ヒストリア(歴史のネタ)

まさかまさか自分がblogを始めるとは・・・(苦笑)。 授業に使えそうな「歴史のネタ」を中心に書いていこうと思います。

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サイゼリヤ

村上龍氏の「逃げる中高年、欲望のない若者たち」より抜粋

最近わたしはびっくりした。「サイゼリヤ」というファミレスである。ファミレスにはほとんど行かなくなったが、カンブリア宮殿というわたしがインタビュアーをつとめるテレビ番組のゲストにサイゼリヤの会長が出演することになって取材がてら食べに行ったのだった。何がびっくりしたって、その安さとおいしさだ。
 平日のランチ時に行った。住宅街の近くにある店だった。
まずその値段の安さにびっくりする。前菜でオーダーしたパルマ産の生ハムは、大判2枚とパンがついて399円、こぶりのモンツァレラチーズ3個とトマトが299円、ハウスワインのグラス売りは100円だった。
もっと驚いたのは、パルマ産の生ハムが紛れもない本物だったことだ。
中田英寿が現役でパルマに所属していたころ、わたしは何度も彼の地を訪れ、ミラノやボローニャなどを含めて、かなりの量の生ハムを食べたが、サイゼリヤは、本場にまったく劣らない味だったのだ。ほとんど同じランクの同じ大きさの生ハムが数枚入った真空パックを成城石井や紀ノ国屋で売っているが、2000円近くする。
サイゼリヤの生ハムは真空パックのものより安くておいしい。カンブリア宮殿に出演した会長にそのことを聞いてみると、ブロックで輸入してスライサーでカットしているらしい。でも、生ハムはあまり
注文がないのだと言っていた。
モンツァレラチーズもまさしくバッファローの新鮮な本物で、本場イタリアの、たとえば高速道路のドライブインのものよりは品質が遙かに上だった。
何でこんなにハイレベルの食材がファミレスにあるんだ、とつぶやきながら、わたしは満足してハムとチーズを味わった。ワインも本物で、フィレンツェで飲むキャンティのテイストが維持されていた。ミラノ風ドリアは299円、パルマ風スパゲッティ(トマト味)は399円、サラミとパンチェッタのピザが399円で、全部味は確かだった。
特にピザと、スパゲッティ・ポモドーロは、本場イタリアでも通用するような「本物」の味と茹で具合で、本当にびっくりした。そう言えば、02年のw杯で来日したイタリア人のサッカー記者たちが毎晩サイゼリヤに通っているという噂があった。こんなに安くてちゃんとしたパスタやピザはイタリアにもないと言っていたらしい。
やがてイタリア人だけでなく、ヨーロッパのサッカー記者たちは大挙してサイゼリヤに通うようになったそうだが、彼らは「非常に安くておいしいイタリアンのチェーン店がある」という記事を絶対に書かなかった。物価が高いという理由で本社からもらっている「日本滞在特別手当」が打ち切られてしまうからだ。

だいたい私は、都内にあるイタリアンの有名店が好きではない。出入り禁止になるので名前は書けないが、西麻布や広尾や神宮前や銀座にあるイタリアンはあれほど高い金を取るほどの味ではない。もともとイタリアンは家庭料理なので高いレストランは現地には非常に少ない上に、フレンチ風なソースがかかっていたりしておいしいと思ったことがあまりない。サイゼリヤは本物だった。そして、これほど安くて本物の味だったら、この大不況で苦戦を続けるファミレスチェーンの中で売り上げを伸ばし続けているのも当然だと思った。逆に言えば、このくらいの味でこれだけ安くしなければ客は来ないということだ。だが、他の客たちは、本当にそのすごい味と店の努力をわかっているのだろうかと疑問に思った。もちろん店の努力が伝わるかどうかは問題ではないのだが、どれだけのレベルのものなのかがわからないまま食べている気がした。
たとえて言えば、フランスの街道沿いに、日本の街道沿いにあるかなりおいしそば屋よりいもおいしくて安いフラン人経営のそば屋があるのと同じだ。フランス人がそばを食べる可能性は低いので、うまい例えではないかもしれないが、とにかくどこかが異様だ。たとえば、私の隣のテーブルでは、幼稚園児たちがピザとパスタを食べていたが、幼稚園
から本場のイタリアンを食べるのは、どこか不自然ではないだろうか。彼らが成長してイタリアを訪ねても、きっと食では感動しないだろう。現在、小売業の勝ち組は、マクドナルド、アパレルのユニクロ、靴のABCマート、家具のニ
いずれも、品質の悪さを安さでカバーするというようなコンセプトからはとっくの昔に決別した商品を世に送り出している。
ユニクロの服を着て、ABCマートで買ったスニーカーを履き、ニトリの家具のあるアパートに住んで、マクドナルドやサイゼリヤで食事し、ヤマダ電機で買った薄型テレビとパソコンで遊ぶ、そういった生活はおそらくわたしたちが学生だった頃より数百倍快適だろう。 だが、何かが失われるような気もする。それが、失われてもいいものなのか、それとも失われるとやばいものなのか、それはまだわからない。
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YouTube②言葉

http://www.youtube.com/watch?v=UbzxUdp3hRo&feature=related

信長対キリシタン(上)
信長の危機感: 信者を増やし、キリシタン大名を操る宣教師たちの動きに信長は危機感を抱いた。
■1.「盗賊にして何かを得んと欲するか」■
天正8(1580)年、信長は安土城において、いつものように多数の家臣たちを同席させて、宣教師オルガンチーノとその弟子ロレンソ(琵琶法師から宣教師の弟子になった盲目の日本人) と3時間にわたって宗教論議を楽しんだ。
その後、信長は二人を別室に招いた。そこには、以前、宣教師から献上された地球儀があった。信長はオルガンチーノに乞うて、ヨーロッパから日本に至る道程を地球儀の上で示させた上で、「此(これ)の如き旅行は大なる勇気と強き心ある者にあらざれば実行すること能(あた)わず」と称賛し、笑いなが
ら、こう述べた。 『あなた方がかくの如き多くの危険と海洋を超えて日本にやって来たのは、盗賊として何かを得ようとするためか、 あるいは説こうとする教義がよほど重要であるからか。』

■2.「我らは盗賊にして」■
信長は記録に残っているだけでも永禄12(1569)年のフロイスとの最初の会見以来、他の宣教師も含めて、14年間で31回以上の会見を行っている。そして彼らの説くキリスト教の教義や科学知識に興味を持ち、彼らと議論をすることを好んだ。 しかし、信長は宣教師たちが熱心に勧めるキリスト教に帰依することはついになかった。
キリシタンたちは何のためにはるばる地球の裏側から、危険を冒し、万里の波濤を超えて、日本にやってきたのか。純粋な布教目的だけで、そこまでするだろうか。「盗賊にして何かを 得んと欲するか」と疑うのは、戦国時代を戦い抜いた武将として当然の防衛本能であろう。 信長の疑念に、オルガンチーノはこう答えた。 『そう言われるのは、ごもっともである。何故なら、我われは盗賊にして、日本人の魂と心を悪魔の手から奪い取って、その造物主の手に渡すために来たからでる。』冗談めかして「盗賊」に喩える信長と、それに巧みに応じたオルガンチーノとの間には、冷たい火花が飛び交っていた。

■3.ポルトガルの野望■
1411年、ポルトガルはイスラム勢力下にあったアフリカ北岸の商業都市セウタを陥落させた。ローマ教皇はこれを称賛し、この地をキリスト教騎士団の所領としてポルトガルに与えた。当時、地中海からペルシャ湾を経てインド洋に至る海域はイスラム帝国オスマン=トルコが支配し、インドや東南アジアとの交易を独占していた。
ポルトガルはアフリカ大陸を迂回してアジアに至る交易ルートを開拓することによって、オスマン=トルコの独占していた莫大な利益を奪おうとした。そこでセウタの所領から上がる潤沢な収益を使って、造船技術者、天文学者、地図制作者などを高給で雇い、海洋航海術を研究させて、大航海事業に乗り出したのである。
ポルトガルはアフリカ西海岸および沿岸諸島を次々と攻略していったが、そこでの特権は1455年、ローマ教皇ニコラウス5世の勅書によって認められた。その勅書は、征服した土地の所 有を認め、そこで法律を作り、税金を課し、「修道院、教会などの宗教施設を建てることができ」「非キリスト教徒を永久に奴隷状態におくことができる」として、植民地支配することを教皇の権威によって正当化したのである。

■4.東アジア争奪戦■
一方、スペインは大西洋を横断して西回りにアジアに至ろうと、コロンブスの船団を派遣し、アメリカ大陸を発見していた。 東回りのポルトガルと、西回りのスペインが競合したので、ローマ教皇は地球を二分割して両国に支配を許す勅許を与えた。しかし、その解釈上の問題で、地球の反対側の地域では両方の勢力圏が重なりあう部分ができてしまった。そこにたまたま日本が入っていたのである。 日本に最初に到達したのは、天文18(1549)年のポルトガルの宣教師フランシスコ=ザビエルであった。ザビエルは、日本を強力なキリスト教国家にしてポルトガルの支配下に置こうとした。 一方、スペインは1565年にフィリピンのルソン島を実力支配
し、そこから中国、日本に触手を伸ばそうとしていた。ポルトガルの宣教師たちは、スペイン勢力がやってくる前に、是が非でも日本を植民地化しようと、信長に近づいていたのであった。

■5.長崎に誕生したキリスト教王国■
ザビエルが日本での布教を開始して13年、永禄5(1562)年、 肥前西部(長崎県)の大名・大村純忠は、宣教師トルレスの強い説得に応じて、自領内の横瀬浦を貿易港として開港し、港とその周囲半径10キロメートルの土地をイエズス会領として寄進した。またこの地に入港してくるポルトガル商人と、各地から集まってくる日本商人に対して、10年間、一切の税を免除する事を決定した。
フロイスの『日本史』によれば、博多や山口、さらには京都からも大勢の日本商人が交易を求めてやってくるようになり、 横瀬浦は貿易港として急速に発展した。大村純忠は、この地に仏教徒が住むことを禁止し、自らもキ
リスト教に入信して、トルレスから「ドン=バルトロメウ」という洗礼名を授けられた。
以後、家臣や住民にも洗礼を受ける者が続出し、横瀬浦と純忠の本拠地・大村(長崎県大村市)の領地で12百余名のキリシタンが生まれた。純忠が戦いに臨む際には、陣羽織には「JESUS(イエス)」の文字を入れた地球が描かれ、首には十字架のついた数珠を掛け、「聖なる十字架」を描いた旗を高々と掲げた。まさに十字軍の騎士さながらの出で立ちであった。
純忠は同時に仏門にも入ったが、宣教師コエリヨはこれを強く非難し、神仏と決別する証として、領内からあらゆる偶像崇拝を根絶し、一人の異教徒も住ませないよう強く迫った。純忠はこれに従い、寺社の破壊焼失、僧侶を含む全住民への洗礼強制、抵抗する僧侶の殺害、その他反対者の国外追放を強行した。
この結果、領内では2万人の住民がキリスト教の洗礼を受け、仏像仏閣がすべて破壊され、その後に教会と十字架が建てられた。小さな子どもまでも仏像の破壊に加わり、その顔に唾を吐きかけたという。また『郷村記』は、猛り狂ったキリシタンたちによって純忠の養父・純前の墓が暴かれ、その骨は川に投げ捨てられた、と記している。

■6.キリシタン大名への軍事援助■
キリシタン大名を得るための方策として、交易による利潤の他にもう一つの手段があった。軍事援助である。それを求めて、 宣教師との結びつきを深めたのが、大友宗麟(そうりん)であった。
宗麟は豊後(大分県南部)を治めていたが、日本に最初にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルから直接、説教を受けており、キリシタン大名の中でも最も早くキリスト教に接した人物である。
永禄2(1559)年、宗麟は豊後の他に、豊前(大分県北部)、 筑前(福岡県北部)、筑後(同・南部)の4カ国の守護職となり、将軍・足利義輝から「九州探題」に任命されたため、宣教師たちの期待も高かった。 宗麟はキリスト教の保護者を持って任じ、宣教師たちの布教活動を援助するとともに、その引き替えに軍事物資の提供を求めた。永禄10(1567)年、宗麟はマカオに滞在していた司教にあてて手紙を書き、中国地方を支配する毛利元就に打ち勝って、 キリスト教を広げたいので、鉄砲の火薬の原料となる硝石の日本への輸入を禁止し、自分の領国にのみ販売するように依頼している。

■7.長崎と茂木の軍事要塞化■
天正7(1579)年に、東洋地域全域を所管する巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日すると、その指導にとってキリシタン勢力が急伸した。
大村純忠は、ヴァリニャーノの来日を機に、長崎(長崎港周辺部)と茂木(長崎市茂木町)をイエズス会の永久教会領として寄進した。
ヴァリニャーノは翌天正8(1580)年に、この長崎と茂木の地を、ポルトガル人を中心として軍事要塞化するように指示した。
これに従って数年後には、同地は大砲・鉄砲などにより武装され、軍艦も建造配備された。
天正13(1585)年には、純忠の領土の全領民約6、7万人がキリシタンとなり、ここに完全なキリシタン王国が誕生したのである。
大村純忠の縁戚で、島原を領有していた有馬晴信は、当時、肥前東部(佐賀県)の龍造寺氏から度々攻撃を受けて、窮地に陥っていた。晴信はヴァリニャーノから洗礼を受け、その見返りとして、食糧不足に苦しんでいた4つの城で、多量の糧食と金子(きんす)を受け取った。さらにマカオからやって来たポ
ルトガルの交易船から、弾丸に使う鉛や火薬の原料となる硝石を送られた。こうした軍事援助で、晴信は龍造寺氏との戦いで危機を脱することができた。晴信はこの返礼として、ヴァリニャーノが自領に滞在していた3ヶ月の間に、領内にあった40を超える神社や仏閣をすべて破壊し、領民2万人を入信させた。さらに浦上(長崎市浦上)の地を、イエズス会の教会領として寄進した。
宣教師たちは、これらのキリシタン大名を経済的軍事的に支援する一方、毛利氏、龍造寺氏、島津氏など反キリスト教の大名とは交易関係すら結ばなかった。

■8.「十字軍騎士」となったキリシタン大名■
ヴァリニャーノは、キリシタン大名との政治的・軍事的連携を強化する一方、布教体制の改革を進めた。セミナリオ(神学校)、ノビシアド(修練院)、コレジオ(学院)の3種類の教育機関を設け、日本人司祭の養成に努めた。
天正10(1582)年頃には、西日本各地に設けられた教会堂の数は大小合わせて200カ所、神父・神弟(日本人の伝道師)は75人に上り、急速な布教が進められた。信者数は京都から中国地方に2万5千人、大友宗麟の治める豊後で1万人、大村純忠・有馬晴信が支配する大村・島原・長崎地域に11万5千人、合計15万人ほどにも急増した。
この年1月には、それぞれの教育機関で育成した日本人子弟の中から優秀な4人の少年を選び出し、大村純忠・有馬晴信・大友宗麟の3キリシタン大名の使節として、ローマ教皇とスペイン・ポルトガル連合国国王の許に派遣した。
翌年2月に少年使節たちはローマで教皇グレゴリオ13世に拝謁した。教皇が皇帝や国王を迎接する「帝王の間」で拝謁するという異例の栄誉を受け、3人のキリシタン大名からの親書を手渡した。 こうした儀式を通じて、キリシタン大名たちは、ローマ教皇に忠誠を誓い、日本の「異教徒」と戦う「十字軍騎士」とされていったのである。

■9.「我一生の不覚也」■
信長が安土城で宣教師オルガンチーノと会見し、「盗賊にして何かを得んと欲するか」と聞いたのは、こういう状況下であった。
天下統一を目指す信長は、当時中国の毛利氏と戦っていたが、 その背後から九州探題・大友宗麟も中国を狙っていた。九州から京都を目指すキリシタン勢力と、京都を押さえ中国・九州へと全国統一事業を進めつつあった信長とは、早晩対決が運命づけられていた
『切支丹来朝實記』には、この頃の信長の心境をこう記している。
(日本に駐在している宣教師からの報告で、今年は日本人が何千人入信し、今年は何万人入信したかと、台帳に記して、本国のポルトガルに送っているとのうわさ。宣教師たちが貧しい者や病人を慈しみ哀れみ、それだけでなく妻子眷属に一人当たりの前金として一銭ずつ与えるなどして、弓矢を使わずに日本を征服しようと謀略を企んでいること。このため信長はキリストの教会内の活動や信者たちの怪しい所行について聞き及ぶ所があって、 内心では後悔していたのである。さら『實記』が伝える所によれば、信長は前田徳善院玄以という仏僧に「自分は彼らの布教組織を破壊し、教会を打ち壊して宣教師たちを本国に返そうと思うが、どう思うか」と諮問したが、「もしそのようなことをすれば、たちまち一揆が起こることは間違いありません」と答えたので、信長は今まで宣教師たちを保護してきた政策について「我一生の不覚也」と漏らした。

以上出典メールマガジン「Japan on the Globe 国際派日本人養成講座」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogindex.htm  

『海に眠る船 ― コロンブス大航海の謎』

『海に眠る船 ― コロンブス大航海の謎』
クラウス・ブリンクボイマー&クレメンス・ヘーゲス著
①もしかするとスペインではなく、フランスが新大陸の覇者となっていたかもしれない。
交渉決裂寸前で、王室会計主任のサンタンヘルという男が、「危険がほとんどなく、多大な利益をもたらす」と女王に断言したことから、形勢逆転。コロンブスが航海に出発。
なぜ、この男はコロンブスの計画をどうしても実現させたかったのか。
仮説1。クリストファー・コロンブスの祖先はユダヤ人だったこと
仮説2。イサベル女王はムーア人を破った後、ユダヤ人をスペインから放逐したかったため、ユダヤ人が永住できる亡命地をさがしていたこと。サンタンヘルは、異端審問を恐れて改名したユダヤ人だったのであり、コロンブスの航海は、旧約聖書にあるユダヤ帝国再建の試みだったというわけ。

②カリブ海の島々がインドや中国ではないことが分かっていながら、
 なぜコロンブスは、その事実を認めなかったのか。
王室との契約ではアジアとインドの発見と明記されていたため。コロンブスは知っていた。そう考えるのが自然。

③なぜコロンブスは、新大陸の帝王にはなれなかったのか。
これは、ひとえに、植民地経営者としての無能ということに尽きる。
コロンブスは、優れた航海者だったが、黄金ばかりを追い求めたため、インディオからは抵抗され、植民者からも反発を受けたのだ。

      【週刊文春 鹿島茂『私の読書日記』より】

インカ帝国と征服者ピサロそして黄金・・・・。

1533年、海を渡ってきた征服者によって、アンデスに独自の文明を築いていたインカは滅亡した。
皇帝アタワルパを処刑、黄金の都クスコを占領し略奪の限りを尽くしたその男こそスペインの征服者フランシスコ・ピサロだった。
下級貴族の私生児として生まれたピサロは、本国での陽の当たらない暮らしを捨て、新大陸に渡り、ついに巨万の富を得る。
インカ帝国の黄金は、彼により略奪され、金の延べ棒にされた。
その重さ8トン・・・・・。
しかし、財宝を手にしたのも束の間、彼は暗殺者により刺し殺された。皇帝アタワルパを処刑した8年後のことだった。
一方、先住民の「心の征服」に最大の役割を演じたのはキリスト教であった。そもそも新大陸への侵略を後押ししたのは、異教徒へ
キリスト教を広めるという大義名分だったのである。

参照:世界遺産「リマ歴史地区(ペルー)」2006年10月22日放映 

☆ フランシスコ・ピサロ(1476~1541)
 スペインの探検家。残虐さと無法ぶりで知られるが、すぐれた軍事的才能の持ち主でもあった。
南スペインのトルヒーリョで生まれる。1510年にアメリカ大陸にわたり、太平洋にいたった13年のバルボアの遠征をはじめ、数々の遠征に参加した。19年、パナマに入植し、5年後には、スペインの探検家アルマグロと組んで南アメリカ地域の探検・征服をくわだてた。南アメリカ大陸の西岸を2回にわたって調査し、ペルーのインカ帝国の存在を知ったピサロは、28年にスペインにもどり、カルロス1世(のちの神聖ローマ皇帝カール5世)からペルー支配の許可を取得し、募集した兵士をつれて30年にパナマにもどった。パナマでさらに兵士を補充し、32年に約180人の部下とともにペルーに上陸した。皇帝アタワルパを処刑してインカ帝国を征服、35年にはインカ帝国の首都クスコにかわる新しい首都としてリマを築いた。
その後、クスコの領有権をめぐってアルマグロと不和になり、1537年に内戦がはじまった。この戦いに勝利したピサロはアルマグロを処刑したが、41年に自身がアルマグロ派の残党に暗殺された。
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