業を営むドメニコ・コロンボの息子として1451年に生まれたとの文書があるが、これについては異説も多く、はっきりした事は解らない。出身地に関してもスペイン、イタリア北部等諸説がありはっきりしていない。学会では少数ながらユダヤ人の出身であるという説も唱えられている。若い頃から航海に関わっていたようではあるが、これも良く解らない。エーゲ海のキオス島へ交易航海に出たりしたといわれるが、はっきりしない。
1476年に航海に出た際に、乗船が戦争に巻き込まれて沈没し、弟のバルトロメがいるリスボンに身を寄せたという。アジアを目指していたかどうかは杳として解らないが、1477年に大西洋の向こう側の知識を求めアイスランドへ渡航した。1479年に結婚している。
このリスボンでエラトステネスやトスカネッリの地球球体説に影響され、自分の航海経験を加味して西へ西へ進み続ければアジアへと到達できると言う考えに達した。この時にコロンブスが想定していた地球像は実際のものより二割ほど小さいものであった。

栄光
1484年、ポルトガルのジョアン2世に航海のための援助を求めるが断られる。その頃ポルトガルは東回りの航路によってアフリカの喜望峰に達しており、わざわざ新しい航路を開拓しなくてもインドに着くと考えられていたからである。1486年にカスティーリャのイサベル1世とその夫フェルナンド5世(アラゴン王としてはフェルナンド2世)にも援助を願い出るが、良い返事は得られなかった。
当時のスペインではイスラム勢力が占拠するグラナダを攻めるために準備を整えており、コロンブスに対する援助が出来ないのも当然であった。しかし1492年にスペインはグラナダを攻め落とし、レコンキスタを完遂するとコロンブスも援助を得ることが出来た。なおイサベル1世自身の援助は、自身の指輪一つだけだったと言われる。
1492年8月3日、大西洋をインドを目指してパロス港を出航した。この時の編成はキャラベル船ニーニャ号とピンタ号、ナオ船のサンタ・マリア号の3隻で総乗組員数は約90人(120人と言う説も)。
一旦、カナリア諸島へ寄り、大航海の準備を整えた後、一気に西進した。行けども行けども海、大西洋は極端に島の少ない大洋であり、船員の間には次第に不安が募っていった。当時の最新科学では地球が球体であるということはほぼ常識となっていたが、船員の間では地球を平面とする旧来の考えも根強く残っていた。
コロンブス自身は平気な振りをしていたが、コロンブスの計算を越えて長い航海となり、コロンブスも不安を感じるようになる。10月6日には小規模な暴動が起こり、3日後には船員の不安は頂点に達し、コロンブスに迫って「後3日で陸地が見つからなかったら引き返す」と約束させた。
コロンブスの航路そして10月11日の日付が変わろうとする時、ピンタ号の水夫が陸地を発見した。翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領してサン・サルバドル島と名づける。その後、いくつかの小さな島を見つけた後、現在のキューバ島を発見し、ここをフアナ島と名づけた。
その後、同船船長であるマルティン・アロンソ・ピンソンの独断によりピンタ号が一時離脱してしまうが、12月6日にはイスパニョーラ島を発見。24日にサンタ・マリア号が座礁してしまうトラブルが起きる。しかしその残骸を利用して要塞を作り、アメリカに於けるスペイン初の植民地を作った。
年が明け、1493年1月6日にピンタ号と再び合流する。1月16日、スペインへの帰還を命じ、3月15日にパロス港へ帰還した。
帰還したコロンブスを歓迎して宮殿では盛大な式典が開かれた。コロンブスは航海に先んじて、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地から上がる収益の10分の1を貰う契約を交わしていた。また陸地を発見した者には賞金が王夫婦からかけられていたのだが、コロンブスは自分が先に発見したと言い張り、これをせしめている。
コロンブスの成功を妬む人に対して、コロンブスが卵を机に立ててみよと言い返し、誰も出来なかった後でコロンブスは軽く卵の先を割ってから机に立て、「人のした後では造作もないことだ」と言った。これが有名な「コロンブスの卵」の逸話であるが、後世の創作であるという説が一般的である。

挫折
同じ年の9月に17隻・1500人で出発した2度目の航海はその乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。11月にドミニカ島に到着したが、前回作った居留地に行ってみると現地人により破壊されており、残した人間は全て殺されていた(もっとも、その人間たちも現地人を虐殺し強姦したのであるが)。コロンブスはここを放棄して新しくイサベル植民地を築いた。
しかし植民の間では植民地での生活に不満が立ち上り、現地人の間でもヨーロッパ人の行為に対して怒りが重積していた。1495年に現地人との戦いに勝利した後、捕らえた現地人を奴隷として本国に送るが、イザベル女王はこれを送り返し、コロンブスの統治に対する調査委員を派遣した。驚いたコロンブスは慌てて本国へ戻って釈明し、罪は免れた。
1498年5月、6隻の船で3度目の航海に出る。今度は南よりの航路を取り、現在のベネズエラのオリノコ川の河口に上陸した。その後、北上してサントドミンゴに着くと後を任せていた弟・バルトロメの統治の悪さから反乱が起きていた。コロンブスは説得を続けるが、入植者たちはこれを中々受け入れず、1500年8月に本国から来た査察官により逮捕され、本国へと送還された。罪に問われる事は免れたものの全ての地位を剥奪される。
それでもコロンブスは4度目となる航海を企画するが、王からの援助は小型のボロ舟四隻というものであった。1502年に出航したが、イスパニョーラ島への寄港は禁じられており、パナマ周辺を6か月さまよったが、最後は難破して救助され、1504年11月にスペインへ戻った。
ジェノヴァにあるコロンブスのモニュメント帰国後は病気になり、1506年5月20日スペインのバリャドリッドにて死去。その最後まで自らが発見した島をアジアだと信じて疑わなかったという。遺骨はセビリャの修道院に納められたが1542年にサントドミンゴの大聖堂に移された。

コロンブスが発見した島は現在のどこの国か?

答え「バハマ国」

先住民のアラワク族が定住していた土地に、1492年10月12日、コロンブスが到達。上陸した島をサン・サルバドル島と名づけた。
これがコロンブスによる新大陸の発見となる。コロンブスの開いたスペインからバハマのルートを通って、多くのヨーロッパ人がやって来ると、 島に居た先住民のインディオは強制労働やヨーロッパ人が持ち込んだ疫病などで死に絶えてしまった。16世紀には絶滅してしまったインディオの代わりにアフリカから初めて、奴隷として多くの黒人がバハマ諸島に連れて来られた。

☆バハマ Bahamas
西インド諸島北東部、キューバの北方に位置する立憲君主国。正式国名はバハマ国。イギリス連邦の一員である。アメリカ合衆国フロリダ州パームビーチの南東端からキューバの東端まで、800kmにわたって大小700の島々と2400近い岩礁がつらなるが、有人島は40ほどにすぎない。最西端のビミニ諸島は、フロリダ州マイアミから約97km東に位置する。面積は1万3939km2。人口は30万1790人(2005年推計)。首都は、ニュープロビデンス島のナッソー(21万4000人(1999年推計))。
経済上もっとも重要な島はニュープロビデンス島で、バハマの全人口(約85%が黒人)の半分以上がすんでいる。そのほかの主要な島には、アクリンズ島、アンドロス島、キャット島、クルックド島、エリューセラ島、グランドバハマ島、アバコ島、グレートイナグア島、ロング島、マヤグアナ島、サンサルバドル島(ウォトリング島)などがある。おもな都市に、グランドバハマ島のフリーポート(人口2万6574人(1990年))がある。

※生徒が映画を見せているときに、聞いてきた。恥ずかしながら
 答えられず、西インド諸島にあると咄嗟に返した(恥)。

1492コロンブス

現在、2年生の世界史Aで大航海時代をやっている。昨日生徒にこの映画を見せた。
大学時代に劇場で見て以来、小生も久しぶり。異端審問や、レコンキスタなども同時代のイベリア半島の情勢も描かれている。
ネットでこの作品のreviewをみたが、あまり評価は高くないようだ。
しかしながら、最近のハリウッド映画よりも時代考証が随分しっかりしており、見応えがあった。映画音楽もヴェンゲリスなので、流石です。

以下出典http://www.actv.ne.jp/~yappi/eiga/EB-13columbus.html
1492 コロンブス 1992年/米/156分
【監督】リドリー・スコット【出演】 ジェラール・ドパルデュー

コロンブスの新大陸「発見」500周年を記念して作られた映画です。
コロンブスについては、「楽しい世界史」でも取り上げていますが、この映画では新大陸「発見」以降のコロンブスの苦労に焦点が当てられています。新大陸「発見」は彼にとってゴールではなく、むしろスタートだったわけですね。

●ところで、「発見」といちいちカギカッコ付きにしているのは、それがあくまで「ヨーロッパ人にとっての発見」であったにすぎないからです。「新大陸」という言い方にしても、ヨーロッパ人がそれまで知らなかったから“New World”なわけで、「新大陸」に住んでいた人々にとっては勝手な言い分でしかありません。 この映画が作られた1992年を、スペインは「コロンブス新大陸発見500年祭」として盛大に祝おうとしましたが、ラテンアメリカ諸国をはじめとする各国からの批判を浴びて、「異文化遭遇500年祭」と併記しなければならなかったのも当然といえば当然のことです。「だれがアメリカを発見したかという問題については諸説あってまちまちだが、一方だれがコロンブスを発見したかという問題についてもインディアン諸部族のあいだで侃々諤々の議論がおこなわれている」(アート・バックウォルド『だれがコロンブスを発見したか』文藝春秋刊)というのは一流のジョークですが、その持つ意味については、まじめにとらえる必要がありそうです。

●「だれがアメリカを発見したかという問題については諸説あってまちまち」というのは、コロンブスの「発見」の約500年前から、すでにノルマン人が大西洋を渡り、現在の北アメリカ東北部に上陸していること、また、ジョン・スコルプというデーン人が同じく約20年前に 北アメリカに上陸していること、などが背景にあります。しかもスコルプの場合は、コロンブスと同じように西方に航海することでアジアに達しようとしていました。それにもかかわらず、「発見者」の名誉がコロンブスに与えられているのは、彼を送り出した当時のスペインの国力の大きさと、「発見」後も新大陸に航海、探検を繰り返し、植民地経営に努めていることによるのではないでしょうか。

●ところで、「アメリカ」という名称は、スペイン人アメリゴ・ヴェスプッチの名前に由来します。彼が、コロンブスによって「発見」された大陸が未知の大陸であることを示したからです。コロンブスがもし「新大陸」だと認識していたとすれば、「コロンビア大陸」であり、「コロンビア合衆国」であったかもしれませんが、現実には彼の名は、南アメリカ大陸の一国の名称に使われているにすぎません。

●あまり語られませんが、この映画のもう一つのテーマは、「貴族」対「平民」の対立意識にある のではないでしょうか。コロンブスは、援助を求めるコロンブスを貴族たちは「修道士に拾われた移民の子」と蔑み、またコロンブスも「貴族の夢は美しいが、我々のは罪だと?」と負けてはいません。しかし、結局コロンブスが「貴族」という地位にこだわり続けたのもまた事実のようで。彼が、自分の冒険が成功した時の褒賞の希望として真っ先に挙げたのも「貴族の称号」でした。 植民地経営にしても、「平民」コロンブスがインディオの豊かな生活を「まさにエデンの園だ。改宗させるときも武力を用いず説得したい」、「彼らを尊重しよう」、「略奪や暴行を行う者は許さない」などと対等に見ているのに対し、貴族たちはハナから「征服者」として接していました。

●「大航海時代」の中心にあったのは、いち早く中央集権国家を確立していたスペインとポルトガルでした。国家や王権の強力なバックアップがあってこそ、未曾有の冒険・探検が可能となったのです。ラテンアメリカは、ヴァスコ・ダ・ガマ、マゼラン、そしてコロンブスの3人衆をはじめとする「大航海者 」に続く「征服者」(コルテスやピサロ)によって植民地化されていきます。この両国に次いで、オランダ、フランス、イギリスが新大陸に進出します。北アメリカ大陸は、これらの国々の争奪戦の結果、イギリスがほぼ制覇しますが、それに対して移民たちが反旗を翻し、アメリカ合衆国の建国に至ります。

●「大航海者」たちの航海は、地理学や測量術といった科学の進歩と無縁ではありませんでした。映画では、コロンブスがサラマンカ大学において、教授や聖職者を相手に地球球体説を唱え、異端視される場面が出てきますが、実は当時、地球球体説は、ヨーロッパの知識人の間では定説になっていました。 ただし、当時の地球のとらえ方は2つの意味で誤っていました。一つは、地球が宇宙の中心にあって太陽やほかの星は地球の周りを回っているという「天動説」であったこと。これは、16世紀にコペルニクスが「地動説」を証明するまで支持されていました。そしてもう一つは、地球の大きさを実際よりも小さくイメージしていたということです。つまり、地球をヨーロッパ、アフリカ、アジア(インディアス)の3大陸からなるものととらえ、アメリカ大陸と太平洋を知らなかったということです。ということは、地球をぐるりと西方に進めば、香料や金が豊富にあるインディアスに容易にたどり着くことができる…。コロンブスの航海の目的はまさにこれだったのです。

●なお、彼をアジアに引きつけるきっかけとなったのが、マルコ・ポーロの「東方見聞録」です。コロンブスが西回りでたどりつこうとしたのは、この中に出てくる黄金の国「ジパング」つまり日本でした。第1回航海の際に訪れたキューバやエスパニョーラ島を、彼はジパングだと思いこんでしまいます。また、フランスの枢機卿ピエール・ダイによる「イマゴ・ムンディ(世界の姿)」は、彼がアジアとヨーロッパが近いことを確信するのに大きな影響を与えているようです。

●さて、船乗りクリストバル・コロン(英語読みでクリストファー・コロンブス)です。彼の前半生は、彼自身が触れることが少なかったこともあって、謎に包まれています。イタリア のジェノヴァ出身というのが定説とされつつありますが、ユダヤ人説も根強いものがあるようです。また、いつ頃から「西回り航路」でアジアに到達しようと考え始めたのかについてもはっきりしません。ともかく、彼は、 1483年、まずポルトガルの国王ジョアン2世に自分の計画を売り込みにやってきます。ジョアン2世は、コロンブスの西回り航海に非常に興味を示しますが、財政的理由から援助を断っています。コロンブスはやむなくポルトガルを去り、 1485年には当時5歳の息子ディエゴを連れてスペインのパロスにやってきます。この町でコロンブスは、彼に理解を示す神父や、船隊を出してもいいという 船主らと出会い、彼らの導きもあって、航海の許可を得るため、スペイン女王イザベルに謁見します。イザベルは委員会を招集し、コロンブス案について審議するよう命じますが、委員会はこれを否決します。その背景には、当時のスペインがイスラム教徒に対する国土回復(レコンキスタ)に努めていたため、とてもコロンブスの計画に援助を与える余裕がなかったことがあります。

●しかし、コロンブスにチャンスが訪れます。1492年1月、イベリア半島のイスラムの最後の拠点グラナダが陥落し、レコンキスタが完成するのです。その直後に開かれた委員会はまたもやコロンブスの計画に否定的な結論を出しますが、打ちひしがれてグラナダを去ろうとするコロンブスのあとを追って、女王の使いがやってきます。財務官サンタンヘルの説得により、イザベルがコロンブスを引き返させたのです。その後、二人の間に協約書が交わされ、コロンブスはついに8月3日の出港の朝を迎えることになります。女王を翻意させたサンタンヘルという人は、ユダヤ人の改宗者でした。彼の背後にはジェノヴァの商人たちがおり、彼らが資金面で大きく貢献します。コロンブス=ユダヤ人説はこんなところから生まれているのです。
コロンブスの航海は4回にわたって行われていますが、それはいずれも「そこがインディアスであること」を証明するための旅でした。1506年、失意のうちに没するまで、彼は最後までそこをインディアスだと信じていたのです。

☆増田義郎の名著『コロンブス』(岩波新書、1979年)では、コロンブスと彼の生きた時代の関わりが非常にわかりやすく描かれています。中でも、コロンブスの「終末観」に関する部分は、大変興味深いものがあります。彼はフランチェスコ会と深い関わりがあり、また彼を終始支援したイザベル女王もまたフランチェスコ会の会員でした。フランチェスコ会の強烈な伝道意欲は、聖書に記述されている「終末」論によって裏打ちされていました。「コロンブスは、世界の終末の近いことを信じ、またそのために世界の異教徒の改革を急いでおこなわねばならぬ思いにせき立てられていた」という指摘は、この映画を見る際に(特に後半の植民地経営や布教活動の場面では)大いに参考になるでしょう。

「新・世界の七不思議」が決定、京都・清水寺は落選

スイス人実業家ベルナルド・ウェーバー氏の呼びかけで、「世界の七不思議」と呼ばれる古代建築物に代わる「新・世界の七不思議」を選ぶインターネット投票の結果が7日、ポルトガルの首都リスボンで発表された。

21カ所の候補地の中から選ばれたのは、
①万里の長城(中国) ②ぺトラ遺跡(ヨルダン)
③コルコバードのキリスト像(ブラジル)
④マチュピチュ遺跡(ペルー)
⑤チチェン・イツァのピラミッド(メキシコ)
⑥ローマのコロッセオ(イタリア)
⑦タージマハール(インド)。

一方、最終候補まで残り、選から漏れたのは、京都の清水寺のほか、イースター島のモアイ像(チリ)やストーンヘンジ(英国)、アンコール・ワット遺跡(カンボジア)、ギザのピラミッド(エジプト)、アルハンブラ宮殿(スペイン)、パリのエッフェル塔(フランス)など。
ネット投票は米東部時間6日午後6時に締め切られたが、駆け込み投票の殺到でサイトが一時アクセス不可能になった。主催者によると、投票数は9000万票を上回り、得票数の多い候補地が6月上旬に公表されてからは投票ペースが倍増した。投票は1人当たり複数回可能だった。
ブラジルのルラ大統領やヨルダンのラニア女王など、候補地を抱える国の一部では、指導者が活発に投票を呼びかける動きもあった。しかし国連教育科学文化機関(ユネスコ)が「無関係」との声明を発表したこともあり、投票の認知度は今ひとつ上がらなかった。エジプトのギザのピラミッドは、新・七不思議に反対する地元考古学者の意見を踏まえ、主催者が新・七不思議から独立した「名誉的存在」に認定した。
発表式典は米アカデミー賞受賞歴を持つヒラリー・スワンクとベン・キングスレーが司会を務め、ジェニファー・ロペスやチャカ・カーンなどの有名芸能人が出演した。

PodcastでCNNが視聴できる!!

Podcastが凄いことになってます。
CNNの看板トーク番組『ラリー・キング・ライブ』が、
なんとipodで見れるようになってます。http://www.cnn.com/services/podcasting/かiTunesストアより登録可能。
いやホント便利な時代になってきましたね。
無料で、オノ・ヨーコやパリスヒルトンが出演するトーク番組
を自分が好きな時間に視聴できるんですもん。

ソフトバンクが2カ月連続で首位・6月の携帯電話契約純増数.

電気通信事業者協会が6日発表した6月の携帯電話契約数によると、新規契約から解約を差し引いた純増数はソフトバンクモバイルが20万4800件で首位だった。純増数で20万件を超えたのは前身のボーダフォン時代の2003年4月以来という。月額基本料が980円の「ホワイトプラン」やその拡張サービスで家族間での通話が定額となる「ホワイト家族24」が好調だった。KDDIの純増数は13万3200件、NTTドコモは同8万8800件だった。
 ソフトバンクは6月にワンセグ対応の「912SH」(シャープ製)と「805SC」(韓国サムスン電子製)を投入しており、効果的な新機種投入で5月に続いて純増シェア首位となった。番号ポータビリティー制度(MNP)を使った転入と転出の差し引きでは1万1600件のプラスだった。
 NTTドコモは全体の販売は好調だったが、MNPの差し引きが6万3400件のマイナスと響いたという。1つの端末で2つの携帯電話番号を利用できるようにするサービス「2in1」の利用者は5万4000件で、その数字を含めると純増数は14万2800件となる。KDDIはMNPの差し引きが5万1700件のプラスだった。

グーグル、ブック検索の日本語版を開始

グーグルは5日、書籍を検索することのできるブック検索サービスの日本語版http://books.google.co.jp/
を開始したと発表した。グーグルがデジタルデータとしてデータベース化した書籍情報を、キーワード検索できる。
 グーグルは2004年からブック検索サービスを開始しており、現時点で日本語を含めて10カ国語でサービスを展開している。図書館や出版社から提供を受けた書籍をスキャナーで読み取りデジタルデータ化したり、出版社の場合はデジタルデータとして提供を受けたりしてデータベースを作成している。全世界では1万社以上の出版社が参加し、100万件以上の書籍が登録されている。
 検索をすると表紙画像の表示を許可されているものについては、表紙画像付のリストが表示される。検索結果で表示する内容は著作権の有無や出版社との契約によって、全文表示したり、部分的にページが見られたり、著者や目次などの基本的な情報だけを表示したりなど異なってくる。契約をしていない出版社の書籍についても一部は書名や著者名などの基本情報だけをデータベース化している場合もある。
 グーグルは書籍の内容ページの下部に表示する広告によって収益を得る。アマゾンやオライリーなどの書籍販売サイトへのリンクも表示するが、そうしたページへの誘導による成果報酬型(アフィリエイト)収入は得ないという。
 日本の出版社の参加数はまだ少ないが、順次増やしていく方針。

FCバルセロナは1899年南ア戦争が勃発した年に創設された。

FCバルセロナ(Futbol Club Barcelona)
スペイン・バルセロナを本拠地とするサッカークラブチーム。1899年創設。愛称は「バルサ(Barca)」、またはクラブカラーから「ブラウ・グラーナ(Blau Grana)」。日本でも「バルサ」と呼ばれる例が多いが、本来これらの愛称は地元のサポーター(バルセロニスタ)のみが呼ぶものである。数々のタイトルを獲得したヨーロッパでも屈指のビッグクラブ、名門クラブであり、政治的背景などからレアル・マドリードとは長年のライバルである。 「クラブ以上の存在(Mes Que Un Club)」がクラブのスローガンであり、ユニホームの後襟にもこの言葉がプリントされている。 クラブの会長は、ソシオと呼ばれる会員の選挙によって選ばれる。日本での人気も非常に高い。
「攻撃的でスペクタクルなフットボール」をクラブのアイデンティティとしており、試合に勝ったとしてもその内容が守備的でつまらないとサポーターから容赦ないブーイングが浴びせられる。このような習慣はスペインほぼ全てのクラブに存在するが、バルセロナは特にこれが顕著。結果よりも内容の価値が遥かに大きい点でこのクラブは"異常"な存在であるとも言える。
カンプ・ノウ (Camp Nou) は、スペイン・バルセロナにあるサッカー専用スタジアム。1957年9月24日完成。リーガ・エスパニョーラに所属するFCバルセロナのホームスタジアム。名選手ラディスラオ・クバーラ、サンドール・コチシュ、ラモン・ビジャベルデ、エバリストらの1950年代FCバルセロナ黄金期に、その人気の後押しを受け建設された。Camp Nouとはカタルーニャ語であり、英語に直すとNew Stadiumとなり、(以前使用していたスタジアム「レス・コルツ」Les Cortsと比較して)「新しいスタジアム」と言う意味である。
収容人数は欧州最大の98,600人。1982年スペインワールドカップでも使用された。 UEFAが選定するスタジアムのレベルも最高クラスであり、過去にはUEFAチャンピオンズリーグ決勝戦がここで行われた。 スタンドの景観はもとよりピッチの水捌けまで計算されている。 ピッチは肉眼では分からない位アンジェレーションが付いていてほんのわずかだけ真ん中が高く、外に行くにつれてだんだん低くなる設計がされており水が流れ出るようになっている。 スタンドについては一階以外はどの角度から見ても全体を見渡せるようになっている。ワールドカップ開催に併せて収容人数を約12万人に増やしたが、90年代に入りFIFAの規則に従って98,600人に縮小した。

★1899~1902年南ア戦争(南アフリカ戦争、ブール戦争)
イギリスが南アフリカのオランダ系入植者国家、トランスヴァール共和国、オレンジ自由国を併合するために行った戦争。

①第1次ボーア戦争1880年~1881年
ダイアモンド鉱山を持つトランスヴァール共和国をイギリスが併合しようとした戦争。
1881年のマジュバ・ヒルの戦いで英軍は大敗。このためプレトリア条約でイギリスはトランスヴァール共和国を承認した。

②第2次ボーア戦争1899年~1902年
金とダイアモンドの独占を狙うケープ植民地首相セシル・ローズらはトランスヴァール共和国併合を諦めてはいなかった。
今度は選挙で攻めようとしたが、トランスヴァール大統領のポール・クルーガー?はその思惑を見抜き、1893年に(外国人労働者である)イギリス人鉱山事業従事者の選挙権を制限する。
次は武力で行こうと1895年にジェームソン事件を引き起こすが、ボーア人の民兵に阻まれ失敗、セシル・ローズは引責辞任する。
危機感を強めたトランスヴァールは1899年にオレンジ自由国と同盟、ついに戦争がはじまった。
当初イギリス側は状況を楽観的に見ていたが、ボーア民兵は巧妙なゲリラ戦を展開してイギリス側は大苦戦を強いられる。このためイギリスは45万人という空前の大兵力を投入した。これによってブルームフォンテン、ヨハネスブルク、プレトリアといった主要都市を陥落させる。普通だったらこれで戦争は終わるはずだったが、ボーア人たちは諦めず、さらに2年間にわたるゲリラ戦が続いた。
最終的に20世紀型の戦争を完遂するために生まれてきた男、キッチナーがゲリラ支配地域の住民を「強制収容所(concentration camp)」に押し込める(劣悪な環境により2万人以上が死亡したとされる)という作戦によってゲリラを日干しにすることに成功、英国の勝利で戦争は終わった。
イギリスはボーア人の住む両国を占領して植民地とし、1910年に南アフリカ連邦を建国した。ただし、戦争で苦戦したことからイギリス側はアフリカーナー達に大幅な自治権を認め、南ア連邦の主導権はボーア人たちが握ることになった。
「英国史上最も不人気な戦争」とまで呼ばれたこの戦争は、大義もなければ正義もなく、さらにボーア人に対する非人道的行為などから親ボーア・反植民地主義を唱える勢力を盛り立て、大英帝国の正当性に対する深刻な疑念を呼び起こした。自由主義と帝国主義との相克は、その後の大英帝国の終焉まで(もしくは今日の北アイルランド問題まで)続くこととなる。

宅配型コミックレンタルサービス「コミかる」、18万冊・5000シリーズで開始

http://www.ebookoff.co.jp/comical.jsp
オンライン中古書店「eBOOKOFF」を運営するネットオフは4月16日、宅配型コミックレンタルサービス「コミかる」を開始した。月額基本料は980円で、レンタル料は1冊につき126円となる。
 コミかるは、インターネットを利用した予約申込みによって、24時間・365日のオーダーに対応した宅配コミックレンタルサービス。レンタルコミック貸与使用料の正式運用が開始されたことを受け、2006年11月よりネットオフ子会社のブックチャンスが提供していたサービスを本格スタートしたものだ。
 このサービスでは、ウィッシュリストに登録したコミックが宅配便で届けられる。返却は自宅集荷を利用できるほか、コンビニエンスストアへの持ち込み返却も可能。返却が完了した時点で、次のコミックの発送準備が行われ、ウィッシュリストの優先順位を考慮して15~20冊がまとめて発送される。
 レンタルできるコミック冊数は5000シリーズ・18万冊。利用料金は月額基本料が980円、レンタル料が1冊につき126円/冊(通常)、280円(最新作のみ)。
。延滞料、入会金、送料は不要だ。発送・返却方法は、4冊以下の場合は宅配便またはメール便、それ以上の場合は宅配便となる。

ナポレオン・ミステリー (文春新書)

p26フランスのメディアの調査でも「フランス史上、重要な役割を演じた
人物は誰か?」という問いに、答えは「ドゴール、ナポレオン、シャルルマーニュ」というのが大体において定番といったところだ。
ナポレオン人気の理由としては、「フランス革命を終わらせた」
現在でも有効な多くの制度を創設した」「フランスの良さを体現した」「不世出の英雄である」などがあげられ、雑誌などでもスーパースター扱いだ。
ナポレオン関係の本はフランスだけでも数十万点出版されているが、そのほとんどが「英雄譚」であり、批判めいたものは少ない。

p39 スパイと情報通信機
ナポレオンは1802年に終身統領になって以来、約数十年にわたり大陸では連戦連勝の記録を作ったが、これは単にナポレオンの軍隊が軍事的
に強かったからではなく、隠れた勝因があったのだ。
それはナポレオンの秘密兵器「情報スパイ」の活用だったのである。
彼は敵地にスパイを送り込んで、敵の兵力、敵陣に関する情報を組織的に収集した。
当時、スパイはいたが、組織的にスパイを展開するという戦法は
あまり知られていなかった。
ナポレオンの情報スパイネットワークは欧州全土に張り巡らされ、
ワーテルローで敗北するまで、部下の外交官、将軍たちは「敏速
にして正確な情報」の提出をナポレオンに求められたのである。

p51ナポレオン法典
男性天国。女性の不倫は有罪だが、男性の場合は不倫が夫婦の住む
家の中で行われない限り、罪にはならない。

p106ユーロトンネル
ナポレオン時代に英仏海峡トンネルの構想が始まった。
だからさぞかし、ユーロトンネルの開通を彼も喜んでいるでしょう。
しかし、パリ~ロンドンを通る列車ユーロスターのイギリスの終着駅名が「ウォータールー」(フランス語でワーテルロー)であることは不愉快だろう。
言うまでもなくウォータールーはナポレオンがウエリントン将軍率いる連合軍に敗北した地である。
ナポレオンに限らず、フランス人にとっては屈辱そのもの。逆に英国人にとっては勝利の栄光であり、それゆえにロンドンのど真ん中、しかもヨーロッパ大陸からくる列車の終着駅にウォータールーと命名したわけだ。本当のウォータールーはベルギーにあるのにもかかわらず。

iPhone全米で発売 iPod機能つき新型携帯

米アップルは米国内で29日夕(日本時間30日朝)、新しい携帯電話「iPhone」を売り出した。携帯音楽プレーヤー「iPod」機能つきで、パソコンの主要機能も備え、操作ボタンがなく画面に触れる方式。その目新しさが注目を集め、発売前から全米各地で行列ができ、高い人気をみせつけた。
 発売は全米各地の午後6時。米国内の時差に合わせ1時間ごとに東部から西海岸へと順次発売が始まり、その様子を米テレビ局が中継した。
 最も早く発売された東部地域のニューヨークでは、目抜き通りの5番街にあるアップル直営の旗艦店に500人以上が列をつくった。徹夜で並んだニューヨーク市内の会社員ケスー・ジェームズさん(29)は「今まで見たこともない最高の携帯電話だ」と興奮気味。
 iPhoneは、インターネットを通じてダウンロードした音楽やテレビ番組、映画などの再生ができる「iPod」の機能がついている上、ネット検索などのパソコン機能もある。「スマートフォン」と呼ばれる多機能携帯電話の一種だが、人気の秘密は操作ボタンやキーボードをなくした斬新なデザインにある。
 3・5インチのワイド画面上に表示されるアイコンや文字などに指を触れて操作する。人さし指を画面上で滑らせると、登録した音楽や電話番号のリストが次々に出てくる。価格は容量4ギガバイトの機種が499ドル(約6万1000円)、8ギガバイトが599ドル(約7万3000円)。
 アップルは今年後半には欧州で、08年にはアジアでも発売する計画だが、日本での発売時期は未定。日本の通信方式は欧米と違うため日本仕様に作り直す必要がある。だが、日本でもiPodのように人気を呼ぶ可能性は高く、日本の各通信会社のどこと組むかが注目されている。
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