ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

日本はベネチアと同じ運命を歩むのか

2011/01/01, 日本経済新聞 朝刊, 1ページより引用
国際政治学者の故高坂正堯の「文明が衰亡するとき」によると、13~14世紀の地中海世界に君臨したベネチアは、
16世紀後半以降に「内なる変化」にさらされた。喜望峰ルートの発見という当時の「グローバル化」の影響を見誤り、「守旧的性格」が強まった。
 「冒険を避け、過去の蓄積で生活を享受しようという消極的な態度」がまん延し、貴族男子の未婚比率は60%に
上昇した。「生活水準を維持したいという気持ちから子孫を増やさない」ためだった。長引くデフレ、人口減、政府債務の累増……。課題が一挙に押し寄せる今の日本も、「過去の蓄積」にすがりつく気分が強いようにみえる。このままでは後の世代へのツケ回しで国家が溶解しかねない。

スポンサーサイト

オバマ大統領就任演説

オバマ米大統領、就任演説全文(和文) 出典:『読売新聞』

 ◆危機への決意◆

 市民の皆さん。私は今日、我々の前にある職務に対して厳粛な気持ちを抱き、あなた方から与えられた信頼に感謝し、我々の祖先が支払った犠牲を心に留めながら、ここに立っている。私は、ブッシュ大統領の我が国への奉仕、並びに大統領がこの政権移行期間に示した寛容さと協力に感謝する。

 これで44人の米国人が大統領就任宣誓を行った。宣誓は、繁栄の高まりのときや、平和で静かなときに行われたこともあった。しかし、しばしば、宣誓は、暗雲が垂れこめるときや荒れ狂う嵐のときに行われた。こうした時、米国は、指導者たちの技量や理念だけに頼ることなく、我々人民が祖先の理想に忠実で、建国の文言に正直であることによって、乗り切ってきた。

 ずっとそうやってきた。この世代の米国人も同様にしなければならない。

 我々が危機の最中にいることは、現在では明白だ。我々の国家は、暴力と憎悪の広範なネットワークを相手に戦争を行っている。我々の経済は、ひどく弱体化している。一部の者の強欲と無責任の結果であるだけでなく、厳しい決断をすることなく、国家を新しい時代に適合させそこなった我々全員の失敗の結果である。家は失われ、職はなくなり、ビジネスは台無しになった。我々の健康保険制度は金がかかり過ぎる。荒廃している我々の学校はあまりにも多い。さらに、我々のエネルギーの消費のしかたが、我々の敵を強化し、我々の惑星を脅かしているという証拠が、日増しに増え続けている。

 これらは、データと統計に基づく危機の指標だ。予測は困難だが、間違いなく深刻なのは、我々の国土に広がる自信の喪失や、米国の凋落(ちょうらく)は避けがたく、次の世代はうなだれて過ごさなければならないというぬぐいがたい恐怖だ。

 今日、私はあなた方に告げる。我々が直面している試練は本物だ。試練は深刻で数多い。試練は容易に、または、短い時間で対処できるものではない。しかし、米国よ、わかってほしい。これらの試練は対処されるだろう。

 この日、我々は、恐怖ではなく希望を、紛争と不一致ではなく目標の共有を選んだため、ここに集った。

 この日、我々は、我々の政治をあまりにも長い間阻害してきた、ささいな不満や偽りの約束、非難や言い古された定説を終わらせることを宣言する。

 ◆国家の偉大さ◆

 我々の国はまだ若いが、聖書の言葉には、子どもじみたことをやめるときが来たとある。我々の忍耐に富んだ精神を再確認し、より良い歴史を選び、貴重な才能と、世代から世代へと引き継がれてきた尊い考えを発展させるときが来た。尊い考えというのは、すべての人は平等で、自由で、あらゆる手段により幸福を追求する機会を与えられるという、神からの約束のことである。

 我々の国の偉大さを再確認するとき、我々は、偉大さが決して与えられたものではないことに気づく。それは勝ち取らなければならないのだ。我々の旅は、近道でも安易なものでもなかった。我々の旅には、仕事より娯楽を好み、富と名声の喜びだけを望むような、臆病者のための道筋はなかった。むしろ、我々の旅は、危機に立ち向かう者、仕事をする者、創造をしようとする者のためのものだ。それらの人々は、著名な人たちというより、しばしば、無名の働く男女で、長い、でこぼこした道を繁栄と自由を目指し、我々を導いてきた人々だ。

 我々のために、彼らは、わずかな財産をまとめ、新たな生活を求めて大洋を旅した。

 我々のために、彼らは、劣悪な条件でせっせと働き、西部に移住し、むち打ちに耐えながら、硬い大地を耕した。

 我々のために、彼らは、(独立戦争の戦場)コンコードや(南北戦争の)ゲティスバーグ、(第2次大戦の)ノルマンディーや(ベトナム戦争の)ケサンのような場所で戦い、死んだ。

 しばしば、これらの男女は、我々がより良い生活を送れるように、手の皮がすりむけるまで、もがき、犠牲になり、働いた。彼らは米国を、個人の野望を合わせたものより大きく、生まれや富や党派のすべての違いを超えるほど、偉大であると考えていた。

 ◆米国を作り直そう◆

 これが今日、我々が続けている旅なのだ。米国は依然として地球上で最も繁栄し、力強い国だ。我々の労働者は今回危機が始まった時と同様、生産性は高い。我々は相変わらず創意に富み、我々が生み出す財やサービスは先週や先月、昨年と同様、必要とされている。能力も衰えていない。しかし、同じ手を用いるだけで、狭い利益にこだわり、面倒な決定を先送りする、そんな時代は確実に終わった。今日から我々は立ち上がり、ほこりを払って、米国を作り直す仕事に取りかかろう。

 なすべき仕事は至る所にある。米国経済は、大胆かつ迅速な行動を求めている。そして我々は新規の雇用創出のみならず、新たな成長の礎を整えることができる。道路や橋を造り、電線やデジタル通信網を敷き、商業を支え、我々を一つに結び付ける。科学を本来あるべき地位に戻し、医療の質を引き上げながら、そのコストは減らす。太陽、風や土壌を利用して自動車を動かし、工場を動かす。新時代の要請に合うよう学校や単科大、大学を変えていく。我々はすべてのことを成し遂げられるし、行っていく。

 我々の野望の大きさについて疑念を抱く人がいる。我々のシステムは多くの大きな計画に耐えられないと指摘する人もいる。だが、彼らは忘れている。彼らはこの国が何を成し遂げたかを忘れている。想像力が共通の目的と出合った時、必要が勇気と結びついた時、自由な男女が何を達成できるかを忘れているのだ。

 皮肉屋が理解できないのは、彼らがよって立つ地面が動いたということだ。長い間、我々を疲れさせてきた陳腐な政治議論はもはや通用しない。我々が今日問うべきなのは、政府の大小ではなく、政府が機能するか否かだ。家族が人並みの給与の仕事を見つけたり、負担できる(医療)保険や、立派な退職資金を手に入れることの助けに、政府がなるかどうかだ。答えがイエスの場合は、その施策を前進させる。ノーならば終わりとなる。公的資金を管理する者は適切に支出し、悪弊を改め、誰からも見えるように業務を行う。それによって初めて、国民と政府の間に不可欠な信頼を回復できる。

 問うべきなのは、市場の良しあしでもない。富を作り自由を広げる市場の力に比肩するものはない。だが、今回の(経済)危機は、監視がなければ、市場は統制を失い、豊かな者ばかりを優遇する国の繁栄が長続きしないことを我々に気づかせた。我々の経済の成功はいつも、単に国内総生産(GDP)の大きさだけでなく、我々の繁栄が広がる範囲や、機会を求めるすべての人に広げる能力によるものだった。慈善としてではなく、公共の利益に通じる最も確実な道としてだ。

 ◆我々の安全とは◆

 我々の共通の防衛については、安全と理想とを天秤(てんびん)にかけるという誤った選択を拒否する。我々の想像を超える危機に直面した建国の父たちは、法の支配と国民の権利を保障する憲章を起案した。憲章は、何世代もの犠牲によって拡充された。これらの理想は、今日でも世界を照らしており、我々は都合次第で手放したりはしない。今日(の就任式を)見ている他国の国民や政府ら。巨大都市から私の父が生まれた小さな村まで。米国が平和と尊厳の未来を求めるすべての国々、すべての男女と子供の友人であり、我々がもう一度、指導力を発揮していく用意があると、知ってほしい。

 前の世代は、ファシズムや共産主義と、ミサイルや戦車だけではなく、強固な同盟と強い信念を持って対峙(たいじ)したことを思い出してほしい。彼らは、我々の力だけでは我々を守れず、好きに振る舞う資格を得たのではないことも理解していた。代わりに、慎重に使うことで力が増すことを理解していた。我々の安全は、大義の正当性や模範を示す力、謙虚さ、自制心からいずるものだ。

 我々は、この遺産の番人だ。こうした原則にもう一度導かれることで、我々は、一層の努力や、国家間の一層の協力や理解が求められる新たな脅威に立ち向かうことができる。我々は、責任ある形で、イラクをイラク国民に委ね、苦労しながらもアフガニスタンに平和を築き始めるだろう。古くからの友やかつての敵とともに、核の脅威を減らし、地球温暖化を食い止めるためたゆまず努力するだろう。

 ◆変わる世界◆

 我々は、我々の生き方について謝らないし、それを守ることを躊躇(ちゅうちょ)しない。テロを引き起こし、罪のない人を殺すことで目的の推進を図る人々よ、我々は言う。我々の精神は今、より強固であり、壊すことはできないと。あなたたちは、我々より長く生きることはできない。我々は、あなたたちを打ち破るだろう。

 我々のつぎはぎ細工の遺産は強みであって、弱みではない。我々は、キリスト教徒やイスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンズー教徒、それに神を信じない人による国家だ。我々は、あらゆる言語や文化で形作られ、地球上のあらゆる場所から集まっている。

 我々には、南北戦争や人種隔離の苦い経験があり、その暗い時代から出てきて、より強く、より団結するようになった。我々は信じている。古くからある憎しみはいつかなくなり、民族を隔てる線も消えると。世界が小さくなる中で、我々に共通の人間愛が現れることになると。米国が、平和な新しい時代の先駆けの役割を果たさねばならないと。

 イスラム世界よ、我々は、相互理解と尊敬に基づき、新しく進む道を模索する。紛争の種をまいたり、自分たちの社会の問題を西洋のせいにしたりする世界各地の指導者よ、国民は、あなた方が何を築けるかで判断するのであって、何を破壊するかで判断するのではないことを知るべきだ。腐敗や欺き、さらには異議を唱える人を黙らせることで、権力にしがみつく者よ、あなたたちは、歴史の誤った側にいる。握ったこぶしを開くなら、我々は手をさしのべよう。

 貧しい国の人々よ、我々は誓う。農場に作物が実り、きれいな水が流れ、飢えた体に栄養を与え、乾いた心を満たすため、ともに取り組むことを。我々と同じように比較的満たされた国々よ、我々が国境の向こう側の苦悩にもはや無関心でなく、影響を考慮せず世界の資源を消費することもないと言おう。世界は変わった。だから、我々も世界と共に変わらなければならない。

 我々の前に広がる道について考える時、今この瞬間にもはるかかなたの砂漠や遠くの山々をパトロールしている勇敢な米国人たちに、心からの感謝をもって思いをはせる。彼らは、アーリントン(国立墓地)に横たわる亡くなった英雄たちが、時代を超えてささやくように、我々に語りかけてくる。我々は彼らを誇りに思う。それは、彼らが我々の自由を守ってくれているからだけではなく、奉仕の精神、つまり、自分自身よりも大きい何かの中に進んで意味を見いだす意思を体現しているからだ。これこそが時代を決するこの時に、我々すべてが持たねばならない精神だ。

 ◆新しい責任の時代◆

 政府はやれること、やらなければならないことをやるが、詰まるところ、わが国がよって立つのは国民の信念と決意である。堤防が決壊した時、見知らぬ人をも助ける親切心であり、暗黒の時に友人が職を失うのを傍観するより、自らの労働時間を削る無私の心である。我々の運命を最終的に決めるのは、煙に覆われた階段を突進する消防士の勇気であり、子どもを育てる親の意思である。

 我々の挑戦は新しいものかもしれない。我々がそれに立ち向かう手段も新しいものかもしれない。しかし、我々の成功は、誠実や勤勉、勇気、公正、寛容、好奇心、忠実、愛国心といった価値観にかかっている。これらは、昔から変わらぬ真実である。これらは、歴史を通じて進歩を遂げるため静かな力となってきた。必要とされるのは、そうした真実に立ち返ることだ。

 我々に求められているのは、新しい責任の時代に入ることだ。米国人一人ひとりが自分自身と自国、世界に義務を負うことを認識し、その義務をいやいや引き受けるのではなく喜んで機会をとらえることだ。困難な任務に我々のすべてを与えることこそ、心を満たし、我々の個性を示すのだ。

 これが市民の代償であり約束なのだ。これが我々の自信の源なのだ。神が、我々に定かではない運命を形作るよう命じているのだ。

 これが我々の自由と信条の意味なのだ。なぜ、あらゆる人種や信条の男女、子どもたちが、この立派なモールの至る所で祝典のため集えるのか。そして、なぜ60年足らず前に地元の食堂で食事することを許されなかったかもしれない父親を持つ男が今、最も神聖な宣誓を行うためにあなたの前に立つことができるのか。

 ◆自由を未来へ◆

 だから、我々が誰なのか、どれほど長い旅をしてきたのか、その記憶とともにこの日を祝おう。米国誕生の年、酷寒の中で、愛国者の小さな一団は、氷が覆う川の岸辺で、消えそうなたき火の傍らに身を寄せ合った。首都は見捨てられた。敵は進軍してきた。雪は血で染まった。我々の革命の結末が最も疑わしくなった時、我が国の祖は、この言葉を人々に読むよう命じた。

 「酷寒の中、希望と美徳しか生き残ることができない時、共通の脅威に気づいた町も田舎もそれに立ち向かうために進み出た、と未来の世界で語られるようにしよう」

 アメリカよ。我々自身が共通の脅威に直面している時に、我々自身の苦難の冬に、時を超えたこれらの言葉を思い出そう。希望と美徳を抱き、このいてつく流れに再び立ち向かい、どんな嵐が訪れようとも耐えよう。

 そして、我々の子孫に言い伝えられるようにしようではないか。我々が試された時、旅を終わらせることを拒み、後戻りすることも、くじけることもなかった、と。そして、地平線と、神の慈しみをしっかりと見つめ、自由という偉大な贈り物を運び、未来の世代に無事に届けた、と。

 ありがとう。神の祝福が皆さんにあらんことを。そして、神の祝福がアメリカ合衆国にあらんことを。

(2009年1月21日02時50分 読売新聞)

米西戦争を観戦していた秋山真之.txt

日本海軍史上きっての戦略家といわれる秋山真之は、海軍兵学校を首席で卒業(第17期)。 日清戦争には砲艦筑紫の航海士として参加し、戦後アメリカに留学してマハン大佐の薫陶をうけ、米西戦争(1898年)では観戦武官を務めた。 米・英駐在の三年間に海軍の戦略・戦術・戦務の三概念を具体化し、帰国後海軍大学校教官となり普及させた。
1903年(明治36年)12月、第一艦隊兼連合艦隊参謀、日露海戦全期間を通じて連合艦隊の作戦主任を務める。
・旅順に停泊する太平洋艦隊に対する閉塞作戦
・バルチック艦隊に対する大回頭(俗にいう東郷ターン)及び丁字戦法
・七段構えの三段からの攻撃計画
などを提案し、日本海海戦では敵艦隊を殲滅し日本海軍を圧倒的な勝利に導く。
連合艦隊司令長官東郷平八郎は、真之を「智謀湧くが如し」と称え、上官たちも彼の頭脳の優秀さには舌を巻き、ほとんどの作戦を彼に一任していたという。
日露戦争後は「三笠」副長、「秋津洲」、「音羽」、「橋立」、「出雲」、「伊吹」と各艦長を務める。第一艦隊参謀長、海軍大学校教官、 1914年(大正3年)海軍省軍務局長となり、1916年軍令部出仕(欧米出張)、のち第2水雷戦隊司令官、将官会議議員。 第一次大戦では艦隊の地中海派遣を推進した。
1917年(大正6年)中将となるが健康が優れず待命仰付。翌年1918年2月、51歳の若さで逝去する。
出典:Z旗http://www.z-flag.jp/sakakumo/saneyuki/index.html#a
☆米西戦争(アメリカ=スペイン戦争戦争)
① プロローグ
1898年、アメリカがスペインの植民地であるキューバとフィリピンの独立革命に介入してスペインをやぶり、植民地をうばった戦争。米西戦争ともいう。
1868年キューバ人は独立のために立ち上がったが、結局勝利できず、78年に終結、スペインはキューバの改革を約束した。しかし、約束がまもられなかったため、95年にふたたび独立運動がはじまった。フィリピンでも96年カティプーナンによる独立革命がはじまった。
②アメリカによる干渉の背景
アメリカでは、人道的・経済的観点から、キューバの独立革命への干渉論が高まっていた。ピュリッツァーやハーストらがスペイン軍のキューバ人虐待を報道。革命による経済的権益の大きな被害も懸念され、実際、貿易の全面的な停止に直面した。
こうした情勢下、キューバ独立革命の支援をのぞむ国民の声は、連邦議会で支持される。クリーブランド大統領は干渉に反対し、後任のマッキンリー大統領も就任当初は反対の立場をとる。
1897年、スペイン首相サガスタは内乱解決の提案をおこなった。それは、キューバ人に部分的な自治権をみとめるとともに、残虐な監獄制度を廃止するというものだった。しかし革命勢力は、完全な独立を要求して活動を継続した。革命がつづくなか、アメリカの干渉をまねく事件が発生した。1898年2月15日アメリカ人の生命保護を目的にハバナ港へきていた戦艦メーン号が爆破、260名が死亡したのである。干渉論が高まるなか、マッキンリー大統領が4月20日、スペインのキューバからの即時撤退をもとめる連邦議会の決議を承認すると、これに対してスペインは24日、アメリカに宣戦を布告する。翌25日、アメリカ連邦議会も宣戦布告し、アメリカの行動は植民地獲得のためではないことを決議した。
③戦争の展開とその結果
1898年5月1日、フィリピンのマニラ湾に停泊していたスペイン艦隊は、アメリカのアジア艦隊の攻撃をうけ、壊滅した。他方、キューバでは7月1日に陸上部隊がキューバ革命軍の支援をうけてサンティアゴデクーバを包囲。7月3日にはサンティアゴデクーバへのアメリカ軍による海上封鎖を突破しようとしたスペイン艦隊を撃破し、サンティアゴデクーバは陥落した。アメリカ軍はさらに攻勢をかけ、プエルトリコを占領し、スペイン政府は7月18日、休戦を要請した。 1898年12月10日にパリで調印された講和条約によって、スペインはキューバの領有権を放棄し、フィリピン、プエルトリコ、マリアナ諸島のグアム島をアメリカに割譲することになった。この戦争の結果、アメリカは列強入りをはたした。
アメリカは独立革命への支援を大義名分に介入したが、パリ講和会議にフィリピンとキューバ代表はまねかれず、戦後にキューバはアメリカ占領軍の管理下におかれ、1902年に独立をはたすものの、実質的にはアメリカの保護国となった。フィリピンは1898年に独立、99年に共和国となるが、フィリピン・アメリカ戦争によって結局アメリカの植民地となった。また長い間、不明とされてきたメーン号爆破事件の原因については、1969年、アメリカ海軍当局がエンジン部分の故障による爆発だったとの調査結果を公表している。

日本贔屓となったシュリーマン.txt

シュリーマンが日本を訪れたのは1865年、つまり明治維新の3年ほど前の6月であった。
彼の日本人好きが決定的になったのは、税関の役人である武士の清廉さに出会ったことである。役人は彼に荷物を開けるように求めた。シュリーマンはこれを免れるため役人に金を渡そうとする。役人は「自分は日本男児であるから、心づけにつられて義務をないがしろにするのは尊厳にもとる」とその賄賂の受け取りを拒否した。にもかかわらず、役人は最初から最後まで礼儀正しく好意的で親切だった。清国の役人の腐敗ぶりに辟易していたシュリーマンには驚きだった。
「教育はヨーロッパ以上に行き渡っている。シナを含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対して、日本では、男も女も皆仮名と漢字で読み書きができる。」とシュリーマンは日本の教育制度を賞賛している。。
実際、幕末当時、日本には1万5千の寺子屋があり、武士は100%、庶民男子50%、女子20%、江戸市中で70%の識字率で、当時のロンドンの識字率30%を断然凌駕し、世界一であった。
シュリーマンは「ここでは君主がすべてであり、労働者階級は無である。にもかかわらず、この国には平和、満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地がある」とも述べている。
引用:文藝春秋8月号「シュリーマンと日本」但木敬一氏

★ハインリッヒ・シュリーマン(1822年1月6日 - 1890年12月26日)
①生い立ち
プロイセン王国のメックレンブルク・シュヴェリン州(現メクレンブルク=フォアポンメルン州)ノイブコウ生まれ。父エルンストはプロテスタントの説教師で、母はシュリーマンが9歳のときに死去し、叔父の家に預けられた。13歳でギムナジウムに入学するが、貧しかったため退学して商人の徒弟になった。
貧困から脱するためベネズエラ移住を志したものの、船が難破してオランダ領の島に流れ着き、オランダの貿易商社に入社した。1846年にサンクトペテルブルクに商社を設立し、翌年ロシア国籍を取得。さらにゴールドラッシュに沸くカリフォルニア州サクラメントにも商社を設立して成功を収める。クリミア戦争に際してロシアに武器を販売して巨万の富を得た。
②トロイア発見
シュリーマンらによるミケーネの調査(1885年頃)幼少のころにホメロスの『イーリアス』に感動したのが、トロイア発掘を志したきっかけであるとされている。自身の著作にそのような記述あることから、長年、信じられてきたが、近年の研究では功名心の高かったシュリーマン自身の創作にすぎないことが判明している。発掘当時は「トロイア戦争はホメロスの作り話」と言われ、トロイアの実在も疑問視されていたというのもシュリーマンの著作に見られる記述であり、実際には当時もトロイの遺跡発掘は行われていた。シュリーマンの「トロイア実在説」は、当時からして、けして荒唐無稽なものではなかった。彼は、発掘調査費を自弁するために、貿易などの事業に奔走しつつ、「イーリアス」の研究と、語学にいそしんだと、自身の著作に何度も書き、講演を繰り返した。発掘調査に必要な費用が用意できると、1856年にさっさと事業をたたみ、世界旅行に出て中国や日本を訪問した(後述)。ソルボンヌ大学やロストック大学に学んだのち、ギリシアに移住して17歳のギリシア人女性ソフィアと再婚し、トルコに発掘調査の旅にでたというのは事実だが、最初の結婚の失敗、30才も年下の女性と結婚したことによるアイデンティティ・クライシス、戦争終結による事業の見通しの暗さがトロイア遺跡発掘へのきっかけと言われる。
彼は「イーリアス」を読み込んだ結果、トロイア城はヒサルルクの丘にあると推定した。1870年に無許可でこの丘の発掘に着手し、翌年正式な許可を得て発掘調査を開始した。1873年にいわゆる「プリアモスの黄金」(トロイアの黄金)を発見し、伝説のトロイアを発見したと喧伝した。この発見により、古代ギリシアの前史時代の研究が大いに進むきっかけとなった。
彼は発掘の専門家ではなく、当時は考古学なるものの存在も皆無に等しかったため、発掘技術にも限界があった。発掘にあたって、シュリーマンはオスマン帝国政府との協定を無視し出土品を国外に持ち出したり私蔵するなどした。発見の重大性に気づいたトルコ政府が発掘の中止を命じたのに対し、イスタンブルに駐在する西欧列強の外交官を動かして再度発掘許可を出させ、トロイアの発掘を続けた。こうした不適切な発掘作業のため遺跡にはかなりの損傷がみられ、現在までドイツやアメリカの考古学者によって再発掘が続けられ、考証が進んでいる。
③ギリシア考古学の父
シュリーマンは、発掘した遺跡のうち下から2番目(現在、第2市と呼ばれる)がトロイア戦争時代のものだと推測したが、後の発掘で実際のトロイア戦争時代の遺跡は第7層A(下から7番目の層)であることが判明した。第2層は実際にはトロイア戦争時代より約1000年ほど前の時代の遺跡だった。これにより、古代ギリシャ以前に遡る文明が、エーゲ海の各地に存在していたということをも証明した。
また彼は、1876年にミケーネでアガメムノンのマスクのような豪奢な黄金を蔵した竪穴墓を発見している。1881年にトロイアの黄金をドイツ国民に寄贈してベルリンの名誉市民となった。建築家ヴィルヘルム・デルプフェルトの助力を得てトロイア発掘を継続する傍ら、1884年にはティリンスの発掘に着手。1890年、旅行先のナポリの路上で急死し、自宅のあったアテネに葬られた。
④人物・その他
音読により文章を丸暗記することで多国語を理解し、ドイツ語のほか、英語、フランス語、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語、スウェーデン語、イタリア語、ギリシア語、ラテン語、ロシア語、アラビア語、トルコ語に詳しかった。
清国(当時の中国)に続き幕末の日本を訪れ、著作"La Chine et le Japon au temps present"の中で鋭い観察眼を披露して見せた。本書においてシュリーマンは、清とは反対に日本の文化・風俗を絶賛している。

汗血馬の血を引くサラブレッド.txt

張騫の情報に、中央アジアの大宛国に汗血馬という名馬を産するというものがあった。匈奴の騎兵部隊と互角に戦うために優秀な馬が欲しい。そう考えた武帝は、汗血馬を入手するために、李広利将軍に大宛遠征を命じた。6万の兵を率いて出発した李広利軍は、わずかに1万に減ってしまったが、3千頭の汗血馬を連れていた。武帝はこれを繁殖させ、対匈奴戦争に利用したのであろう。
大宛の汗血馬は、のちに西アジアで品種改良されアラブ馬になり、さらにイギリスで在来種と交配されてサラブレッドとなった。武帝が汗血馬を喉から手が出るほど欲しがったのも頷ける。
引用:「よくわかる高校世界史の基本と流れ」浅野典夫氏

★汗血馬(かんけつば)
中国の歴史上で名馬といわれた馬の種類。「血のような汗を流して走る馬」という意味で「汗血馬」と呼ばれる。
前漢の武帝時代に、西域への大旅行をした張騫の報告により、大宛(フェルガナ)にこの名馬が産することを知り、外交交渉でこれを手に入れようとしたが、決裂したので遠征軍を送り、これを得た。武帝は汗血馬を得た喜びのあまり「西極天馬の歌」を作らせて「天馬」と汗血馬のことを褒め称えた。甘粛省武威市の雷祖廟雷台漢墓から出た有名な馬の銅像・「馬踏飛燕」(ばとうひえん)はこの馬をモデルにしたと言われる。
汗血馬は一日に千里(約500km)を走ると言われている。もちろんこれは誇張であろうが、現存するアカール・テケ(アハルテケとも)という品種は4152kmを84日間で走破したという記録が残っており、この馬は汗血馬の子孫ではないかと言われていている。
『三国志演義』に登場する名馬・赤兎馬はこの汗血馬をイメージしたのではないかと思われる。

☆サラブレッド Thoroughbred
イギリスで交配されてつくられたウマの品種。現在は大部分が競馬用につかわれている。サラブレッドの起源は、1689~1724年にかけてイギリスに輸入された中東産のアラブ種や北アフリカ産のバーバリー種の牡馬(ぼば)を、在来種の牝馬(ひんば)と交配させたことにはじまる。もともとは狩猟用の馬を改良するためにかけあわされたが、改良の過程で馬の能力を確認するためにおこなった競馬競走がしだいにサラブレッド生産の主目的となっていった。1780年にイギリスの貴族、第12代ダービー卿スタンリーが創設した3歳サラブレッドによるダービーは、その代表的なレースである。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。