ヒストリア(歴史のネタ)


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本能寺の変の唯一の生存者とは?.txt
2009/01/13 14:55

信長に仕えた黒人の弥助(ヤスケ)

元々は宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに仕える奴隷であったと言われている。天正9年(1581年)、ヴァリニャーノが信長に謁見した際に連れられていたのが信長の目にとまった。
信長は最初、肌の黒さが信じられず彼が身体に何か塗っているのかと思い、2月の寒空の下でたらいに入れて家来に体を念入りに洗わせたが肌が黒いままだった。肌の色の黒い人種がいることを理解した信長は彼に興味を持ちヴァリニャーノへ要望して献上させ、そのまま直臣になったと伝えられている。
直臣になった当時の年齢は26、7歳、身長は6尺2分(約182.4cm)と長身であったという。一説によればヤスケは宣教師の奴隷のときには人間扱いされていなかったが信長は彼を「ヤスケ」と名づけ、武士の身分を与えて家臣とし衣食住不自由がないように取り計らわれた。
ヤスケはこの信長の対応に大いに感謝し、忠実に仕えたと言われる。
本能寺の変では、明智光秀の兵と戦い多くの敵を倒したとしている。最終的に陥落直前に信長から脱出するよう命じられたと言われる。また織田信忠が二条御所で奮戦した際、ヤスケも戦ったという。
本能寺家の変後に光秀の手勢に捕まったが、ヤスケを「人間ではない」として殺さず「インドのバテレンのもとに送るように」と命じ、そのまま放逐したとされているため、その後の消息は不明である。

ルイス・フロイスの『日本史』では、「(午前3時頃と言われる)明智の(少数の)兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して(6月2日に御所前で馬揃えをする予定であったのを織田の門番たちは知っていたので油断したと思われる)、信長が厠から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。直後に信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら明智の兵達に対して応戦していたが、明智の鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。直後に障子の戸を閉じた(火を放ち自害した)」とかなり
詳細にその様子を表現しており、これは唯一の生存者であった弥助が近くの
南蛮寺にいた宣教師たちに語ったことかもしれない。

カテゴリ:☆日本史

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