ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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SUMMER TRIP(2008年8月).txt

1.東京:靖国神社・遊就館、国会議事堂(参議院見学)、銀座アップルストア
☆遊就館
靖国神社境内に併設された、同社の祭神ゆかりの資料を集めた宝物館(博物館法の適用外)。幕末維新期の動乱から太平洋戦争(大東亜戦争)に至る戦没者、国事殉難者を祭神とする靖国神社の施設として、戦没者や軍事関係の資料を収蔵・展示している。1882年(明治15年)に開館した、日本における「最初で最古の軍事博物館」
★有楽町の東京国際フォーラム
その空間は巨大な船のような形状でしばし圧倒される。
でもあまり評判はよろしくないようで(苦笑)・・・。
国際建築家連合(UIA)の基準に基づく国際公開コンペが行われ(国内初)、設計者は建築家ラファエル・ヴィニオリに決まった。ガラスの吹き抜けホール(ガラス棟)は船を題材にしており、その巨大な外観がとともに、構造を露出した内部が象徴となっている。一方、新都庁舎と同様に、「バブル景気の遺産」「税金のムダ遣い」との批判もある。

2.滋賀県
①彦根城:国宝に指定
★国宝4城
彦根城(滋賀県彦根市)・犬山城(愛知県犬山市)・姫路城(兵庫県姫路市)

②安土城:これまで見た城の中でもっとも印象に残った。あまり手をつけられていない。見る者の想像力をかきたてる城だ。
★注目は本丸にあったといわれる「御幸の間」
『信長公記』 には「御幸の間」が安土城本丸にあったという記載がある。
信長は天皇を安土城のこの御幸の間に招こうとしていたという。『晴豊記』には「行幸に使う馬と鞍の用意が出来た。」という一文が。もし本能寺の変がなければ、正親町天皇は安土城に行幸していただろう。それまで都を離れたことがなかった正親町帝を安土に招くことは権力関係において、信長が天皇と対等もしくはそれ以上にあることの誇示だったのだろうか。
☆信長が正親町天皇に譲位を要求したとする説
正親町天皇は天正元年(1573年)頃から信長にその存在を疎まれるようになる。そして、たびたび譲位を要求されるようになる。同年12月8日の『孝親日記』にその事が記されている。また、2年後には譲位後の御所の予定地を探していたともされた。信長としては、儲君の誠仁親王を早く天皇にすることで、より朝廷の権威を利用しやすいものにしようという思惑があったようである。しかし、天皇はそれを最後まで拒んだ。ちなみに本能寺の変に関する一説として朝廷関与説が浮上するのも、このような事情によるものである。

③佐和山城:「三成に 過ぎたるものが二つ有り 島の左近に 佐和山の城」
佐和山城の石垣の石などは、関ヶ原後に近江彦根を与えられた井伊家が彦根城築城の際に流用した。
★島左近
筒井順慶に仕えるものちに隠遁。対等な立場で仕官を願う石田三成に感銘を受け、三成の所有する知行の半分近くの高禄を与えられ召し抱えられる。こうした噂が噂を呼び、「三成に過ぎたるものが2つあり。島の左近に佐和山の城」とうたわれるほどに。東西分け目の関ヶ原の合戦では三成率いる西軍の屋台骨として支えるも、小早川秀秋らの裏切りにより大敗。関ヶ原で露と消えたものと思われるが、結局島の首は見つからなかった
④近江八幡:和菓子の町?
⑤比叡山延暦寺
延暦寺の武装化
延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と言っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたのである。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿(当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった)をかついで強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの言い分を通していた。
このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力をも持っており、時の権力者を無視できる一種の独立国のような状態であった。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺のそれと並び称せられ、南都北嶺と恐れられた。

3.京都
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体育祭終了

平成19年9月8日(土)体育祭が無事終了。教員として初めて体育祭にコミットした。用具係としての反省点多し。
来週から、やっと日常にもどれる。嬉しい。
でも生徒の頭の中は非日常が続くのだろう。どうやって切り替えさせるかが課題になりそうだ。
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