ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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本能寺の変の唯一の生存者とは?.txt

信長に仕えた黒人の弥助(ヤスケ)

元々は宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに仕える奴隷であったと言われている。天正9年(1581年)、ヴァリニャーノが信長に謁見した際に連れられていたのが信長の目にとまった。
信長は最初、肌の黒さが信じられず彼が身体に何か塗っているのかと思い、2月の寒空の下でたらいに入れて家来に体を念入りに洗わせたが肌が黒いままだった。肌の色の黒い人種がいることを理解した信長は彼に興味を持ちヴァリニャーノへ要望して献上させ、そのまま直臣になったと伝えられている。
直臣になった当時の年齢は26、7歳、身長は6尺2分(約182.4cm)と長身であったという。一説によればヤスケは宣教師の奴隷のときには人間扱いされていなかったが信長は彼を「ヤスケ」と名づけ、武士の身分を与えて家臣とし衣食住不自由がないように取り計らわれた。
ヤスケはこの信長の対応に大いに感謝し、忠実に仕えたと言われる。
本能寺の変では、明智光秀の兵と戦い多くの敵を倒したとしている。最終的に陥落直前に信長から脱出するよう命じられたと言われる。また織田信忠が二条御所で奮戦した際、ヤスケも戦ったという。
本能寺家の変後に光秀の手勢に捕まったが、ヤスケを「人間ではない」として殺さず「インドのバテレンのもとに送るように」と命じ、そのまま放逐したとされているため、その後の消息は不明である。

ルイス・フロイスの『日本史』では、「(午前3時頃と言われる)明智の(少数の)兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して(6月2日に御所前で馬揃えをする予定であったのを織田の門番たちは知っていたので油断したと思われる)、信長が厠から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。直後に信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら明智の兵達に対して応戦していたが、明智の鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。直後に障子の戸を閉じた(火を放ち自害した)」とかなり
詳細にその様子を表現しており、これは唯一の生存者であった弥助が近くの
南蛮寺にいた宣教師たちに語ったことかもしれない。
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『ラストサムライ』の主人公のモデルとなったフランス人とは?.txt

トム・クルーズが演じる主人公ネイサン・オールグレンのモデルは、江戸幕府のフランス軍事顧問団として来日し、榎本武揚率いる旧幕府軍に参加して箱館戦争(戊辰戦争(1868年 - 1869年))を戦ったジュール・ブリュネ。物語のモデルとなった史実には、西郷隆盛らが明治新政府に対して蜂起した西南戦争(1877年)や、熊本の不平士族が明治政府の近代軍隊に日本の伝統的な刀剣のみで戦いを挑んだ神風連の乱(1876年)が考えられる。

★ジュール・ブリュネ(Jules Brunet, 1838年1月2日 - 1911年8月12日)★
フランス陸軍の士官で、江戸幕府陸軍の近代化を支援するため派遣されたフランス軍事顧問団の一員として来日し、榎本武揚率いる旧幕府軍に参加した。
①経歴
1838年1月2日、フランス東部アルザス地方のベルフォールに生まれた。エコール・ポリテクニーク(理工科学校)を卒業後、陸軍士官学校、陸軍砲兵学校を卒業し、陸軍砲兵少尉に任官した。その後砲兵中尉としてメキシコ戦争に出征し、レジオンドヌール勲章を受けた。
②軍事顧問団
ナポレオン3世は開国した日本との関係を深めるため、第15代将軍・徳川慶喜との関係を強め、1866年に対日軍事顧問団を派遣することを決めた。ジュール・ブリュネはシャルル・シャノワーヌ参謀大尉を隊長とする軍事顧問団の副隊長に選ばれ、フランス陸軍砲兵大尉として1867年初めに日本に到着した。軍事顧問団は横浜大田陣屋で幕府伝習隊を1年以上訓練したが、1868年の戊辰戦争で江戸幕府は明治新政府軍に敗北することになる。フランス軍事顧問団は勅命によって新政府から日本からの退去を命令されたが、ブリュネらフランス軍人は残留を選択し、フランス軍籍を離脱した。彼らはイタリア大使館での舞踏会の夜に脱走し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流、箱館戦争に従軍した。シャノワーヌ隊長は参加しなかった。
③箱館戦争
ブリュネは、箱館で江戸幕府の海軍副総裁であった榎本武揚を総裁とする蝦夷共和国(箱館政権)の創設を支援した。ブリュネは陸軍奉行の大鳥圭介を補佐して箱館の防衛を軍事的に支援し、4個の連隊はフランス人士官(フォルタン、マルラン、カズヌーヴ、ブッフィエ)を司令官としていた。1869年6月、五稜郭に立て籠もる800人の箱館政権軍を8,000人の明治新政府軍が攻撃し、五稜郭は陥落、総裁・榎本武揚らは新政府軍に投降する。フランス人らは陥落前に箱館港に停泊中のフランス船に逃れた。
④名誉回復
ブリュネは裁判のためフランスに送還されたが、折りしも1870年に普仏戦争が勃発して軍に復帰することを許された。セダンの戦いでプロイセン軍に包囲されたフランス軍はナポレオン3世以下全軍降伏し、ブリュネも捕虜となったが、間もなくフランス政府が講和を結んだため、釈放されてパリ・コミューン鎮圧に参加した。その後の詳しい経歴は不明だが、1898年には戦争相となっていたシャノワーヌの下でフランス陸軍参謀総長にまで登りつめている。
また、日清戦争では日本軍の上陸を支援し、シャノワーヌとともに明治政府から勲二等旭日重光章を授与されている。これは外国人に授与される勲章としては最高位のものであり、明治政府の閣僚となっていた榎本武揚の上奏があったと言われる。1911年8月12日にパリ近郊の自宅で死去。

赤間神宮と 「耳なし芳一」.txt

①赤間神宮 あかまじんぐう 
山口県下関市にある神社で、安徳天皇をまつる。1185年(文治元)、平氏が壇ノ浦の戦で敗北したとき、安徳天皇も平清盛の妻で祖母にあたる二位尼にだかれて入水した。赤間関(下関)紅石山麓(べにいしさんろく)の阿弥陀寺境内にほうむられてのち、91年(建久2)、後鳥羽天皇の勅令によりこの陵上に御影堂(みえいどう)が建立され、阿弥陀寺も勅願寺として厚遇された。
明治維新後、神仏分離で阿弥陀寺は廃され、御影堂は天皇社と改称した(→ 廃仏毀釈)。1875年(明治8)には官幣中社となり、地名により天皇社から赤間宮によびかえられた。さらに1940年(昭和15)、官幣大社に昇格して宮号を神宮号にあらため赤間神宮と改称した。
現在、安徳天皇の墓は阿弥陀寺陵と称され、その奥に平知盛をはじめ壇ノ浦の戦でほろんだ平氏一門の武将をまつる七盛塚がある。この七盛塚の奥に芳一堂があるが、「耳なし芳一」の伝説は同地を舞台としている。また、長門(ながと)本と称される「平家物語」や「源平合戦絵屏風」、赤間神宮文書など多数の重要文化財を所蔵している。特殊神事に、毎年5月2日から4日にかけておこなわれる先帝祭がある。

②「耳なし芳一」
阿弥陀寺に芳一という盲目の琵琶法師が住んでいた。 芳一は平家物語の弾き語りが得意で、特に壇ノ浦の段は「鬼神も涙を流す」と言われるほどの名手だった。
ある夜、和尚の留守の時、突然一人の武士が現わる。 芳一はその武士に請われて「高貴なお方」の屋敷に琵琶を弾きに行く。 盲目の芳一にはよくわからなかったが、そこには多くの貴人が集っているようであった。 壇ノ浦の戦いのくだりをと所望され、芳一が演奏を始めると皆熱心に聴き入り、芳一の芸の巧みさを誉めそやす。が、語りが佳境になるにしたがって皆声を上げてすすり泣き、激しく感動している様子で、芳一は自分の演奏への反響の大きさに内心驚く。芳一は七日七晩の演奏を頼まれ、夜ごと出かけるようになる。
和尚は目の悪い芳一が夜出かけていく事に気付いて不審に思い、寺男たちに後を付けさせた。すると芳一は一人、平家一門の墓地の中におり、平家が崇拝していた安徳天皇の墓前で無数の鬼火に囲まれて琵琶を弾き語っていた。寺の者たちは慌てて芳一を連れ帰り、和尚に問い詰められた芳一はとうとう事情を打ち明けた。これは危ない、このままでは芳一が平家の怨霊に殺されてしまうと和尚は案じたが、生憎夜は法事で芳一のそばについていてやることが出来ない。そこで法事寺の小僧と共に芳一の全身に般若心経を写し、芳一に今夜は武士が迎えに来ても返事をするな、と堅く言い含めた。
その夜、芳一が一人で座っていると、いつものように武士(平家の怨霊)が芳一を迎えに来た。 しかし経文の書かれた芳一の体は怨霊である武士には見えない。 芳一が呼ばれても返事をしないでいると、「声も聞こえない、姿も見えない。さて芳一はどこへ行ったのか……」という声が聞こえる。そして怨霊は、耳だけが闇に浮いているのを見つけ、「芳一がいないなら仕方がない。証拠に耳だけでも持って帰ろう」と、芳一の耳をもぎ取って去った。
朝になって帰宅した和尚は芳一の様子に驚き、一部始終を聞いた後に芳一に詫びた。芳一の身体に般若心経を写経した際、小僧が耳にだけ書き漏らしてしまった事が原因であった。その後怪我は手厚く治療され、この不思議な事件が世間に広まって彼は「耳なし芳一」と呼ばれるようになった。琵琶の腕前も評判になり何不自由なく暮らしたという。
一説に明石覚一検校がモデルとされている。

なぜ桓武平氏や清和源氏が生まれたのか?.txt

奈良時代の皇統(天皇の血筋)が断絶したことを教訓として、平安時代には安定した皇位継承のため、多くの皇子をもうけることがよく行われた。しかし、実際に皇位継承できる皇子はごく少数に限られ、平安前期から中期にかけて、皇位継承の道を閉ざされた皇族が多数発生することとなった。
これらの皇族に対しても律令の定めにより一定の所得が与えられることで財政を圧迫する要因となったため、皇位継承の可能性がなくなった皇族たちを臣籍降下させることが行われるようになった。また、この頃になると、皇族が就任できる官職が限定的になり、安定した収入を得ることが困難になったために、臣籍降下によってその制約を無くした方が生活が安定するという判断から皇族側から臣籍降下を申し出る例もあった。だが、臣籍降下して一、二代ほどは上流貴族として朝廷での地位を保証されたが実際には三代以降はほとんどが没落して地方に下向、そのまま土着し武士・豪族となるしかなかったのである。

☆清和源氏の起源
清和源氏の起源は、清和天皇の第六皇子貞純親王の子である経基王が臣籍降下により源姓を賜ったことに遡る。源経基の名跡を継いだ源満仲は、摂津国川辺郡多田(現・兵庫県川西市多田)を本拠地として源氏武士団を形成した。酒呑童子退治などで有名な満仲の長男の源頼光も、摂津国に拠点を置いたことから摂津源氏と呼ばれる。摂津源氏の中で多田に土着する系統を多田源氏といい、傍流からは美濃に土着した美濃源氏が輩出される。満仲の次男の源頼親の系統は、大和国宇野(現・奈良県)を本拠地としたことから大和源氏といわれる。また、満仲の三男の源頼信の系統(厳密に言えば、義忠・義時流)は、河内国壷井(現・大阪府羽曳野市壷井)を本拠としたことから河内源氏といわれる

変わる日本史の常識.txt

『詳説本史研究』が10年ぶりに改訂
以下「池田信夫blog」より引用
①「魏志倭人伝」は存在しない:三国志の一書である魏書に「倭人の条」があるだけで、「倭人伝」という書物はない。その内容も後代になって書かれた伝聞や推測で、信頼性は低い。
②「任那日本府」は存在しなかった:4世紀ごろ、朝鮮半島の南部に加耶と呼ばれる小国の連合があったが、任那という統一国家はなく、日本の植民地でもなかった。これは『日本書紀』の誤った記述。
③世界最大の墓は「仁徳天皇陵」ではない:堺市にある大仙陵古墳は、つくられた時期が仁徳天皇の在位期間と違うので、彼の墓ではありえない。被葬者が大王(おおきみ)であることは確実だが、内部調査が許されないので誰かわからない。
④「聖徳太子」は架空の人物:厩戸王という推古天皇の甥が、氏寺として斑鳩寺(のちの法隆寺)を建立したことは事実だが、彼は「皇太子」でも「摂政」でもなかった(そういう地位は当時まだなかった)。十七条の憲法をつくり、『三経義疏』を著して仏教を日本に導入した聖徳太子というのは、厩戸王の死後に成立した「太子信仰」の一種で、『日本書紀』が複数の人の業績を合成してつくった架空の理想的知識人である。紙幣に使われた有名な肖像画も、彼の肖像かどうかわからないので本書には出ていない。
⑤「大化の改新」は存在しなかった:645年に、中大兄皇子らが蘇我入鹿(厩戸王の家系)を謀殺する政変(乙巳の変)が起こった。しかし「改新の詔」というのは『日本書紀』に書かれているだけで、そういう改革が行なわれた証拠はない。「万世一系」というのは神話で、このように古代には複数の王家が権力抗争を繰り返していた。
⑥天武天皇以前に「天皇」はいなかった:私的な家長の名称である大王が「天皇」と呼ばれるようになったのは、従来は推古朝(6世紀末)とされていたが、その根拠は疑わしい。唐をまねて天皇という称号を使うようになった最古の記録は677年、天武天皇の時代の木簡である。
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