ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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「石見銀山」逆転ミラクル世界遺産 2007年06月29日

谷間沿いに延びる温泉津(ゆのつ)の町並み。銀を産出した仙ノ山と銀山街道でつながる
 ニュージーランドで開かれている国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は28日、「石見(いわみ)銀山遺跡とその文化的景観」(島根県大田市)の世界文化遺産登録を決めた。同遺跡をめぐっては、ユネスコの諮問機関が事実上“却下”とされる登録延期を勧告をしたばかり。決定はこれを覆す大逆転となった。

 ≪あきらめかけた登録延期≫
あきらめムードが一転、地元は「銀ならぬ大金星」と喜びに沸いた。日本の世界遺産登録は05年の「知床」(北海道)以来14件目。産業遺産としては国内初となる。
 「登録延期」で一時はあきらめかけた。ユネスコの諮問機関、国際記念物遺跡機関(イコモス)が勧告したのは今年5月のことだった。世界史の中での価値の実証が不十分であることなど24項目が指摘され、復活はほぼ絶望視されていた。
 しかし、その後日本政府は「東西の文明に影響を与えていたのは、李氏朝鮮やヨーロッパの地図を見れば明らか」などとする「補足情報」を委員会構成国に送り、外交活動を展開。1カ月半で評価を2段階アップさせ見事、勧告を覆した。
 同日の審査では、銀山遺跡が緑に覆われていることなど自然と共生しているユニークな点も評価されたという。
 この日、テレビのテロップで地元に吉報が入ったのは午後0時半。市役所前には「祝・世界遺産登録!」のくす玉が割られ、石見銀山資料館では職員や館内にいた観光客らから一斉に歓声と拍手が上がった。仲野義文館長(42)は「あの勧告で地元は暗くなっていた。まさに奇跡」と興奮気味。
 長年登録に向け運動に取り組んできた大田市観光協会の河村政経副会長(73)は「過疎や高齢化が進み、登録が希望の光。祈りが通じた」と笑顔が戻った。地元では正式登録される7月2日に、ちょうちん行列などで市をあげてお祝いをする。

 ▼世界遺産 人類共通の遺産として保護するため、世界遺産条約に基づいて国連教育科学文化機関(ユネスコ)が登録した文化財や自然環境。年1度の世界遺産委員会で登録の可否を決める。昨年7月の前回委員会までに830件(文化遺産644、自然遺産162、複合遺産24)が登録済み。
[ 2007年06月29日付 紙面記事 ]
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2007/06/27 100年前発掘のミイラはハトシェプスト女王=歯が決め手―エジプト

【カイロ27日】エジプト考古学最高評議会のハワス事務局長は27日、カイロ市内で記者会見し、ルクソールの「王家の谷」で約100年前に発見された2体のミイラのうち1体が、古代エジプト新王国第18王朝のハトシェプスト女王(紀元前15世紀ごろ在位)のミイラと特定されたと発表した。
 同氏は発表に先立ち、米ディスカバリー・チャンネルに対して、今回の発見は「1922年にツタンカーメン王のミイラが見つかった時以来の重要な発見だ」と述べた。
 2体のミイラは1903年に「KV60」と呼ばれる墓で発掘された。うち1体はハトシェプスト女王の乳母のものとみられ、残る1体の女性ミイラについては、王のように手が胸の上に置かれていたことから、同女王のミイラではないかとの見方が出ていた。
 ハワス氏らはコンピューター断層撮影装置(CT)を使い、同女王のものとされてきた歯が、このミイラの臼歯の抜けた跡にほぼ合致することを突き止めたという。
 ハトシェプスト女王は夫トトメス2世の死後、摂政を経て王位に就いた。最も有力な古代エジプトの女性支配者の一人とされるが、墓所は見つかっているものの、ミイラは失われたと考えられていた。 〔AFP=時事〕

教父アウグスティヌスと反ユダヤ主義

キリスト教徒とユダヤ教徒のケンカの発端は、ユダヤ教徒が
イエスをメシア認めず、結果として十字架刑に処した。
キリスト教の教父とされるアウグスティヌスはユダヤ教徒には永遠にキリストを裏切った報いを味わわせるべきと述べた。
(ローマ=カトリック教会キリストの死をユダヤ人全体のせいにしたのは
誤りだった訂正し、バチカンとイスラエルが基本合意に調印して正式に
キリスト教徒とユダヤ教徒が和解したのは実に1993年12月である。)
☆アウグスティヌス(354年11月13日 - 430年8月28日)
古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者、ラテン教父とよばれる一群の神学者たちの一人。古代キリスト教世界のラテン語圏において最大の影響力をもつ理論家。カトリック教会、聖公会および東方正教会などの聖人。

「ツアー旅行」の創始者トーマス・クック.

トーマスクック社は、時刻表を編纂発行する出版社ではなく(出版部門も持っているが)、ツアーを企画提供する旅行代理店である。しかも。創業者のトーマス・クックは団体行動を24時間とりつづけなければならない「ツアー旅行」の創始者だったのだ。創業は19世紀前半の、まだイギリスに鉄道がようよう敷設され始めた頃。
広告を打って参加者五百人近くを集め、団体旅行を敢行した。 創業者のトーマス・クックは、小学校を中退し、弟妹を養うために家具工房と活版印刷工房で丁稚をしていたという、根っからの労働者階級出身。そんな人が当時は貴族をはじめとする上流階級連中のものだった「旅」をどうやって知っていたのか。彼は丁稚のかたわら教会の日曜学校に通い詰めて布教師になり、 各地を布教して回っていたのだ。それも当時高額だった電車にはあまり乗らずに徒歩で・・・・・・。
 しかも彼は熱心な禁酒運動家でもあった。彼が企画したはじめのツアーは会員を禁酒運動の大会に連れて行くためのもので、純粋なボランティア活動だったのだ。旅をすることで酒以外の楽しみを味わい、教養を高めて欲しいという願いが込められていたのだ。こうして団体貸し切りにすることで運賃を割引するやり方は非常に好評をとり、これまで旅行などしたこともなかった労働者階級もあたりまえのように行楽地にでかけることができるようになる。彼はいわば 「旅」を大衆に開放したのだ。 彼の真面目なサービス精神は、ホテルや食事の手配の手際の良さ清潔さなどに反映され、旅行業が本業となり、会社はどんどん繁盛していく。
信仰篤く良心的なトーマス・クックの息子がすご腕の上昇志向のビジネスマンであるところが、この会社の面白いところ。息子は商売の方針を貧乏人相手の薄利多売国内旅行からブルジョア相手のヨーロッパ大陸旅行、いやいさらにもっとと、パレスチナ巡礼、インド、エジプト、そして世界旅行と交通機関の発展とともに移動距離を延ばし、利益も釣り上げていく。
最終的には女王陛下やマハラジャ、ロシア皇帝などなど、世界のVIPの旅の手配や戦時の兵士輸送まで手がけるようになっていく。
 Wikipediaによるとトーマス・クック社は、2001年にドイツ企業のC&N Touristic AG に買収され、トーマス・クック・アー・ゲー社に改名。トーマスクック・ヨーロッパ鉄道時刻表』は、1873年に発刊し、買収された今も健在。こうしている今も何万人というバックパッカーがこの時刻表片手にヨーロッパを回っている事だろう。

◇NHKスペシャル◇失われた文明 インカ・マヤ

第1集アンデス ミイラと生きる:7月1日(日)午後9時~9時59 
第2集マチュピチュ 天空に続く道:7月8日(日)午後9時~9時59
第3集密林が生んだ二千年の王国:7月15日(日)午後9時~9時59
インカ文明やマヤ文明など、失われた文明の謎と歴史を探る。アンデス地方に伝わるミイラ文化をたどる。かつてインカ帝国が栄えたアンデスの各地で、ミイラの発見が相次いでいる。アンデスのミイラは家の一角に置かれ、家族が服を着せたり食事を与えるなど「生きている存在」として扱われていた。その伝統は今も残っている。インカ皇帝も死去した後にミイラとなり、生きた存在として領土を保有し続けた。相続を受けられない次の皇帝は新たな領地を求め、各地に遠征した。そのためインカ帝国は皇帝が変わるたびに領土を増やし、急速に拡大していった。しかしそれは同時に、帝国崩壊の大きな要因となった。最新の発掘調査や今も残る不思議な風習を通して、ミイラ文化の観点からインカ帝国の盛衰をたどる。

元のフビライ=ハンが南宋攻略に使った投石機.

1270年代に元のフビライハンの軍勢が南宋のの重要拠点の襄陽城を攻めたとき、幅450mもある濠に守られていたため、5年も耐えた。
これに対して、元軍は、20台の投石機を用い、石弾を連射して
ついに攻略した。 これが回回砲である。
デンマークの学者がこの投を再現して実験したところ、15kgの石弾を600m投げる性能があったという。

★回回砲
ペルシア人によって製作された大型投石機。元朝時代、
イスラム文化圏における投石機製造技術が世界最高水
準であることを知ったフビライ=ハーンはイル=ハン国
より、アラー・アッディーン、イスマーイールなどの技術者
を招聘し製造させた。数十kgもの石や爆発物をはねとばすこの新兵器は、 1274年、襄陽、樊城に対する攻城戦で絶大な威力を発揮した。 これにより、1279年に南宋王朝は滅亡するのである。

史上最悪の過酷な試験

中国では官吏登用のことを選挙というが、試験には種々の科目があるので、科目による選挙、それを略して科挙という言葉が唐代に成立した。
とくに、君主による独裁体制が確立した宋代、皇帝は自分の思うままにこき使える官吏を、科挙によって十分に補給することができたのである。
科挙はあくまでも選抜試験であって、それ自体には教育の意味を含まない。ただ学校で養成した人材を試験によってよりすぐって、これを官吏にするのが科挙の狙いであった。

受験戦争の始まり
中国の広い国土と人口の中から、もっとも環境に恵まれ、才能に富んだ人たちが集まって必死の競争を展開するのだから、科挙はどんど難しい試験になっていった。
科挙のための競争は、すでに子供の頃から始まっている。金持ちの家では、子供を寺子屋に入れて『論語』をはじめとする四書・五経を徹底的に覚え込ませる。科挙を受けようとするものは必ずどこか国立学校の生員(生徒)でなければならなかったから、まずその学校に入るための入学試験を受けなければならない。これが学校試と呼ばれるものであり、3年に2回の割合で行われた。

学校試
学校試は3つの段階に分かれていて、第一が県で行なわれる県試、第二が府で行なわれる府試、第三が本試験ともいうべき院試である。
県試では、まず最初の問題は四書から出る。たとえば、『論語』の本文にある「君子に三つの畏(おそ)れがある」というのが問題に出ると、その答えには「天命をおそれ、大人をおそれ、聖人の言をおそれる」という下文を引用し、それに朱子の意見や自分の解釈を加えて1つの文章をつくるのである。
出題の後、1時間ほどすると、係員がまわってきて、答案が書けた所までのあとに印判をおす。これは答案作成の速度を知るためで、この1時間の間にもし1行も書けず、最初の所へ印をおされると、そのあとの答案がいかによくできていても、採点の際不利となる。
第二の問題は四書からの問題と題を示し韻を指定して詩を作らせるという問題と2問出る。県試では入学定員(4名~25名)の約4倍ほどを採用しておいてその後の2回の試験で絞り、ちょうど入学定員の数に一致させる。
こうして、府試・院試、さらに今一度学力をためすための歳試が行なわれ、「童生」は晴れて国立学校への入学を許可され、「生員」となるのである。そして、いよいよ官吏への関門である科挙に臨む。
ここからが本番だ。

科挙試─郷試
郷試の予備試験である科試(倍率約100倍)を突破した者を「挙子」と呼ぶ。
郷試は3年に1回、8月9日~16日(旧暦)にかけて、各省の首府で行われる。試験場は貢院といい、独房が蜂の巣のように何千・何万と並んでいる。挙子は、試験開始の前日、8月8日に入場する。
門前でまず人員点呼が行われ、各学校の教官が立ち会って本人に間違いないことを確認する。挙子はめいめいに大きな荷物を抱えているが、それもそのはずで、試験場でとりあえず3日3晩を過ごさなければならないから、硯(すずり)や墨、筆、水さしのような文房具のほかに、土鍋・食料品・せんべい蒲団・入り口にかけるカーテンまでもちこむ必要がある。
点呼がすむと、今度は身体検査がある。4人の兵卒が同時に挙子の着衣を上から下までなでまわし、荷物を開けさせて内容を調べる。書物はもちろん、文字を書き込んだ紙片は持ち込み厳禁で、もしそれを発見した兵卒があれば、銀3両を賞に与えられるというので、取調べは厳重をきわめ、饅頭(まんとう)を割って中のあんまで調べるといわれる。
それが終わるとようやく受験生は試験場に入り、自分の独房をさがしあてる。1日がかりの入場さわぎが終わり、挙子が全部それぞれ自分の号舎に落ち着くと、大門に錠が降ろされる。この時以後はどんなことがあっても試験の終了するまでこの門の扉は開かれないのである。
翌朝から試験開始である。係員がまわってきて、答案用紙と問題用紙を配布する。この日の出題は四書題3、詩題1である。挙子たちは、これから頭を抱え、知恵を絞って答案作成に取りかかる。時間は十分に、翌10日の夕刻まで与えられている。
まず、草稿紙の上で十分に案を練り、いよいよ自信ができたときに初めて清書に取りかかる。腹が減れば持参の饅頭を食い、時間に余裕のあるものは土鍋で飯をたく。雨が降ったりすれば大変だ。戸のない独房の中に容赦なく吹きつける雨で命よりも大切な答案を濡らすまいと、必死になって防ぐ。夜になればろうそくを灯すことが許されるが、もしそれが倒れて答案用紙に焼け穴でもこしらえたらおおごとである。
疲れればぜんべい蒲団をひっぱりだしてひと休みすることもできる。しかし隣の独房にこうこうと灯がついていると、自分一人遅れてはなるまいと、再びとび起きて答案用紙に向かう。
疲労と興奮とが重なって、たいていの人は頭が少しおかしくなり、日頃の実力が発揮できぬものが多いが、ひどいのになると病気になったり、発狂したりする。

採点と合格発表
8月11日に第2回の出題(五経題5問)、第3回の策題(政治評論)は15日に行われ、1週間にわたった郷試はすべての日程を終了する。15日はちょうど仲秋の名月であるから、試験から解放された挙子たちは心ゆくまで酒宴を楽しむ。
挙子の苦労に匹敵するのが審査(採点)である。うず高く積まれた何万人分もの答案の中から優秀な答案を拾いださなければならない。しかも、その答案には受験生の一心がこもっているので、それがときどき神秘的な力をもって考官(審査官)の心理を撹乱(かくらん)するという。
ある考官は一枚の答案を見ていくうちにどうもよくないと思って×をつけておいた。ところが翌朝起きてその答案を見ると、確かにつけたはずの×が消えている。不思議に思ってそれを一番最低で合格させた。果して、この受験生は立派な人物で、のちに有名な政治家になったという。
郷試の合格発表は9月5日から25日のあいだに行われる。
合格者は今や挙子ではなく、新たに「挙人」の資格を終生にわたって獲得する。挙人は、とくに自分の才能や学問を認識して合格させてくれた試験官との間に、かたい師弟の契りを結ぶ。この師弟関係は一生涯続くことになる。これは、皇帝の側からすれば、党派をつくる一因となり好ましくなかったので、幾度か禁令が出されたが一向に効き目がなかった。そこで宋代に、皇帝自らが試験官となって最終試験を行ない、恩を売ってその合格者すべてを弟子とし、官僚の大親分になろうとした。これが殿試である。

挙人の偉さ
挙人になると、世間の見る目も一夜のうちに違ってくる。
清代の小説『儒林外史』の主人公范進(はんしん)が郷試に合格したときの話。范進はやっとのことで院試に合格して生員となったが、暮らしは依然貧乏であった。外出するにも着物のすそにいつもぼろがぶらさがっている有様なので、世間でもあまり尊敬してくれない。范進がとくに頭が上がらないのが、妻の父である。范進がいつも妻子をほったらかしにして勉強にふけっているものだから、いつも舅(しゅうと)からののしられていた。
友人から金を借りて首府に出向き、やっと郷試を受けて帰ってみると、妻も子ももう食料が尽きて餓死寸前である。舅はそれを聞きつけてまた彼を怒鳴りに来る。范進は金を工面するために町へ出かけた。
その留守に、県から范進の郷試合格通知書をもって使いがやってきた。帰ってきた范進を見て、近所の人たちが合格だ合格だとはやしたてるが、范進は一向本気にしない。しかし、自分の家の戸口に掲げられた合格通知書を見るなり、范進は、合格だ!と叫んでその場にばったり倒れてしまった。
あわててバケツの水をぶっかけると、息を吹き返したのはいいが、今度は、合格だ!合格だ!といってそこらを走り回る。すっかり気がちがってしまったのである。
「こういうときはふだん一番怖がっている人に叱りつけてもらうとなおるものだ」と誰かが言うものだから、それなら舅だ、ということで、范進のもとへ連れて来られた。しかし、婿(むこ)の頭をどやしけろと言われても、今や婿は「新挙人さま」である。なかなか手は出ない。周りの者にせかされた挙句、酒をぐいとあおった勢いで、走り回っている范進をつかまえ、「こん畜生、何が合格だ!」と一撃を加えた。范進は無事正気を取り戻した。

科挙試─挙人覆試・会試・会試覆試・殿試
郷試のあった翌年の3月、全国の挙人を集めて会試が行われる。
この会試こそ、科挙の本体をなすものであり、唐代にはこの試験は貢挙とよばれ、これに合格すればすぐ進士になれた。といっても、実際に官吏の任免をつかさどるのは吏部であるから、最後に吏部試という採用試験を受けなければならなかった。
この試験は身・言・書・判の4種類であり、身とは官吏となって人民を威圧するに足る堂々たる風采があるか、言とは言葉になまりがなく、荘重に部下に命令したり仲間と応対できるかを試した。書は文字がきれいに書けるかどうか、判は法律上の問題に関して誤りなく裁判ができるかどうかを検査した。
清代には、あまりにも挙人が多くなり試験場に入りきれない恐れが出てきたので、会試の前にもうひとつ挙人覆試なる試験を設けて志願者をふるい落した。また、殿試の前にも会試覆試と称する予備試験を加えている。
殿試は、皇帝自らが出題する最終試験であるから、今までの試験とは趣きが違う。その答案も、少なくとも1000字を書かなければならない。また、答案の書き方も形式が決まっており、これに背くことは許されない。
参考:宮崎市定著『科挙』(中公文庫)

クリストファー・コロンブス

1446?-1506年 スペインの王家に仕えたイタリアの航海・植民地行政者
1492年アメリカ大陸を発見し、ヨーロッパの新大陸進出の先駆となった。ジェノバ生まれと言うが、前半生は明らかではない。1478年からポルトガル海図作成に従事。フィレンツェの天文学者トスカリネリに影響され、東方航路は大西洋を西航することで可能であると主張、その大西洋横断によるインドへの航海計画は当時東方貿易のための新航路を求めていたスペイン女王イザベラの援助を受け、実現に移された。

-航海日誌-
1492年8月3日~1493年3月15日 <第1回航海>
サンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャー号の三隻の乗組員90名で出発。1492年10月12日、バハマ諸島のサン=サルヴァドル島(一説ではワトリング島?──1986/10/28付朝日新聞)に到達。キューバ・エスパニョラ島の沿岸を航海したのち帰国。出発前(1492年4月)の協約によって、コロンブスは発見した島島すべてを支配する副王(総督)の地位を認められる。
また、持ち帰った真珠・宝石・金銀などについてはその10分の1を獲得した。

1493年9月25日~1496年6月11日 <第2回航海>
17隻の乗組員1500名からなる大艦隊で出発しました。しかし、現地人の反乱が慢性化したため、現地人を奴隷として本国に送り返し、イザベラ女王の怒りをかうことになった。

1498年5月30日~1500年10月31日 <第3回航海>
船数6隻で出発、現地で反乱が発生したため、彼の統治能力に疑問を持たれ、本国に送還されてしまう。

1504年11月7日~1504年11月7日 <第4回航海>
船数4隻の乗組員140名で、パナマ地峡を探検するだけで空しく帰国する。その無理がたたって急速に健康を害し、1506年、他界する。

コロンブスはなみはずれて優れた航海者であったのは事実である。第1回の航海も決して無鉄砲な冒険ではなく、確実な計算に基づいた行動であった。反面、かれは行政官としては落第であったといわざるをえない。1504年、最大の理解者であったイサベル女王が死去すると、宮廷にはかれに好意を示そうとするものがいなくなった。そもそも、コロンブスの身分は「市民」でしかない。むしろ、副王たるコロンブスの存在は邪魔になるばかりであった。「航海の天才」は失意と不遇のうちに、1506年5月20日、この世を去った。

霊船メアリー・セレスト号事件と麦角菌(バッカクキン)

世界には、これまで原因不明の事件が数多く記録されている。
 1872年に起きたメアリー・セレスト号事件は多くの人に知られることになった事件だ。発見された時は、船内に水や食料は豊富にあるのに、なぜか人だけが乗っていず、船だけが海上を漂っていたという謎に満ちた事件でもあった。
 メアリー・セレスト号には、38才になる船長とその妻、2才になる娘の他、7人の乗組員、計10人が乗り込んでおり、1700樽に及ぶ原料アルコールを積んで、ニューヨークからイタリアのジェノア港へ向かっていた。しかし、発見された時は、無人の状態で、船内は朝食の最中だったらしく、食器類がテーブルの上に置かれたままであった。ゆで卵など、先が割られ食べかけのまま放置されていた。まるで、食事中に急用か何かを思い出してぶらっと席を立ち、そのままになってしまったような状態なのであった。
 船内に残された航海日誌によって、発見されるまでメアリー・セレスト号が10日間も幽霊船のように大西洋上を4百キロあまりも漂っていたということがわかった。
 その後、調査がなされたが、船そのものには致命的な損傷など見当たらず、さして沈没の危険性もあったとは思えず、どうして乗組員がその船を見捨てることになったのか、また、失踪した乗組員が、その後どういう運命となり、どこへ消えてしまったのか多くの謎を残すことになった。
大西洋上で無人で発見されたメアリー・セレスト号は、幽霊船の代名詞にもなった。
 しかし、異常が全くなかったわけでもない。救命ボートが一艘なくなっていたこと、食料倉庫が開いたままの状態で、船の前部のハッチがなくなっていたこと、船の手すりに血痕らしきものが付着していたという事実が認められたことであろうか。
 これらは、恐らく、事件に関係があると思われたが、船を遺棄させるほどのパニックが急に起こったのに違いないと推測され、いろいろな仮説が立てられることになった。
 まず、海賊に捕まって全員が連れ去られたと考える者もいたが、船の積荷は、全く失われておらず船内も整然としており、海賊による仕業とは思えなかった。次に、船員による反乱説も考えられた。しかし、船長のブリッグスは大変なクリスチャンで、人望も厚く乗員にとって不満を募らせるような人物ではなかった。それに、反乱が起こったとすれば、どうして起こした側の人間も一緒に消え失せてしまわねばならないのか。

麦角菌(バッカクキン)説
 麦角菌によって全員が錯乱状態となったのではないかと考える者もいた。麦角菌とは、ライ麦などの穀物に付着する菌だが、この菌の持つ毒素は大変強烈で、体内に入ると脳の中枢が冒されて猛烈な幻覚症状に襲われることが知られている。
 麦角菌に冒された人間は、自分が心の中でもっとも恐ろしいと思っている化け物の幻覚に襲われるのである。そのため、場合によっては、恐怖に駆られて自殺に追い立てられることもあるという。
 メアリー・セレスト号の乗員は、朝食時に麦角菌の発生したパンを食べたため、全員が発狂し、恐ろしい幻覚から逃れようとして次々と海に飛び込んだというのである。
今のように保冷技術がなかったかつての長期間航海時代,主食として積まれていた麦が麦角菌に汚染されていたために乗組員が全員幻覚に襲われて海に飛び込んだりしたということも十分に考えられる。

海上へ逃亡説
 あるいは、船の前部のハッチがなくなっていたことから、船内にメタンガスが充満したために爆発して吹っ飛んだためではないかと考えた者もいた。その爆発は朝食時に突然起きたものと思われた。その大音響に驚いた船長は、今にも船が粉々に爆発するのではないかと考え、急きょ全員にボートに乗ることを命じ、しばらく海上で様子を見ることにした。
 しかし、いくら時間が経っても、船に異常は見られず爆発の危険もなさそうに思えた。
 そこで、船に戻ろうとしたのだが、追い風を受けた船は一人でに勢いよく進み出し、いくら漕いでも追いつくことが出来なかった。そして、とうとう大西洋上に取り残される羽目になってしまった。  その後、海上を漂っているうち、大波に襲われてボートは転覆し、全員が海の藻くずと化してしまったというのである。
救命ボートに乗ったまま、大西洋上に取り残された?
 その他、神かくしにあったとか巨大イカに襲われて、全員が海中に引きずり込まれたのではないかという突飛もない説まであらわれた。しかし、どの説も想像力をかき立てる興味本位の説ばかりで納得のいくものはなかった。こうして、この不可解な事件は、真相が解明されることもなく今日に至っても謎のままなのである。

卑怯者だった?『宮本武蔵』

宮本武蔵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
兵法家・武士としての武蔵の実像と虚像
『五輪書』には13歳で初めての勝負を新当流の有馬喜兵衛と決闘して以来29歳までに60余回の試合を行い、すべてに勝利したと記述される。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは従来、父無二の旧主君であった新免氏が宇喜多秀家配下であったことからそれに従って西軍に参加したと言われてきたが、父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書(『慶長7年・同9年黒田藩分限帖』)が存在することから、父と共に当時豊前を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い。黒田家臣・立花峯均による武蔵伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』(通称『丹治峯均筆記』)には、黒田如水の軍に属して九州豊後の石垣原(今の別府)で西軍大友義統軍との合戦に出陣し、出陣前の逸話や、冨来城攻めでの奮戦振りの物語が記されている。
武蔵21歳の時に京に上り兵法家吉岡一門と戦ったことは、文芸作品等でさまざまな脚色がされ有名である。
武蔵が行った試合の中で最も広く知られているものは、俗に「巌流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に長門国(現在の山口県)の舟島(関門海峡に浮かぶ巌流島)で、岩流なる兵法者と戦ったとされるものである。この試合を記した最も古い史料は、武蔵の養子伊織による承応3年(1654年)の『新免武蔵玄信二天居士碑』(小倉碑文)である。これによると「爰に兵術の達人、岩流と名のる有り。彼と雌雄を決せんことを求む。岩流云く、真剣を以て雌雄を決せんことを請ふ。武蔵対へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ。吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前との際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。両雄、同時に相会す。岩流、三尺の白刃を手にして来たり、命を顧みずして術を尽くす。武蔵、木刃の一撃を以て之を殺す。電光も猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ。(原文漢文)」とある。次に古い記録は試合当時に門司城代であった沼田延元の子孫が寛文12年(1672年)に編集した『沼田家記』である。その記述を要約すると以下の通りである。

宮本武蔵玄信が豊前に来て二刀兵法の師になった。また、小倉には岩流兵法の師である小次郎がいた。
門人の諍いによって武蔵と小次郎は一対一の約束でひく島(後の岩流島)で勝負をした。
試合の結果、小次郎が敗れた。
約束を破り武蔵の弟子達が島に隠れ来ていた。小次郎の弟子は約束を守り一人も来ていなかった。
勝負に敗れ気絶した後蘇生した小次郎を、武蔵の弟子達が皆で打ち殺した。
それを聞き小次郎の弟子達が島に渡り武蔵に復讐しようとした。武蔵は門司まで遁走、城代の沼田延元を頼った。
沼田延元は武蔵を門司城に保護、その後鉄砲隊により警護し豊後に住む武蔵の父親(無二)の所まで無事に送り届けた。
その後、『本朝武芸小伝』(1716年)、『兵法大祖武州玄信公伝来』(1727年)、『武公伝』(1755年に完成)等によって成長していった岩流の出自や試合の内容は、岩流を佐々木小次郎と初めて記した『二天記』(1776年)によって、岩流の氏名や出自、武蔵の手紙、慶長17年4月13日に試合が行われたこと、御前試合としての詳細な試合内容など、多くの史的価値が無い内容によって生き生きと詳述された。『二天記』が詳述した岩流との試合内容は、明治42年(1909年)熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂による『宮本武蔵』通称『顕彰会本』で原資料の一つとなり無批判に史実とされ、さらに吉川英治が小説『宮本武蔵』(1935年~1939年)で『顕彰会本』の内容を用いたことから広く知られるようになり、多くの俗説が現代でも語られている。

大坂の役(慶長19年(1614年) - 元和元年(1615年))では従来、豊臣方として参戦したと通説の如く語られるが、根拠のない俗説である。実際は、水野勝成の客将として徳川方に参陣し、勝成嫡子勝重(のち水野勝俊)付で活躍したことが数々の資料から裏付けられている。

その後、姫路城主本多忠刻と交渉を持ちながら活躍。明石では町割(都市計画)を行い、姫路・明石等の城や寺院の作庭を行っている。『海上物語』ではこの時期、後に神道夢想流杖術を創始した夢想権之助と明石で試合したことが伝えられている。(同記事のある『二天記』ではこの試合は江戸でのこととされるが、この記事は『二天記』の原史料である『武公伝』には記載されていない。)

元和の初めの頃、水野家臣中川志摩助の三男三木之助を養子とし、姫路城主本多忠刻に出仕させるが、三木之助は寛永3年(1626年)に亡くなった忠刻に殉死する。宮本家は三木之助の実弟が後を継ぎその後も存続したが、同じ年に播磨の地侍田原久光の次男伊織を新たに養子とし、宮本伊織貞次として明石城主小笠原忠真に出仕させている。伊織は寛永8年(1631年)20歳で小笠原家の家老となっている。

寛永15年(1638年)の島原の乱では、小倉城主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真甥の中津城主小笠原長次の後見として出陣している。小倉滞在中、忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。

寛永17年(1640年)熊本城主細川忠利に招かれ熊本に移る。待遇は客分として7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、同じく客分の足利義輝遺児足利道鑑と共に忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。翌年忠利が急死したあとも2代藩主細川光尚により変わらず毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。『武公伝』は武蔵直弟子であった士水(山本源五左衛門)の直話として「士水伝えて云、武公肥後にての門弟、太守はじめ長岡式部寄之、沢村宇右衛門友好、その他、御家中、御側、外様、及陪臣、軽士に至り千余人なり」とこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。この頃余暇に製作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。

寛永20年(1643年)熊本市近郊の金峰山にある岩戸の霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『獨行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子寺尾孫之允に与えている。

正保2年5月19日(1645年6月13日)千葉城の屋敷で亡くなる。墓は熊本市弓削にある通称武蔵塚。北九州市手向山に養子伊織による武蔵関係最古の記録のひとつである『新免武蔵玄信二天居士碑』、通称「小倉碑文」がある。
武蔵の兵法は、初め円明流と称したが、『五輪書』では、二刀一流、または二天一流の二つの名称が用いられ最終的には二天一流となったものと思われる。後世では武蔵流等の名称も用いられている。熊本時代の弟子に寺尾孫之允・求馬助兄弟がおり、肥後熊本藩で二天一流兵法を隆盛させた。また、孫之允の弟子の一人柴任三左衛門は福岡藩黒田家に二天一流を伝えている。

ルターと反ユダヤ主義.

964年秋ニュルンベルク軍事法廷では元ナチスのフラケン地方長官であったユリウス・シュライヒャーに対する尋問が行われていた。彼は、ヨーロッパユダヤ人大量虐殺の組織的な宣伝、準備をしたかどで上級戦犯として、その責任を問われていたのである。
シュライヒャーは軍事法廷の審問に対し、次のように答えた。
「もしマルティン=ルター博士が生きていたなら、必ずや本日、私の代わりにこの被告席に座っていたでしょう」と。

ルターと反ユダヤ主義
ルターはユダヤ人をキリスト教へと改宗させることを試み、失敗した人物である。
「イエスキリストはユダヤ人生まれであった」と題する論文の中でルターはユダヤ人を主キリストと同族血統である」
と述べ、従来のユダヤ人差別を批判した。そしてユダヤ人にまずメシアであるイエスに敬意を表明し、それから徐々にキリストを神の子として認めるように勧めた。
しかしルターによるこのユダヤ人懐柔及び改宗作戦は功を奏しなかったのである。
失望したルターは後年ユダヤ人に対する態度を一変し、彼らに対する憎悪をむき出しに
して、激しいユダヤ人攻撃を行った。
そうして成立したのがルターの著「ユダヤ人と彼らの虚偽について」である。
ルターはこの本の中でドイツ諸侯に対し、反ユダヤ的な7つの提案をしている。
1.ユダヤ人のシナゴーグ(教会)や学校を完全かつ永久に破壊すべきこと。
2.ユダヤ人の家を打ち壊し、ジプシーのように彼らを一つのバラックか馬小屋のような
ところへ集め、一緒にすまわせるべきこと。
3彼らから全ての書物や律法書等をとりあげるべきこと。
4.ユダヤ教の祭司、ラビの活動を禁止すべきこと。
5.ユダヤ人の護送や安全な交通に関する保護を取り消すべきこと。
6.ユダヤ人に対し高利貸しを禁じ、彼らの全ての金、銀、財貨を奪い、別に保管すべきこと。
7、若いユダヤ人男女には斧やシャベル、押し車などを与え、額に汗して日々の糧を稼がせること。

ルタによるこれらの発言、すなわちシナゴーグの破壊や放火、ユダヤ人の住居や財産の没収、集団強制居住、人権の剥奪、強制労働等、ナチ政権が実行した反ユダヤ人政策の大方が伺えるのである。

 以上「ユダヤ人とドイツ」大澤武男(講談社現代新書)より抜粋

ルターの宗教改革はメディアのすげ替えである。

1450年にドイツの金細工職人ヨハネス=グーテンベルクが活字による印刷技術の発明(改良)した。
グーテンベルク以前の文字による情報伝達手段は手書きか手間のかかる木版だった。
本は原本も写本もすべて手書きである。中世の地中海都市には、手書きの新聞があった。
国王の意志を大衆に伝えるために王に雇われた吟遊詩人もいた。
カトリック教会では、聖書を読めない文盲の大衆に、神父が「神の教えは、かくの如し」と説教していた。
何がこの時代の情報の媒介者(メディア)だったか?=それは生身の人間
王の命令を領民に伝えるために雇われた吟遊詩人とか、神の教えを伝道する神父も情報の媒体、すなわちメディアだった。
16世紀のルターの宗教改革。あれは何だったか。メディア史の観点から見れば、
「宗教改革とはメディア(媒介者)の首のすげ替えである」との答えが引き出される。
当時の聖書はすべて筆写で、いまの金に換算すると一冊何百万円もするお宝本だった。それもラテン語かギリシア語で書かれており、ドイツ語訳がなかった。
言葉の分からないゲルマン人の大衆は、聖書の内容をカトリックの坊さんから伝えられ、もっぱらそれを神の教えと受け止め、信仰していた。
神と人間とをつなぐメディア(媒介者)である坊さんが、聖書に書いていないデタラメをいったらどうなるか。
坊さんたちは、教会の建設資金を集めるため、免罪符という天国行きのニセ切符を販売した。
教会が神のすべてに関する情報を独占していたので、無知な大衆はメディアの指示通り免罪符を買うしか選択肢がなかった。
中世のカトリック教会のこのような行動を、今風に表現すれば「メディアの横暴とその弊害」ということになろうか。
ドイツの大学の神学部教授だったルターはこれに強く反発した。
「聖書こそ、神の教えを伝える唯一の拠り所である」が教会批判の根拠だった。神と人間をつなぐメディアは教会や神父ではなく、聖書であるという主張であるという主張である。
そのため聖書のドイツ語訳に取り組み、「神父」から「聖書」へと、キリスト教における支配的メディアの改革に成功した。
もしこのときグーテンベルクの活版印刷術がなかったらどうなったか。ルターの労作である聖書のドイツ語訳は大衆には行き渡らず、メディアの改革は成功しなかっただろう。
   
出典:『新聞がなくなる日』歌川 令三 (著)

河内孝氏「新聞社―破綻したビジネスモデル」講演

某新聞社の社長がアメリカに行ったときにAP通信の幹部と話した会話。「アメリカでは発行部数が減っているし大変だと」聞いたそうだが、「日本の新聞は大丈夫。まず、日本の壁に守られている。株を公開していないし、株の譲渡についても特例がある。再販に守られている」と3つの理由を述べたそうだが、この3つの理由がクビを閉めていくことになる気がしている。

広告が下がっているが「ネットだ」という罠にはまってはいけない。ネット上の媒体の数は分からないぐらい膨大。ネットの広告が伸びているというのと、ウェブで儲かるのとは違う。広告の単価が、テレビは億、新聞は千万だが、ネットは銭、厘の世界。毎日が連結で年間3000億円ぐらい収入があって、ネットはどうがんばっても20億を超えない。それではビジネスにならない。

新聞離れの原因は、読者が新聞を離れたのではなく、新聞が読者を離れた。理由は主に4つ。
1)市民のほうが、新聞より「人権」に敏感
2)報道の自由、公共性が脅かされている
3)中流意識という概念が消滅
4)若い層は新聞自体が権力、マスコミの権力批判が内輪争いにしか見えない
海外と比べて、日本の新聞が異様に売れているのは、戸別配達が答えではなく、専売制度が答え。
昔なら、仮に1000部を売ることが出来る販売店に200部余分に持ってもらって、洗剤、テレビ、自転車などのインセンティブで実売に結び付けていけば、新聞社も販売店もよかった。そんな幸福な時代は終わって、いまは単に押し紙となる。ただ、出版社なら返品されてきた在庫は出版社の責任になるが、新聞は販売店に売りっぱなしなので在庫という概念がない。
現状、都心部であれば放っておくと20%減ってしまう。1000部の販売店で部数を維持しようとすると毎月200人勧誘しなければならない。なので拡張団に頼む。ちなみに拡張団は、読売約4千人、朝日3千人、毎日千人、産経、日経、東京三社の合計約700人(新聞セールス近代化センターへの登録スタッフ数)。
アメリカの名門新聞ウォールストリート・ジャーナル(ダウ・ジョーンズ社)ですら、マードックからM&Aを仕掛けられて危機感を持っているのに、日本はまだ余裕がある。先日も新聞社に講演に行ったけれど、組合がボーナスの交渉をやっていて、世間から見たらかなりもらっているのにまだ不満だと言っていた。労使ともに危機感はない。
日本の新聞は高い。アメリカではもっと安かった。産経の夕刊廃止、値下げ、スヌーピーを使ったCMなど、いろいろな実験は評価している。中日と毎日の売り上げが同じころ。中日の幹部に言われたのは「毎日の経費が高すぎる」ということ。これは、専売店網があるから。夕刊は都会の生活習慣に合っていないからやめればいい。昔からやってるからという理由で続ける意味はない。そして経費を節約して、値下げすればいい。
また、新聞社の輪転機はほとんどまわってないのも問題。ちょっとでも遅く印刷してギリギリまで新しいニュースを入れようと言うひとがいるが意味はない。別に載ってなくてもいい。9・11のとき、ビルに飛行機が突っ込んだのを新聞で初めて知った人はどれくらいいるのか。テレビで見たり、人に聞いたりしている。新聞はもっと別のすばらしい役割がある。
Eペーパーでロングテールをいかせないかと考えている。お客さんに合わせて、運動面や経済面を増やすことができる。
最終的には、知への欲求に答える機能。編集して、わかりやすくコンパクトに伝えることが重要になる。

会場との質疑
Q、オーマイニュースについて。市民参加型のビジネスはどう思うか。
A、将来性あると思う。オ・ヨンホとは二度ほど意見交換したが、物別れに終わった。ロールモデルを日本に持ってきて無理だ。あれは政治運動だった。

Q、県紙、地方紙はどうすればいいか
A、北海道が全国紙しかなかったら面白くない。いろんなのあるから面白い。紙で見せて配るのは新聞社の勝手。情報を携帯で見るというのもある。内外で起きていることをいち早く知らせてくれて、エディットして、アナライズする。そこは新聞社は誰にも負けない。そこに特化してほしい。
日本の製造業はバブル崩壊以降必死になってリストラやってきた。新聞社は規制にあぐらをかいて、シカトをしてきたつけがまわってきた。他社がやっているからと記者クラブに固定配置をすれば自由に動ける人数が減るのは当たり前。あまり重要ではない記者会見は通信社にやらて、もっと深い取材に記者を当てればいい。

Q、新聞社がヤフーのようなポータルになれなかった理由。また、専門的な知識を持つブロガーもいるがそれに勝てるのか。
A、ポータルサイトはなれるチャンスはあったでしょうが社内で殺されたでしょう。いまだにニュースをサイトに載せると新聞が売れなくなると考えている人がいるぐらいなんだから。
情報を作り出している人と直接アクセスできるようになった。そうなると、なぜ介在者がいるの、という話になる。新聞記者無用論。アメリカはそこいらの議論をかなり始めている。

Q、記者から経営者になったときに変わる心構えはあるか。
A、別に、新聞記者だから経営しちゃいけないと言っているわけじゃない。ただ、人のあら捜し、欠点や失敗を見出すのが新聞記者。評論家体質が身についてしまうが、そのままではだめで勉強が必要。これからの時代は、50歳になってからは到底ダメで、若い人が必要。また、エディターと経営層を機能分化する、経営者を育てることも必要。

http://d.hatena.ne.jp/gatonews/

チャビン文化とアンデス文明

チャビン文化
紀元前1000年になると、アンデス山脈にチャビン・デ・ワンタルの地下神殿で知られるチャビン文化が興る。チャビン文化の特徴は、人と動物が合体した独特の神を作っていることである。
チャビン文化は紀元前300年程度まで栄えたといわれる。
インカ帝国のはるか数千年前からアンデスにはいくつもの文化が生まれ消えていった。 標高約3200mの高地に築かれたチャビンの神殿。
かつて、ここには巡礼者たちの集まる一大宗教センターだった。 神殿の地下には、迷宮のような世界が広がっている。
暗闇をぬう地下回廊は、わかっているだけで総延長およそ2km。ここは、重要な宗教体験の場であったという説もある。

アンデス文明
1532年のスペイン人(白人)によるインカ帝国征服以前に、現在の南米大陸、ペルーを中心とする太平洋沿岸地帯およびペルーからボリビアへつながるアンデス中央高地に存在した文明。その担い手は、今から1万2千年前にベーリング海峡を渡ってアジアから渡ってきたモンゴロイド(黄色人種)であった。

ウイリアムテルとスイスの独立

ウイリアムテル
14世紀スイスの伝説的愛国者。スイス中部のウーリ州にすみ、横暴な代官ゲスラーの帽子に敬意を表さなかったため、愛児の頭にのせたリンゴを矢で射おとせという難題をふきかけられたが、見事に成功したとされる。失敗して息子が死ねば、ゲスラーを殺す覚悟だったと手紙に書いたため投獄されるが、脱獄し、ゲスラーを待ち伏せして殺害した。これをきっかけに、農民たちがオーストリア支配に対して一斉蜂起し、スイスの統一・独立が実現したとされる。

スイスの歴史
1033年、神聖ローマ帝国の支配下にはいった。その後、封建貴族や修道院などの支配する小さな地域や帝国から自治をゆるされた小さな都市国家の集まりとなっていったが、やがてそれらは地域的連合体を形づくっていく。
2独立のための闘争 1276年、ハプスブルク家のルドルフ1世は、スイス人の伝統的な自由と自治をおびやかし、封建的支配を強めた。これに対抗してルツェルン湖をとりまくウーリ、シュビーツ、ウンターバルデンの3地域は、91年に相互防衛のための「永久同盟」をむすんだ。この同盟がのちのスイス連邦の核となった。14世紀にルツェルン、チューリヒ、グラールス、ツーク、ベルンが同盟にくわわり、さらに15世紀にはフリブールとゾーロトゥルンも加盟した。1499年、神聖ローマ帝国のマクシミリアン1世はスイス同盟を圧迫してシュワーベン戦争をひきおこしたが、戦いにやぶれ、バーゼル条約によってスイスは事実上の独立がみとめられることになった。
法的な独立が認められるのは1648年のウェストファリア条約のときである。

『ビジョナリー・ピープル 』英治出版 (2007/4/7)

『立派な仕事を為し遂げるための唯一の方法は、今取り組んでいる
 仕事を好きになることだ』スティーブ・ジョブズ
自分の道を追求しつづける人たちがいる。
ひたむきに、真っ直ぐに、生きていく人たちがいる。
自らのビジョンに向かって突き進み、
彼らは新しい時代を切り拓く。
彼らは、世界に変革を巻き起こす。
そんな人々を、「ビジョナリー・ピープル」と呼ぶ。
ネルソン・マンデラ、ダライ・ラマ、ジミー・カーター、
リチャード・ブランソン、ビル・ゲイツ、
スティーブ・ジョブズ、ヨーヨー・マ、U2のボノなど、
世界各国、200人以上のビジョナリー・ピープルに、
歴史的名著『ビジョナリー・カンパニー』の著者らが
10年間にわたりインタビューを実施。
徹底した分析により、成功者の条件を明らかにした。
人は、何のために生きるのか。
私たちは、いかに生きるべきなのか。

倭から日本へ

大昔には、自国のことをヤマトと呼んでいた。なのに中国や朝鮮
では、古くから日本を倭と呼んでいた。
倭は、従順に従う、とか醜いという意味である。
だから倭と呼ばれるのは、あまり嬉しいことではない。日本でも
そのことがだんだんわかってきて、自分たちを倭人と呼ばれるのを
嫌うようになった。
7世紀に、聖徳太子は隋に国書を送ったとき、そこに倭王と書かず、
日出処の天子と書いたのである。日出処、すなわち日の本、
そこから日本という国名が生まれてきた。
7世紀の中国の歴史書には、日本という国名が出てくる。そして8世紀
に日本で書かれた歴史書『日本書紀』である。
その頃から、日本が使われたと考えて良いだろう。
出典「もっとどうころんでも社会科」清水義範

生涯独身を貫いたエリザベス女王

雑学・豆知識(トリビア)ブログより
http://zatu.livedoor.biz/archives/50742643.html#article
エリザベス朝を築いたエリザベス一世(女王)は、生涯独身を貫いたことで知られています。エリザベスの父は六人の王妃を持ったヘンリー八世で、エリザベスの母アン・ブーリンは娘(エリザベス)を産んだ後、姦通を犯したという名目で処刑されています。エリザベス自身も25歳で即位するまでにロンドン塔に幽閉されたことがありました。
こうした複雑な家族関係で辛酸をなめたため、エリザベスは万事に用心深く、決断を避けて立ち回る性格の女性になっていました。即位した未婚の女王には当然のごとく、各国の王室からプロポーズがありましたが、エリザベスは決して「イエス」ということはありませんでした。スペイン王との縁談を断るにあたっては、「私はすでに国家と結婚していますので・・・」と、名ゼリフを残しています。
そんなエリザベスに求婚した一人に、ロシアのイヴァン雷帝がいました。やはりすぐには断らないのが、エリザベス。当時、ロシアはリヴォニアと戦争をしており、イギリスと強い絆を結んで軍事援助を引き出したいと考えていました。
イギリス側も、ロシア貿易を独占したい下心がありました。それでもなかなか返事をしないエリザベスに業をにやした雷帝は、ついには、女王がだめなら親族の女性なら誰でもいいといってくるほど。

アップル、SafariブラウザをWindows対応に

Windows版iTunesを作成してきたAppleが米国時間6月11日、ウェブブラウザのSafariをMicrosoftのOSに対応させたと発表した。同社が発表した「Safari 3.0」のパブリックベータ版は、Windows XPとWindows Vista、Mac OS X Tigerで利用できる。
 AppleがWindows版iTunesを開発する計画を発表したのは2003年10月のことだった。当時、最高経営責任者(CEO)のSteve Jobs氏は、地獄も凍りつくような(有り得ない)出来事と表現した。そんなAppleも今日では、Windowsを意識した開発を多く行っている。
 Jobs氏は6月11日、サンフランシスコで開催されたWorldwide Developers Conferenceで、iPodユーザーはMacよりむしろWindowsを利用している場合の方が多く、iTunesメディアプレーヤーはWindowsユーザーによって5億回以上ダウンロードされてきたと述べた。
 しかし、SafariをWindowsに対応させることになった最大の理由は、AppleがSafariやウェブベースアプリケーションを、iPhone上で動くプログラムを作成する方法とみなしていることにある。これまでSafariに多くの投資をしてきたのであれば、少しでも多くのリターンを得ようとするのは自然なことであると、アナリストらは述べる。
 GartnerのアナリストMike McGuire氏は、WindowsでSafariを使えるようにする決定が下された背景には、間違いなくiPhoneがあると述べる。
 McGuire氏は、Safariには興味深い機能がいくつかあるものの、多くのWindowsユーザーがこれをスタートメニューに登録するかは分からないと述べる。
 「この質問の答えを出すにはまず、積極的に複数種類のブラウザを使いたいと思う人がどれくらいいるかを考える必要がある」(McGuire氏)
 Appleは、市場を独占するMicrosoftのInternet Explorer以外に、MozillaのオープンソースブラウザFirefoxもライバルと見なしている。

映画『300』とテルモピュレーの戦い.

映画『300<スリーハンドレッド>』90点(100点満点中)
超映画批評より http://movie.maeda-y.com/

紀元前480年、覇権国家ペルシア帝国はギリシャのいち都市国家スパルタを服従させるべく、使いを出した。しかし、スパルタのレオニダス王(ジェラルド・バトラー)はこれを拒否。迫りくるペルシアの大軍勢100万を、手勢わずか300で迎え撃つ覚悟を決める。
「シン・シティ」のフランク・ミラーによる劇画が原作というだけあり、一般的な歴史ものとはまったく異なる。徹底したエンタテイメント志向の作品で、歴史考証はあくまで二の次三の次。面白さのために躊躇なく史実のほうを変えている。
だが、中途半端に近い過去じゃないから(なにせ2500年も前だ)、こうした大胆なアレンジも意外にすんなり受け入れられる。なによりこの映画、映像も役者もこの上なく美しい。たとえば剣と槍と弓矢による戦闘シーンなど、首は飛ぶわ血は出るわの残酷スプラッターそのものだが、意外にも気持ち悪さは感じない。ほとんど全場面に加えられたエフェクトと、優れたデザインによる美術のおかげか、まるで一流の絵画を見ているようだ。
ザック・スナイダー監督はなかなかセンスがいいようで、大軍勢同士の戦いを描く際にやりがちな間違いを上手に避けている。
たとえば、大軍同士の激突を一画面に入れこむ構図に頼っていない(人の目が同時に認識できる数はそれほど多くないので、こうした場面はスクリーンで見るとただゴチャゴチャしているようにしか見えず、意外に迫力を感じない)。
そしてもうひとつは、常に被写体から適度な距離を保っているということだ(動いている被写体に寄ってさらにカメラを動かしてしまうと、スピード感は出るが何をしているかがわからない)。
その代わり彼がやったのは、(100万vs.300 を描くのではなく)1vs.1×300 という演出であった。あくまで一人対一人の戦いを、適度な距離を持って写すことで、役者の表情をはっきりと捉える。さらにスローモーションを多用することで、一瞬の立会いにどんな高度な技が繰り出されているのかを観客にしっかりと見せた。
これにより、観客はスパルタの英雄一人一人の顔をしっかりと認識することが出来、同時に深い感情移入を行うことが出来る。360度を常に意識させるカメラワークにより、まるで自分が300人の仲間と共に戦っている疑似体験をさせてくれるというわけだ。
外国映画は登場人物の名前も顔も覚えないうちに終わってしまう、という人も少なくないだろうが、『300』に関しては、その心配は無用だ。
こうした戦闘シークエンスは、まるでバレエダンサーによる舞踏のごとき人体の美を感じさせる。スパルタ兵は本当は史実では重装歩兵なのだが、あえて上半身裸の軽装にデザインしたアイデアも、私は全面的に支持したい。
明らかに勝ち目のない戦いになぜスパルタの男たちは出て行くのか。その理由も説得力を持って描いてある。ラストシーンでそれはわかるようになっている。この300人の決死隊の意思は、まさに旧日本軍の特攻隊そのものだ。
「自由のために悪を蹴散らす」とか、そういうアメリカ人好みの単純な味付けの方ははっきり言ってどうでもいい。私は「死を前提にした(一見理不尽な)作戦の論理性」をきっちり描いた点をこそ高く評価する。
とはいえ、このスパルタ兵たちの強さといったらない。まるで座頭市が300人いるような圧倒的な強さで、しかも全員が完璧な隊列と連携によるチームワークで戦う。士気も練度もすこぶる高く、圧倒的な大軍を前にしてまったくひるまず、真正面から蹴散らしていく。見ていてとにかく熱くなれる。
これに対し完全な悪役であるペルシア軍は、身長数メートルはあろうかというドーピング人間や不死身の忍者軍団など、ほとんどファンタジーのような奇手、新兵器を繰り出して対抗する。
私はこのすこぶる面白い歴史アクションを、若い男性におすすめしたい。男たるもの、どんな逆境であっても肉体ひとつで道を切り開かねばならない。そんな情熱にあふれた、とにかく熱い一本だ。

☆テルモピュレーの戦い
アケメネス朝ペルシアのクセルクセスは2年かけて対ギリシア作戦を練り上げ、いよいよギリシアに攻め込む。(前480年)
これをスパルタ王レオニダスはギリシア連合軍を率いて、テルモピュレー陸挟で交戦する。
テルモピュレーは山と海に囲まれた天然の要塞で、地の利を生かし、レオニダスは数で勝るペルシャ相手に互角の戦いを進めていた。しかし、内通者が出てペルシャ軍に挟撃されると、レオニダスは兵を撤退させるため、わずか300名のスパルタ兵を残し退路を切り開こうとする。
「剣のあるものは剣で。剣の折れた者は素手で最後までたたかった」と歴史家のヘロドトスがつづったように、スパルタ兵300名はレオニダス以下最後の一人まで勇敢に戦い、ギリシア軍を撤退させた。
この戦争は、スパルタにとって美談となり、スパルタ軍はますます精強になっていく。

☆スパルタ王レオニダス
紀元前480年、ペルシャ戦争でスパルタの重装歩兵300名を率いてテルモピレーの戦いでクセルクセス1世の大軍を手こずらせ自ら戦死し部下も玉砕した。
その奮戦によってアテナイは時間を稼ぎサラミス沖の海戦でペルシャ海軍に勝利することが出来た。レオニダスは古代ギリシアの英雄として今も語り継がれている。

☆スパルタ兵が強かった理由
スパルタでは、他のポリスと違って、奴隷の数が市民の数より多かった。スパルタは市民より勝る奴隷を統治するために、男性市民全員を兵士にし、幼少の頃から30歳くらいまで厳しい訓練をかしてギリシアで最も屈強な軍隊をつくりあげ、スパルタを統治した。この厳しい訓練のことを今日でもスパルタというほど、厳しい訓練であったという。
歴史ファンの大航海時代http://dolmeke.blog11.fc2.com/blog-entry-77.html

シュリーマンと幕末の日本

シュリーマンが貿易商として成功し、その後トロイなどを発掘したことはよく知られているが、カリフォルニアのゴールド=ラッシュで大もうけした話はあまり知られていない。彼はカリフォルニアに来る途中で中国や幕末の日本に立ち寄った。
日本では横浜から八王子まで足を伸ばしている。
中国は当時アヘン戦争の直後であり、町は不潔で人々は堕落しきっていた。
そのため、彼は清に対し非常に批判的だ。
それと対照的に、日本については好意的な紀行文を書いている。
町が清潔で人々が勤勉・誠実であることに驚き、「この国には平和と満足感、豊かさと秩序、そして世界のどこよりよく耕された土地がある」と評価している。

☆トロイ遺跡を発掘した語学の天才シュリーマン
7歳のとき、シュリーマンは絵入りの本(ホメロスの『イリアス』を読みトロイ戦争に魅せられた。このトロイは今もどこかに埋もれているに違いない。いつの日にか必ずそれを発掘しよう。神話の世界の話だと思われていたトロイ。しかしその44年後、彼はトルコのヒッサリクの丘にトロイを発掘する。少年の日の夢の実現といえば簡単だがそこまでの道のりを知るとき、彼の人生設計の確かさが見えてくる。
 シュリーマンは貧しい牧師の息子として東ドイツに生まれた。14歳のとき、学業を中断しなければならなくなり、彼は雑貨商の徒弟となった。そこで考えたのは先ず語学を身につけることであった。トロイを発掘するにはギリシャ語が解らなければならない。こうして語学に熱中、やがて十余りもの国の言葉を話せるようになった。これが商売の面でも大いに役だった。主人に重宝がられてあちこち出かけて行くうちに信用を得、やがて独立すると莫大な財産を築いた。発掘に必要な財力を獲得した彼は事業から身を引き、次にフランスで考古学を学ぶ。そして46歳になって遂にトロイ発掘へと乗り出すのである。尚、彼はミケーネ文明の発掘者でもある。
新潮文庫「古代への情熱」より

ソフトバンク、初の首位 新料金制度が効果2007年06月08日

携帯電話業界3位のソフトバンクモバイルが、新規契約から解約を差し引いた5月の契約純増数でKDDI(auとツーカーの合計)、NTTドコモの上位「2強」を抑えて首位になった。電気通信事業者協会が7日発表した。ソフトバンクの首位は、旧ボーダフォンなど前身企業時代を含め、同協会が統計を取り始めた96年1月以降初めて。
 5月の純増数はソフトバンクが16万2400件、KDDI(同)13万8500件、ドコモ8万2700件。KDDIは昨年8月から続いていた首位の座を明け渡した。
 5月は春の大型商戦期に比べて例年、市場全体が沈静化するが、ソフトバンクは4月並みの純増を確保。5カ月続けて10万件超のペースで契約を伸ばしている。1月に始めた月額基本料980円の新料金制度「ホワイトプラン」が、既存客の契約変更も含めると月100万件前後のペースで加入者を伸ばしている効果が大きく、同プランの申込件数は今月7日に500万件を突破した。
 一方、番号持ち運び制に伴う5月の契約実績(転入から転出を差し引いた増減数)は、KDDI(au、ツーカー計)5万5100件増、ソフトバンク3100件増、ドコモ5万8300件減。ソフトバンクは2カ月続けて純増を確保し、他社からの乗り換え客も増やしている。

某有名予備校の世界史講師の授業にて(4月第1回目)

先日予備校の授業を体験受講する機会がありました。有名講師でも世界史を分かりやすく伝えるのは難しいんですね。それだけに、教師の腕の見せ所でもあるんでしょうけど・・・。

『皆さん、今日からいよいよ授業がはじまります。
最初にいっておきたいんですが、日本史や地理に変更するなら今のうちです。まだ4月ですから・・・。
何でかというと、世界史は面倒くさいんだ。
日本史、地理、倫理、政治・経済と比べて、もっとも覚える単語数が多い。
しかもヨコに幅が広いんだな。ヨーロッパ、中東、東アジア、南米と。だからやるのが大変。
しかしね。大学入学後の人生で、最も役に立つのは間違いなく世界史なんだけどね。』

P.S 予備校の給料は高いというのは周知の事実。ある先生に聞いた話では、2年目にもかかわらず90分で1万円だったとか。
勿論、完全実力主義だそうです。

ソフトバンクモバイルが初の純増数トップに

――5月の携帯契約者数
 電気通信事業者協会は7日、5月の携帯電話・PHSの契約者数を発表した。携帯電話の契約者数で新規契約数から解約数を引いた純増数は、ソフトバンクモバイルが16万2400件と「おそらく創業以来初」(ソフトバンク広報)の首位に躍り出た。KDDIは13万8500件の純増、NTTドコモは8万2700件の純増だった。

インカ帝国と征服者ピサロそして黄金・・・・。

1533年、海を渡ってきた征服者によって、アンデスに独自の文明を築いていたインカは滅亡した。
皇帝アタワルパを処刑、黄金の都クスコを占領し略奪の限りを尽くしたその男こそスペインの征服者フランシスコ・ピサロだった。
下級貴族の私生児として生まれたピサロは、本国での陽の当たらない暮らしを捨て、新大陸に渡り、ついに巨万の富を得る。
インカ帝国の黄金は、彼により略奪され、金の延べ棒にされた。
その重さ8トン・・・・・。
しかし、財宝を手にしたのも束の間、彼は暗殺者により刺し殺された。皇帝アタワルパを処刑した8年後のことだった。
一方、先住民の「心の征服」に最大の役割を演じたのはキリスト教であった。そもそも新大陸への侵略を後押ししたのは、異教徒へ
キリスト教を広めるという大義名分だったのである。

参照:世界遺産「リマ歴史地区(ペルー)」2006年10月22日放映 

☆ フランシスコ・ピサロ(1476~1541)
 スペインの探検家。残虐さと無法ぶりで知られるが、すぐれた軍事的才能の持ち主でもあった。
南スペインのトルヒーリョで生まれる。1510年にアメリカ大陸にわたり、太平洋にいたった13年のバルボアの遠征をはじめ、数々の遠征に参加した。19年、パナマに入植し、5年後には、スペインの探検家アルマグロと組んで南アメリカ地域の探検・征服をくわだてた。南アメリカ大陸の西岸を2回にわたって調査し、ペルーのインカ帝国の存在を知ったピサロは、28年にスペインにもどり、カルロス1世(のちの神聖ローマ皇帝カール5世)からペルー支配の許可を取得し、募集した兵士をつれて30年にパナマにもどった。パナマでさらに兵士を補充し、32年に約180人の部下とともにペルーに上陸した。皇帝アタワルパを処刑してインカ帝国を征服、35年にはインカ帝国の首都クスコにかわる新しい首都としてリマを築いた。
その後、クスコの領有権をめぐってアルマグロと不和になり、1537年に内戦がはじまった。この戦いに勝利したピサロはアルマグロを処刑したが、41年に自身がアルマグロ派の残党に暗殺された。

ハーメルンの笛吹き男①

ドイツのちょうど真ん中あたりに、ハーメルンという町がある。
13世紀末、この町で世にも不思議な事件が起こった。この事件は伝説となってのちのちまで長く伝わり、19世紀の初めにグリム兄弟が次のような話にまとめている。

1284年、ハーメルンの町にねずみとり男だと名乗る男が現われた。お金とひきかえに町のねずみをのこらず退治してみせるという。
町の人はこの男と取引の約束をした。そこで男は笛を取り出し、吹き鳴らした。すると、その音を聞いて家々からねずみがチョロチョロ走り出てきて、男のまわりに集まった。
男は町を流れるウェーゼル川に向かうと、ねずみも男のあとについていき、男が服をからげて川の中に入っていくと、ねずみも続いて水にはいり、ねずみはみな溺れ死んでしまった。
町のねずみがみな死んでしまうと、人々は男に金を払うのが惜しくなった。そこで、いろいろな口実をもうけて金を払わなかった。男はカンカンになって怒り、町を去った。
しばらくたって6月26日の朝、いつかのねずみとり男がまたハーメルンに現われた。男の顔つきは恐ろしかった。
やがて男は路上で笛を吹き鳴らし始めた。すると、前のときのねずみと同じように、4歳以上の少年や少女が大勢走りよってきた。合計130人の子供たちは、笛を吹く男のあとをついて通りを抜け、東の門から出ていった。それから遠くのポッペンブルクという山に着くと、男と共に消えうせてしまったのである。
子供たちが帰ってこないのを知った母親たちは、悲しみに泣き崩れた。町の人々は八方手をつくして捜したが、手がかりはまったくなかった。
ハーメルンの人々はこの事件があって以来、年月を数えるには、子供たちがいなくなった日から数えて何年、というようになったという。

ハーメルンで、1284年6月26日に130人の子供が突然行方不明になるという事件が起こったことは、間違いのない事実である。
この不思議な事件の真相については、いろいろな説が述べられてきている。
ドイツのボエラー女史は次のように推測する。6月26日は「ヨハネとパウロの日」という祭りの日であった。この日、ハーメルンの子供たちは、大人と同じように祭りの興奮につき動かされ、ポッペンブルクの崖の上に火をともそうと行列を組んで出かけた。その先頭に、笛吹き男がいたのかもしれないし、いなかったのかもしれない。子供たちはポッペンブルクにたどりついたが、危険な崖を登っているうち、次々と底なし沼に落ちこみ、抜け出せずに死んだ──。

また、130人は子供ではなくて、集団結婚式をあげたばかりの65組の男女であり、新しい土地を求めて東方植民を行ったのだ、という説もある。13世紀ドイツでは、さかんに東方植民が行われていた。東方植民は、司教や貴族が計画し、請負人に植民希望者を集めさせた。笛吹き男というのは、その請負人のことだというのである。

参照「楽しい世界史」
http://www.actv.ne.jp/~yappi/tanosii-sekaisi/05_tyusei/05-06_hamern.html

壁紙に困ったら、このブログ

携帯の壁紙は変え方が分からないので、デフォルトのまま(苦笑)。しかしPCのwallpaperは飽きるので、結構変えます。
尤も、なかなか良い壁紙を探す時間がないのが、困るとこ。
素敵なブログを教えて貰いました。センスの良い画像の宝庫です。
個人的に好きなのがインドのヴァラナシの火葬場とアンコールワットのタブローム遺跡の壁紙。あの不思議な空間が蘇ってきました。
本当に役に立つブログとは、こんなブログなんでしょうね。
http://gatag.blog97.fc2.com/

雪駄と千利休

履物(草履)の一種。裏面に皮を貼って防水機能を与え、鼻緒の裏に留金(後金)がついている。
水を打った露地で履くために千利休が考案したとされる。主に茶人や風流人が用いるものとされたが、現代では男性が着物を着る場合にはかならずといっていいほど雪駄が用いられる。

千利休(1522~91)  
安土桃山時代の茶人で茶の湯の大成者。和泉堺(大阪府堺市)の町衆田中氏の出身。千宗易(そうえき)と号した。武野紹鴎について茶の湯をまなび、織田信長・豊臣秀吉につかえて天下一の茶頭(茶の湯の師匠)となる。
とくに秀吉には重用され、たんなる茶頭という地位をこえて、秀吉の弟・秀長とともに、側近として秀吉の政治に深くかかわった。1585年(天正13)、秀吉が関白就任を記念しておこなった朝廷での茶会では、天皇から利休の居士(こじ)号をあたえられて秀吉の後見をつとめた。また、87年の秀吉による全国統一を誇示した有名な北野大茶湯では、中心になって会を演出し、茶の湯の最盛期をきずいた。
しかし1589年、秀吉の怒りにふれて堺で蟄居(ちっきょ)、ついで死を命じられた。その罪状は、利休の亡父の50年忌に大徳寺山門を修築した際、そこに自分の木像を安置したこと、不当な値段で茶器を売買したことなどとされたが、実際には秀吉との間に茶の湯をめぐる考え方の対立が生じたことと、政権内部の権力闘争にまきこまれた結果とみられている。

岩宿遺跡と相沢忠洋

群馬県赤城山の山麓にある岩宿遺跡は「縄文時代より古い旧石器時代」の存在を実証した記念すべき遺跡である。
終戦後の混乱期、ひとりの青年がこの赤土の関東ローム層から、小さな石片を見つけた。この発見が日本人の歴史を大きく書き換えたのだ。
発見したのは、納豆などの行商をしながら考古学に打ち込む二十歳そこそこの相沢忠洋という青年だった。
戦後の食糧難でひもじい生活を送りつつ、独学で古代への思いを追いかけていた。
運命の出会いは昭和21年(1946)年の秋。行商からの帰路、高さ2メートルの崖の赤土から、黒光りする鋭い石片を見つけた。これが古代史を書き換える前兆であった。
されに翌年、同じ崖から今度は黒曜石で作られ、鋭くとがった7㎝の槍先形の石器を発見した。彼は著書「岩宿の発見」で、「最古の土器文化よりももっと古い時代の人類の跡」を確信した、と述べている。
その後、研究者らによる発掘調査が行われ、相沢青年の確信が考古学的に立証された。
この岩宿遺跡により、日本人の起源は縄文時代ではなく、旧石器時代であることがわかったのである。そしてこの時代を「岩宿文化」「岩宿時代」と呼ぶようになった。
相沢氏の発見は単なる偶然であるまい。在野、独学ながらこつこつ蓄えた考古学の蓄積、そして古代人の証を求める執念が、黒光りする石片を呼び寄せたのだろう。

P.S そういえばミケーネ文明のアガメムノンの仮面を発見したH・シュリーマン、そしてツタンカーメンの王墓を発見したH・カーターもアマチュアの考古学者でしたね。
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