ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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2008年8月2日~12月14日 フェルメール展.txt

【会場】東京都美術館 企画展示室
【日時】2008年8月2日(土)~12月14日(日)
    月曜休室(ただし月曜が祝日の場合は開室し翌日休室)
    午前9時~午後5時(入室は午後4時30分まで)
【主催】東京都美術館、TBS、朝日新聞社

展覧会のみどころ
 フェルメールが発する光は、観る人の眼から入り胸の奥の幸福の扉を照らしだす。西洋美術史上、最も才能溢れる画家、三十数点しか現存しない作品により謎のベールに包まれた画家、ヨハネス・フェルメール。350年以上の時を経て、いま世界中で最も熱く高い脚光を浴びている。
 独特な光の質感と知性的なタッチで人を魅了する絵画の中で、とくに評価の高い作品群が奇跡のように集まった。
 日本初公開の作品もふくめ、かつてこれほどの傑作が日本で一堂に会したことはない。おそらくこれが最初で最後の展覧会となるだろう。

☆ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer, 1632年10月31日-1675年12月15日)
17世紀にオランダで活躍した風俗画家である。レンブラントと並び17世紀のオランダ美術を代表する画家とされる。生涯のほとんどを故郷デルフトですごした。
最も初期の作品の一つ「マリアとマルタの家のキリスト」(1654-55頃)にみられるように、彼ははじめ物語画家として出発したが、やがて1656年の年記のある「取り持ち女」の頃から風俗画家へと転向していく。 静謐で写実的な迫真性のある画面は、綿密な空間構成と巧みな光と質感の表現に支えられている。
現存する作品点数は、研究者によって異同はあるものの33~36点と少ない。このほか記録にのみ残っている作品が少なくとも10点はあるが、記録に残っていない作品を勘案しても22年の画歴に比してやはり寡作というべきだろう。

①生涯
1632年10月31日にデルフトに生まれる。絹織物職人として活動するかたわら居酒屋・宿屋を営んでいた父は、ヨハネス誕生の前年に画家中心のギルドである聖ルカ組合に加入している。10年後の1642年にはフェルメールの家として知られる「メーヘレン」に転居した。
1653年にカタリーナ・ボルネスと結婚したフェルメールは、同年末に聖ルカ組合に加入している。従ってこれ以前に画家としての本格的な修行を積んだことになるが、デルフト以外の場所でのことだったようだ。
1662年と1670年の2度にわたって画家の組合である聖ルカ組合の理事に選出されており、生前から画家として高い評価を受けていたことが伺われる。
1675年にデルフトで死去。43歳没。同郷同年同月生まれの織物商であり博物学者としても知られるレーウェンフックが死後の遺産管財人となった。

②「忘れられた画家」と再発見
聖ルカ組合の理事に選出されていたことからも明らかなように、生前は画家として高い評価を得ていたらしい。しかしながら、死後フェルメールの名は急速に忘れられてしまう。
1866年にフランス人トレ・ビュルガーが著した論文が、フェルメールに関する初の本格的なモノグラフである。当時フェルメールに関する文献資料は少なく、トレ・ビュルガーは自らをフェルメールの「発見者」として位置付けた。しかし、実際にはフェルメールの評価は生前から高く、決して「忘れられた画家」だったわけではない。トレは研究者であっただけでなくコレクターで画商であったため、フェルメール「再発見」のシナリオによって利益を得ようとしたのではないかという研究者もいる。
その後、マルセル・プルーストやポール・クローデルといった文学者などから高い評価を得たこともあり、再び脚光を浴びることとなる。

③贋作事件
トレ・ビュルガーがフェルメールの作品として認定した絵画は70点以上にのぼる。これらの作品の多くは、その後の研究によって別人の作であることが明らかになり、次々と作品リストから取り除かれていった。20世紀に入ると、このような動きと逆行するようにフェルメールの贋作が現れてくる。中でも最大のスキャンダルといわれるのがハン・ファン・メーヘレンによる一連の贋作事件である。
この事件は1945年ナチス・ドイツの国家元帥ヘルマン・ゲーリングの妻の居城からフェルメールの贋作「キリストと悔恨の女」が押収されたことに端を発する。売却経路の追及によって、メーヘレンが逮捕された。オランダの至宝を敵国に売り渡した売国奴としてである。ところが、メーヘレンはこの作品は自らが描いた贋作であると告白したのである。さらに多数のフェルメールの贋作を世に送り出しており、その中には「エマオのキリスト」も含まれているというのである。「エマオのキリスト」は1938年にロッテルダムのボイマンス美術館が購入したものであり、購入額の54万ギルダーはオランダ絵画としては過去最高額であった。当初メーヘレンの告白が受け入れられなかったため、彼は法廷で衆人環視の中、贋作を作ってみせたという。「エマオのキリスト」は、現在でもボイマンス美術館の一画に展示されている。
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姜尚中氏がデューラーの自画像から示唆を得たこと

『人間は悩むことを通じてしか自分が見えてこない。
自分が見えなければ世界が見えない。』 姜尚中氏

1979年、姜尚中さんは、政治思想史を志して西ドイツに留学した。しかし実は、この留学は国外脱出のようなものだった。当時の姜さんは、日本での展望もなく、自分は一体何者で、どう生きていったらいいのか、立つべき拠り所を失っていたという。そんな若き姜さんの思い出の中に、決定的な役割を果たす一枚の絵がある。ミュンヘンのその展示室に足を踏みいれた途端、「ほの暗いなかに、そこだけ訴えるような、見えない電磁波みたいなものを感じた」。それがデューラーの『1500年の自画像』だった。 粛々として、慎ましやかな顔。懐疑のない、清澄なまなざし。『1500年の自画像』は、ひとつの信念に到達した人間の心境を、問わず語りに伝えてくるようだった。「デューラーは自分を見出した。その目には世界が見えている。だから、僕の魂も彼によって見透かされている。デューラーの自画像を通して、今の自分の自画像を問われているようだった」。 思えば、『1500年の自画像』を描いたときデューラーは28歳、それに出会ったときの姜さんもほぼ同い年だった。自分の正体が何であるか、自分は何を天職として生きていくのか。姜さんは、デューラーの自画像と出会ったことで、自らの生き方を見出していく。デューラーが生きた時代、ヨーロッパは内戦状態といっていい混沌の中にあった。不安と不信が満ち溢れる世界で、自分を見失わなかったデューラーのように、どんなに暗い時代でも、最後まで希望と信仰を失わない健全な人間でいることは可能なのではないか。先の見えない状況の中で、人間はどのように自己を律し、他に働きかけることが出来るのか。姜さんの今日の生き方の源泉こそ、この500年前に描かれた自画像だった。
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